銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十一週 五日目 夕刻
海軍向けの酒樽が漏れた。
樽職人は怒った。
海軍も怒った。
商人も怒った。
何なら酒場の親父まで怒った。
酒というものは偉いらしい。
俺も少し怒った。
飲めなくなるからだ。
――ゴメス
「どこの樽だ」
ミゲルの声は低かった。
低いほど危険だ。
何となく分かる。
若い職人ハビエルが答える。
「第三倉庫です」
「何樽だ」
「六十」
沈黙。
工房全体が静かになる。
昼まで賑やかだった職人達も黙る。
六十樽。
俺には多いのか少ないのか分からない。
だが。
周囲を見る限り。
良くない数字らしい。
非常に。
「行くぞ」
ミゲル。
全員立ち上がる。
飯は途中。
酒も途中。
それでも動く。
職人達はそういう生き物らしい。
俺達も付いていく。
興味があった。
非常に。
第三倉庫。
港の奥。
軍用区画だった。
石造り。
頑丈。
衛兵付き。
樽が積まれている。
大量だ。
本当に大量。
魚。
塩。
酒。
油。
補給品の山だった。
その一角。
海軍士官。
商人。
倉庫番。
全員集まっている。
顔色は悪い。
理由は簡単だった。
酒が漏れている。
樽の底。
ぽたり。
ぽたり。
赤い葡萄酒。
地面へ落ちる。
周囲の顔が歪む。
まるで血を見るようだった。
「もったいねぇ……」
ペペ。
全員頷いた。
それはそうだ。
非常にもったいない。
ミゲルが樽へ近付く。
叩く。
見る。
匂いを嗅ぐ。
そして。
底板を確認する。
職人達も動く。
静かだった。
真剣だった。
海軍士官が苛立つ。
「原因は」
ミゲルは答えない。
まず見る。
次に考える。
最後に話す。
そういう職人らしい。
数分後。
ミゲルが鼻を鳴らす。
「樽じゃない」
全員沈黙。
「は?」
商人。
海軍士官。
倉庫番。
全員同じ顔だった。
ミゲルは樽を指差す。
「樽は問題ない」
「漏れてるぞ!」
「漏れてる」
頷く。
「だが原因は樽じゃない」
そして。
樽の下を見る。
石床。
少し傾いている。
樽が歪んでいた。
長期間。
無理な力が掛かる。
底板が浮く。
酒が漏れる。
なるほど。
少し分かった。
海軍士官は頭を抱える。
倉庫番はさらに顔色が悪くなる。
原因が倉庫だったからだ。
非常に。
「直るか」
士官。
「直る」
ミゲル。
即答だった。
全員安心する。
本当に。
職人達が動き出す。
木槌。
楔。
支え木。
手際が良い。
流石だった。
樽を持ち上げる。
床を修正。
位置を変える。
底板を締める。
確認。
終了。
見事だった。
酒漏れは止まる。
ぽたり。
が消える。
それだけ。
だが。
周囲から拍手。
歓声。
倉庫番は泣きそうだった。
多分本当に。
海軍士官が頷く。
「助かった」
短い言葉。
だが重かった。
ミゲルは肩を竦める。
「樽は飯だからな」
俺は少し笑う。
何となく分かる。
魚も飯。
塩も飯。
船も飯。
縄も飯。
そして樽も飯。
港の連中は全部飯へ繋げる。
俺も同じになりつつある。
少し危険だった。
作業終了。
日が沈む。
仕事も終わる。
そして当然。
飯だった。
今日は倉庫番の奢りらしい。
理由は助かったから。
実に港らしい。
大鍋が運ばれる。
魚介のシチュー。
白身魚。
貝。
玉葱。
人参。
豆。
香草。
たっぷり。
湯気が立つ。
魚介の香り。
白葡萄酒。
にんにく。
腹が鳴る。
毎回だ。
料理が悪い。
非常に。
木匙を入れる。
魚は崩れる。
貝は柔らかい。
スープは黄金色。
脂が浮く。
一口。
旨い。
魚の旨味。
貝の旨味。
野菜の甘味。
白葡萄酒の香り。
最後に塩。
全部まとまる。
身体が喜ぶ味だった。
「生き返る」
新入り。
「まだ死んでない」
ディエゴ。
「気分だ」
正しかった。
ペペは五杯目だった。
誰も驚かない。
もう無駄だからだ。
食事が終わる頃。
港には灯がともる。
船にも。
倉庫にも。
酒場にも。
柔らかな光。
穏やかな夜。
ミゲルが酒杯を持ちながら言う。
「今日覚えた事は」
少し考える。
そして答える。
「樽は漏れる」
周囲爆笑。
ミゲルも笑う。
「半分正解だ」
そして。
指を一本立てる。
「原因は見える場所とは限らない」
なるほど。
確かに。
漏れたのは樽。
悪かったのは床。
面白い話だった。
港も同じかもしれない。
魚が足りない。
塩が足りない。
縄が足りない。
だが。
本当の原因は別の場所にある事もある。
俺は静かな港を見る。
今日も一つ学んだ。
港は面白い。
本当に。
他人物視点
樽職人親方 ミゲル
変な水兵だった。
だが。
職人の話を聞く。
ちゃんと覚える。
それは珍しい。
商人でも。
役人でも。
船長でもない。
ただの水兵だ。
なのに。
樽の話を真面目に聞いている。
妙な男だった。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力では後年「原因を探せ。犯人を探すな」という港湾管理原則が知られるようになる。
補給網の問題は個人より仕組みに原因がある場合が多いという考え方である。
この思想の起源については諸説あるが、多くの研究者は本事件を有力な原点の一つとして挙げている。
当時のゴメスはまだ、魚介シチューのおかわりを考えていた頃であった。