帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
帰還拠点《ハウンド七》に着いた時、朝になっていた。
朝と言っても、太陽は見えない。
雲は低く、雪はまだ降っていて、空と地面の境目は曖昧だった。それでも夜ではなかった。遠くの雪原がほんの少しだけ青くなり、基地の外灯が弱く見え始め、排気煙の白さが夜の中の白ではなく、朝の中の白に変わっていた。
それだけで、人間は朝だと思う。
不思議だった。
世界が終わりかけていても、朝は朝の顔をする。
帰還拠点は、採掘基地の跡地を無理やり軍用にした場所だった。
掘削機。
コンテナ。
仮設テント。
弾薬箱。
燃料タンク。
それから、人間。
とにかく人間が多かった。
兵士。
負傷兵。
民間人。
泣いている子供。
黙っている老人。
怒鳴る衛生兵。
何かを探している人。
誰かの名前を呼ぶ人。
その全部が雪と泥の中に混ざっていた。
基地というより、大きな待合室みたいだった。
ただし、行き先は誰にも分からない。
「降りろ。動ける奴から」
ガレスの声がした。
声は枯れている。
それでも、ちゃんと届いた。
「担架、先に医療棟。学徒は点呼。民間人は第三テント。迷子は作るな。増えると面倒くせぇ」
「迷子って作るものなんですか」
ユウトが言った。
「作られるんだよ、こういう時は」
「嫌な表現」
「現実的だろ」
ユウトは何か言い返そうとして、やめた。
眠そうだった。
目の下に影がある。
でも、隣の少年を支えていた。
林で崩れた、あの学徒兵だ。
少年はまだ黙っている。
自分の足で立ってはいるが、ユウトの袖を掴んでいた。
ユウトはその手を振り払わない。
カナタはそれを見て、少しだけ目を伏せた。
帰ってきた人間は、帰ってきた直後が一番壊れやすい。
たぶん。
まだ覚えたばかりのことだった。
小型輸送車の扉が開く。
中から、負傷者が順に降ろされる。
セナはすぐに医療班へ引き継いだ。
「右肩、貫通。感染注意。こっちは発熱。こっちは低体温。そっちは意識混濁。寝かせるな」
「了解!」
「寝かせるなって言った!」
「寝てません!」
「目が寝てる!」
怒鳴っている。
ずっと怒鳴っている。
でも、怒鳴っている間は大丈夫なのだと思った。
セナは怒鳴ることで立っている。
ガレスは煙草を咥えることで立っている。
ミナは工具箱を抱えることで立っている。
ユウトは誰かの袖を掴ませることで立っている。
カナタは。
カナタは何で立っているのか、まだよく分からなかった。
リゼは最後に車から降りた。
降りた、というより落ちかけた。
カナタが支える。
彼女の体は熱かった。
雪の中なのに、熱い。
「歩けますか」
「歩ける」
「昨日も聞きました」
「昨日は歩けた」
「今は」
「……半分」
「半分は歩けないです」
「厳しい」
リゼは少しだけ笑った。
その笑い方は、もう強がりを隠せていなかった。
セナが振り返る。
「リゼ!」
「はい」
「医療棟!」
「今行く」
「走らない!」
「走れない」
「ならよし!」
リゼはカナタの腕を借りたまま歩いた。
雪の上に、彼女の足跡が浅く残る。
学生靴の跡だった。
軍靴ではない。
その形が、妙に胸に残った。
医療棟へ向かう途中、学徒兵たちの点呼が始まった。
名前が呼ばれる。
返事がある。
名前が呼ばれる。
返事がある。
名前が呼ばれる。
返事がない。
そこで、少しだけ空気が止まる。
次の名前が呼ばれる。
返事がある。
その繰り返しだった。
カナタは点呼が嫌いだと思った。
数えるためには必要だ。
でも、返事のない名前は、数えるたびに新しく死ぬ。
一度死んだ人間が、点呼の中でもう一度消える。
それが嫌だった。
「……三十二」
リゼが小さく言った。
「はい」
「三十二いた」
カナタは答えられなかった。
今、ここにいるのは三十二ではない。
でも、ゼロでもない。
その差を、何と呼べばいいのか分からない。
勝利ではない。
成功でもない。
救出、という言葉も少し綺麗すぎる。
ただ、帰ってきた。
それだけだった。
医療棟の前で、リゼが立ち止まった。
「カナタさん」
「はい」
「学校、燃えた?」
カナタは振り返った。
遠くは見えない。
雪と雲で、もう学校の方角も分からない。
「地下だけです」
「そっか」
「全部ではないです」
「うん」
リゼは頷いた。
