銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~ 作:ヒツジ(ラム肉
航海日誌
港には倉庫がある。
当然だ。
船から降ろした荷物を置く場所だからだ。
俺もそう思っていた。
今日までは。
倉庫には荷物を入れる。
荷物を入れたら、出すまで置いておく。
簡単な仕事だと思っていた。
違った。
麦は湿る。
肉は腐る。
酒は漏れる。
鼠は食う。
虫も食う。
人間も盗む。
そして、たまに燃えるらしい。
聞けば聞くほど、荷物というものは倉庫の中で大人しくしている気がない。
非常に困った連中である。
――ゴメス
朝の港には、昨日の残り香がある。
潮。
魚。
酒。
煙。
濡れた木。
馬と羊の臭い。
そして、人間。
夜のあいだ眠っていたはずの港は、日の出より先に目を覚ましていた。
いや。
最近のゴメスは思う。
港は、そもそも眠っていないのではないか。
夜には夜番がいる。
灯台には灯台守がいる。
船には当直がいる。
倉庫にも見張りがいる。
朝になれば掃除人が現れ、荷役人足が集まり、魚売りが怒鳴り、パン屋の煙突から煙が上がる。
誰かが寝れば、誰かが起きている。
そうやって港は一日中動いている。
「ゴメス」
後ろから声がした。
振り向く。
ディエゴだった。
「今日、倉庫の荷下ろしだ」
「倉庫?」
「麦だ」
その一言で、隣を歩いていたペペが反応した。
「パンか?」
「麦だ」
「パンになる」
「まだ麦だ」
「いずれパンだ」
ペペは真剣だった。
ゴメスも少し考えた。
間違ってはいない。
「つまりパンか」
「お前まで乗るな」
ディエゴが額を押さえた。
---
今日の船は、沿岸を回ってきた小型商船だった。
腹いっぱいに麦袋を積んでいる。
船倉から運び出された袋が、次々と岸壁へ積まれていく。
一袋。
二袋。
十袋。
二十袋。
五十袋。
数える気が失せる。
一つ一つは人間が担げる大きさだ。
だが、それが何百と集まれば話が違う。
荷役人足たちが汗を流しながら袋を運ぶ。
肩に担ぐ者。
二人で棒に吊るす者。
手押し車へ積む者。
荷車へ載せる者。
港では、人間の背中も立派な輸送手段だった。
「重い」
ゴメスは麦袋を担いだ。
ずしりと肩へ食い込む。
「当たり前だ」
前を歩くディエゴが答えた。
「麦だからな」
「パンになる前から重いのか」
「パンになったら軽くなるだろ」
「食えばもっと軽くなる」
ペペが言った。
「お前の腹が重くなる」
「問題ない」
何が問題ないのかは誰にも分からなかった。
---
荷車が向かったのは、港の少し奥。
石造りの大きな建物だった。
ゴメスも何度も前を通ったことがある。
倉庫。
それ以上の認識はなかった。
窓は小さい。
壁は厚い。
大きな扉がある。
派手な看板もない。
酒場のように人が騒いでいるわけでもない。
市場のように魚が並んでいるわけでもない。
船大工のように槌の音が響いているわけでもない。
ただ、大きな箱のように港の一角へ座っている。
ゴメスは以前なら、そのまま通り過ぎていただろう。
最近は違う。
屋根を見る。
壁を見る。
扉を見る。
地面を見る。
そして――
建物の脇にある溝を見た。
水は流れている。
詰まっていない。
「……ちゃんと掃除してある」
ディエゴが振り返った。
「何が?」
「溝」
「倉庫に来て最初に見るところがそこなのか?」
「詰まったら困るだろ」
「まあ、困るが」
ゴメスは少し満足した。
この前、魚市場の排水が詰まったばかりである。
水は低い方へ流れる。
ゴミも低い方へ流れる。
そして、詰まる。
どうやら世界というものは、放っておくと何かが詰まるように出来ているらしい。
---
「止まれ!」
