銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
帝国暦一七三年 雨季 第十三週 三日目 夜
鳩が手紙を盗んだ。
正確には咥えて飛んだ。
理由は分からない。
鳥だからだと思う。
人間なら理由を聞ける。
鳥には聞けない。
世の中には話し合いが通じない相手もいる。
鳩だった。
――ゴメス
鳩は飛んだ。
白かった。
速かった。
非常に。
そして。
余計な物を咥えていた。
手紙だった。
灯台守エンリケ宛ての。
唯一足りない一通。
「待てぇぇぇ!」
ドミンゴ。
全力だった。
だが。
鳩も全力だった。
互角ではない。
鳩が有利だった。
空だからだ。
人間は飛べない。
残念ながら。
「どうする」
俺。
「祈る」
ドミンゴ。
正直だった。
少し感心した。
その時。
市場の少年が叫ぶ。
「屋根!」
全員見る。
酒場の屋根。
鳩が止まっている。
手紙を咥えたまま。
偉そうだった。
非常に。
「まだ間に合う!」
ドミンゴ。
港中が動く。
まただった。
本当にまただった。
梯子。
樽。
縄。
全部運ばれる。
見慣れた光景だった。
酒場の親父が出てくる。
不機嫌だった。
昼寝を邪魔されたらしい。
気持ちは分かる。
少しだけ。
「何事だ!」
「鳩です!」
「意味が分からん!」
全員同意だった。
本当に。
梯子が立つ。
屋根へ。
登る。
若い荷役人夫。
軽い。
速い。
だが。
鳩も見ていた。
じりじり近付く。
鳩が横歩きする。
さらに近付く。
また横歩きする。
観客が増える。
何故か増える。
港だからだろう。
たぶん。
そして。
あと少し。
本当にあと少し。
その瞬間。
鳩が飛ぶ。
歓声。
ではない。
悲鳴だった。
当然だ。
だが。
風が吹く。
強く。
海から。
鳩が揺れる。
少しだけ。
咥えていた手紙が離れる。
ひらひら。
落ちる。
全員見る。
沈黙。
時間がゆっくりになる。
そんな気がした。
手紙が落ちる。
市場の上。
樽の上。
魚屋の屋根。
そして。
誰かの頭へ。
ぽす。
落ちた。
ペペだった。
沈黙。
さらに沈黙。
そして爆笑。
港中が。
本当に港中が。
ペペは立っている。
頭に手紙。
何も分かっていない顔。
実にペペだった。
「取れ」
ディエゴ。
「何で笑う」
ペペ。
誰も答えられなかった。
面白いからだ。
非常に。
手紙は無事だった。
少し折れている。
だが読める。
十分だった。
ドミンゴが受け取る。
抱きしめる。
本当に。
「助かった……」
心からの声だった。
その顔を見て。
少し思う。
魚一樽。
羊一頭。
水一桶。
全部大事だ。
だが。
手紙一通も同じらしい。
紙切れに見える。
だが。
誰かは待っている。
だから届ける。
面白い仕事だった。
夕方。
ドミンゴが出発する。
最後の配達だ。
灯台へ。
俺達も付いて行く。
暇だった。
少しだけ。
灯台。
夕焼け。
海が赤い。
波も赤い。
静かだった。
エンリケが待っている。
椅子。
煙草。
いつも通り。
「手紙だ」
ドミンゴ。
エンリケは受け取る。
封を見る。
少しだけ表情が変わる。
珍しかった。
非常に。
「家族か」
俺。
エンリケは笑う。
静かに。
「孫だ」
短かった。
それだけだった。
封を開ける。
読む。
ゆっくり。
何度も。
そして。
もう一度読む。
海風が吹く。
灯台も光り始める。
赤い夕暮れ。
白い灯台。
老人。
手紙。
静かな時間だった。
「良い知らせか」
ペペ。
珍しく静かだった。
エンリケは頷く。
「良い知らせだ」
それだけだった。
だが。
十分だった。
帰り道。
灯台の光が海を照らす。
遠くまで。
本当に遠くまで。
俺は少し思う。
魚は腹を満たす。
水は命を繋ぐ。
手紙は何だろう。
まだ分からない。
だが。
届ける価値はあるらしい。
少なくとも。
あの老人の顔を見る限り。
他人物視点
灯台守 エンリケ
孫が字を書いた。
たったそれだけだ。
上手くもない。
文字も曲がっている。
だが。
良い手紙だった。
魚一樽ほどではない。
たぶん。
いや。
同じくらい価値があるかもしれない。
後世の港湾史研究より
骨樽勢力の通信制度は後年、海運網と並ぶ重要インフラとして整備された。
交易情報、災害情報、軍事情報だけでなく、個人の手紙も保護対象とされた点が特徴である。
ゴメスは後年こう語っている。
「荷物は腹を満たす。手紙は人を動かす」
その思想の原点は、この灯台守へ届いた一通の手紙にあったと考えられている。