銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第九週 七日目 夕刻
傷だらけの船を見た。
ペペは海賊だと言った。
新入りは軍艦だと言った。
ディエゴは借金取りだと言った。
一番怖いのは最後だと思う。
――ゴメス
「船だ!」
見張りの声。
全員が顔を上げる。
海の男は早い。
飯の話をしていても。
酒の話をしていても。
船が見えれば反応する。
生き残るためだ。
水平線。
一隻。
こちらへ向かって来る。
近い。
かなり近い。
そして。
傷だらけだった。
帆は破れ。
舷側は削れ。
船体には黒い跡が残っている。
焦げ跡。
砲撃か。
火事か。
どちらにせよ。
普通ではない。
「海賊だ」
ペペ。
即答。
「根拠は」
俺。
「何となく」
全員呆れた。
いつも通りだった。
「軍艦じゃないか」
新入り。
「違うな」
航海士。
「何で分かる」
「軍艦ならもっと偉そうだ」
妙に納得した。
軍艦は大体偉そうだ。
船も。
船長も。
乗っている連中も。
あれは違う。
どちらかと言えば。
疲れていた。
船そのものが。
疲れて見えた。
「旗は?」
船長。
珍しく起きていた。
全員少し驚く。
航海士が望遠鏡を見る。
そして肩を竦めた。
「無い」
沈黙。
旗が無い。
つまり。
面倒事だ。
大体そういう事だった。
「砲を準備しろ」
船長。
さらに驚く。
働いている。
今日は何かがおかしい。
だが。
命令は正しかった。
船員達が動く。
砲門を開く。
火薬を運ぶ。
砲弾を運ぶ。
いつもの仕事だった。
緊張はある。
だが。
慣れている。
海だ。
何が起きても不思議じゃない。
その船は近付く。
さらに近付く。
そして。
止まった。
少し離れた場所で。
停船。
誰も動かない。
風だけが吹く。
海だけが揺れる。
妙な空気だった。
その時。
向こうの船から小舟が降ろされる。
一隻。
二人。
こちらへ向かって来る。
武器は見えない。
少なくとも表向きは。
「交渉か」
ディエゴ。
「らしいな」
俺。
船長は鼻を鳴らす。
そして。
葡萄酒を飲む。
いつもの姿に戻った。
少し安心した。
やはり船長はこうでなくては。
小舟が横付けされる。
男が上がってくる。
痩せている。
日に焼けている。
そして。
疲れていた。
本当に疲れていた。
男は船長を見る。
そして言った。
「水を売ってくれ」
沈黙。
誰も予想していなかった。
海賊でもない。
軍艦でもない。
戦いでもない。
ただ。
水だった。
「何があった」
船長。
男は苦笑する。
「樽が腐った」
周囲がざわつく。
分かる。
非常によく分かる。
船乗りなら誰でも分かる。
水が腐る。
それだけで地獄になる。
「何日だ」
「十日」
「生きてるな」
「俺もそう思う」
笑いが起きた。
船乗りの笑いだった。
少しだけ乾いている。
だが本物だった。
交渉が始まる。
銀貨。
酒。
交換条件。
話はまとまる。
船は助かる。
ただそれだけ。
だが。
俺は男の船を見る。
積荷はある。
船もある。
銀貨もある。
それでも。
水が無ければ終わる。
不思議ではない。
当たり前だ。
だが。
改めて思う。
船。
飯。
水。
塩。
港。
結局全部そこへ戻る。
男達は帰っていく。
小舟。
疲れた背中。
そして。
希望を見付けた顔。
たぶん今日は生き残れる。
それだけで十分なのだろう。
ペペが呟く。
「銀貨より水だな」
俺は頷く。
本当にそうだった。
銀貨は喉を潤さない。
水は潤す。
魚は腹を満たす。
塩は魚を残す。
そして港は全部集める。
海を見ながら。
俺はまた考える。
もし。
水がある場所があれば。
船も来るのだろうか。
まだ答えは分からない。
だが。
いつか確かめてみたいと思った。
それは。
後に骨樽港の最初の思想になる。
本人はまだ知らないが。