帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十話 林の向こう

 外へ出ると、世界は白かった。

 白すぎて、最初は何も見えなかった。

 地下倉庫の赤い非常灯に慣れた目には、雪明かりが眩しかった。空は曇っているのに明るくて、地面は真っ白で、林の幹だけが黒い線みたいに立っている。その白と黒の間を、人間たちはひとつずつ吐く息で自分の居場所を確かめながら進んだ。

 背後では、学校が煙を吐いていた。

 地下倉庫から上がる煙は、最初は細かった。

 それが少しずつ太くなって、体育館の壁をなめ、校舎の窓へ流れ、雪の空に薄く広がっていく。焦げた紙の匂いがした。絵の具の匂いもした。ビニールの、甘くて喉に残る匂いもした。

 文化祭の残りが燃える匂い。

 カナタは、それを一生忘れない気がした。

 忘れたくなかったわけではない。

 むしろ忘れたかった。

 でも、忘れたいと思ったものほど、体の変なところに残る。

 鼻の奥。

 舌の裏。

 手袋の内側。

 雪の中で聞いた誰かの息遣い。

 そういう場所に残る。

「足元」

 リゼが小さく言った。

 声はかすれていた。

「体育館裏、段差ある」

「あなたは喋らない」

 セナが即座に言う。

「案内」

「指でいい」

「厳しい」

「熱ある人には厳しい」

 リゼは少しだけ笑った。

 笑うと咳が出た。

 セナの顔が険しくなる。

 でも止まれない。

 止まると列が止まる。

 列が止まると、後ろから何かが追いつく。

 だから、セナは何も言わず、リゼの背を押した。

 学校から林までは、地図で見れば短い距離だった。

 けれど、実際には遠かった。

 担架が雪に沈む。

 足を引きずる者が遅れる。

 肩を貸す者も遅れる。

 歩けるはずだった人間が、途中で歩けなくなる。

 そうなるたびに列は少し歪む。

 列というのは、ただ人が並んでいるだけではない。

 先頭がいて、真ん中がいて、最後尾がいて、それぞれが前と後ろを気にして初めて列になる。

 誰かが前だけを見ると、後ろが切れる。

 誰かが後ろだけを見ると、前が止まる。

 カナタはその全部を見ようとして、すぐに無理だと分かった。

 目は二つしかない。

 それなのに、見なければならないものが多すぎる。

「カナタさん」

 ユウトが言った。

「後ろ、煙に寄ってます」

 カナタは振り返る。

 地下倉庫の搬入口の周りに、黒い影が集まり始めていた。

 レイス。

 火と煙に引かれている。

 囮は効いている。

 効いているのに、安心できない。

 効いている間しか、帰れないからだ。

「何分」

 セナが訊く。

「分かりません」

「便利な時だけ分からない」

「すみません」

「謝るな」

 短い会話。

 それで終わる。

 今は、長く喋ると息が減る。

 林に入ると、雪の音が変わった。

 開けた場所では、雪はただ足を沈めるだけだった。

 林の中では、枝から落ちる雪が肩を叩き、葉のない枝が袖を引っかき、地面の下に隠れた根が足を取る。人間を通すための場所ではない。木々はただそこに立っているだけで、こちらの事情など知らない。

