銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十一週 三日目 夕刻
港を支える物を考えた。
船ではなかった。
大砲でもなかった。
提督でもなかった。
縄だった。
少し考えた。
世の中は思ったより頼りない。
一本切れるだけで困る。
だが。
一本繋がるだけで動く。
それもまた事実らしい。
――ゴメス
午後。
工房の熱気は増していた。
日が傾き始めても。
職人達は休まない。
縄を捻る。
束ねる。
引っ張る。
また捻る。
単純だった。
だが。
誰一人手を抜かない。
理由は分かっていた。
船が待っているからだ。
港が待っているからだ。
その時だった。
工房の扉が勢いよく開く。
「親方!」
朝の荷役人夫だった。
息が切れている。
顔も青い。
良くない知らせらしい。
「どうした」
ロドリゴ。
人夫は答える。
「西岸壁の商船だ!」
「帆索が切れた!」
沈黙。
工房全体が止まる。
たった一瞬。
だが。
確かに止まった。
「怪我人は」
ロドリゴ。
「一人!」
「生きてる!」
「なら良い!」
職人達が動き出す。
驚くほど早い。
縄を持つ。
道具を持つ。
荷車へ積む。
まるで軍隊だった。
「行くぞ!」
ロドリゴ。
誰も文句を言わない。
当然のように従う。
俺達も付いて行く。
少し興味があった。
非常に。
港へ戻る。
岸壁。
人だかり。
商船が停泊している。
大きい。
遠洋商船だ。
マストが三本。
船体も立派。
だが。
一本の縄が切れていた。
上部。
帆を操る索。
途中で裂けている。
風に叩かれ。
ばたばたと暴れていた。
「それだけか」
思わず呟く。
だが。
周囲の顔は真剣だった。
船員達。
船長。
商人。
全員だ。
「それだけじゃない」
ディエゴ。
指差す。
帆。
片側だけ開いている。
もう片側は動かない。
つまり。
船がまともに動かせない。
「なるほど」
少し分かった。
魚屋から魚を取り上げる。
塩屋から塩を取り上げる。
それと同じだ。
商売にならない。
職人達が作業を始める。
梯子。
滑車。
予備索。
慣れていた。
驚くほど。
誰も騒がない。
無駄口も少ない。
必要な言葉だけ。
上げろ。
引け。
止めろ。
回せ。
まるで船員みたいだった。
ロドリゴが先頭へ立つ。
太い腕。
日に焼けた背中。
職人というより船長だった。
「見てろ」
そう言われた。
俺は見た。
縄が上がる。
滑車を通る。
固定される。
張られる。
調整される。
一本の線になる。
それだけ。
本当にそれだけだった。
だが。
周囲の空気が変わる。
船員達が笑う。
船長が肩を落とす。
商人が安堵する。
荷役人夫が拍手する。
一本の縄。
それだけで。
全部戻った。
不思議だった。
作業終了。
夕焼け。
海が赤い。
船も赤い。
港も赤い。
風も心地良い。
仕事を終えた職人達は。
当然のように飯だった。
工房裏の空き地。
樽を並べる。
板を置く。
即席の食卓完成。
実に港らしい。
今日の飯は豪華だった。
修理成功祝いらしい。
羊肉の串焼き。
焼き玉葱。
白豆の煮込み。
黒パン。
山羊乳チーズ。
そして葡萄酒。
香りが凄かった。
炭火。
肉汁。
脂。
胡椒。
香草。
全部混ざる。
腹が鳴る。
全員鳴った。
当然だった。
串焼きを受け取る。
表面はこんがり。
少し焦げ目。
肉汁が光る。
滴る。
炭へ落ちる。
じゅうっ。
煙。
香り。
反則だった。
一口。
熱い。
旨い。
羊肉の旨味。
脂。
塩。
胡椒。
最後に香草。
噛むほど旨い。
葡萄酒を流し込む。
少し酸味。
肉に合う。
最高だった。
ペペは六本目だった。
誰も驚かない。
もう慣れた。
ロドリゴが葡萄酒を飲みながら言う。
「分かったか」
俺。
「少し」
本音だった。
ロドリゴは港を指差す。
船。
市場。
倉庫。
灯火。
人。
全部見える。
「皆船を見る」
「うむ」
「だが船だけじゃ動かん」
その通りだった。
魚。
塩。
麦。
職人。
縄。
全部必要だ。
一つ欠けるだけで困る。
港はそういう場所らしい。
帰り道。
海風が吹く。
帆が鳴る。
縄が軋む。
今まで聞き流していた音だった。
だが。
今日は違う。
港の音に聞こえた。
俺は少し笑う。
また一つ。
面白い物を見つけた。
他人物視点
縄職人親方 ロドリゴ
変な水兵だった。
だが。
悪くない。
船を見る連中は多い。
職人を見る連中は少ない。
縄を見る連中はもっと少ない。
だから覚えていた。
後に歴史へ名を残す男だとは。
もちろん知らなかったが。
後世の港湾史研究より
骨樽港の規則には「修理職人への妨害は港への妨害と同罪」という条文が存在した。
船そのものではなく、それを支える職人を重視する思想は当時としては珍しい。
後年のゴメスは語る。
「魚を運ぶ船も、銀を運ぶ船も、最後は縄一本で動く」
この言葉は骨樽勢力の港湾思想を象徴する名言として知られている。