銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
倉庫には食い物がある。
昨日知った。
どこにあるか分からなければ、
ないのと同じらしい。
今日。
もう一つ知った。
どこにあるか分かっていても、
食えないことがある。
これは困る。
目の前に麦がある。
腹が減っている。
でも食えない。
ペペには見せない方がいい。
――ゴメス
翌朝。
ゴメスはまた倉庫にいた。
別に好きになったわけではない。
仕事だった。
本当だ。
少なくとも本人はそう思っている。
「またお前か」
アルバロが言った。
「また俺だ」
「今日は何を聞きに来た」
「仕事に来た」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんと言うな」
倉庫番アルバロは、昨日より明らかに警戒していた。
昨日。
ゴメスが何気なく、
「全部ここに置いて、火事になったらどうする?」
などと聞いた結果。
朝から倉庫では火桶の位置が確認され、屋根が点検され、裏手の轍が埋められ、排水路が掘り直されていた。
鼠捕りも増えている。
「増えてるな」
ゴメスは壁際を指した。
「何がだ」
「鼠捕り」
「気のせいだ」
「昨日より多い」
「気のせいだ」
「三つある」
「働け」
どうやら数えてはいけなかったらしい。
---
今日の仕事は、船用品の搬出だった。
港を出る商船が、航海用の物資を受け取る。
干し肉。
豆。
麦。
油。
酒。
予備の縄。
帆布。
釘。
蝋燭。
薪。
その他諸々。
船というものは浮いているだけで大量の物を食う。
人間が食う。
灯りが油を食う。
船体が木を食う。
修理が縄や釘を食う。
料理が薪を食う。
そして何も補給しなければ、いずれ全部なくなる。
ゴメスは以前なら、
「船には食料と水があればいい」
くらいに考えていた。
今は違う。
水がある。
樽がいる。
樽を締める箍がいる。
縄がいる。
帆がいる。
帆を直す糸がいる。
針がいる。
釘がいる。
灯りがいる。
油がいる。
食料がいる。
それを腐らせない場所がいる。
その場所を掃除する人間もいる。
考えるほど増える。
港というものは、考えれば考えるほど面倒だった。
「ゴメス」
ディエゴが声をかけた。
「なんだ」
「手が止まってる」
「考えてた」
「仕事中に考えるな」
「無理だ」
「前はそんなことなかっただろ」
「最近増えた」
「困った成長だな」
ゴメス自身もそう思った。
---
「帆布十二巻!」
倉庫の入口で声が響いた。
若い倉庫番トマスが帳簿を抱えている。
昨日、湿った麦を発見して走ってきた男だ。
まだ若い。
髭も薄い。
だが帳簿を持つと妙に偉そうに見える。
「一番棚、上段!」
倉庫番が答える。
人足が向かう。
「予備縄、太物六巻!」
「二番区画!」
「釘、長物二箱!」
「五番!」
次々と物が出てくる。
ゴメスは感心して見ていた。
広い倉庫だ。
中には大量の荷物がある。
なのに、
「帆布」
と言えば帆布が出てくる。
「釘」
と言えば釘が出てくる。
酒場なら、
「酒」
と言えば酒が出てくる。
同じようなものかもしれない。
たぶん違う。
---
「ランプ油、小樽四!」
トマスが読み上げた。
返事がない。
「ランプ油、小樽四!」
もう一度。
奥から声。
「どこだ!」
トマスが帳簿を見る。
「四番区画、北壁!」
「ないぞ!」
アルバロの眉が動いた。
「ある」
「ありません!」
「帳簿には?」
トマスが指で文字を追う。
「あります。小樽……七」
「ならある」
アルバロが言った。
ゴメスは首を傾げた。
奥から倉庫番が走ってくる。
「ありません!」
「探せ」
「探しました!」
「もう一度探せ!」
人が動く。
四番区画。
北壁。
ゴメスたちも荷物を運びながら、そちらを見る。
棚。
樽。
壺。
箱。
油の匂い。
だが指定された小樽はない。
アルバロ自身も来た。
帳簿を見る。
棚を見る。
また帳簿を見る。
「七あるはずだ」
「ありません」
「三つは?」
「昨日、灯台用に出しました」
「なら四つ残る」
「はい」
「四つは?」
「ありません」
「だから探せ!」
「探してます!」
倉庫の空気が悪くなった。
---
ゴメスは近くの樽へ腰を落としかけた。
「座るな!」
アルバロに怒鳴られた。
立った。
「なあ」
「なんだ!」
「ないんじゃないか?」
「帳簿にはある!」
「でも、ないぞ」
「だから探している!」
