銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第七週 五日目
陸が見えた。
ペペが叫んだ。
新入りが泣いた。
船長が酒をこぼした。
今日は良い日だ。
――ゴメス
「陸だぁぁぁぁ!!」
見張りの絶叫。
そして。
船中が爆発した。
「本当か!?」
「どこだ!?」
「酒だ!!」
「女だ!!」
「風呂だぁぁぁ!!」
最後の奴は切実だった。
七週間。
七週間も海の上である。
風呂など夢のまた夢。
服も臭い。
体も臭い。
隣の奴も臭い。
つまり全員臭い。
そんな地獄の終わりが見えた。
だから騒ぐ。
当然だ。
「どけぇ!!」
ペペが人混みを押し退ける。
望遠鏡を奪う。
覗く。
「見えねぇ!!」
「逆だ馬鹿」
ディエゴが頭を叩く。
全員爆笑。
新入りまで笑っていた。
数日ぶりに。
心の底から。
笑っていた。
船尾。
船長も出てきた。
普段は酒瓶と一緒に部屋へ籠もっている男である。
だが今日は違う。
港が近い。
つまり。
船長も安心していた。
「ようやく着くか」
葡萄酒を飲みながら言う。
俺はその姿を見た。
腹。
丸い。
見事に丸い。
腹だけは立派だった。
その隣で。
水兵達は痩せている。
なんとも美しい光景だった。
「……沈めるか?」
ペペ。
「やめろ」
ディエゴ。
「今なら事故で済むぞ」
ペペ。
「やめろ」
俺。
「惜しい」
ペペ。
「惜しくない」
全員笑う。
その時。
航海士が声を上げた。
「舵を北へ!」
「北だ!」
船員達が動き出す。
綱を引く。
帆を調整する。
汗を流す。
怒鳴る。
船が向きを変える。
そして島が近付いてくる。
森。
崖。
白い鳥。
緑。
久々の緑だった。
海ばかり見ていた目には眩しい。
「木だ……」
新入りが呟く。
「木だな」
「本物の木だ……」
「木だぞ」
何故か感動している。
全員疲れているのだ。
俺もそうだった。
だが。
俺が見ていたのは別の物だった。
川。
島の中央。
崖の間。
白く光る筋。
間違いない。
水だ。
真水。
「おいゴメス」
ペペが聞く。
「何見てる」
「川」
「酒場じゃなく?」
「違う」
「女じゃなく?」
「違う」
「つまらん」
「お前は馬鹿だ」
「知ってる」
即答だった。
悔しいが好感が持てる。
船はさらに進む。
風が吹く。
鳥が増える。
海の色も変わる。
浅い。
岸が近い。
魚もいる。
跳ねている。
俺は自然と笑っていた。
もし。
あそこに降りられたら。
魚が獲れる。
水が飲める。
木が切れる。
畑も作れるかもしれない。
いや。
待て。
何を考えている。
俺はただの水兵だ。
船もない。
土地もない。
金もない。
あるのは臭い服だけだ。
だが。
それでも。
頭の中で考えてしまう。
どうやれば生き残れるか。
どうやれば腹いっぱい食えるか。
その時だった。
ゴンッ!!
衝撃。
船が揺れる。
全員転ぶ。
「何だ!?」
「岩だ!!」
怒号。
悲鳴。
船員達が走る。
「浅瀬だ!」
「左へ回せ!!」
「綱引け!!」
大騒ぎ。
だが幸い。
船は止まらなかった。
軋みながら抜ける。
全員ほっと息を吐く。
ペペが言う。
「死ぬかと思った」
「毎日言ってるな」
「毎日死にそうだからな」
それもそうだ。
笑いが起きる。
夕暮れ。
ついに港が見えた。
小さい港。
木の桟橋。
倉庫。
煙。
人。
そして。
飯。
どこかで煮込みを作っている。
風に乗って匂いが届いた。
肉。
玉葱。
香草。
まともな飯の匂いだった。
甲板が静まる。
誰も喋らない。
全員。
匂いを吸っている。
まるで祈りだった。
そして。
ペペが呟く。
「腹減った」
全員頷く。
俺も頷いた。
心の底から。
腹が減っていた。
だから。
まだ知らない。
この港で起こる事件も。
この先の航海も。
骨樽港も。
財宝艦隊も。
銀山も。
何も知らない。
今はただ。
まともな飯が食いたかった。
それだけだった。
だが後に歴史家達は書く。
骨樽勢力の始まりは偉大な理想でも革命でもない。
一人の水兵が腹を空かせていた事から始まった。