銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十週 七日目 夕刻
塩は海から生まれる。
当たり前だ。
だが今日まで知らなかった。
魚は海から来る。
塩も海から来る。
そして港はその両方を食う。
どうやら港は海そのものを食って生きているらしい。
――ゴメス
「急げ!」
怒号が飛ぶ。
静かだった塩田が一変していた。
職人達が走る。
桶を運ぶ。
土を担ぐ。
木杭を打つ。
海水が流れ込んでいた。
塩田の一区画。
低い堤防の一部が崩れている。
波が入り込む。
せっかく濃くなった塩水が薄まる。
職人達の顔色は真っ青だった。
市場で魚が盗まれた時より深刻そうだ。
「何がまずいんだ?」
俺は土嚢を運びながら聞いた。
ラミレスが振り向く。
額から汗が流れていた。
「全部だ!」
短かった。
だが十分だった。
「全部?」
「今月の仕事だ!」
なるほど。
分かりやすい。
今まで積み上げたものが消える。
それは嫌だ。
非常に嫌だ。
「押さえろ!」
職人達が土嚢を積む。
俺も積む。
ディエゴも積む。
新入り達も積む。
ペペも積む。
いや。
最初は積んでいた。
途中で転んだ。
土嚢ごと海水へ落ちた。
周囲爆笑。
本人は怒っていた。
「何で笑う!」
「面白いからだ!」
ラミレス。
正論だった。
その後。
ペペは二倍働かされた。
当然だった。
太陽は高い。
汗が流れる。
塩が肌へ付く。
痛い。
少し傷があると余計痛い。
職人達は平然としている。
慣れているらしい。
恐ろしい。
一時間。
二時間。
ひたすら土を運ぶ。
海を止める。
崩れた場所を塞ぐ。
波と戦う。
剣も銃も無い。
だが。
これは戦いだった。
飯を守る戦いだ。
やがて。
「止まったぞ!」
歓声。
拍手。
誰かが帽子を投げる。
塩田に落ちる。
怒られる。
平和だった。
俺はその場へ座り込む。
疲れた。
本当に。
ディエゴも同じだった。
新入り達も同じ。
ペペだけ元気だった。
意味が分からない。
「腹減った」
やはり言った。
全員納得した。
その頃には。
夕日が沈み始めていた。
白い塩田が赤く染まる。
鏡みたいだった。
海も赤い。
空も赤い。
塩田も赤い。
綺麗だった。
本当に。
職人達は作業を終える。
道具を片付ける。
荷車をまとめる。
そして。
飯だった。
木箱が開く。
樽が開く。
鍋の蓋が外される。
湯気が立つ。
全員の目が輝く。
疲れた後の飯は偉大だ。
今日の晩飯。
羊肉と豆の煮込み。
焼き玉葱。
黒パン。
塩漬け魚。
薄い葡萄酒。
豪華だった。
少なくとも船の上なら宴会だった。
大鍋から煮込みを受け取る。
赤茶色。
湯気。
香草。
胡椒。
肉の脂。
鼻を近付けるだけで腹が鳴る。
羊肉は柔らかい。
長時間煮込まれている。
木匙を入れるだけで崩れる。
豆はスープを吸って膨らんでいた。
玉葱は原形が分からない。
完全に溶けている。
一口。
熱い。
そして旨い。
最初に肉の旨味。
その後から塩。
豆の甘味。
玉葱の甘味。
香草の香り。
全部が混ざる。
疲れた身体へ染み込む。
本当に染み込む。
ペペは三口で半分食べた。
化け物だった。
「味わえ」
ディエゴ。
「味わってる」
「本当か?」
「うまい」
「それしか言ってない」
周囲が笑う。
職人達も笑う。
酒が回り始めていた。
疲れた後の飯。
仕事の後の酒。
皆機嫌が良い。
ラミレスが葡萄酒を飲みながら言う。
「分かったか」
「何が」
俺。
ラミレスは塩田を指差す。
夕日に染まっている。
静かだった。
昼の騒ぎが嘘みたいだ。
「塩は勝手に出来ん」
なるほど。
魚と同じだった。
麦と同じだった。
船と同じだった。
全部同じだ。
誰かが働く。
守る。
運ぶ。
そしてようやく飯になる。
俺は塩田を見る。
ただの海水。
だが。
港を支えている。
魚を支えている。
船を支えている。
人を支えている。
見えにくいだけで。
非常に重要だった。
夜。
帰り道。
塩田の水面へ月が映る。
静かだった。
昼の騒ぎが信じられない。
「また来るか」
ラミレス。
少し考える。
そして頷いた。
「来る」
本音だった。
魚市場も面白い。
造船所も面白い。
だが。
塩田も面白かった。
港を動かすものは。
思ったより派手ではないらしい。
そして。
その方が興味深かった。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力が後年整備した港湾網において、塩田は軍港や市場と同等の保護対象として扱われた。
ゴメスは晩年、
「魚がいても塩が無ければ遠くへ運べない」
と語っている。
後世の歴史家は、この塩田見学こそが補給網構想の最初の一歩だったと考えている。
当時の本人は恐らく、
「飯がうまかった」
くらいにしか思っていなかっただろうが。