それが慰めになったのかどうか、カナタには分からなかった。
彼女はポケットから、あの軍手を取り出した。
文化祭の倉庫で拾ったもの。
誰かの名前が書かれている。
カナタには読めなかった。
リゼはそれを見て、少しだけ笑った。
「これ、持ってきちゃった」
「はい」
「持ってきてよかったのかな」
「分かりません」
「正直」
「すみません」
「謝らないで」
リゼは軍手を握る。
「でも、これだけあると、学校が全部なくなった感じはしない」
その言葉で、カナタは初めて少しだけ分かった。
帰るというのは、場所へ戻ることだけではない。
何かを持ってくることなのかもしれない。
人でも。
物でも。
名前でも。
匂いでも。
たとえ、それが燃えた文化祭の匂いだったとしても。
リゼは医療棟へ入っていった。
扉が閉まる。
消毒液の匂いが一瞬だけ外へ漏れた。
カナタはその場に残った。
何をするべきか分からなかった。
手は空いている。
銃は肩にある。
体は動く。
でも、動き方を忘れたみたいだった。
戻ってきた。
たぶん。
でも、戻った後に何をするのか、誰も教えてくれなかった。
基地の端に、古い自動販売機があった。
採掘基地時代のものらしい。
電源は入っていない。
商品見本の缶は日に焼けて色が抜け、値段表示も消えている。透明なパネルの内側には結露が凍りつき、そこだけ小さな冬の水槽みたいになっていた。
その前に、ミナが座っていた。
工具箱を抱えている。
「買えませんよ」
カナタが言うと、ミナは顔を上げた。
「知ってる」
「じゃあなぜ」
「自販機って、あると見ちゃうじゃん」
「分かるような」
「分かれ」
ミナは自販機のパネルを指で拭いた。
中の缶が少しだけ見える。
「オレンジソーダ」
「好きなんですか」
「別に」
「じゃあ」
「今なら飲みたい」
それはたぶん、オレンジソーダが飲みたいのではない。
オレンジソーダを選べる時間が欲しいのだ。
カナタはそう思った。
でも言わなかった。
言うと、少し恥ずかしい。
「三号車は?」
「死にかけ」
「直ります?」
「部品があれば」
「ない?」
「ない」
ミナは工具箱を抱え直した。
「でも、まだ死んでない」
「車も?」
「人も」
彼女はそう言って、立ち上がった。
少しふらついた。
でも、倒れなかった。
遠くで、ユウトが少年に水を飲ませていた。
少年はまだ黙っている。
でも、水は飲んだ。
それだけで十分だと、ユウトは何度も頷いていた。
セナは医療棟の中でまだ怒鳴っている。
ガレスはコンテナの影で火のつかない煙草を咥えている。
アイラは通信機の前に座り、また音を聞いている。
基地は騒がしい。
人が多い。
怪我人が多い。
泣いている声もある。
怒っている声もある。
でも、それは生きている音だった。
カナタは雪の上に立ったまま、南ではなく北でもなく、西でもなく、ただ空を見た。
低い雲。
見えない太陽。
それでも朝。
帰ってきた朝。
その時、拠点の警報が鳴った。
短く。
一度だけ。
全員が顔を上げる。
通信塔のスピーカーから、掠れた声が流れた。
『南方第三避難列、通信途絶』
ノイズ。
『繰り返す。南方第三避難列、通信途絶』
基地が静かになった。
ほんの一瞬。
それから、また動き出す。
怒鳴り声。
足音。
車両のエンジン。
担架の金具。
ミナが工具箱を持ち直す。
セナが医療棟から顔を出す。
ユウトがこちらを見る。
ガレスが煙草を咥えたまま歩いてくる。
「学生」
「はい」
「休めたか」
カナタは少し考えた。
休めていない。
でも、帰ってきた。
その二つは別だ。
「少しだけ」
「なら十分だ」
ガレスは南側の車庫を見た。
「車両起こすぞ」
カナタは医療棟を見た。
リゼがまだ中にいる。
学徒兵たちも。
ユウトが水を飲ませた少年も。
帰ってきた人たちは、まだここにいる。
そして、どこかでまた誰かが帰れなくなっている。
朝の雪は静かだった。
静かすぎて、エンジンの始動音がやけに大きく聞こえた。
カナタは手袋をはめ直した。
まだ湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ少しだけ、また湿った。
「悪化した」
小さく呟く。
ガレスが横で少し笑った。
「行くぞ」
カナタは頷いた。
戻ってきた。
でも、戻る前の自分には戻れない。
それでも。
まだ帰れる人がいるなら、行くしかなかった。