銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十週 七日目
塩田へ行った。
海があった。
海なのに魚はいなかった。
人も泳がない。
飲めもしない。
だが銀貨になる。
世の中は本当に分からない。
――ゴメス
翌朝。
港はまだ眠そうだった。
市場の準備が始まったばかり。
魚屋が桶を並べる。
パン屋が窯を開ける。
荷役人夫達が欠伸をしている。
だが。
塩屋達はもう動いていた。
「行くぞ」
昨日の塩屋だった。
名前はラミレスというらしい。
四十過ぎ。
腕は樽みたいに太い。
口は悪い。
だが飯は奢ってくれた。
良い人だった。
「本当に連れて行くのか」
ディエゴ。
「好きにしろ」
ラミレス。
「変な水兵だが役には立つだろ」
「何でだ」
俺。
「質問ばかりする」
褒められたのか馬鹿にされたのか分からなかった。
たぶん両方だ。
港を出る。
荷車が軋む。
馬が歩く。
朝露の残る道。
車輪が泥を潰す音。
海風。
鳥の鳴き声。
昨日までの喧騒とは違う。
静かだった。
「塩田って遠いのか」
俺。
「半日」
ラミレス。
「遠いな」
「近い方だ」
世の中は広いらしい。
ペペは荷車の上で寝ていた。
本当に役に立たない。
ディエゴは呆れている。
いつも通りだった。
太陽が高くなる。
道が開ける。
そして。
俺達はそれを見た。
「……なんだこれ」
思わず立ち止まる。
白かった。
どこまでも。
本当にどこまでも。
海沿いの平地。
浅い池。
何十。
何百。
数え切れない。
区画ごとに分けられた水面。
空を映している。
青い。
白い。
眩しい。
まるで鏡だった。
「白い海だ」
新入りが呟く。
誰も否定しなかった。
塩田だった。
俺は想像していた。
もっと別のものを。
岩山とか。
洞窟とか。
そういうものだと思っていた。
違った。
海だった。
人が作った海。
ラミレスは笑った。
「驚いたか」
「少し」
嘘だった。
かなり驚いた。
本当に。
塩職人達が働いている。
裸足。
麦藁帽子。
日に焼けた肌。
長い木の道具。
水面をかき混ぜる。
堤を直す。
水路を調整する。
忙しい。
だが市場とは違う。
静かな忙しさだった。
「魚獲らないのか」
ペペ。
職人達が笑う。
「魚はいらん」
「もったいない」
「塩が獲れる」
ペペは少し考えた。
そして。
「魚の方が美味そう」
全員納得した。
それはそうだ。
昼。
木陰。
職人達と飯を食う。
今日の飯は質素だった。
黒パン。
塩漬け鱈。
玉葱。
豆の煮込み。
そして薄い葡萄酒。
だが。
旨そうだった。
非常に。
鱈は表面を軽く炙られている。
皮が少し焦げる。
脂が泡立つ。
香ばしい匂い。
塩の香り。
炭火の香り。
腹が鳴った。
裏切り者だった。
「食え」
ラミレス。
俺は鱈を割る。
白い身。
湯気。
繊維がほろりと崩れる。
口へ入れる。
最初に塩。
だが強すぎない。
その後から魚の旨味。
噛むほど出る。
脂。
炭火の香り。
旨かった。
船の干し魚とは別物だった。
「うまい」
本音だった。
ラミレスが笑う。
「塩のおかげだ」
やはり塩だった。
玉葱を齧る。
瑞々しい。
辛味。
甘味。
葡萄酒を流し込む。
少し酸っぱい。
だが魚に合う。
職人達は黙々と食う。
働く人間の飯だった。
派手ではない。
だが力が出る。
ペペは既に二人前食べていた。
信じられない速度だった。
「お前どこに入るんだ」
ディエゴ。
「胃袋」
正論だった。
その時。
遠くで怒鳴り声。
職人達が立ち上がる。
何事かと思う。
塩田の一角。
堤防が崩れていた。
海水が流れ込む。
職人達の顔色が変わる。
市場の喧嘩とは違う。
本気だった。
「まずいのか」
俺。
ラミレスは走りながら叫ぶ。
「塩が逃げる!」
俺は少し考えた。
そして理解する。
魚が逃げる漁師。
麦が腐る商人。
今度は塩だ。
飯になるものは。
皆必死で守るらしい。
俺達も駆け出した。
塩の山が生まれる場所を守るために。
第十一話 中編
白い海 続く
後世の塩業史研究より
骨樽勢力の初期文書には「塩田の堤は港の防壁と同じ」との記述が見られる。
この考え方は後の補給網建設にも大きな影響を与えた。
当時のゴメスはまだ一介の水兵であったが、既に「食料を支える仕組み」そのものへ関心を向け始めていたのである。