銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十二週 一日目 夜
泉の水車が壊れた。
港が慌てた。
魚が獲れなくても人は少し我慢できる。
酒が無くても泣くだけで済む。
だが水は違う。
人は三日も経たずに機嫌が悪くなる。
俺もそうだった。
だから見に行く事にした。
――ゴメス
「親方!」
食堂の扉が勢いよく開く。
昼飯の匂い。
豆の煮込み。
塩豚。
焼き玉葱。
その全てを吹き飛ばす勢いだった。
「本当か!?」
食堂の親父。
「本当だ!」
走って来た男。
息が切れている。
顔も真っ赤だ。
周囲がざわつく。
魚屋。
荷役人夫。
水運び。
皆が同じ顔をしていた。
嫌な予感の顔だ。
「行くぞ」
エステルが立ち上がる。
桶を掴む。
肩当ても付ける。
完全に仕事の顔だった。
「どこへ」
俺。
「泉」
当然のように言う。
なるほど。
現場らしい。
俺達も付いて行く。
興味があった。
そして少し心配だった。
最近。
港の仕組みが少し見えてきた。
だからだ。
魚が足りない。
塩が足りない。
縄が足りない。
樽が壊れる。
全部困る。
だが。
水はもっと困る。
たぶん。
港そのものが止まる。
道は坂だった。
港から北。
小さな丘。
畑。
果樹園。
羊。
静かな景色だった。
だが。
人は静かではない。
皆急いでいる。
荷車。
桶。
道具。
走る。
担ぐ。
怒鳴る。
実に港らしかった。
やがて。
泉が見える。
澄んだ水。
石積み。
木造の水車。
そして。
壊れていた。
正確には。
止まっていた。
大きな車輪が傾いている。
軸が折れていた。
完全だった。
見事なまでに。
「うわぁ」
新入り。
全員同意だった。
これは駄目だ。
素人でも分かる。
その時。
職人達が到着する。
大工。
車大工。
鍛冶屋。
色々いた。
俺は少し驚く。
「こんなに来るのか」
エステルが頷く。
「水だからね」
短かった。
だが。
十分だった。
魚なら魚屋が困る。
塩なら塩屋が困る。
水は違う。
全員困る。
だから全員来る。
分かりやすい。
作業開始。
職人達が動く。
木材を測る。
軸を外す。
鍛冶屋が金具を見る。
車大工が木目を確かめる。
まるで船の修理だった。
「面白いな」
思わず言う。
ディエゴが呆れる。
「何でも面白いなお前」
「そうかもしれん」
否定できなかった。
本当に。
その時。
エステル達は別の仕事を始めていた。
水汲みだ。
泉から直接。
桶へ。
樽へ。
荷車へ。
運ぶ。
ひたすら。
止まらない。
「休まないのか」
俺。
エステルは笑う。
「水が休まないからね」
なるほど。
少し格好良かった。
夕方。
修理は続く。
皆疲れている。
腹も減っている。
だから飯だった。
当然だ。
泉の近く。
木陰。
即席の食卓。
大鍋が並ぶ。
今日は水運び達の飯らしい。
質素だ。
だが旨そうだった。
白豆。
玉葱。
塩漬け肉。
人参。
香草。
長時間煮込まれている。
湯気が立つ。
肉の香り。
野菜の甘い匂い。
疲れた身体には危険だった。
非常に。
木匙で掬う。
豆は柔らかい。
玉葱は崩れている。
塩漬け肉は脂を出し切っている。
一口。
旨い。
派手ではない。
だが旨い。
塩。
豆。
野菜。
肉。
全部優しい。
身体へ入ってくる。
働く人間の飯だった。
そして。
水を飲む。
冷たい。
泉の水。
澄んでいる。
旨い。
本当に。
「やっぱり旨いな」
俺。
エステルが笑う。
「当たり前だ」
少し誇らしそうだった。
その顔を見て。
少し分かった気がした。
魚屋は魚を誇る。
塩屋は塩を誇る。
縄職人は縄を誇る。
樽職人は樽を誇る。
そして。
水運びは水を誇る。
港はそういう人間達で出来ている。
夜。
修理完了。
水車が回る。
ぎぃ。
ぎぃ。
ゆっくり。
だが確実に。
水が流れる。
桶が動く。
歓声。
拍手。
誰かが帽子を投げる。
毎回いる。
港には必ずいる。
皆笑う。
エステルも笑う。
職人も笑う。
俺も笑った。
たった一つの水車。
だが。
それで港は助かる。
面白い話だった。
帰り道。
月が出ていた。
泉が光る。
水車も光る。
静かだった。
昼間の騒ぎが嘘みたいに。
俺は少し振り返る。
水。
魚。
塩。
縄。
樽。
全部違う。
だが同じだった。
誰かが守っている。
誰かが運んでいる。
だから港は生きている。
少しだけ。
分かった気がした。
他人物視点
水運び エステル
変な水兵だった。
だが。
ちゃんと水を見ていた。
桶ではなく。
泉を見ていた。
珍しい。
大抵の連中は水を飲むだけだ。
水がどこから来るかまでは見ない。
だから少し覚えていた。
あの男の事を。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力の港湾政策において、水源保護は最重要項目の一つであった。
水車・井戸・泉・貯水池の維持管理は軍港防衛と同等に扱われたという。
後年のゴメスは語る。
「魚が無ければ腹が減る。水が無ければ皆死ぬ」
この単純な認識が、後の骨樽補給網思想の基礎になったと考えられている。