帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十三話 休み時間

 帰還拠点《ハウンド七》の朝は、たいてい灰色だった。

 空が低い。

 雪雲が低い。

 人の声も低い。

 眠っているのか起きているのか分からない顔をした兵士たちが、湯気の薄い食堂へ吸い込まれていく。靴底についた雪が床で溶けて、水になる。誰かが雑に拭く。また濡れる。灯油ストーブが赤い腹を見せながら唸っている。ストーブの近くは暖かい。でも、そこだけだった。

 世界は広いのに、暖かい場所はびっくりするほど狭い。

 カナタは食堂の隅に座って、木の椀を両手で包んでいた。

 豆のスープ。

 相変わらず薄い。

 豆は二粒。

 昨日は三粒だった気がする。

 気のせいかもしれない。

 こういう場所では、豆の数が記憶に残る。

 大きなことは忘れる。

 撤退した場所とか。

 撃った数とか。

 誰を置いてきたとか。

 そういうものは曖昧になる。

 でも豆の数は覚えている。

 人間の頭は、たぶん戦争向きにできていない。

「カナタさん」

 ユウトが向かいへ座った。

 椀を置く。

 中身を見る。

「負けました」

「何に」

「豆です」

 椀を傾ける。

 一粒。

 カナタは少し考えてから言った。

「今日は調子悪いですね」

「豆運が?」

「全体的に」

「嫌な予言やめてください」

 ユウトは笑った。

 でも少し眠そうだった。

 目の下が青い。

 昨日、南方第三避難列から戻ってきてから、ほとんど寝ていないはずだ。

 みんなそうだった。

 帰還拠点という名前なのに、帰ってきても休めない。

 休んだ瞬間に、別の列が消える。

 どこかで誰かが立ち止まる。

 誰かが道を間違える。

 誰かが荷物を持ちすぎる。

 そういうことで、人は死ぬ。

 レイスに食われる前に。

 雪に埋まる前に。

 まず、人間は列から落ちる。

 カナタはスープを飲んだ。

 温かい。

 味は薄い。

 でも胃に落ちると、体の内側に小さな灯りがつくみたいだった。

 遠い昔、冬の体育館で飲んだ缶コーンスープを思い出した。

 部活帰り。

 自販機。

 白い息。

 手袋。

 そういうものを思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなる。

 今はもう、自販機に缶スープはない。

 あるのは壊れた自販機と、空っぽの棚だけだ。

 その空っぽの中から、昨日ミナがオレンジソーダを一本だけ引っ張り出してきた。

 まるで化石みたいに。

 タクトはその缶をまだ持っていた。

 食堂の端。

 毛布にくるまって座っている。

 腰には布を巻いた空き缶。

 揺れても音がしない。

 ユウトが巻いた布だ。

 あれ以来、タクトは時々、無意識に缶へ触る。

 銃より先に。

 たぶん、確認している。

 帰ってきたことを。

「おはようございます」

 リゼが来た。

 いつもの学生靴。

 医療棟の患者服の上から、サイズの大きい軍用コートを羽織っている。毛布は今日はない。代わりに首へ白いタオルを巻いていた。

 病人なのか、体育祭後なのか分からない格好だった。

「医療棟は」

「自主休講」

「学校じゃないんですから」

「じゃあ自主欠勤」

「もっと悪い」

 リゼはカナタの隣へ座った。

 椅子が軋む。

 ストーブの赤い光が、彼女の頬を少しだけ暖かそうに見せた。

 でも、顔色はまだ悪い。

 白い。

 雪みたいに白い。

「熱」

「ある」

「戻ってください」

「やだ」

「即答」

「食堂の方が生きてる感じする」

 リゼはそう言って、配給されたスープを覗き込んだ。

「少な」

「はい」

「豆二粒?」

「今日は当たりです」

「この世界、基準が終わってる」

 ユウトが小さく吹き出した。

 食堂の窓は曇っていた。

 誰かが指で落書きをしている。

 丸い顔。

 変な耳。

 たぶんレイスのつもりだ。

 でも下手すぎて雪だるまにしか見えない。

 その横に、小さな字で《帰還順守》と書いてあった。

 誰が書いたんだろう。

 カナタはぼんやり考えた。

 その時、食堂の入口が開いた。

 冷たい風。

 雪。

 それからミナ。

 工具箱を抱えている。

 頬に黒い油。

 髪にも雪。

「三号車、死にそう」

「いつもでは」

「今日は特に」

「違いが分からないです」

「車には分かる」

 ミナはストーブの前へ行って、しゃがみ込んだ。