倉庫の入口で怒鳴られた。
荷役人たちが一斉に止まる。
声の主は、小柄な老人だった。
白い髭。
日に焼けた顔。
腰には鍵束。
手には細長い木の棒。
老人はゴメスたちではなく、麦袋を見ていた。
「それはこっちじゃない!」
荷役人の一人が困った顔をした。
「麦ですよ」
「見れば分かる!」
老人は杖のような棒で床を叩いた。
「新しい麦だろう!」
「そうですが」
「なら奥へ持っていけ!」
ゴメスは首を傾げた。
倉庫には空いている場所がある。
入口のすぐ横。
そこへ積めば楽だ。
奥まで運ぶ必要はない。
老人は荷役人たちを奥へ追いやる。
「なんでだ?」
ゴメスが聞いた。
老人が振り向いた。
「何がだ」
「そこ、空いてるぞ」
ゴメスは入口近くを指差した。
老人はしばらくゴメスを見た。
「お前、新入りか?」
「水兵だ」
「なら船へ帰れ」
「今は麦運んでる」
「だったら麦を運べ」
「なんで奥なんだ?」
老人の眉間に皺が寄った。
ディエゴが小声で言う。
「ゴメス」
「なんだ」
「お前、最近そればっかりだな」
「何が?」
「なんで、なんで、なんで」
「気になる」
老人はため息をついた。
それから入口近くに積まれている別の麦袋を棒で叩いた。
「これは去年の麦だ」
「去年?」
「そうだ」
「食えるのか?」
「食えるように置いてある」
老人は今度は、運び込まれている袋を指した。
「そっちは今年の麦だ」
ゴメスは去年の麦と今年の麦を見比べた。
袋である。
どちらも袋だった。
「同じじゃないか」
「同じに見えるから分けるんだ」
老人は言った。
「新しい麦を手前に置いたらどうなる?」
ゴメスは考えた。
ペペが答えた。
「先に食う」
「そうだ」
老人が即答した。
「すると古い麦がいつまでも奥に残る」
「なるほど」
「残った麦は古くなる。湿る。虫がつく。鼠が狙う。最後には食えなくなる」
老人は去年の麦袋を軽く叩いた。
「だから古いものから出す」
ゴメスは倉庫の奥を見る。
今年の麦が運ばれていく。
去年の麦は入口近く。
出しやすい場所に置かれている。
「新しいものを奥へ」
「そうだ」
「古いものを前へ」
「そうだ」
「面倒だな」
「倉庫とはそういう場所だ」
老人は鼻を鳴らした。
---
老人の名はアルバロといった。
この倉庫を三十年以上見ているらしい。
ゴメスからすれば、三十年という年月そのものがよく分からない。
三十年間、麦袋を見続ける。
樽を見る。
塩を見る。
干し肉を見る。
豆を見る。
油を見る。
布を見る。
酒を見る。
人間を見る。
そして鼠を見る。
「鼠も三十年見てるのか?」
「お前より賢い鼠もいたぞ」
「それは困る」
「否定しろよ」
ディエゴが言った。
---
倉庫の中は、外から見た以上に広かった。
天井が高い。
太い梁。
石壁。
木の床。
荷物は無秩序に積まれているわけではない。
麦。
豆。
塩。
酒。
油。
干し肉。
布。
それぞれ場所が違う。
樽は樽。
袋は袋。
壺は壺。
ゴメスは歩きながら鼻を動かした。
麦の乾いた匂い。
木樽の香り。
塩。
油。
革。
埃。
そして微かに酒。
腹が鳴った。
毎回だ。
もう諦めた。
「食うなよ」
ディエゴが言った。
「まだ何もしてない」
「顔が食おうとしている」
「麦をそのまま食うほど落ちぶれてない」
ペペが麦袋を見た。
「煎れば食える」
「お前は黙ってろ」
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アルバロは一本の棒を麦袋の隙間へ差し込んだ。
しばらくして抜く。
先端を触る。
匂いを嗅ぐ。
「何してる?」
またゴメスが聞いた。
アルバロはもう驚かなかった。
「湿ってないか見てる」
