銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十一週 一日目 夜
港は船を待つ。
魚を待つ。
麦を待つ。
塩を待つ。
だが今日は違った。
人を待っていた。
港とは思ったより人間臭い生き物らしい。
――ゴメス
夕方。
雨は弱くなった。
だが空は重い。
海も重い。
沖合は灰色の霧に覆われていた。
捜索船が出てから数時間。
港は妙に落ち着かなかった。
魚市場は閉まり始めている。
荷車も減った。
だが。
人は帰らない。
岸壁に残っている。
魚屋。
荷役人夫。
船乗り。
商人。
皆が海を見る。
誰も命令していない。
誰も金を払っていない。
それでも見ていた。
「そんなに気になるか」
俺。
マルコが肩を竦める。
「乗ってる奴知ってるからな」
簡単だった。
あまりにも。
「家族か」
「いや」
「友人」
「昔喧嘩した相手」
「借金ある奴」
「魚盗まれた奴」
周囲が笑う。
だが。
皆頷いていた。
港は狭い。
船乗りは少ない。
顔を知る。
名前も知る。
だから気になる。
そういう事らしい。
太陽が沈む。
空が赤く染まる。
海も赤く染まる。
濡れた帆柱も赤い。
そして。
灯火が灯る。
一つ。
二つ。
十。
百。
港が夜になる。
その頃には。
腹が減っていた。
非常に。
人間だから仕方ない。
港近くの食堂。
昼とは違う店。
船乗り向け。
騒がしい。
酒臭い。
そして旨い。
良い店だった。
今日の飯。
魚と豆の煮込み。
白パン。
羊乳のチーズ。
焼いた玉葱。
葡萄酒。
豪華だった。
少なくとも水兵基準では。
鍋が運ばれてくる。
ぐつぐつと音を立てている。
湯気。
魚の香り。
豆。
香草。
少量のにんにく。
腹に悪い匂いだった。
良い意味で。
木匙を入れる。
魚は崩れそうなほど柔らかい。
豆は煮汁を吸っている。
黄金色の脂が表面に浮く。
一口。
熱い。
旨い。
魚の旨味。
豆の甘味。
香草。
にんにく。
最後に塩。
身体に染みる。
疲れが抜ける。
船の腐ったスープを思い出す。
比較するのも失礼だった。
「生きてるな」
ペペ。
口いっぱいに詰め込んでいる。
説得力は無かった。
「飲み込んでから喋れ」
ディエゴ。
「無理だ」
「何故だ」
「次を食うから」
周囲爆笑。
本人は真面目だった。
食事は続く。
酒も進む。
だが。
店の空気はどこか落ち着かない。
皆耳を立てている。
海側の音に。
その時だった。
鐘。
遠く。
一回。
二回。
沈黙。
店が静かになる。
全員立ち上がる。
俺も。
何かあった。
それだけは分かった。
外へ出る。
人が走る。
港へ。
岸壁へ。
夜風が吹く。
海は暗い。
だが。
灯りが見えた。
沖合。
小さな灯り。
一つ。
二つ。
三つ。
増える。
近付く。
そして。
誰かが叫ぶ。
「見つけたぞ!!」
歓声。
港が揺れる。
本当に。
魚屋が帽子を投げる。
荷役人夫が叫ぶ。
商人が笑う。
酒場からも人が出てくる。
皆喜んでいる。
俺は少し驚く。
魚が獲れた訳ではない。
銀山が見つかった訳でもない。
船が帰るだけだ。
だが。
皆喜んでいる。
その理由はすぐ分かった。
船が入港する。
帆は破れている。
船体も傷だらけ。
だが。
乗組員はいた。
全員だ。
七人。
皆生きている。
疲れている。
痩せている。
だが笑っていた。
家族が駆け寄る。
友人が駆け寄る。
怒鳴る。
抱きつく。
殴る。
また抱きつく。
忙しかった。
非常に。
「何があった」
俺。
マルコが笑う。
「帆柱折れたらしい」
なるほど。
だから遅れた。
海賊ではない。
嵐でもない。
ただの故障。
だが。
それだけで港は大騒ぎになった。
俺は帰還した船を見る。
傷だらけだった。
だが。
皆が待っていた。
魚のためではない。
銀貨のためでもない。
人のためだ。
少しだけ。
分かった気がした。
港は魚を食う。
塩を食う。
麦を食う。
木を食う。
鉄も食う。
だが。
最後に一番欲しがるのは。
人なのかもしれない。
その夜。
港は遅くまで騒がしかった。
帰ってきた船乗り達のために。
そして。
帰ってきた事を祝うために。
他人物視点
漁船《聖マリア号》船長 フェルナンド
港の灯りが見えた時。
七人とも黙った。
三日間。
帆柱が折れた船で漂った。
雨もあった。
風もあった。
覚悟もした。
だが。
港は待っていた。
それだけで十分だった。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力が後に整備する「救助船基金」「遭難者家族支援」「沿岸監視所」は当時として極めて先進的な制度であった。
ゴメスは後年、
「船は直せる。人は帰って来なければ終わりだ」
と語ったという。
この思想の原点は、この帰還船騒動にあったと考えられている。