銀では腹は膨らまない ~ゴメス暴走記録~   作:ヒツジ(ラム肉

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航海日誌

倉庫には食い物がある。

昨日知った。

どこにあるか分からなければ、

ないのと同じらしい。

今日。

もう一つ知った。

どこにあるか分かっていても、

食えないことがある。

これは困る。

目の前に麦がある。

腹が減っている。

でも食えない。

ペペには見せない方がいい。

――ゴメス



第二十一話 後編 あるのに使えない

 

 

その日の朝。

 

海が荒れていた。

 

嵐というほどではない。

 

だが、港の外には白い波頭が立っている。

 

風が強い。

 

雲が低い。

 

岸壁へ打ちつけた波が砕け、細かな飛沫になって石畳へ飛んでくる。

 

帆船の索具が鳴っていた。

 

ひゅう。

 

ぎい。

 

ばたばた。

 

縄が軋み。

 

帆が暴れ。

 

船体が岸壁へ寄っては離れる。

 

港の人間は空をよく見る。

 

漁師。

 

船乗り。

 

荷役人。

 

商人。

 

灯台守。

 

誰もが一度は沖を見る。

 

ゴメスも見た。

 

最近は、海を見る時にも船だけを見なくなった。

 

波。

 

風。

 

雲。

 

岸壁。

 

灯台。

 

人間。

 

そして。

 

どこへ船を入れるか。

 

「来るぞ」

 

誰かが言った。

 

ゴメスは目を細めた。

 

沖。

 

一隻。

 

小さな商船が揺れている。

 

帆をかなり縮めていた。

 

船首が波を叩くたび、白い飛沫が上がる。

 

「入港する気か?」

 

ディエゴが言った。

 

「するだろ」

 

「この風で?」

 

「外にいるよりマシだ」

 

確かにそうだった。

 

船はゆっくり港口へ向かってくる。

 

灯台から旗が上がる。

 

岸壁でも人が動く。

 

係留場所を空ける。

 

縄を用意する。

 

荷車をどける。

 

水先案内に慣れた男が岸壁の先へ走る。

 

港というものは。

 

船が来てから動くのではない。

 

船が来そうだと分かった時点で動き始める。

 

ゴメスはそれを見るようになっていた。

 

---

 

「縄!」

 

声が飛ぶ。

 

投げ綱。

 

受け取る。

 

引く。

 

太い係留索が渡される。

 

人足が数人がかりで引いた。

 

船が波に押される。

 

縄が張る。

 

ぎりぎり。

 

ぎぎぎ。

 

木が軋む。

 

「引け!」

 

「今だ!」

 

「巻け!」

 

ゴメスも縄へ手をかけた。

 

掌に粗い繊維が食い込む。

 

身体を後ろへ倒す。

 

船が寄る。

 

また離れる。

 

さらに引く。

 

係留柱へ回す。

 

一度。

 

二度。

 

締める。

 

ようやく船が岸壁へ落ち着いた。

 

完全に静かになったわけではない。

 

波に合わせて、ゆっくり上下している。

 

「ふう」

 

ゴメスが息を吐いた。

 

隣でペペも息を吐く。

 

「腹減った」

 

「今ので?」

 

「働いた」

 

「朝飯食ったばかりだろ」

 

「朝飯は朝起きた俺の分だ」

 

またそれか。

 

最近ペペの食事理論には一貫性が出てきた。

 

困ったことだった。

 

---

 

船から最初に降りてきたのは船長だった。

 

四十ほど。

 

濡れた外套。

 

髭から水が垂れている。

 

顔が疲れていた。

 

「予定外の入港だ」

 

港役人に言う。

 

「どこからだ?」

 

「南から」

 

「積荷は?」

 

「陶器と油。それより水と食料が欲しい」

 

船長は振り返った。

 

甲板。

 

船員たちがいる。

 

疲れている。

 

何人かは座り込んでいた。

 

「何日分だ?」

 

