帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十二話 帰ってきた朝

 帰還拠点《ハウンド七》に着いた時、朝になっていた。

 朝と言っても、太陽は見えない。

 雲は低く、雪はまだ降っていて、空と地面の境目は曖昧だった。それでも夜ではなかった。遠くの雪原がほんの少しだけ青くなり、基地の外灯が弱く見え始め、排気煙の白さが夜の中の白ではなく、朝の中の白に変わっていた。

 それだけで、人間は朝だと思う。

 不思議だった。

 世界が終わりかけていても、朝は朝の顔をする。

 帰還拠点は、採掘基地の跡地を無理やり軍用にした場所だった。

 掘削機。

 コンテナ。

 仮設テント。

 弾薬箱。

 燃料タンク。

 それから、人間。

 とにかく人間が多かった。

 兵士。

 負傷兵。

 民間人。

 泣いている子供。

 黙っている老人。

 怒鳴る衛生兵。

 何かを探している人。

 誰かの名前を呼ぶ人。

 その全部が雪と泥の中に混ざっていた。

 基地というより、大きな待合室みたいだった。

 ただし、行き先は誰にも分からない。

「降りろ。動ける奴から」

 ガレスの声がした。

 声は枯れている。

 それでも、ちゃんと届いた。

「担架、先に医療棟。学徒は点呼。民間人は第三テント。迷子は作るな。増えると面倒くせぇ」

「迷子って作るものなんですか」

 ユウトが言った。

「作られるんだよ、こういう時は」

「嫌な表現」

「現実的だろ」

 ユウトは何か言い返そうとして、やめた。

 眠そうだった。

 目の下に影がある。

 でも、隣の少年を支えていた。

 林で崩れた、あの学徒兵だ。

 少年はまだ黙っている。

 自分の足で立ってはいるが、ユウトの袖を掴んでいた。

 ユウトはその手を振り払わない。

 カナタはそれを見て、少しだけ目を伏せた。

 帰ってきた人間は、帰ってきた直後が一番壊れやすい。

 たぶん。

 まだ覚えたばかりのことだった。

 小型輸送車の扉が開く。

 中から、負傷者が順に降ろされる。

 セナはすぐに医療班へ引き継いだ。

「右肩、貫通。感染注意。こっちは発熱。こっちは低体温。そっちは意識混濁。寝かせるな」

「了解!」

「寝かせるなって言った!」

「寝てません!」

「目が寝てる!」

 怒鳴っている。

 ずっと怒鳴っている。

 でも、怒鳴っている間は大丈夫なのだと思った。

 セナは怒鳴ることで立っている。

 ガレスは煙草を咥えることで立っている。

 ミナは工具箱を抱えることで立っている。

 ユウトは誰かの袖を掴ませることで立っている。

 カナタは。

 カナタは何で立っているのか、まだよく分からなかった。

 リゼは最後に車から降りた。

 降りた、というより落ちかけた。

 カナタが支える。

 彼女の体は熱かった。

 雪の中なのに、熱い。

「歩けますか」

「歩ける」

「昨日も聞きました」

「昨日は歩けた」

「今は」

「……半分」

「半分は歩けないです」

「厳しい」

 リゼは少しだけ笑った。

 その笑い方は、もう強がりを隠せていなかった。

 セナが振り返る。

「リゼ!」

「はい」

「医療棟!」

「今行く」

「走らない!」

「走れない」

「ならよし!」

 リゼはカナタの腕を借りたまま歩いた。

 雪の上に、彼女の足跡が浅く残る。

 学生靴の跡だった。

 軍靴ではない。

 その形が、妙に胸に残った。

 医療棟へ向かう途中、学徒兵たちの点呼が始まった。

 名前が呼ばれる。

 返事がある。

 名前が呼ばれる。

 返事がある。

 名前が呼ばれる。

 返事がない。

 そこで、少しだけ空気が止まる。

 次の名前が呼ばれる。

 返事がある。

 その繰り返しだった。

 カナタは点呼が嫌いだと思った。

 数えるためには必要だ。

 でも、返事のない名前は、数えるたびに新しく死ぬ。

 一度死んだ人間が、点呼の中でもう一度消える。

 それが嫌だった。

「……三十二」

 リゼが小さく言った。

「はい」

「三十二いた」

 カナタは答えられなかった。

 今、ここにいるのは三十二ではない。

 でも、ゼロでもない。

 その差を、何と呼べばいいのか分からない。

 勝利ではない。

 成功でもない。

 救出、という言葉も少し綺麗すぎる。

 ただ、帰ってきた。

 それだけだった。

 医療棟の前で、リゼが立ち止まった。

「カナタさん」

「はい」

「学校、燃えた?」

 カナタは振り返った。

 遠くは見えない。

 雪と雲で、もう学校の方角も分からない。

「地下だけです」

「そっか」

「全部ではないです」

「うん」

 リゼは頷いた。

 それが慰めになったのかどうか、カナタには分からなかった。