「外から分からないのか?」
「分かる頃には遅いことがある」
麦は水を嫌う。
それくらいはゴメスにも分かる。
だが雨が降らなくても湿る。
床から。
壁から。
空気から。
袋同士を詰めすぎても熱がこもる。
「麦って面倒だな」
「生き物みたいなものだ」
アルバロが言った。
ゴメスは麦袋を見た。
動かない。
鳴かない。
逃げない。
羊よりは楽そうに見える。
「羊よりは大人しい」
「羊と比べるな」
ディエゴが言った。
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昼になった。
荷役人たちは倉庫裏の日陰へ集まった。
仕事をすると腹が減る。
これは港でも船でも変わらない。
今日の昼飯は、大鍋からよそわれた豆の煮込みだった。
白豆。
細かく切った塩漬け豚。
玉葱。
人参。
少量の香草。
表面には豚の脂が薄く光っている。
木椀を受け取った瞬間、湯気と一緒に塩肉の濃い香りが鼻へ来た。
ゴメスは匙を突っ込む。
豆は柔らかい。
だが崩れ切ってはいない。
噛むと皮がわずかに残り、中はほくりと潰れる。
塩漬け豚は小さい。
小さいが脂が強い。
噛むたびに塩気と肉の旨味が出て、豆の甘さと混ざる。
玉葱はほとんど形がなくなっていた。
だが甘い。
人参も煮崩れかけている。
汁は濃い。
黒パンを千切って浸す。
硬かったパンが汁を吸う。
豆。
脂。
塩。
香草。
全部を吸う。
旨い。
非常に。
ペペはもう二杯目だった。
「早くないか?」
「昼飯は戦いだ」
「誰と戦ってる」
「鍋の底」
ディエゴが呆れた。
---
さらに、小さな木皿へチーズが置かれた。
表面は硬い。
色は淡い黄色。
端の方が少し乾いている。
ゴメスは一切れ切った。
噛む。
硬い。
だが噛んでいるうちに乳の濃さが出てくる。
塩気もある。
少し癖がある。
酒が欲しくなる味だった。
「これ、いつのだ?」
ゴメスが聞いた。
アルバロが答えた。
「去年」
ゴメスの手が止まった。
「去年?」
「去年の秋だったか」
ゴメスはチーズを見る。
もう一口食べた。
旨い。
「去年の食い物がまだ食えるのか」
「チーズだからな」
アルバロは平然としている。
「干し肉もある。塩漬け肉もある。豆も麦も、ちゃんと置けば持つ」
ゴメスは口の中のチーズをゆっくり噛んだ。
去年。
去年の乳が、今日の自分の腹に入っている。
妙な感じだった。
船の上では、食料は減っていくものだった。
積んだ水が減る。
パンが減る。
肉が減る。
酒が減る。
港へ着けば補給する。
それだけだった。
だが倉庫は違う。
食べ物を置いている。
今日食べないものを。
明日。
来月。
あるいは来年のために。
「倉庫って」
ゴメスが言った。
「なんだ?」
「食い物を置いてるんじゃないんだな」
アルバロが眉を上げた。
「じゃあ何を置いてる」
ゴメスはチーズをもう一切れ切った。
少し考える。
「……時間?」
アルバロの手が止まった。
ディエゴもゴメスを見る。
ペペだけは三杯目の豆を食っていた。
「去年のものを、今日食えるようにしてる」
ゴメスはチーズを掲げた。
「だったら、時間を置いてるようなもんじゃないか?」
アルバロはしばらく黙っていた。
やがて鼻で笑った。
「水兵にしては妙なことを言う」
「最近よく言われる」
「褒めてない」
「そうか」
ゴメスはチーズを食べた。
旨かった。
それで十分だった。
---
午後。
仕事を再開した直後だった。
倉庫の奥から声が上がった。
「アルバロ!」
若い倉庫番が走ってきた。
顔が青い。
「どうした」
「三番列です」
「何があった」
「麦が……」
アルバロの顔が変わった。
先ほどまでの面倒臭そうな老人の顔ではない。