「水は二日分残っている。食料が厳しい」

 

「何があった」

 

「風に押された。三日遅れた」

 

三日。

 

海では三日は長い。

 

三日分の水。

 

三日分のパン。

 

三日分の肉。

 

三日分の薪。

 

予定より航海が三日延びれば。

 

全部が三日分余計に減る。

 

船長が言った。

 

「麦でもパンでもいい。豆も欲しい。塩肉があれば助かる」

 

港役人が頷く。

 

「商人に聞こう」

 

ゴメスはその言葉を聞いた。

 

倉庫を見る。

 

昨日。

 

山ほど見た。

 

麦。

 

豆。

 

肉。

 

ある。

 

大量にある。

 

だったら簡単だと思った。

 

---

 

簡単ではなかった。

 

---

 

「駄目だ」

 

最初の商人が言った。

 

太った男だった。

 

名をセバスティアンという。

 

ゴメスたちが昨日運んだ麦の一部は、この男のものだった。

 

「なぜだ?」

 

港役人が聞く。

 

「売約済みだ」

 

「少しでいい」

 

「駄目だ」

 

「船一隻分だぞ」

 

「だから駄目だ」

 

セバスティアンは倉庫の中を指した。

 

「その麦は北へ送る。買い手から前金を受け取っている」

 

「だが、まだここにある」

 

ゴメスが言った。

 

セバスティアンがゴメスを見る。

 

「誰だ、お前」

 

「水兵」

 

「なら黙ってろ」

 

「最近よく言われる」

 

ディエゴが後ろで顔を伏せた。

 

ゴメスは続けた。

 

「麦、あるだろ」

 

「ある」

 

「売ればいい」

 

「もう売ってある」

 

「ここにあるのに?」

 

「ここにあるが、俺の好きに売っていい麦ではない」

 

ゴメスは眉を寄せた。

 

分からない。

 

麦は目の前にある。

 

セバスティアンの倉庫にある。

 

だがセバスティアンは売れないという。

 

「じゃあ誰の麦なんだ?」

 

「買い手のものだ」

 

「買い手はどこにいる」

 

「北だ」

 

ゴメスは北を見た。

 

当然。

 

買い手は見えなかった。

 

「いないじゃないか」

 

「そういう話ではない!」

 

怒られた。

 

---

 

次の商人。

 

豆はある。

 

だが量が少ない。

 

来週、別の船へ積む予定。

 

三人目。

 

塩肉はある。

 

ただし値段が高い。

 

船長が顔をしかめた。

 

四人目。

 

麦はある。

 

だが港のパン屋と契約済み。

 

五人目。

 

干し魚なら売れる。

 

しかし船員たちはパンも欲しい。

 

倉庫には食料がある。

 

本当にある。

 

昨日ゴメスは見た。

 

今日も見える。

 

袋が積まれている。

 

樽もある。

 

肉もある。

 

豆もある。

 

なのに。

 

なかなか船へ行かない。

 

「変だな」

 

ゴメスが言った。

 

ディエゴが答える。

 

「何が」

 

「腹減ってる奴がいる」

 

「ああ」

 

「食い物がある」

 

「ああ」

 

「でも食えない」

 

「ああ」

 

「変だろ」

 

「世の中そんなもんだ」

 

ゴメスはその答えが気に入らなかった。

 

世の中そんなもの。

 

便利な言葉だった。

 

何にでも使える。

 

だが。

 

それで腹は膨れない。

 

---

 

ペペが麦袋を見ていた。

 

「ペペ」

 

「なんだ」

 

「駄目だぞ」

 

「何が」

 

「食うな」

 

「食わん」

 

珍しい。

 

「俺だって分かる」

 

ペペは船の方を見る。

 

疲れた船員たち。

 

「腹減ってる時に、目の前に食い物があるのに食えんのは辛い」

 

ゴメスは少し驚いた。

 

ペペがまともなことを言った。

 