「じゃあ帳簿の中にはあるのか?」
倉庫が静かになった。
ディエゴが顔を覆った。
ペペは笑いを堪えている。
アルバロがゆっくりゴメスを見る。
「……お前」
「なんだ」
「今日は黙っていられないのか」
「気になった」
「知ってる!」
怒鳴られた。
---
だが。
油は必要だった。
今日出港する船の灯りに使う。
日暮れまでに積まなければならない。
船長まで倉庫へ来た。
「まだか?」
「今出す」
アルバロが答える。
「昨日頼んでおいたぞ」
「分かっている」
「潮を待ってるんだ」
「分かっている!」
船長は苛立っていた。
アルバロも苛立っていた。
倉庫番も焦っていた。
人足は手を止めている。
たった四つの小樽。
倉庫全体から見れば、小さな荷物だった。
だが。
それが見つからないだけで。
船一隻の出港準備が止まっている。
ゴメスは、その様子を眺めた。
小さいものが大きなものを止める。
最近よく見る。
---
「最後に見たのは?」
アルバロが聞いた。
トマスが答える。
「十日前です」
「その時はいくつあった」
「十」
「昨日三つ出したんだろう」
「はい」
「なら七だ」
「帳簿も七です」
「四つじゃないのか?」
ゴメスが言った。
アルバロが睨む。
「三つ出したのは昨日だ」
「ああ」
「帳簿はまだ七になっている」
沈黙。
トマスが帳簿を見る。
顔が青くなった。
「……記入してません」
アルバロの目が細くなった。
「何?」
「昨日……灯台から急ぎで取りに来て……先に出して……」
「書かなかったのか」
「後で書こうと」
「後で?」
「忙しくて」
アルバロは何も言わなかった。
その方が怖かった。
ゴメスは思った。
怒鳴っているアルバロより、黙ったアルバロの方が怖い。
---
「じゃあ四つだろ」
ペペが言った。
全員がペペを見る。
「七あって、三つ出した」
指を折る。
「四つ」
「それは分かってる」
ディエゴが言った。
「でも四つがない」
「誰か食ったか?」
「油を食うな」
「俺じゃない」
「誰も疑ってない」
念のため言っておく必要があった。
---
アルバロが深く息を吐いた。
「十日前から昨日までに、他に油を出していないか」
倉庫番たちが顔を見合わせる。
一人が言った。
「船大工が使ったかもしれません」
「何に?」
「木材の処理に」
「何樽?」
「分かりません」
別の一人。
「酒場通りの共同灯にも出したような」
「何樽?」
「一つ……だったと思います」
「思います?」
アルバロの声が低くなる。
さらに別の男。
「先週、夜警が取りに来ました」
「何樽だ」
「小樽一つです」
「書いたか」
男は黙った。
「書いたか」
「……たぶん」
「たぶん!?」
アルバロが吠えた。
ゴメスは少し離れた。
これは近寄らない方がいい。
---
帳簿が机へ広げられた。
古い頁。
新しい頁。
油。
酒。
麦。
塩。
数字。
名前。
印。
ゴメスにはよく分からない。
だが。
分からないなりに、問題は見えてきた。
油は出ている。
人間が持っていった。
たぶん正しく使われている。
盗まれたとは限らない。
なのに記録がない。
だから倉庫では、
**まだあることになっている。**
「変だな」
ゴメスが言った。
ディエゴが小声で答えた。
「何が?」
「物はないのに、帳簿にはある」
「ああ」
「だったら帳簿を信じたら、あると思うよな」
「ああ」
「でもない」
「ああ」
「帳簿って嘘つくのか?」
アルバロが聞いていた。
「帳簿は嘘をつかん」
「でも違ってるぞ」
「人間が間違えるんだ」
「同じじゃないのか?」
「違う!」
アルバロが怒鳴った。
だが途中で止まった。
少し考える。
「……いや」
老人は帳簿を見る。
「使う側からすれば、同じか」
ゴメスも帳簿を見る。
紙。
文字。
数字。
ただそれだけ。
だが、その紙を見て船長は油があると思った。
倉庫番も油があると思った。
アルバロも油があると思った。
紙に書いてあったから。
実際にはなかった。
「怖いな」
ゴメスが言った。
「何がだ」
「紙」
「そこか?」
ディエゴが言った。
---
結局。
別の倉庫から油を借りることになった。
港の反対側。
商人所有の倉庫。
アルバロが人を走らせる。
交渉。
確認。
受取。
運搬。
四つの小樽が到着した時には、太陽がかなり傾いていた。
船長は腕を組んで待っていた。
「遅い!」
「油は揃えた!」
「潮が変わる!」
「まだ間に合う!」
「次からは頼むぞ!」
「分かってる!」