棒を掴み、そのまま倉庫の奥へ歩き出す。
ゴメスたちも顔を見合わせた。
「行くか?」
ゴメスが言った。
「麦運びは?」
ディエゴが言う。
「気になる」
「だろうな」
結局ついていった。
---
三番列。
去年の麦が積まれている区画だった。
アルバロが袋を触る。
眉を寄せる。
棒を差す。
抜く。
先端を指で擦る。
匂いを嗅ぐ。
そして顔をしかめた。
「下ろせ」
「全部ですか?」
「下から三段。急げ」
荷役人たちが麦袋を動かす。
一つ。
二つ。
三つ。
下の袋が見えた。
ゴメスにも分かった。
色が違う。
袋の底が、わずかに黒ずんでいる。
アルバロがしゃがむ。
触る。
「湿ってる」
倉庫番たちの顔が強張った。
麦袋を一つ開ける。
中から麦を掬う。
表面は普通だった。
だが底に近い部分。
そこだけ少し湿っている。
匂いも違う。
乾いた麦の香りではない。
土のような。
古い布のような。
嫌な匂い。
「雨漏りか?」
誰かが言った。
アルバロは天井を見た。
「違う」
「壁ですか?」
「壁も濡れてない」
ゴメスも上を見る。
屋根は乾いている。
壁も乾いている。
なのに麦袋は湿っている。
「床か?」
ゴメスが言った。
アルバロが床へ手を置いた。
石ではない。
木板。
その隙間。
老人の指が止まった。
「板を上げろ」
工具が持ってこられる。
釘を抜く。
板を持ち上げる。
その下から――
冷たい湿気が上がってきた。
そして。
水。
ほんの僅かだった。
床下に水が溜まっている。
「なんでだ?」
ゴメスはしゃがんだ。
外の排水溝は流れていた。
朝、自分で見た。
詰まっていなかった。
なのに倉庫の下には水がある。
アルバロの顔が険しくなる。
「裏を見ろ!」
人が走る。
ゴメスも走った。
倉庫の裏。
壁際。
排水路。
水は流れている。
だが、アルバロは地面を睨んでいた。
ゴメスも見る。
そこで気づいた。
「……こっちの方が低くないか?」
倉庫の角。
最近、荷車が何度も通った場所。
地面が深く轍になっている。
昨夜降ったわずかな雨。
洗い水。
こぼれた水。
それらが轍を伝って倉庫の壁際へ集まっている。
排水溝まで行かずに。
「掘れ!」
アルバロが叫んだ。
鍬が持ってこられる。
土を削る。
浅い溝を一本。
倉庫から排水路まで繋ぐ。
最後の土を崩した瞬間。
ちょろちょろ。
水が流れ始めた。
泥水だった。
ほんの少し。
だが、その少しが毎日、毎日、倉庫の下へ入り込んでいたのだ。
---
ゴメスは流れる水を見ていた。
朝。
排水溝は綺麗だった。
だから大丈夫だと思った。
違った。
排水溝が綺麗でも。
そこまで水が来なければ意味がない。
「面倒だな」
ゴメスが呟いた。
アルバロが横に立った。
「ああ」
「倉庫」
「ああ」
「置くだけじゃないんだな」
「最初からそう言ってる」
ゴメスは振り返った。
倉庫を見る。
大きな建物。
たくさんの麦。
酒。
豆。
肉。
油。
布。
去年のもの。
今年のもの。
明日のためのもの。
そして、それを守る人間。
屋根。
壁。
床。
溝。
鍵。
帳簿。
見張り。
どれか一つが駄目になれば。
中身まで駄目になる。
「なあ、アルバロ」
「今度は何だ」
「もし、この倉庫が駄目になったら?」
老人がゴメスを見る。
「どういう意味だ」
「火事とか」
「縁起でもない」
「嵐とか」
「やめろ」
「屋根が飛ぶとか」
「黙れ」
「全部ここに置いてたら、全部なくなるよな?」
アルバロは答えなかった。
ゴメスも、それ以上は言わなかった。
まだ考えがまとまっていない。
ただ。
なんとなく。
一つの場所へ全部置くというのは。
便利ではあるが。
少し怖い。
そんな気がした。
---
その日の夕方。