「なんだ」

 

ペペが睨む。

 

「いや」

 

「俺だって考える」

 

「そうか」

 

「腹のことなら」

 

やはりペペだった。

 

---

 

交渉は続いた。

 

結局。

 

麦は三人の商人から少量ずつ買うことになった。

 

豆は二人。

 

塩肉は一人。

 

干し魚は別の商人。

 

パンは港のパン屋へ急ぎで焼いてもらう。

 

水は共同井戸と水商人。

 

薪は倉庫ではなく材木商から。

 

一隻の船へ食料を積むだけ。

 

それなのに。

 

港役人が走る。

 

商人が走る。

 

使いが走る。

 

帳簿が開く。

 

値段が決まる。

 

銀貨が動く。

 

印が押される。

 

倉庫番が荷物を出す。

 

人足が運ぶ。

 

ゴメスはその様子を見ていた。

 

昨日。

 

倉庫は時間を貯める場所だと思った。

 

その次に。

 

帳簿は、物がどこにあるか覚えておく場所だと思った。

 

そして今日。

 

さらに何かがある。

 

物がある。

 

場所も分かる。

 

数も分かる。

 

それでも。

 

勝手には動かせない。

 

「誰のものか」

 

ゴメスが呟いた。

 

「ん?」

 

ディエゴが聞く。

 

「誰のものか分からないと駄目なんだな」

 

「そりゃそうだろ」

 

「面倒だ」

 

「世の中の物を全部お前が勝手に使えたら困るだろ」

 

「それもそうだ」

 

納得した。

 

しかし。

 

別の疑問が出た。

 

「じゃあ、急ぐ時は?」

 

ディエゴが黙った。

 

「船が沈みそうな時」

 

「……」

 

「火事の時」

 

「……」

 

「飢えた時」

 

「それは」

 

ディエゴは言葉を探した。

 

「その時、持ち主を探して、値段決めて、帳簿開いて、銀貨数えるのか?」

 

「普通は……」

 

ディエゴは倉庫を見る。

 

「そうするんじゃないか?」

 

ゴメスも倉庫を見る。

 

「間に合わなかったら?」

 

答えはなかった。

 

---

 

昼をかなり過ぎて。

 

ようやく食料が集まった。

 

船員たちへ、先に食事が出された。

 

港の食堂から運ばれてきた大鍋。

 

湯気。

 

匂い。

 

それだけで、船員たちの顔が変わった。

 

中身は麦粥だった。

 

麦を柔らかく煮ている。

 

豆。

 

刻んだ玉葱。

 

人参。

 

細切れの塩肉。

 

豪華ではない。

 

むしろ港ではありふれた飯だ。

 

だが。

 

空腹の船員には御馳走だった。

 

木椀へ盛る。

 

湯気が立つ。

 

船員の一人が受け取った。

 

最初の一匙。

 

熱かったのだろう。

 

口を少し開ける。

 

それでも飲み込む。

 

二匙目。

 

三匙目。

 

速度が上がる。

 

誰も喋らない。

 

匙が椀へ当たる音だけがする。

 

から。

 

こつ。

 

から。

 

こつ。

 

ゴメスも一杯もらった。

 

匙を入れる。

 

麦は水を吸って膨らんでいる。

 

噛むと、柔らかな粒が潰れる。

 

豆はさらに柔らかい。

 

玉葱の甘さ。

 

塩肉の強い塩気。

 

人参。

 

脂。

 

黒胡椒がほんの少し。

 

派手な味ではない。

 

だが身体に落ちる。

 

腹へ。

 

熱が入る。

 

風に吹かれて冷えていた身体が、内側から戻ってくる。

 

「旨い」

 

ゴメスが言った。

 

隣の船員が頷いた。

 

「三日ぶりにまともな飯だ」

 

ゴメスの匙が止まった。

 

「三日?」

 

「最後のパンは昨日の朝だ」

 

「その後は?」

 