油樽が船へ運ばれる。
船員たちが急いで積む。
綱が外される。
帆が上がる。
船が岸を離れた。
ぎりぎりだった。
ゴメスは岸壁から見送った。
たった四つの油樽。
それがないだけで、船一隻が危うく一日止まるところだった。
「油って偉いな」
ゴメスが言った。
「そこじゃないと思うぞ」
ディエゴが答えた。
---
昼飯は遅くなった。
かなり遅くなった。
そのせいでペペの機嫌が悪かった。
「腹が減った」
「知ってる」
「死ぬ」
「朝も食っただろ」
「朝飯は朝の俺を生かすものだ」
ペペは腹を押さえた。
「昼の俺には昼飯が必要だ」
「妙なところだけ理屈が通ってるな」
ゴメスは感心した。
食堂の女将が大皿を持ってきた。
今日は魚だった。
大ぶりの白身魚をぶつ切りにし、玉葱、豆、少量のトマトと一緒に煮込んである。
皿へ盛られた瞬間。
魚の湯気と、煮えた玉葱の甘い匂いが立った。
表面には黄金色の油。
香草の緑。
魚の皮は煮汁を吸って艶を帯びている。
ゴメスが匙を入れる。
白い身がほろりと割れた。
口へ。
柔らかい。
舌で押すだけで崩れる。
最初に塩。
次に魚の旨味。
その後から玉葱の甘さ。
トマトの酸味。
油が全部を舌へ残す。
パンを汁へ浸す。
吸わせる。
食う。
旨い。
今日も非常に。
「おかわり!」
ペペが叫んだ。
「まだ一杯目だ!」
女将が叫び返した。
「予約だ!」
「そんな予約があるか!」
港は今日も平和だった。
---
食後。
昨日と同じ硬いチーズが出た。
ゴメスは切る。
食べる。
噛みながら考える。
去年のチーズ。
倉庫が守ったから今日食える。
だが。
もし帳簿に、
「チーズ十個」
と書いてあって。
実際にはゼロだったら。
「なあ」
ディエゴが嫌そうな顔をした。
「今度はなんだ」
「腹減ってる時に倉庫へ行って、帳簿にはパン百個って書いてあるのに、一個もなかったらどう思う?」
「帳簿を書いた奴を殴りたくなる」
「だよな」
「殴るなよ」
「たとえばだ」
ペペが顔を上げた。
「パン百個?」
「たとえばだ」
「どこにある」
「ない」
ペペの顔から光が消えた。
「なんでそんな酷い話をする」
「たとえばだって!」
どうやらペペには刺激が強すぎた。
---
ゴメスはチーズを見た。
物がある。
それだけでは足りない。
どこにあるか。
いくつあるか。
いつ入ったか。
いつ出たか。
誰が持っていったか。
それが分からなければ。
必要な時に使えない。
使えなければ。
ないのと同じではないか。
ゴメスは自分で考えて、少し嫌になった。
また面倒なものが増えた。
「帳簿も倉庫なのか?」
ぽつりと言った。
ディエゴが匙を止めた。
「今度は何を言い出した」
「倉庫は物を置くだろ」
「ああ」
「帳簿は……物がどこにあるか置いてる」
「情報だろ」
ゴメスはその言葉を聞いた。
情報。
以前、手紙を運んだ時にも似たことを思った。
手紙そのものは食えない。
だが人間を動かす。
帳簿も食えない。
だが荷物を動かす。
「そうか」
ゴメスが言った。
「何が?」
「倉庫が二つある」
「二つ?」
「物を入れる倉庫と」
ゴメスは指で机に文字を書く真似をした。
「物がどこにあるか入れる倉庫」
ディエゴはしばらく考えた。
「……帳簿か」
「ああ」
「お前、最近本当に面倒臭いこと考えるようになったな」
「俺もそう思う」
ペペは魚を食べながら言った。
「腹には入らん」
「何が」
「帳簿」
「食うな」
---
午後。
アルバロは倉庫番全員を集めた。
机の上に帳簿。
その横に木札。
さらに炭。
「今日から」
老人が言った。
「物を出した奴は、その場で書け」
若い倉庫番が言う。
「忙しい時は?」
「書け」
「急ぎの時は?」
「書け」
「灯台から走ってきても?」
「書け」
「火事でも?」
アルバロは少し考えた。
「火事なら消せ」
「はい」
「その後書け」
「はい」
さらに。
各棚へ木札が下げられることになった。
麦。
豆。
油。
酒。
縄。
帆布。
釘。
そこへ大まかな数を書く。
帳簿だけではない。
棚でも確認する。
朝と夕方に数を見る。
違っていれば、その日のうちに調べる。
「面倒ですね」
トマスが言った。
アルバロが睨んだ。
「今日、船を一隻止めかけた」
「……はい」
「面倒なのと、船を止めるのと、どっちがいい」
「面倒な方です」
「ならやれ」
「はい」
---
ゴメスは少し離れた場所で聞いていた。
「増えたな」
ディエゴが言う。
「何が?」
「仕事」