仕事を終えたゴメスたちは酒場へ向かった。
ペペが先頭だった。
当然だった。
「今日は何食う」
ペペが聞いた。
「まだ店にも着いてないぞ」
ディエゴが言った。
「だから考えるんだ」
「仕事中も考えてただろ」
「仕事と飯は別だ」
ゴメスは二人の後ろを歩きながら、港を見た。
倉庫。
井戸。
市場。
灯台。
船。
酒場。
排水溝。
縄屋。
樽屋。
人。
今まで全部、別々のものに見えていた。
最近。
少し違って見える。
繋がっている。
麦は船で来る。
人が降ろす。
倉庫へ入る。
倉庫が守る。
パン屋へ行く。
パンになる。
人が食う。
その人間が船を動かす。
船がまた麦を運んでくる。
ぐるぐる回っている。
どこか一つが止まれば。
たぶん。
他も困る。
「ゴメス」
ディエゴが振り返った。
「なんだ」
「また難しい顔してるぞ」
「そうか?」
「腹でも痛いのか?」
「違う」
「なら何だ」
ゴメスは少し考えた。
そして言った。
「倉庫って面倒だなって」
ディエゴは黙った。
「……酒場へ行こう」
「ああ」
それが一番だった。
---
### アルバロの記録
あの水兵がまた来た。
ゴメスとかいう男だ。
質問が多い。
非常に多い。
倉庫とは何か。
なぜ新しい麦を奥へ置くのか。
なぜ床を見るのか。
なぜ湿るのか。
なぜ分けて置くのか。
なぜ一つの倉庫へ全部置くのか。
最後の質問だけは答えなかった。
正確には。
答えられなかった。
昔からそうしている。
大きな倉庫へ集める方が管理しやすい。
見張りも少なくて済む。
帳簿も一つでいい。
人足も集めやすい。
商人もここへ来ればいい。
だから、ここへ集める。
正しい。
少なくとも、ずっとそうしてきた。
だが。
火が出たら。
あの水兵が言った通りだ。
全部ここにある。
……余計なことを考えさせる男だ。
明日、倉庫の火桶を確認させよう。
それから屋根も。
あと、裏の地面を直す。
あの轍は埋めなければならない。
それと。
鼠捕りを増やす。
別に、あの水兵に言われたからではない。
――倉庫番アルバロ
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### 後世の『骨樽港湾史・倉庫制度成立以前』より
骨樽勢力における倉庫制度を論じる際、研究者がしばしば引用する記録がある。
ゴメスの航海日誌に残された、極めて短い一文である。
> 倉庫は物を置く場所ではない。
>
> 明日の分を、今日守る場所だ。
後世の骨樽港では、食料・火薬・帆布・木材・医薬品などの重要物資を一箇所へ集中させることを避けた。
主倉庫。
副倉庫。
商人倉庫。
船舶備蓄。
非常用備蓄。
さらに、港外にも一定量を分散した。
現代的な意味での危険分散思想を、ゴメスがこの時点で完成させていたと見る研究者もいる。
ただし、その解釈には注意が必要である。
当時のゴメスに、そこまで体系的な思想があった証拠はない。
彼はまだ一介の水兵だった。
会計も知らない。
倉庫経営も知らない。
行政権もない。
そもそも自分の港すら持っていない。
ただし。
彼がこの日、
「全部ここに置いていたら、全部なくなるよな?」
と倉庫番へ尋ねたことだけは、複数の記録で一致している。
後世の骨樽港において有名になる言葉、
**「一つしかないものは、もう失ったものと思え」**
その思想の起源をどこに求めるかについては、現在も議論が続いている。
少なくとも。
その日のゴメスが考えていたことは、もう一つ記録されている。
航海日誌の同じ頁。
倉庫についての記述の下に、別の一文がある。
> 去年のチーズは旨かった。
>
> 倉庫は偉い。
歴史とは、往々にしてその程度のところから始まるのである。