「干し豆を煮た。薪も惜しかったから半生だ」

 

男は笑った。

 

「旨くなかった」

 

ゴメスは粥を見る。

 

麦。

 

豆。

 

肉。

 

昨日。

 

倉庫で山ほど見たもの。

 

ただの荷物だった。

 

今は。

 

人間を温めている。

 

---

 

ペペが二杯目をもらっていた。

 

遭難しかけた船員と同じ速度で食っている。

 

「お前は三日食ってなかったのか?」

 

ディエゴが聞いた。

 

「昼飯が遅れた」

 

「数時間だ」

 

「俺には長かった」

 

「遭難者と並ぶな」

 

船員たちが笑った。

 

ようやく。

 

少しだけ空気が緩んだ。

 

---

 

午後。

 

積み込みが始まった。

 

麦。

 

豆。

 

干し魚。

 

塩肉。

 

パン。

 

水。

 

薪。

 

油。

 

ゴメスも運んだ。

 

麦袋を担ぐ。

 

昨日と同じ重さ。

 

だが少し違って感じた。

 

昨日は倉庫へ入れた。

 

今日は倉庫から出す。

 

入れるのにも理由がある。

 

出すのにも理由がある。

 

誰の物か。

 

どこへ行くか。

 

いくらか。

 

何のためか。

 

「おい」

 

アルバロが呼んだ。

 

「ゴメス」

 

「なんだ」

 

老人は帳簿を持っている。

 

その横にトマス。

 

「麦十二袋」

 

「ある」

 

「豆四袋」

 

「ある」

 

「干し魚二樽」

 

「ある」

 

「塩肉一樽」

 

「ある」

 

一つずつ。

 

帳簿。

 

木札。

 

現物。

 

三つを見る。

 

昨日の失敗が効いている。

 

ゴメスは少し笑った。

 

「何だ」

 

アルバロが睨む。

 

「いや」

 

「言え」

 

「昨日より面倒になったな」

 

「誰のせいだと思ってる」

 

「トマス?」

 

「お前だ!」

 

トマスが横で激しく頷いた。

 

理不尽だった。

 

---

 

積み込みが終わる。

 

船長が港役人へ銀貨を渡した。

 

商人への支払い。

 

パン屋への支払い。

 

水。

 

薪。

 

手数料。

 

船長の財布はかなり軽くなったようだった。

 

「助かった」

 

船長が言う。

 

「次の港まで持つ」

 

港役人が頷く。

 

「風が落ちるまで出るな」

 

「分かってる」

 

「二日もすればマシになる」

 

「その間に船も見てもらう」

 

ゴメスはその会話を聞きながら、船へ積まれた食料を見る。

 

助かった。

 

確かに助かった。

 

だが。

 

時間がかかった。

 

もし。

 

もっと急いでいたら。

 

もし。

 

船員が三日ではなく五日食べていなかったら。

 

もし。

 

一隻ではなく。

 

十隻来たら。

 

もし。

 

嵐で港の外から食料が来なくなったら。

 

もし。

 

戦争になったら。

 

もし。

 

ゴメスは頭を振った。

 

「どうした」

 

ディエゴが聞いた。

 

「考えることが増えた」

 

「考えるのをやめろ」

 

「できればそうしたい」

 

本当にそう思った。

 

---

 

その夜。

 

ゴメスたちは酒場にいた。

 

当然だった。

 

今日の夕食は豚だった。

 

厚切り。

 

炭火。

 

塩。

 

香草。

 

それだけ。

 

焼き網へ置かれた肉から脂が落ちる。

 

じゅっ。

 

火が上がる。

 

煙。

 

焦げた脂の匂い。

 

豚肉の甘い香り。

 

ペペが焼き台を凝視している。

 

「見るな」

 

ディエゴが言った。

 

「見るくらいいいだろ」

 

「肉が怯える」

 

「肉はもう死んでる」

 

正論だった。

 

皿へ置かれた豚肉。

 