 両手をかざす。

 しばらく無言。

 その姿が妙に子供っぽかった。

 戦争が始まる前なら、こういう人はゲームセンターとかにいた気がする。

 徹夜明けの顔で。

 ジャージ姿で。

 コンビニの肉まんとか食べながら。

 そういうどうでもいい記憶が、最近やけに頭へ浮かぶ。

 死にそうな時ほど、人間は関係ないことを思い出す。

「タクト」

 ミナが言った。

「はい」

「缶まだ持ってるんだ」

「軽いので」

「便利な言葉だなぁ、それ」

 タクトは少し困った顔をした。

「置いていく理由より、持っていく理由の方が少ないと、逆に捨てられなくなるんです」

 食堂が少し静かになった。

 タクト自身、言ってから驚いた顔をしていた。

 たぶん考えて言ったわけじゃない。

 口から出た。

 帰還した人間の言葉は、時々そういう出方をする。

 自分でも知らない場所から。

 リゼが小さく言う。

「分かる」

 彼女はポケットから軍手を出した。

 文化祭倉庫で拾った軍手。

 白かったはずなのに、今は灰色だった。

「これ、別に必要じゃないんだよね」

「はい」

 カナタは答えた。

「でも、ないと嫌」

 その言葉は静かだった。

 食堂の音が少し遠くなる。

 スプーン。

 咳。

 ストーブ。

 誰かの笑い声。

 全部が少しだけ遠い。

 リゼは軍手を見ていた。

「学校ってさ」

 彼女は言った。

「なんか、全部くだらなかったじゃん」

「……」

「体育祭とか。文化祭とか。購買パン争奪戦とか」

「最後だけ妙に命懸けですね」

「実際命懸けだったし」

 少し笑う。

 でも、その笑いはすぐ消えた。

「なのに、なくなると、ああいうのしか思い出せない」

 カナタは返事ができなかった。

 たぶん、みんなそうなのだ。

 世界が壊れる時、人は立派なものを覚えていない。

 教科書とか。

 校訓とか。

 正義とか。

 そういうものは案外残らない。

 残るのは、昼休みの匂いとか。

 濡れた廊下とか。

 購買パンとか。

 くだらない悪口とか。

 そういうものだ。

 だから、人は帰りたがる。

 世界ではなく。

 どうでもよかった日常へ。

 その時、食堂の奥で椅子が倒れた。

 全員が反射的に顔を上げる。

 一瞬で静かになる。

 倒れたのは、ただの椅子だった。

 年配の避難民が謝りながら拾っている。

 誰かが笑った。

 でも、その笑いは少し硬かった。

 みんな、音に慣れすぎている。

 大きな音がすると、まず死を考える。

 そういう体になっている。

 カナタは窓の外を見た。

 雪。

 灰色の空。

 防雪柵。

 その向こうに続く道。

 帰還拠点の周囲には、道が多すぎた。

 どこからでも来られる。

 どこへでも行ける。

 そして、どこでも消える。

 だから無意識に出口を見てしまう。

 どこが詰まるか。

 どこで列が折れるか。

 どこへ逃がせるか。

 それを考えている自分に気づいて、少し気持ち悪くなった。

「また見てる」

 リゼが言った。

「はい」

「何が見えるの」

 カナタは少し考えた。

 でも、上手く言葉にならない。

「……帰れなくなる場所です」

 リゼはしばらく黙っていた。

 それから軍手を握る。

「嫌な能力」

「はい」

「でも、たぶん必要」

 その言葉が終わるのとほとんど同時だった。

 通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 食堂の空気が変わる。

 ストーブの音だけが妙に大きく聞こえた。

 アイラの声。

 ノイズ混じり。

『南方第三避難列、再呼び出し』

 短い沈黙。

『応答なし』

 雪が降っていた。

 静かに。

 さっきまで、豆の数で話していた食堂が、一瞬で戦場へ戻る。

 ガレスが入口に現れた。

 火のついていない煙草。

 くたびれたコート。

 眠そうな目。

 でも、その目だけが起きている。

「休み時間、終わりだ」

 誰も返事をしなかった。

 返事をしなくても、全員立ち上がっていたからだ。

 ユウトが銃を取る。

 ミナが工具箱を閉じる。

 タクトが缶を押さえる。

 リゼが軍手をポケットへ戻す。

 ストーブの赤い光が、誰もいなくなる食堂を照らしていた。

 湯気だけが残る。

 帰りそこねた白い息みたいに。

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