銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十三週 一日目 昼
羊が逃げた。
追い掛けた。
羊は速かった。
非常に。
ペペも速かった。
理由は肉だった。
あいつは何かに追われている時より、
飯を追い掛ける時の方が速い。
不思議な男だ。
――ゴメス
羊は走った。
本当に走った。
港を。
市場を。
迷いなく。
一直線に。
「止めろぉぉぉ!」
羊飼いマヌエル。
必死だった。
当然だ。
商品だからだ。
しかも大きい。
かなり高そうだった。
「右だ!」
「左だ!」
「違う真ん中だ!」
全員好き勝手言う。
誰も役に立たない。
実に港らしい。
羊は魚市場へ突入した。
魚屋達が飛び退く。
桶が倒れる。
魚が飛ぶ。
鰯。
鯖。
烏賊。
空を飛んだ。
魚屋マルコが叫ぶ。
「俺の昼飯ぃぃぃ!」
悲痛だった。
非常に。
羊は気にしない。
さらに走る。
野菜市場へ。
人参が飛ぶ。
玉葱が転がる。
子供達は喜ぶ。
商人達は喜ばない。
当然だった。
「捕まえろ!」
「お前が捕まえろ!」
「俺は商人だ!」
「羊も商人じゃない!」
周囲が笑う。
混乱していた。
実に。
その時。
ペペが加速する。
本気だった。
異常なほど。
「待て肉!」
名言だった。
たぶん。
少なくとも本人は真面目だった。
羊はもっと真面目だった。
逃げる。
全力で。
通りを曲がる。
樽を避ける。
犬を飛び越える。
驚くほど器用だった。
「慣れてるな……」
ディエゴ。
全員同意だった。
どう考えても初犯ではない。
その時だった。
羊が止まる。
突然。
市場の一角。
野菜屋の前。
山積みのキャベツ。
新鮮だった。
非常に。
羊は考える。
数秒。
そして。
食べ始めた。
沈黙。
全員止まる。
羊も止まる。
食う。
もしゃもしゃ。
実に幸せそうだった。
「今だ!」
マヌエル。
飛び掛かる。
羊。
避ける。
商人へぶつかる。
商人飛ぶ。
周囲爆笑。
本人は笑わない。
理由は簡単。
痛いからだ。
「くそぉ!」
マヌエル。
「落ち着け」
老人の声。
市場の隅。
老羊飼いだった。
杖。
帽子。
皺だらけ。
だが。
妙に落ち着いている。
「餌だ」
短かった。
「は?」
マヌエル。
老人はキャベツを拾う。
羊へ見せる。
振る。
羊の耳が動く。
非常に分かりやすい。
「ほれ」
一歩。
羊が付いて来る。
また一歩。
付いて来る。
さらに一歩。
完全に付いて来る。
周囲沈黙。
あまりにも簡単だった。
「何でだ」
俺。
老人は笑う。
「腹だ」
最近よく聞く。
非常に。
「人間と同じだ」
周囲が頷く。
ペペまで頷いていた。
説得力があった。
少し悔しい。
やがて。
羊は無事確保される。
縄で繋がれる。
今度は逃げない。
口にキャベツがあるからだ。
平和だった。
昼。
騒動終了。
当然。
腹が減る。
走ったからだ。
市場近くの屋台。
今日の飯は豪華だった。
羊肉の煮込み。
白豆。
玉葱。
人参。
香草。
黒パン。
そして葡萄酒。
港が羊の日だかららしい。
鍋の蓋が開く。
湯気。
羊肉の香り。
脂。
香草。
腹が鳴る。
全員だった。
匙を入れる。
肉は柔らかい。
長時間煮込まれている。
簡単に崩れる。
一口。
旨い。
羊特有の香り。
脂。
豆の甘味。
玉葱。
全部来る。
葡萄酒を飲む。
さらに合う。
危険だった。
非常に。
「やっぱり肉は良い」
ペペ。
真理を語る顔だった。
その時。
市場の向こう。
羊商人達の集まりが見える。
何か揉めていた。
まただった。
港は本当に騒がしい。
どうやら。
羊を降ろしただけでは終わらないらしい。
他人物視点
老羊飼い ロレンソ
若い連中は追い掛ける。
犬も追い掛ける。
商人も追い掛ける。
だが。
羊は腹で動く。
だから餌で良い。
人間も大体同じだ。
酒か飯か銀貨になるだけで。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力では後年、家畜市場と食料市場が一体的に管理されるようになる。
「生きた食料」をどう扱うかは重要な行政課題であった。
なお逃走羊事件については、
「ペペが肉を追い掛けて市場半分を走り回った日」
として現在でも語り継がれている。