帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第一話 雪の匂い

 雪の日の基地は、どこか学校に似ていた。

 朝礼前の校庭みたいに白くて、誰かが踏んだ足跡だけが黒く残って、建物の窓という窓が内側から曇っている。違うのは、校庭に置かれているのがサッカーゴールではなく古い輸送車で、体育倉庫の代わりに弾薬庫があって、チャイムの代わりにときどき遠くの砲声が鳴ることだった。

 砲声は、最初のうちは雷に似ている。

 慣れてくると違う。

 雷は空から落ちてくるが、砲声は地面の奥から咳をする。

 ごほっ、と一度だけ。

 それから何もなかったみたいに、基地の中にはまた雪の音が戻ってくる。

 雪に音なんかないはずなのに、ずっと聞いていると、しんしん、という言葉を考えた人間はたぶん一度くらい前線基地にいたのだと思えてくる。

 カナタ・レイヴンは、凍った手袋を口元に当てて息を吹きかけた。

 手袋は温かくならなかった。

 ただ少しだけ、湿った。

「悪化した」

 自分で言って、少しだけ馬鹿らしくなった。

 ヴァルト皇国北部補給基地《ノイン二三》。

 名前だけ聞くと堅牢な要塞みたいだが、実物は倉庫と車庫と仮設兵舎を雪で接着したような場所だった。あちこちから灯油の匂いがして、廊下には濡れた軍靴の跡があり、食堂の壁には一ヶ月前の日付の献立表が貼られたままになっている。