縁は焦げている。

 

表面はこんがり。

 

ナイフを入れる。

 

ざく。

 

中から肉汁。

 

ゴメスは大きめに切った。

 

口へ。

 

最初に焦げた脂。

 

次に塩。

 

噛む。

 

肉の弾力。

 

さらに噛むと脂の甘さが広がる。

 

香草の匂いが鼻へ抜ける。

 

黒パンを齧る。

 

葡萄酒。

 

飲む。

 

肉。

 

パン。

 

酒。

 

非常に良い。

 

「なあ」

 

ゴメスが言った。

 

ディエゴが嫌そうな顔をした。

 

「飯くらい黙って食え」

 

「今日の船」

 

「何だ」

 

「食料買っただろ」

 

「ああ」

 

「いろんな商人から」

 

「ああ」

 

「最初から、困った船に売る分を少しだけ取っておいたら駄目なのか?」

 

ディエゴが肉を噛みながら考える。

 

「誰が金を出す」

 

「……港?」

 

「港の誰だ」

 

ゴメスが止まる。

 

確かに。

 

港は人間ではない。

 

財布を持っていない。

 

「商人?」

 

「商人が、自分の麦を売らずに置いておくのか?」

 

「金払えば」

 

「誰が?」

 

また戻った。

 

ゴメスは酒を飲んだ。

 

「面倒だな」

 

「だからそう言ってる」

 

「じゃあ皆で少しずつ金を出すとか」

 

「嫌がる奴もいるだろ」

 

「使わなかったら?」

 

「腐るかもしれない」

 

「古くなる前に売る」

 

「誰が管理する」

 

「倉庫番」

 

「仕事が増える」

 

ゴメスはアルバロの顔を思い出した。

 

怒るだろう。

 

非常に。

 

「じゃあ……」

 

「まだやるのか」

 

「困った時に使ったら、後で返してもらう」

 

ディエゴの手が止まった。

 

「何を?」

 

「食料か銀」

 

「返さなかったら?」

 

「次から貸さない」

 

「船が沈んだら?」

 

「……困る」

 

「船主が逃げたら?」

 

「もっと困る」

 

「偽物の船名だったら?」

 

「非常に困る」

 

ディエゴは葡萄酒を飲んだ。

 

「だから商売には信用がいる」

 

「信用」

 

「こいつなら後で払う。こいつなら返す。そう思えなきゃ貸せん」

 

ゴメスはその言葉を噛んだ。

 

信用。

 

食えない。

 

触れない。

 

樽にも入らない。

 

だが。

 

それがなければ。

 

目の前に食料があっても動かない。

 

また。

 

食えないものが飯を動かしている。

 

「手紙みたいだな」

 

「何が?」

 

「食えないのに人を動かす」

 

ディエゴは少し笑った。

 

「まあ、似たようなものかもな」

 

ゴメスは肉を食った。

 

考える。

 

港には。

 

見えるものと。

 

見えないものがある。

 

船。

 

倉庫。

 

樽。

 

縄。

 

井戸。

 

麦。

 

肉。

 

それは見える。

 

だが。

 

帳簿。

 

約束。

 

信用。

 

誰のものか。

 

誰が誰に払うのか。

 

そういうものは見えない。

 

なのに。

 

見えるものを動かしている。

 

「港って」

 

ゴメスが言った。

 

「今度は何だ」

 

「見えないもの多いな」

 

ディエゴは少し考えた。

 

「そうかもな」

 

ペペが三枚目の豚肉を受け取った。

 

「肉は見える」

 

「ああ」

 

「だから肉は信用できる」

 

「お前はそれでいい」

 

三人は食った。

 

---

 

翌朝。

 

ゴメスはまた倉庫の前を通った。

 

仕事ではない。

 

たまたまだ。

 

本当だ。

 

アルバロがいた。

 

「おい」

 

呼ばれた。

 

「なんだ」

 

「これを見ろ」

 

