帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十一話 戻る列

 道路に出た時、空の色が変わっていた。

 夕方ではない。

 まだ昼のはずだった。

 それでも空は、昼の色をやめかけていた。灰色の雲の底に、薄い青と鉛色が混じって、雪原全体が古い写真みたいに見える。白い道、黒い林、遠くに伸びる車列。そのどれもが、少しずつ現実から剥がれていくようだった。

 本隊の車列は見えている。

 遠い。

 けれど、見えている。

 見えるというだけで、人はそこへ帰れる気がしてしまう。

 カナタはそれが怖かった。

 見えるものに安心すると、足元を見なくなる。

 足元を見なくなると、転ぶ。

 転ぶと列が止まる。

 列が止まれば、後ろが追いつく。

 たぶん、帰れなくなる時はそういう順番で来る。

 大きな爆発ではない。

 誰かの足が少し滑る。

 誰かが振り返る。

 誰かが名前を呼ぶ。

 それだけで、列は壊れる。

「止まらないで」

 セナが言った。

 声は枯れていた。

 それでもよく通った。

「車まであと少し。歩ける人は歩く。走れる人も走らない」

 その言い方は、もう衛生兵というより教師みたいだった。

 リゼが隣で小さく笑う。

「先生っぽい」

「黙って歩け」

「はい」

「はいは一回」

「はい」

 それで少しだけ、周りの学徒兵たちが笑った。

 笑い声は短かった。

 雪に吸われてすぐ消えた。

 でも、笑った。

 カナタはそれを聞きながら、後ろを見た。

 林の奥。

 煙。

 学校。

 黒い影。

 まだ来ている。

 ただ、数は少ない。

 囮は効いている。

 学校の地下で燃えているものが、まだレイスを引きつけている。

 文化祭の残り。

 看板。

 紙吹雪。

 段ボールの恐竜。

 それらが燃えている間だけ、帰る人間が前へ進める。

 日常だったものが、命の時間に変わっている。

 そんなことがあっていいのかと思う。

 でも、あった。

 もう起きている。

「カナタさん」

 ユウトが隣に来た。

 息が荒い。

 頬が赤い。

 寒さと疲労と恐怖が、顔の中でぐちゃぐちゃになっていた。

「弾、少ないです」

「どれくらい」

「あと一弾倉」

「俺も同じです」

「終わってますね」

「はい」

「返事が早い」

「終わってる時は早く分かるので」

 ユウトは少しだけ笑った。

 その笑い方は、朝の食堂で豆の数を数えていた時とは違っていた。

 大人になった、という言葉はたぶん違う。

 老けた、も違う。

 ただ、何かを知ってしまった顔だった。

 知るべきではなかったこと。

 でも、知らなければ生き残れなかったこと。

 そういうものが、少しだけ目の奥に残っている。

 道路脇に、古い看板が立っていた。

 《第四学区夏季開放プール》

 文字は雪で半分隠れている。

 夏季。

 プール。

 その二つの言葉が、雪原の中でひどく遠かった。

 リゼがそれを見た。

 歩きながら、少しだけ目を細める。

「そこ、行ったことある」

「プールですか」

 カナタが訊く。

「うん」

「楽しかったですか」

「水、冷たかった」

 リゼはそれだけ言った。

 楽しかったとは言わなかった。

 でもたぶん、楽しかったのだと思う。

 そういう言い方だった。

 カナタは看板から目を逸らす。

 夏の看板。

 雪。

 避難列。

 歩けない人を担ぐ学徒兵。

 世界は時々、悪意なくひどい組み合わせを作る。

 その方が、作為的な悲劇よりずっと傷つく。

 前方から車両が二台、こちらへ向かってきた。

 本隊からの迎えだった。

 白線の入った輸送車。

 第七混成機動群。

 運転席の兵士が窓を開けて叫ぶ。

「戻ったか!」

 ミナが怒鳴り返す。

「見りゃ分かるでしょ!」

「人数増えてんじゃねぇか!」

「それが仕事!」

 そのやり取りで、列の中に安堵が広がった。

 安堵は危ない。

 それは暖かい。

 暖かいものは、人を眠くさせる。

 足を止めさせる。

 カナタは後ろを見た。

 林の奥の黒い影が、また一つ増えていた。

「止まらないで!」

 今度はカナタが言った。

 自分でも少し驚いた。

 声が大きかった。

「車まで行ってから休んでください!」

 何人かがはっとして歩き出す。

 でも、全員ではない。

 リゼの学校の男子生徒が一人、道路脇で膝をついた。

 名前は知らない。

 さっき林で銃を撃った少年だった。

 レイスを倒して、震えていた子。

「おい」

 ユウトが近づく。

「大丈夫か」

 少年は返事をしない。