 それでも、道よりはましだった。

 道は待たれている。

 待たれている道は、もう道ではない。

「車、どこ」

 リゼが訊く。

 ミナが小型通信機を見る。

「体育館外周、回ってる。こっち来るまで……三分」

「三分」

 ユウトが繰り返した。

「三分なら短いですね」

 誰も同意しなかった。

 戦場の三分は、長い。

 人間が死ぬには十分で、泣くには短くて、後悔するには少し余る。

 カナタは林の奥を見る。

 白い。

 黒い。

 また白い。

 その向こうに、車の音がかすかに聞こえた。

 エンジン音。

 ミナが置いてきた一台。

 帰るための音。

 それを聞いた瞬間、列が少しだけ乱れた。

 人間は、助かりそうになると急ぐ。

 急ぐと転ぶ。

 転ぶと遅れる。

「走らない!」

 セナが叫んだ。

「走れる人だけ走るな!列が崩れる!」

 その声はよく通った。

 校舎の中で聞いた時より、ずっと鋭い。

 何人かが足を緩める。

 リゼが驚いた顔でセナを見る。

「慣れてる」

「慣れたくない」

「でも慣れてる」

「うるさい、歩け」

 リゼは笑いかけて、咳をした。

 咳は長かった。

 カナタは一瞬、足を止めそうになった。

 セナが先に動く。

 リゼの背中を支え、呼吸を見て、すぐに言った。

「まだ歩ける」

「判断早い」

「止まる方が危ない」

「優しい」

「優しくない」

 リゼは何か言おうとして、やめた。

 雪の枝を避けながら進む。

 その時、後方で音が変わった。

 燃える音ではない。

 走る音。

 雪を裂く音。

 ユウトが振り返る。

「来てます」

 声が少しだけ高い。

 カナタも振り返った。

 煙の向こうから、黒い影が数体、林へ入ってきている。

 全部ではない。

 囮に残っているものもいる。

 でも、何体かは気づいた。

 こちらに。

 帰る列に。

「最後尾、止めます」

 ユウトが言った。

 カナタはすぐに首を振る。

「一人ではダメです」

「でも」

「一人で止めるものじゃない」

 カナタは小銃を構えた。

「一緒に」

 ユウトは少しだけ目を見開いた。

 それから頷いた。

 二人で後ろを向く。

 前では列が進む。

 後ろでは黒い影が近づく。

 その間に立つ。

 カナタは、その位置を初めて体で理解した。

 最後尾。

 それは死ぬ場所ではない。

 帰る列と、帰れなくするものの間に立つ場所だ。

 怖い。

 とても。

 でも、ここに立たないと、列は列ではなくなる。

「見えてから」

 カナタが言う。

「はい」

「近くまで」

「はい」

「外したら」

「次撃ちます」

「そうです」

 レイスが林の間を走る。

 速い。

 黒い体が、木の幹と重なって見えたり消えたりする。

 狙いにくい。

 でも、待つ。

 待つ時間が長い。

 一秒。

 二秒。

 心臓の音。

 自分の息。

 ユウトの息。

 後ろで誰かが「急いで」と言う声。

 前方から車のエンジン。

 全部が同時に聞こえる。

 レイスが跳んだ。

「今」

 二人で撃った。

 一体が落ちる。

 もう一体が木にぶつかり、すぐ立ち上がる。

 カナタが撃つ。

 外れる。

 ユウトが撃つ。

 当たる。

 黒い影が雪の上で跳ねた。

 ユウトの顔が歪む。

 でも銃口は下がらない。

「行きます!」

 セナの声。

 前を見ると、林の向こうに車が来ていた。

 小型輸送車。

 雪を巻き上げて、ぎりぎりの速度で近づいてくる。

 運転席にはミナ。

 顔が怖い。

 ものすごく怖い。

「乗れぇ!!」

 ミナが叫ぶ。

 車が止まる前に扉が開く。

 担架を押し込む。

 一人。

 二人。

 詰める。

 詰める。

 人権を消さない限界まで詰める。

「まだ乗れる!」

 セナが叫ぶ。

「無理!」

 ミナが叫び返す。

「乗れる!」

「車が死ぬ!」

「人が死ぬよりマシ!」

「車死んだら全員死ぬ!!」

 その言葉で、空気が止まった。

 ほんの一瞬。

 でもその一瞬に、全員が分かってしまった。

 全員は乗れない。

 車は一台。

 人は多い。

 レイスは来ている。

 選ぶ時間はない。

 でも、選ばなければならない。

 セナが何か言おうとする。

 言葉にならない。

 リゼが車の横に立った。

「歩ける人は走る」

 声はかすれている。

 でも届いた。

「車は歩けない人だけ」

「リゼ」

 セナが言う。

「私は歩く」

「熱ある」

「足はある」

「そういう問題じゃ」

「そういう問題」

 リゼは笑った。

 少しだけ。

「足がある人は、足を使う」

 その言葉で、学徒兵たちが動いた。

 歩ける者が車から離れる。

 走れる者が負傷者を押し込む。

 車の中にいた一人が降りようとして、セナに怒鳴られる。

 混乱。

 でも、列は崩れなかった。

 カナタは後ろを見る。

 レイスがまた来る。

 近い。

「ユウト!」

「はい!」

 二人で撃つ。

 一体。

 もう一体。

 弾が減る。

 時間も減る。

 でも、車の扉が閉まる。

 ミナが叫ぶ。

「出す!」

「徒歩組は後ろ!」

 カナタが叫ぶ。

「車を盾にして林を抜けます!」

 ミナが一瞬だけこちらを見る。

「傷つけたら怒る!」

「もう傷だらけです!」

「それはそれ!!」

 車が動き出す。

 徒歩組が続く。

 リゼがよろめく。

 セナが支える。

 ユウトが後ろを撃つ。

 カナタは林の向こうを見る。

 白い道があった。

 帰るための道。

 でも、その手前にはまだ雪がある。

 木の根がある。

 黒い影がある。

 短い距離。

 なのに、果てしなく遠い。

 レイスが一体、横から飛び込んできた。

 カナタは撃った。

 当たらない。

 速い。

 リゼの方へ向かう。

 セナがリゼを押す。

 間に合わない。

 銃声。

 レイスが倒れた。

 撃ったのは、学徒兵の一人だった。

 腕を震わせながら、涙を流しながら、銃を構えていた。

「……当たった」

 その声がユウトに似ていた。

 カナタはなぜか、それがひどく悲しかった。

 同じことが増えていく。

 撃って、当たって、震える人間が増えていく。

 そうやって、帰る列は進む。

 林を抜けた。

 道路が見えた。

 南へ続く道。

 その先に、本隊の車列の影がある。

 遠い。

 でも見える。

 見えるというだけで、人間は少しだけ走れる。

「あと少し!」

 誰かが叫んだ。

 誰かは分からない。

 声だけが、雪の中で前へ飛んだ。

 カナタは後ろを見る。

 学校が煙を上げている。

 林の奥に黒い影が残っている。

 文化祭の残りが、まだ燃えている。

 あの煙が消える頃には、たぶん学校はもう遠い。

 でも、遠くなっても残る。

 帰れなかった場所として。

 帰れた人間の中に。

 ずっと。

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