「ああ」
「お前が質問すると、誰かの仕事が増える気がする」
ゴメスは考えた。
確かに。
排水を見る。
掃除が増える。
倉庫を見る。
点検が増える。
帳簿を見る。
確認が増える。
「俺、嫌われるかな」
「今さらか?」
「ひどいな」
「安心しろ」
ディエゴはゴメスの肩を叩いた。
「ペペよりはマシだ」
向こうでペペが倉庫番に怒鳴られていた。
「その干し肉は商品だ!」
「見てただけだ!」
「口を開けながら見るな!」
確かに。
まだ大丈夫そうだった。
---
夕方。
ゴメスは船へ戻る途中で、昨日の倉庫を振り返った。
大きな建物。
外から見れば、昨日と何も変わっていない。
だが中では。
麦が動き。
油が動き。
帳簿に数字が増え。
木札が下がり。
人間が数を数えている。
港は物だけで動いているわけではない。
誰かが知っている。
誰かが覚えている。
誰かが書いている。
だから動く。
逆に。
誰も知らなければ。
物が目の前にあっても。
使えない。
ゴメスは少し考えた。
そして。
「俺なら……」
口から出た。
自分で止まった。
ディエゴが振り向いた。
「何だ?」
「いや」
「今、俺ならって言っただろ」
「言ってない」
「言った」
「気のせいだ」
「何ならどうするんだ?」
ゴメスは倉庫を見る。
一つの帳簿。
一つの倉庫。
一人のアルバロ。
アルバロが全部知っている。
もし。
アルバロが病気になったら?
もし帳簿が燃えたら?
もし水に濡れたら?
ゴメスは口を閉じた。
まだ。
考えるには早い気がした。
「……腹減った」
「さっき食っただろ」
「考えると減る」
「お前までペペみたいになるな」
前方からペペの声がした。
「聞こえてるぞ!」
元気だった。
---
### トマスの覚え書き
本日。
油樽四つが不足。
原因。
出庫記録の未記入。
および複数回の臨時出庫。
船一隻の出港が遅延しかけた。
アルバロ親方より、今後の出庫は即時記入するよう指示。
各棚に数量札を設置。
朝夕確認。
帳簿と棚の数量が違う場合、その日のうちに確認。
以上。
追記。
ゴメスという水兵が、
「帳簿の中には油があるのか?」
と言った。
その時は腹が立った。
今書いてみると。
確かにそうだった。
帳簿の中にしかなかった。
さらに追記。
アルバロ親方が新しい帳簿をもう一冊用意するよう言った。
理由を聞いたら、
「予備だ」
と言った。
昨日までは一冊だった。
たぶん。
あの水兵のせいだと思う。
本人には言わない方がいい。
――倉庫番見習いトマス
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### 後世の『骨樽港湾史・帳簿制度の形成』より
後世の骨樽港を特徴づける制度の一つに、極端とも評される記録主義がある。
貨物の入庫。
出庫。
保管場所。
数量。
所有者。
到着日。
予定使用日。
損耗。
破損。
廃棄。
移動。
これらは可能な限り記録された。
さらに重要物資については、単一の帳簿だけに依存しなかった。
倉庫側記録。
荷主側記録。
港務側記録。
そして定期的な現物確認。
後世の研究者から見れば、極めて合理的な制度である。
しかし。
その萌芽となった出来事は、実に小さい。
ランプ油の小樽四つが見つからなかった。
ただそれだけである。
船は沈んでいない。
人も死んでいない。
海賊も来ていない。
戦争も起きていない。
最終的には、別の倉庫から油を借りて船も出港した。
事件と呼ぶほどのものですらない。
しかし、ゴメスはこの出来事について後年こう記している。
> 物があっても、どこにあるか分からなければ使えない。
>
> 使えない物は、ない物とあまり変わらない。
>
> だから数えろ。
>
> 書け。
>
> たまに本当にあるか見ろ。
>
> 紙だけ信じるな。
>
> 人間だけも信じるな。
>
> 両方見ろ。
後世の骨樽港では、この思想が倉庫だけでなく、武器庫、食料庫、造船所、病院、井戸、船舶、人員管理にまで拡大していった。
なお。
この日のゴメス本人の航海日誌には、制度について長々とした考察は残されていない。
記されているのは、
> 帳簿は食えない。
>
> だが帳簿が間違うと飯が消える。
>
> 非常に困る。
そしてその下に、
> 今日の魚は旨かった。
>
> ペペは三杯食った。
>
> あいつの腹にも帳簿が必要だと思う。
とある。
後世の歴史家は、この最後の一文について特に研究していない。