 銃を抱えたまま、雪の上を見ている。

 目が動いていない。

 カナタはその顔を見て、分かった。

 限界だった。

 足ではない。

 体力でもない。

 何かを撃ったことが、今になって追いついたのだ。

 帰れるかもしれないと思った瞬間に、体がそれを許した。

 崩れることを許した。

「立てますか」

 カナタが訊く。

 少年は首を振らない。

 頷きもしない。

 ただ、ぽつりと言った。

「当たった」

 ユウトの顔が変わった。

 同じ言葉。

 同じ声。

 少し前の自分と同じ場所にいる人間を見た顔だった。

「……立てる」

 ユウトが言った。

 少年へではなく、自分へ言うみたいに。

「立てるから」

 彼は少年の腕を掴んだ。

 引き上げる。

 少年の体は重い。

 でも、ユウトは離さない。

「銃、持てなくてもいい」

 ユウトは言った。

「歩けばいい」

 少年は少しだけ顔を上げた。

 目に焦点が戻る。

 ほんの少し。

「歩ける?」

 少年は答えなかった。

 でも立った。

 ユウトが支えた。

 その背中を見て、カナタは胸の奥が変なふうに痛くなった。

 人は、誰かを帰すことで少しだけ変わる。

 それが良い変化なのか、悪い変化なのかは分からない。

 ただ、戻れない。

 変わる前には。

 後方でレイスが林を抜けた。

 一体。

 二体。

 煙を振り切った個体が、道路へ出てくる。

 近い。

 迎えの輸送車まではまだ数十歩。

 数十歩。

 歩ける人間には短い。

 担いでいる人間には長い。

 限界の人間には、果てしない。

「後ろ!」

 誰かが叫ぶ。

 列が乱れかける。

 カナタは銃を構えた。

 ユウトも構える。

 だが彼は少年を支えている。

 撃てない。

 それでいい。

 今はそれでいい。

「行ってください」

 カナタが言う。

「でも」

「行って」

 ユウトは一瞬だけ迷った。

 それから少年を支えて前へ進んだ。

 カナタは一人で後ろを向く。

 最後尾。

 ひどく静かだった。

 銃声の前の一瞬は、いつも静かだ。

 レイスが走る。

 雪が跳ねる。

 黒い体が低くなる。

 カナタは引き金に指をかけた。

 見えてから。

 近くまで。

 迷わない。

 一体目。

 撃つ。

 当たる。

 二体目。

 撃つ。

 外れる。

 近い。

 速い。

 もう一発。

 当たらない。

 レイスが跳んだ。

 その瞬間、横から銃声がした。

 レイスが空中で崩れる。

 撃ったのは、リゼだった。

 片腕で銃を支え、肩で息をしている。

 顔は真っ白だった。

「リゼさん」

「足はあるって言った」

「腕は」

「一本ある」

 リゼはそう言って、少し笑った。

 その笑い方は危うかった。

 今にも倒れそうだった。

 でも、倒れない。

 セナが駆け寄る。

「馬鹿!」

「ひどい」

「馬鹿でしょ!」

「うん」

 リゼは素直に頷いた。

 それでセナが一瞬だけ言葉を失った。

 その間に、迎えの輸送車が横付けされた。

 ガレスが荷台から身を乗り出している。

「遅ぇ!」

「そっちが来るの遅いんです!」

 カナタが言い返す。

 ガレスは少しだけ笑った。

 その顔を見た瞬間、カナタは初めて、自分が本当に戻ってきたのだと思った。

 まだ完全には帰っていない。

 でも、列へ戻った。

 帰る列へ。

 学徒兵たちが乗せられる。

 負傷兵が押し込まれる。

 リゼが最後に乗ろうとして、セナに先に押し込まれる。

「最後にするな!」

「指揮官だから」

「負傷者!」

「どっちも」

「じゃあ余計乗れ!」

 扉が閉まる。

 車が動く。

 カナタは荷台の端に座り、後ろを見た。

 林。

 学校からの煙。

 夏季開放プールの看板。

 雪の上に残った足跡。

 レイスの黒い影は、もう遠くなっていく。

 遠くなっていくのに、胸の中では近いままだった。

 ユウトが隣に座る。

 少年を支えたまま。

 少年は目を閉じている。

 眠っているのではない。

 ただ、目を閉じている。

 ユウトも黙っていた。

 しばらくして、小さく言った。

「歩けました」

「はい」

「俺じゃなくて、あいつが」

「はい」

「でも、俺も」

 そこで言葉が止まった。

 カナタは頷いた。

「はい」

 それで十分だった。

 雪はまだ降っている。

 息は白い。

 車列は南へ進む。

 戻る列は、少しだけ重くなっていた。

 人が増えたから。

 そして、帰れなかった場所も増えたから。

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