帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
道路に出た時、空の色が変わっていた。
夕方ではない。
まだ昼のはずだった。
それでも空は、昼の色をやめかけていた。灰色の雲の底に、薄い青と鉛色が混じって、雪原全体が古い写真みたいに見える。白い道、黒い林、遠くに伸びる車列。そのどれもが、少しずつ現実から剥がれていくようだった。
本隊の車列は見えている。
遠い。
けれど、見えている。
見えるというだけで、人はそこへ帰れる気がしてしまう。
カナタはそれが怖かった。
見えるものに安心すると、足元を見なくなる。
足元を見なくなると、転ぶ。
転ぶと列が止まる。
列が止まれば、後ろが追いつく。
たぶん、帰れなくなる時はそういう順番で来る。
大きな爆発ではない。
誰かの足が少し滑る。
誰かが振り返る。
誰かが名前を呼ぶ。
それだけで、列は壊れる。
「止まらないで」
セナが言った。
声は枯れていた。
それでもよく通った。
「車まであと少し。歩ける人は歩く。走れる人も走らない」
その言い方は、もう衛生兵というより教師みたいだった。
リゼが隣で小さく笑う。
「先生っぽい」
「黙って歩け」
「はい」
「はいは一回」
「はい」
それで少しだけ、周りの学徒兵たちが笑った。
笑い声は短かった。
雪に吸われてすぐ消えた。
でも、笑った。
カナタはそれを聞きながら、後ろを見た。
林の奥。
煙。
学校。
黒い影。
まだ来ている。
ただ、数は少ない。
囮は効いている。
学校の地下で燃えているものが、まだレイスを引きつけている。
文化祭の残り。
看板。
紙吹雪。
段ボールの恐竜。
それらが燃えている間だけ、帰る人間が前へ進める。
日常だったものが、命の時間に変わっている。
そんなことがあっていいのかと思う。
でも、あった。
もう起きている。
「カナタさん」
ユウトが隣に来た。
息が荒い。
頬が赤い。
寒さと疲労と恐怖が、顔の中でぐちゃぐちゃになっていた。
「弾、少ないです」
「どれくらい」
「あと一弾倉」
「俺も同じです」
「終わってますね」
「はい」
「返事が早い」
「終わってる時は早く分かるので」
ユウトは少しだけ笑った。
その笑い方は、朝の食堂で豆の数を数えていた時とは違っていた。
大人になった、という言葉はたぶん違う。
老けた、も違う。
ただ、何かを知ってしまった顔だった。
知るべきではなかったこと。
でも、知らなければ生き残れなかったこと。
そういうものが、少しだけ目の奥に残っている。
道路脇に、古い看板が立っていた。
《第四学区夏季開放プール》
文字は雪で半分隠れている。
夏季。
プール。
その二つの言葉が、雪原の中でひどく遠かった。
リゼがそれを見た。
歩きながら、少しだけ目を細める。
「そこ、行ったことある」
「プールですか」
カナタが訊く。
「うん」
「楽しかったですか」
「水、冷たかった」
リゼはそれだけ言った。
楽しかったとは言わなかった。
でもたぶん、楽しかったのだと思う。
そういう言い方だった。
カナタは看板から目を逸らす。
夏の看板。
雪。
避難列。
歩けない人を担ぐ学徒兵。
世界は時々、悪意なくひどい組み合わせを作る。
その方が、作為的な悲劇よりずっと傷つく。
前方から車両が二台、こちらへ向かってきた。
本隊からの迎えだった。
白線の入った輸送車。
第七混成機動群。
運転席の兵士が窓を開けて叫ぶ。
「戻ったか!」
ミナが怒鳴り返す。
「見りゃ分かるでしょ!」
「人数増えてんじゃねぇか!」
「それが仕事!」
そのやり取りで、列の中に安堵が広がった。
安堵は危ない。
それは暖かい。
暖かいものは、人を眠くさせる。
足を止めさせる。
カナタは後ろを見た。
林の奥の黒い影が、また一つ増えていた。
「止まらないで!」
今度はカナタが言った。
自分でも少し驚いた。
声が大きかった。
「車まで行ってから休んでください!」
何人かがはっとして歩き出す。
でも、全員ではない。
リゼの学校の男子生徒が一人、道路脇で膝をついた。
名前は知らない。
さっき林で銃を撃った少年だった。
レイスを倒して、震えていた子。