 彼女はポケットから、あの軍手を取り出した。

 文化祭の倉庫で拾ったもの。

 誰かの名前が書かれている。

 カナタには読めなかった。

 リゼはそれを見て、少しだけ笑った。

「これ、持ってきちゃった」

「はい」

「持ってきてよかったのかな」

「分かりません」

「正直」

「すみません」

「謝らないで」

 リゼは軍手を握る。

「でも、これだけあると、学校が全部なくなった感じはしない」

 その言葉で、カナタは初めて少しだけ分かった。

 帰るというのは、場所へ戻ることだけではない。

 何かを持ってくることなのかもしれない。

 人でも。

 物でも。

 名前でも。

 匂いでも。

 たとえ、それが燃えた文化祭の匂いだったとしても。

 リゼは医療棟へ入っていった。

 扉が閉まる。

 消毒液の匂いが一瞬だけ外へ漏れた。

 カナタはその場に残った。

 何をするべきか分からなかった。

 手は空いている。

 銃は肩にある。

 体は動く。

 でも、動き方を忘れたみたいだった。

 戻ってきた。

 たぶん。

 でも、戻った後に何をするのか、誰も教えてくれなかった。

 基地の端に、古い自動販売機があった。

 採掘基地時代のものらしい。

 電源は入っていない。

 商品見本の缶は日に焼けて色が抜け、値段表示も消えている。透明なパネルの内側には結露が凍りつき、そこだけ小さな冬の水槽みたいになっていた。

 その前に、ミナが座っていた。

 工具箱を抱えている。

「買えませんよ」

 カナタが言うと、ミナは顔を上げた。

「知ってる」

「じゃあなぜ」

「自販機って、あると見ちゃうじゃん」

「分かるような」

「分かれ」

 ミナは自販機のパネルを指で拭いた。

 中の缶が少しだけ見える。

「オレンジソーダ」

「好きなんですか」

「別に」

「じゃあ」

「今なら飲みたい」

 それはたぶん、オレンジソーダが飲みたいのではない。

 オレンジソーダを選べる時間が欲しいのだ。

 カナタはそう思った。

 でも言わなかった。

 言うと、少し恥ずかしい。

「三号車は?」

「死にかけ」

「直ります?」

「部品があれば」

「ない?」

「ない」

 ミナは工具箱を抱え直した。

「でも、まだ死んでない」

「車も?」

「人も」

 彼女はそう言って、立ち上がった。

 少しふらついた。

 でも、倒れなかった。

 遠くで、ユウトが少年に水を飲ませていた。

 少年はまだ黙っている。

 でも、水は飲んだ。

 それだけで十分だと、ユウトは何度も頷いていた。

 セナは医療棟の中でまだ怒鳴っている。

 ガレスはコンテナの影で火のつかない煙草を咥えている。

 アイラは通信機の前に座り、また音を聞いている。

 基地は騒がしい。

 人が多い。

 怪我人が多い。

 泣いている声もある。

 怒っている声もある。

 でも、それは生きている音だった。

 カナタは雪の上に立ったまま、南ではなく北でもなく、西でもなく、ただ空を見た。

 低い雲。

 見えない太陽。

 それでも朝。

 帰ってきた朝。

 その時、拠点の警報が鳴った。

 短く。

 一度だけ。

 全員が顔を上げる。

 通信塔のスピーカーから、掠れた声が流れた。

『南方第三避難列、通信途絶』

 ノイズ。

『繰り返す。南方第三避難列、通信途絶』

 基地が静かになった。

 ほんの一瞬。

 それから、また動き出す。

 怒鳴り声。

 足音。

 車両のエンジン。

 担架の金具。

 ミナが工具箱を持ち直す。

 セナが医療棟から顔を出す。

 ユウトがこちらを見る。

 ガレスが煙草を咥えたまま歩いてくる。

「学生」

「はい」

「休めたか」

 カナタは少し考えた。

 休めていない。

 でも、帰ってきた。

 その二つは別だ。

「少しだけ」

「なら十分だ」

 ガレスは南側の車庫を見た。

「車両起こすぞ」

 カナタは医療棟を見た。

 リゼがまだ中にいる。

 学徒兵たちも。

 ユウトが水を飲ませた少年も。

 帰ってきた人たちは、まだここにいる。

 そして、どこかでまた誰かが帰れなくなっている。

 朝の雪は静かだった。

 静かすぎて、エンジンの始動音がやけに大きく聞こえた。

 カナタは手袋をはめ直した。

 まだ湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ少しだけ、また湿った。

「悪化した」

 小さく呟く。

 ガレスが横で少し笑った。

「行くぞ」

 カナタは頷いた。

 戻ってきた。

 でも、戻る前の自分には戻れない。

 それでも。

 まだ帰れる人がいるなら、行くしかなかった。

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