銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十一週 一日目 昼過ぎ
船が帰らない。
海へ出た人間は時々帰らない。
当たり前だ。
水兵だから知っている。
だが港の人間は諦めないらしい。
船が一隻帰らないだけで大騒ぎになる。
面倒だと思った。
そして少し羨ましかった。
――ゴメス
雨は止まなかった。
細かい雨。
空を灰色に染める雨。
海を灰色に染める雨。
港を灰色に染める雨。
昼を過ぎても。
止む気配は無い。
石畳は濡れている。
荷車の車輪が水を跳ねる。
馬は不機嫌そうだ。
人間も似たようなものだった。
特に魚市場。
朝より静かだった。
魚はある。
だが少ない。
声も少ない。
笑いも少ない。
皆どこか落ち着かない。
理由は一つだった。
船が帰らない。
たった一隻。
だが。
その一隻が港全体をざわつかせていた。
「本当に珍しいのか?」
俺は朝の魚屋へ聞いた。
魚屋マルコは魚を捌きながら答える。
包丁が骨を断つ。
乾いた音。
慣れた手付きだった。
「珍しい」
短かった。
「だが無い話じゃない」
「嵐か?」
「病気かもしれん」
「故障かもしれん」
「魚を追い過ぎたかもしれん」
なるほど。
理由は色々あるらしい。
だが。
マルコは魚を切る手を止めた。
珍しかった。
「海賊かもしれん」
沈黙。
周囲も静かになる。
荷役人夫も。
商人も。
皆聞いていた。
海賊。
嫌な言葉だった。
非常に。
俺達水兵も知っている。
海賊はいる。
どこにでもいる。
酒場にもいる。
市場にもいる。
商船にもいる。
軍船にもいる。
本人が認めないだけだ。
「この辺にもいるのか」
新入り。
マルコは肩を竦める。
「海だぞ」
それだけだった。
十分だった。
海だからいる。
狼が森にいるように。
当たり前の話らしい。
その時。
港役人が走ってくる。
帽子。
帳簿。
濡れた外套。
役人らしい姿だった。
「船を出す!」
大声。
市場が反応する。
皆顔を上げる。
「捜索船だ!」
ざわめき。
大きくなる。
商人が動く。
漁師が動く。
船乗りも動く。
港全体が少し速くなった。
俺は役人を見る。
「探すのか」
役人は頷く。
「探す」
即答だった。
「金になるのか」
思わず聞く。
役人は変な顔をした。
「人が乗ってる」
それだけだった。
少し驚いた。
魚のためではない。
船のためでもない。
乗っている人間のため。
それが理由らしい。
「当然だろ」
ディエゴ。
「当然か?」
「当然だ」
そういうものらしい。
俺は少し考える。
船。
魚。
塩。
麦。
最近はそういう話ばかりだった。
だが。
全部人間が動かしている。
魚は勝手に市場へ来ない。
塩も勝手に袋へ入らない。
船も勝手に動かない。
人がいる。
だから動く。
その時だった。
市場の隅。
魚のスープを売る屋台。
湯気。
香り。
腹が鳴った。
非常に裏切り者だった。
「食うか」
ペペ。
既に並んでいる。
仕事が早い。
悪い意味で。
屋台の鍋からスープが注がれる。
白く濁った魚介出汁。
貝。
刻んだ玉葱。
少量の香草。
黒胡椒。
そして。
硬いパン。
素朴だった。
だが旨そうだった。
湯気が立つ。
魚の匂い。
貝の匂い。
潮の香り。
雨の冷たさと混ざる。
腹が鳴る。
全員鳴っていた。
恥ではない。
飯の前だからだ。
木匙を入れる。
熱い。
非常に熱い。
だが旨い。
魚の出汁。
貝の旨味。
玉葱の甘味。
最後に胡椒。
身体が温まる。
雨の日には最高だった。
「生き返る」
新入り。
全員同意だった。
ペペだけは既に二杯目だった。
やはり化け物だった。
その時。
沖から鐘の音。
一回。
二回。
三回。
港が静かになる。
嫌な静けさだった。
誰もが海を見る。
俺も見る。
捜索船が出港するところだった。
小型船。
漁船より少し大きい。
だが速そうだ。
帆が開く。
船員達が動く。
雨の海へ出る。
灰色の世界へ。
帰らない船を探しに。
港は見送る。
魚屋も。
商人も。
役人も。
荷役人夫も。
皆黙っていた。
その姿を見ながら。
俺は少し思った。
港とは不思議な場所だ。
魚で騒ぐ。
塩で騒ぐ。
麦で騒ぐ。
だが。
最後は人間のために動くらしい。
まだ全部は分からない。
だが。
少しずつ見えてきた気がした。
他人物視点
港役人エステバン
帳簿では損失になる。
船一隻。
乗組員七名。
網二張り。
予想収穫量。
銀貨換算。
数字は出る。
簡単に。
だが。
家族は数字ではない。
だから探す。
港とはそういうものだ。
後世の港湾史研究より
骨樽港の特徴としてしばしば挙げられるのが遭難船捜索制度である。
当時としては異例の規模で行われた救助活動は、後に多くの船乗りを骨樽勢力へ引き寄せる要因となった。
ゴメスがその発想を得た時期については諸説あるが、本記録は有力な候補の一つとされている。