倉庫の入口。

 

壁。

 

小さな板が掛けられていた。

 

そこには簡単な文字。

 

**非常用**

 

ゴメスは読む。

 

「何だこれ」

 

「昨日余った乾パンと豆だ」

 

「売らないのか?」

 

「売る」

 

「非常用じゃないのか」

 

「古くなる前にな」

 

アルバロは不機嫌そうに言った。

 

「常に少しだけ新しいものと入れ替える」

 

ゴメスは棚を見る。

 

大量ではない。

 

袋が数個。

 

乾パン。

 

豆。

 

干し魚。

 

水樽。

 

「誰の?」

 

「港役人と商人が相談中だ」

 

「まだ決まってないのか」

 

「お前が昨日余計なことを言うからだ」

 

「俺?」

 

「船一隻止まりかけただろ」

 

「止まってない」

 

「次は止まるかもしれん」

 

アルバロは鼻を鳴らした。

 

「とりあえず昨日の残りを置いただけだ」

 

「勝手に?」

 

「帳簿には書いた!」

 

中編の傷は深かった。

 

ゴメスは頷いた。

 

「ならいい」

 

「なぜお前が確認する!」

 

また怒られた。

 

---

 

ゴメスは非常用の棚を見た。

 

小さい。

 

港全体から見れば。

 

本当に小さい。

 

たった数日。

 

いや。

 

一隻なら数日。

 

十隻ならすぐなくなる。

 

港全体が飢えれば。

 

何の役にも立たないかもしれない。

 

それでも。

 

昨日はなかった。

 

今日はある。

 

「これ」

 

ゴメスが言った。

 

「なんだ」

 

「誰も使わなかったら?」

 

「古くなる前に普通に売ると言っただろ」

 

「それで新しいの入れる?」

 

「そうだ」

 

「なら腐らない」

 

「そうだ」

 

「金も全部無駄にならない」

 

「たぶんな」

 

「困った時は使える」

 

「そうだ」

 

ゴメスは考えた。

 

少し置く。

 

使わなければ入れ替える。

 

困った時だけ使う。

 

簡単なような。

 

面倒なような。

 

「いいな、これ」

 

ゴメスが言った。

 

アルバロが嫌そうな顔をした。

 

「お前が気に入ると不安になる」

 

「なんでだ」

 

「もっと増やせと言いそうだからだ」

 

ゴメスは棚を見た。

 

乾パン。

 

豆。

 

干し魚。

 

水。

 

少ない。

 

「もう少し――」

 

「言うな!」

 

先に怒られた。

 

---

 

### 船長エステバンの記録

 

予定外の入港。

 

食料不足。

 

港内に食料在庫は十分存在していたが、調達には時間を要した。

 

理由。

 

所有者が異なるため。

 

既に売約された物資が多いため。

 

価格交渉が必要なため。

 

港役人の仲介により必要量を確保。

 

船員への食事提供あり。

 

非常に助かった。

 

特記。

 

港の水兵と思われる男が、倉庫前で商人に向かって、

 

「あるのになんで食えない?」

 

と何度も尋ねていた。

 

商人は非常に苛立っていた。

 

しかし。

 

私も同じことを考えていた。

 

海上では、銀貨を食うことはできない。

 

港に着けば銀貨で食料を買えると思っていた。

 

だが。

 

食料があっても。

 

売ってもらえなければ買えない。

 

売ってもらえても。

 

集めるのに半日かかれば。

 

急ぐ時には間に合わない。

 

港とは。

 

物が集まる場所ではなく。

 

物を動かせる場所でなければならないのだろう。

 

なお。

 

例の水兵はその後、我々に出された麦粥を普通に食っていた。

 

遭難したのは我々である。

 

なぜあいつも食っていたのかは分からない。

 

――商船長エステバン

 

---

 

### 後世の『骨樽港湾史・備蓄制度と港湾信用』より

 

