銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第七週 四日目
水が減った。
飯も減った。
船長の腹だけ減らない。
不思議でならない。
――ゴメス
翌朝。
腹が減って目が覚めた。
正確には違う。
眠れなかった。
船倉の空気が酷かったからだ。
湿気。
汗。
腐敗臭。
酒。
吐瀉物。
魚。
全部混ざっている。
「……死ぬなこれ」
誰かが呟く。
誰も否定しない。
否定できない。
水が足りなかった。
朝の配給。
木椀半分。
それだけ。
「おいおい」
ペペが椀を掲げる。
「これ猫の涙か?」
「猫を見た事あるのか?」
「ない」
「じゃあ黙って飲め」
笑いが起きる。
だが元気はない。
全員分かっている。
港まで持つか怪しい。
そんな量だった。
朝食は黒パン。
黒い。
硬い。
凶器に近い。
古参が壁へ投げる。
ゴッ!
鈍い音。
「ほらな」
「何がだ」
「まだ使える」
「武器としてか?」
「当然」
また笑いが起きる。
笑いながら食う。
噛む。
顎が痛い。
飲み込む。
喉も痛い。
それでも腹には入る。
だから食う。
これが帝国水兵だ。
昼。
太陽が照り付ける。
甲板が熱い。
綱が熱い。
頭も熱い。
皆機嫌が悪い。
そんな中。
船長だけは元気だった。
船尾。
日陰。
椅子。
葡萄酒。
そして昼寝。
「……沈めるか?」
ペペが真顔で言った。
「やめろ」
「まだ陸見えてねぇぞ」
「惜しい」
「惜しくない」
ディエゴが呆れる。
「港着いてから殴れ」
「なるほど」
「納得するな」
俺は笑った。
この連中。
馬鹿だ。
だが嫌いじゃない。
少なくとも。
船長よりは。
午後。
見張り台。
俺は上へ登る。
風が強い。
潮の匂いが変わっていた。
海だけの匂いじゃない。
土。
草。
湿った木。
そんな臭いが混じる。
遠くを見る。
鳥。
増えている。
海鳥だけじゃない。
陸鳥もいる。
つまり。
近い。
かなり近い。
その時だった。
「ゴメスー!」
下から声。
ペペだ。
「飯だぞー!」
「またか」
「まただ」
嫌な確信があった。
降りる。
鍋を見る。
昨日と同じだった。
いや。
昨日より悪い。
「魚増やしたぞ」
ディエゴが言う。
「腐ったやつか」
「腐る前だ」
「どの辺が」
「俺の勘」
全員爆笑。
新入りは泣きそうだった。
「勘で判断するな!」
「大丈夫だ」
古参が肩を叩く。
「死んだら分かる」
「分かりたくない!!」
鍋から湯気。
魚臭い。
酒臭い。
何かもう慣れてきた。
慣れたくなかった。
俺は椀を持つ。
啜る。
不味い。
だが。
ふと思った。
もし。
川があったら。
もし。
魚がいたら。
もし。
畑が作れたら。
このスープを飲まなくて済む。
そんな事を考える。
我ながら馬鹿だ。
ただの水兵だぞ。
土地もない。
金もない。
船もない。
あるのは臭い服と借金くらいだ。
だが。
考える。
どうすれば腹一杯食えるか。
どうすれば水を飲めるか。
どうすれば生き残れるか。
その時。
見張りが叫んだ。
「帆だぁぁぁ!!」
全員立ち上がる。
緊張。
海賊か。
敵国か。
軍艦か。
水平線。
小さな白。
帆船。
一隻。
距離は遠い。
かなり遠い。
航海士が望遠鏡を見る。
そして鼻で笑った。
「漁船だ」
全員が安心する。
「紛らわしい!」
「殴るぞ見張り!」
「仕事しただけだろ!」
再び笑い。
だが。
俺はその漁船を見ていた。
小さい。
軽い。
乗員少ない。
だが。
魚を獲っている。
食っている。
生きている。
帝国の輸送船より。
ずっと自由そうだった。
夕方。
風が変わる。
そして。
ついに。
見張りが叫んだ。
今度は本当に。
「陸だぁぁぁぁ!!」
全員が立ち上がる。
歓声。
怒号。
拍手。
泣く奴までいる。
水平線の先。
黒い影。
島。
確かに島だった。
森がある。
崖がある。
そして。
川。
俺には見えた。
細く。
銀色に光る流れ。
「見えるか?」
ペペが聞く。
俺は頷く。
「見える」
「酒場か?」
「違う」
「女か?」
「違う」
「じゃあ何だ」
俺は島を見つめる。
そして笑った。
「飯だ」
ペペは首を傾げた。
その意味を。
まだ誰も理解していなかった。