銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十週 五日目
港を歩いた。
魚を見た。
山ほどあった。
昼には消えた。
人間は思ったより魚を食うらしい。
――ゴメス
朝。
港は魚臭かった。
悪い意味ではない。
いや、悪い意味も少しある。
潮。
タール。
濡れた縄。
腐りかけた海藻。
焼かれる魚。
塩。
汗。
怒鳴り声。
全部混ざっていた。
「腹減った」
ペペが言った。
「起きて三歩だぞ」
ディエゴが呆れる。
「三歩も歩いた」
「牛かお前は」
「牛なら食えるな」
「お前は何でも飯に繋げるな」
否定できなかった。
俺も腹は減っていた。
港の朝市は戦場だった。
魚を積んだ荷車が入り、漁師が怒鳴り、商人が値切り、女達が魚の目を覗き込み、猫が隙を狙い、カモメが屋根の上から罵声みたいに鳴いている。
台の上には魚。
魚。
魚。
さらに魚。
銀色。
青色。
赤い斑点。
平たい奴。
長い奴。
牙みたいな歯をした奴。
「すげぇな」
新入りが呟く。
「すげぇな」
俺も呟く。
「焼いて食いたいな」
ペペが言う。
いつも通りだった。
ちょうどその時、露店で魚が焼かれていた。
炭火の上で小ぶりな魚が並び、皮が弾け、脂が落ちる。
じゅう、と音がした。
煙が上がる。
腹が鳴った。
「買う」
ペペが即決する。
「金は」
「ない」
「帰れ」
露店の親父に即答された。
周囲が笑う。
ペペは本気で悲しそうだった。
「働くからくれ」
「魚一匹分働けるのか?」
「樽二つ持てるぞ!」
親父が少し考える。
「じゃあ後で荷運び手伝え」
「よし!」
ペペは魚を手に入れた。
強い。
馬鹿だが強い。
俺達は魚市場を歩く。
魚はただ置かれているだけではない。
すぐ横で捌かれている。
巨大な魚が吊り上げられ、男二人がかりで腹を裂く。
血が板の上を流れ、桶へ落ちる。
猫が近付く。
蹴られる。
カモメが鳴く。
子供が魚の頭を持って逃げる。
怒られる。
生きている。
港は生きていた。
そして魚を食っていた。
「全部売れるのか」
俺は近くの魚屋に聞いた。
魚屋は俺を見る。
日に焼けて、腕が太い。
手には鱗がこびり付いている。
「売れる」
「こんなにか」
「こんなにだ」
即答だった。
「売れなかったら?」
「干す」
「それでも駄目なら?」
「塩漬け」
「それでも?」
「猫」
「猫が勝つのか」
「最後は猫が勝つ」
妙に納得した。
魚屋は樽の蓋を開ける。
中には塩。
魚。
塩。
魚。
さらに塩。
何層にも積まれていた。
「三ヶ月は持つ」
「便利だな」
「塩は偉い」
また塩だった。
塩はどこにでも顔を出す。
魚にも。
肉にも。
船にも。
港にも。
「やはり塩か」
俺が呟くと、魚屋は笑った。
「若いの、塩の偉さが分かるか」
「最近分かってきた」
「なら長生きする」
そういうものらしい。
昼。
市場へ戻ると、朝あれほどあった魚が減っていた。
かなり減っていた。
「……魔法か?」
俺は呟く。
魚屋が鼻で笑う。
「胃袋だ」
なるほど。
人間の胃袋は強い。
料理屋が買う。
家庭が買う。
船が買う。
干物屋が買う。
塩漬け屋が買う。
魚は次々と消えていく。
飯になる。
商品になる。
保存食になる。
船へ積まれる。
「魚は旅するんだな」
俺が言うと、ペペが焼き魚を食いながら首を傾げた。
「魚は泳ぐだろ」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ」
「樽に入って旅する」
ペペは少し考えた。
「嫌な旅だな」
否定できなかった。
昼過ぎ。
市場の奥で怒鳴り声がした。
「西の浅瀬は俺達の漁場だ!」
「魚が移ったんだよ!」
「魚に土地勘があるか!」
「あるかもしれねぇだろ!」
漁師達が揉めていた。
網。
小舟。
地図。
それから魚の群れの話。
俺は足を止める。
魚は市場で突然生えるわけではない。
海で獲る。
その場所がある。
その場所を知る者がいる。
船を出す者がいる。
網を直す者がいる。
塩にする者がいる。
運ぶ者がいる。
売る者がいる。
魚一匹で、ずいぶん多くの人間が動いていた。
「何見てる」
ディエゴが来た。
「魚がどこから来るか」
「海だろ」
「そうだが」
「違うのか?」
「いや、海だ」
俺は少し黙る。
「でも海から皿まで遠い」
ディエゴは漁師達を見る。
揉めている。
怒鳴っている。
だが誰も本気で殺そうとはしていない。
飯の話だから真剣だが、港を壊すほどではない。
衛兵も近くで見ている。
「港が間にあるからな」
ディエゴが言った。
その一言で、少し分かった。
海に魚がいる。
だが、それだけでは腹は膨れない。
獲る。
運ぶ。
売る。
焼く。
食う。
残すなら塩。
運ぶなら樽。
守るなら港。
また全部繋がった。
夕方。
魚市場はほとんど空になっていた。
朝の喧騒が嘘のようだ。
台は洗われ、血は流され、猫だけが名残惜しそうに歩いている。
「魚が消えたな」
新入りが言う。
「腹に入ったんだろ」
ペペが腹を叩く。
「お前の腹にもな」
「誇らしい」
「誇るな」
俺は空の台を見る。
朝には山ほどあった魚。
それが夕方には消える。
明日にはまた来る。
また消える。
港は毎日腹を空かせる。
そして毎日食う。
人も同じだ。
船も同じだ。
港も同じだ。
「港ってのは、ずっと飯を食ってるんだな」
俺がそう言うと、ディエゴが少し笑った。
「変な言い方だが、間違ってない」
ペペは首を傾げる。
「港に口あるか?」
「市場が口だ」
俺はそう言った。
自分でも少し驚いた。
ディエゴも俺を見る。
「最近お前、本当に変だぞ」
「そうか」
「そうだ」
ペペも頷く。
「でも飯の話だから分かりやすい」
それは良かった。
港の向こうでは漁師達がまだ話し合っていた。
漁場。
網。
船。
塩。
値段。
魚の話は終わらない。
飯の話だからだ。
俺はその声を聞きながら思う。
魚は海にいる。
だが、飯になるには港がいる。
また一つ、覚えた。