骨樽港の非常備蓄制度について、その起源を大規模な飢饉や戦争に求める説は長く支持されていた。

 

現在では否定されている。

 

最古の記録は。

 

一隻の商船である。

 

予定より三日遅れ。

 

食料を消耗し。

 

荒天を避けるため港へ入った。

 

港には十分な食料があった。

 

にもかかわらず。

 

船員たちが食事を得るまでには長い時間を要した。

 

理由は単純だった。

 

**食料には持ち主がいたからである。**

 

これは当然のことである。

 

所有権を無視して物資を徴発すれば、商人はその港を信用しなくなる。

 

商人が来なくなれば。

 

物資も来なくなる。

 

ゆえに後世の骨樽港も、非常時を除き私有財産への強制的な介入を慎重に避けている。

 

一方。

 

緊急時に毎回、所有者を探し。

 

交渉し。

 

価格を決め。

 

支払いを確認していては。

 

間に合わない場合がある。

 

この矛盾に対する骨樽式の回答が、

 

**平時に非常時の分を買っておく**

 

という、極めて単純な制度だった。

 

ただし。

 

備蓄を積み上げて放置すれば腐る。

 

そこで。

 

古い物資を平時の市場へ払い出し。

 

同量の新しい物資を購入する。

 

備蓄そのものを循環させる方式が採用された。

 

後にこれは食料だけでなく。

 

水。

 

薪。

 

縄。

 

帆布。

 

医薬品。

 

釘。

 

木材。

 

ランプ油。

 

その他の重要物資へ拡大する。

 

さらに複数倉庫への分散。

 

複数帳簿。

 

定期的な現物確認。

 

緊急時の払い出し権限。

 

利用後の精算。

 

船主・商人・港湾当局間の信用記録。

 

これらが組み合わされ。

 

後世「骨樽式港湾備蓄」と総称される制度へ発展した。

 

しかし。

 

この時点でゴメスが考えていたのは、そこまで複雑なものではない。

 

彼の航海日誌にはこうある。

 

> 腹が減ってから飯を探すと遅い。

>

> 少し先に置いておけばいい。

>

> 腐る前に食えばいい。

>

> 食ったら新しいのを置けばいい。

>

> 難しいことではないと思う。

>

> アルバロは難しいと言った。

>

> 商人も難しいと言った。

>

> ディエゴも難しいと言った。

>

> たぶん俺が何か分かっていない。

 

この最後の一文について。

 

後世の研究者は高く評価している。

 

ゴメスはこの段階で、自らの案が正しいと決めつけていない。

 

現場へ問い。

 

反論を受け。

 

失敗を見て。

 

また考える。

 

後の骨樽制度に見られる、

 

**「まず小さく試せ」**

 

という性格は、すでにこの時期から確認できる。

 

もっとも。

 

同じ頁の末尾には、

 

> 豚肉は旨かった。

>

> 脂は多い方がいい。

>

> ペペは食いすぎた。

>

> 非常用食料をあいつの近くに置くべきではない。

 

とも記されている。

 

この判断については。

 

後世の研究者も概ね同意している。

 

---

 

### 第二十一話 倉庫

 

ゴメスはこの日まで。

 

倉庫とは。

 

物を置く場所だと思っていた。

 

違った。

 

物を腐らせず。

 

失くさず。

 

数え。

 

記録し。

 

必要な時まで守り。

 

必要な時に取り出し。

 

誰の物かを知り。

 

誰へ渡せるかを決め。

 

もしもの時の分を残す。

 

それが倉庫だった。

 

港には。

 

船より目立たないものがたくさんある。

 

だが。

 

目立たないものほど。

 

止まった時に目立つ。

 

ゴメスはまだ。

 

自分の港を持っていない。

 

持とうとも思っていない。

 

ただ。

 

港を歩くたび。

 

一つずつ。

 

「俺ならどうする」

 

が増えていた。

 

本人だけが。

 

まだ。

 

それを知らなかった。

 

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