 今日の朝食は、薄い豆のスープと、乾パンと、よく分からない肉の缶詰。

 肉かどうかも怪しい。

 でも温かい。

 だから皆、文句を言いながら食べる。

「おい学生」

 後ろから声がした。

 カナタが振り向くと、ガレス副長が輸送車の陰に立っていた。

 無精髭。

 くたびれたコート。

 火のついていない煙草。

 この三つが揃うと、ガレスという人間になる。

「また出口見てんのか」

「見てません」

「嘘つけ。今、車庫の裏口と南側道路と雪捨て場の柵を見た」

「見てますね」

「だろ」

 ガレスは煙草を咥え直した。

 火はつけない。

 というか、つかない。

 何度か試しているのを見たことがあるが、だいたい風か雪か湿気に負けている。

「癖か」

「たぶん」

「いい癖だ」

「そうですか」

「悪い癖でもある」

「どっちですか」

「生きて帰れたらいい癖。帰れなかったら悪い癖」

 ガレスはそう言って、輸送車のタイヤを蹴った。

 タイヤは鈍い音を立てた。

 何かの病人を診察しているみたいだった。

「三号車、また空気抜けてるな」

「走れます?」

「走るか走らないかなら走る」

「帰れます?」

 ガレスは少しだけ黙った。

 それから煙草を上下させた。

「嫌な訊き方すんな」

 その答えだけで十分だった。

 基地では朝から車両点検をしていた。

 第七混成機動群。

 補給と護衛と撤収支援をまとめて押し込まれた、名前だけはそれっぽい部隊。

 カナタはここに配属されてまだ浅い。

 士官学校では、もっと分かりやすい戦争を教わった。

 敵がいる。

 味方がいる。

 前線がある。

 後方がある。

 目標を設定し、戦力を集中し、突破し、保持し、勝つ。

 図上では全部きれいだった。

 色鉛筆で塗られた赤い矢印は、退路なんか見ない。

 矢印はいつも前に伸びている。

 それが、カナタには少し怖かった。

 最初から怖かったわけではない。

 たぶん、いつの間にか怖くなった。

 どこかの演習場で。

 どこかの基地で。

 あるいは、留学先の皇国で初めて、帰ってこない輸送列を待った日から。

「カナタ候補生!」

 倉庫の方からミナの声がした。

 振り向くと、小柄な整備兵が両手に工具箱を持って立っていた。顔は眠そうで、髪は寝癖で、口だけが朝から元気だった。

「これ持って」

「重そうですね」

「重いよ」

「じゃあ嫌です」

「上官命令」

「階級同じくらいでは」

「整備兵は機械の前では神」

「神、工具持ってください」

「信仰心が足りない」

 結局、工具箱を一つ持たされた。

 重かった。

 中で金属がぶつかる音がする。

 その音を聞くと、少しだけ安心する。

 銃声よりも、工具の音の方が人間の暮らしに近い。

「三号車、またですか」

「またです」

 ミナは車体の下を覗き込んだ。

「こいつ、もう休みたいって言ってる」

「機械の声が聞こえるんですか」

「聞こえない奴が整備するな」

「名言っぽい」

「でもたぶん今考えた」

 そんな会話をしている間にも、遠くで砲声が鳴った。

 ごほっ。

 朝より近い気がした。

 カナタは顔を上げる。

 空は鉛色で、雲の境目が分からない。

 雪はずっと降っている。

 世界全体が、白い布団をかぶって寝たふりをしているみたいだった。

「また出口見てる」

 ミナが車体の下から言った。

「見てません」

「見てる人の返事」

「……南側道路、除雪車戻ってます?」

「知らない」

「朝出てましたよね」

「うん」

「戻ってない」

 ミナの動きが止まった。

 工具の音が途切れる。

 その沈黙は、砲声より小さいのに、砲声より嫌だった。

「……故障じゃない?」

「かも」

「迷子とか」

「雪道で除雪車が?」

「うるさいな、希望を持たせろ」

 ミナはまた工具を鳴らし始めた。

 でもさっきより音が速い。

 人は、平気なふりをするときほど手元が急ぐ。

 カナタは南側道路を見た。

 基地の裏手から山道へ抜ける、細い道路。

 そこにはいつも、除雪車の轍が二本残っている。

 今日は半分、埋まっていた。

 ただそれだけ。

 ただそれだけなのに、喉の奥に冷たいものが残った。

 昼前、食堂で薄いスープを飲んだ。

 味は塩だった。

 豆は三粒入っていた。

 ユウトがそれを数えて、隣の兵士に「俺の勝ちです」と言っていた。

「何に勝ったんだよ」

「豆運」

「嫌な運だな」

「でも三粒ですよ。今日の俺、来てます」

「前線に来るなよ」

「それはほんとに嫌です」

 皆が少し笑った。

 笑い声はすぐに消えた。

 食堂の隅では、通信兵のアイラがヘッドセットをつけたままスープを飲んでいた。

 器用だと思った。

 片手でカップを持ち、片手で受信機を押さえ、目だけはどこでもない場所を見ている。

 音を聞いている人間の顔だった。

 昼過ぎ。

 そのアイラが立ち上がった。

 椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

「副長」

 声は小さかった。

 でも食堂の全員が聞いた。

 ガレスが顔を上げる。

「なんだ」

「北が薄いです」

「通信か」

「はい」

「どの辺」

「第四線。それと、第三補給路」

「薄いってのは」

 アイラは少しだけ迷った。

「……人が減ってる時の音です」

 誰も笑わなかった。

 カナタはスープの表面を見ていた。

 薄い油膜が揺れている。

 遠くでまた砲声が鳴った。

 今度は雷に似ていなかった。

 地面が咳をした。

 その咳に、少しだけ血が混じっている気がした。

 午後になって、雪は強くなった。

 基地の外灯が早めに点いた。

 まだ夕方ではないのに、空は夕方より暗かった。

 カナタは車庫の前で輸送車の向きを見ていた。

 三号車。

 五号車。

 燃料車。

 負傷兵搬送車。

 全部、前を向いている。

 南側道路へ出るには、一度切り返さなければならない。

 狭い。

 雪が積もればさらに狭い。

 もし今、基地全体が一斉に動こうとしたら、門の前で詰まる。

 そう思った瞬間、背中が冷えた。

 寒さとは違う。

 帰れなくなる時の冷え方だった。

「なに見てるの」

 セナが立っていた。

 衛生兵の腕章が、雪の中でやけに白い。

「車両の向きです」

「車両の向き」

「はい」

「変な趣味」

「仕事です」

「候補生って、そういう仕事だっけ」

「たぶん違います」

 セナは少しだけ笑った。

 その笑い方は短かった。

 笑い終わる前に、彼女は医療棟の方を見た。

「負傷兵、増えてる」

「北から?」

「うん」

「状態は」

「聞きたい?」

「……いいです」

「そう」

 会話はそこで切れた。

 切れたまま、二人で雪を見ていた。

 その時、基地の北門が開いた。

 一台の装甲車が入ってきた。

 かなり速い。

 速すぎる。

 ブレーキ音。

 雪を巻き上げて止まる。

 扉が開いた。

 中から兵士が落ちた。

 降りたのではなく、落ちた。

 誰かが叫んだ。

 セナが走った。

 カナタも後を追った。

 兵士の顔は白かった。

 雪よりも白い。

 口元だけ赤い。

「第四線は」

 ガレスの声。

 兵士は目だけ動かした。

 言葉が出ない。

 代わりに、喉の奥で濡れた音がした。

 それが答えだった。

 アイラが通信棟から走ってきた。

「副長」

「言え」

「第四線、応答なし」

「第三補給路」

「なし」

「司令部」

 アイラは一瞬、目を伏せた。

「……呼んでます」

「返事は」

「まだ」

 雪が降っていた。

 ずっと。

 誰かが基地内放送を入れた。

『各隊、待機』

『各隊、現位置にて待機』

 待機。

 その言葉が、ひどく怖かった。

 動くな、という意味だった。

 まだ大丈夫だ、という意味でもあった。

 そしてたぶん。

 もう誰も決められない、という意味でもあった。

 カナタは南側道路を見た。

 除雪車は、まだ戻っていない。

 轍は消えかけていた。

 ガレスが隣に来る。

 いつもの煙草を咥えている。

「学生」

「はい」

「お前なら、どうする」

 カナタは答えなかった。

 答えたくなかった。

 基地にはまだ人がいる。

 スープを飲んでいたユウトがいる。

 車体の下で工具を鳴らしていたミナがいる。

 医療棟にはセナが運んだ負傷兵がいる。

 食堂の献立表は一ヶ月前のままで、火のつかない煙草はガレスの口元にあって、南側道路にはまだ帰るための道がある。

 でも。

 それは今だけだ。

 今だけ。

 カナタは、雪の向こうを見た。

 白くて、静かで、何も見えない。

 何も見えない場所から、帰れなくなる気配だけが来ていた。

「……車両の向き、変えます」

 ガレスは少し笑った。

「撤退命令は出てねぇぞ」

「出てからだと、たぶん詰まります」

「命令違反だな」

「まだ向きを変えるだけです」

「屁理屈」

「はい」

 ガレスは煙草を咥えたまま、基地の南門を見た。

 遠くでまた砲声が鳴った。

 今度は、はっきりと近かった。

「よし」

 ガレスが言った。

「向きだけ変えるか」

 その瞬間、基地の灯りが一度だけ瞬いた。

 通信棟のアンテナが、雪の中で黒く揺れていた。

 誰かがまだ、司令部を呼んでいる。

 返事はない。

 カナタは南側道路を見た。

 轍はもうほとんど消えていた。

 雪は、何もなかったみたいに全部を白くしていく。

 帰り道も。

 まだ帰れる時間も。

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