「おい」
ユウトが近づく。
「大丈夫か」
少年は返事をしない。
銃を抱えたまま、雪の上を見ている。
目が動いていない。
カナタはその顔を見て、分かった。
限界だった。
足ではない。
体力でもない。
何かを撃ったことが、今になって追いついたのだ。
帰れるかもしれないと思った瞬間に、体がそれを許した。
崩れることを許した。
「立てますか」
カナタが訊く。
少年は首を振らない。
頷きもしない。
ただ、ぽつりと言った。
「当たった」
ユウトの顔が変わった。
同じ言葉。
同じ声。
少し前の自分と同じ場所にいる人間を見た顔だった。
「……立てる」
ユウトが言った。
少年へではなく、自分へ言うみたいに。
「立てるから」
彼は少年の腕を掴んだ。
引き上げる。
少年の体は重い。
でも、ユウトは離さない。
「銃、持てなくてもいい」
ユウトは言った。
「歩けばいい」
少年は少しだけ顔を上げた。
目に焦点が戻る。
ほんの少し。
「歩ける?」
少年は答えなかった。
でも立った。
ユウトが支えた。
その背中を見て、カナタは胸の奥が変なふうに痛くなった。
人は、誰かを帰すことで少しだけ変わる。
それが良い変化なのか、悪い変化なのかは分からない。
ただ、戻れない。
変わる前には。
後方でレイスが林を抜けた。
一体。
二体。
煙を振り切った個体が、道路へ出てくる。
近い。
迎えの輸送車まではまだ数十歩。
数十歩。
歩ける人間には短い。
担いでいる人間には長い。
限界の人間には、果てしない。
「後ろ!」
誰かが叫ぶ。
列が乱れかける。
カナタは銃を構えた。
ユウトも構える。
だが彼は少年を支えている。
撃てない。
それでいい。
今はそれでいい。
「行ってください」
カナタが言う。
「でも」
「行って」
ユウトは一瞬だけ迷った。
それから少年を支えて前へ進んだ。
カナタは一人で後ろを向く。
最後尾。
ひどく静かだった。
銃声の前の一瞬は、いつも静かだ。
レイスが走る。
雪が跳ねる。
黒い体が低くなる。
カナタは引き金に指をかけた。
見えてから。
近くまで。
迷わない。
一体目。
撃つ。
当たる。
二体目。
撃つ。
外れる。
近い。
速い。
もう一発。
当たらない。
レイスが跳んだ。
その瞬間、横から銃声がした。
レイスが空中で崩れる。
撃ったのは、リゼだった。
片腕で銃を支え、肩で息をしている。
顔は真っ白だった。
「リゼさん」
「足はあるって言った」
「腕は」
「一本ある」
リゼはそう言って、少し笑った。
その笑い方は危うかった。
今にも倒れそうだった。
でも、倒れない。
セナが駆け寄る。
「馬鹿!」
「ひどい」
「馬鹿でしょ!」
「うん」
リゼは素直に頷いた。
それでセナが一瞬だけ言葉を失った。
その間に、迎えの輸送車が横付けされた。
ガレスが荷台から身を乗り出している。
「遅ぇ!」
「そっちが来るの遅いんです!」
カナタが言い返す。
ガレスは少しだけ笑った。
その顔を見た瞬間、カナタは初めて、自分が本当に戻ってきたのだと思った。
まだ完全には帰っていない。
でも、列へ戻った。
帰る列へ。
学徒兵たちが乗せられる。
負傷兵が押し込まれる。
リゼが最後に乗ろうとして、セナに先に押し込まれる。
「最後にするな!」
「指揮官だから」
「負傷者!」
「どっちも」
「じゃあ余計乗れ!」
扉が閉まる。
車が動く。
カナタは荷台の端に座り、後ろを見た。
林。
学校からの煙。
夏季開放プールの看板。
雪の上に残った足跡。
レイスの黒い影は、もう遠くなっていく。
遠くなっていくのに、胸の中では近いままだった。
ユウトが隣に座る。
少年を支えたまま。
少年は目を閉じている。
眠っているのではない。
ただ、目を閉じている。
ユウトも黙っていた。
しばらくして、小さく言った。
「歩けました」
「はい」
「俺じゃなくて、あいつが」
「はい」
「でも、俺も」
そこで言葉が止まった。
カナタは頷いた。
「はい」
それで十分だった。
雪はまだ降っている。
息は白い。
車列は南へ進む。
戻る列は、少しだけ重くなっていた。
人が増えたから。
そして、帰れなかった場所も増えたから。