帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
帰還拠点《ハウンド七》の朝は、たいてい灰色だった。
空が低い。
雪雲が低い。
人の声も低い。
眠っているのか起きているのか分からない顔をした兵士たちが、湯気の薄い食堂へ吸い込まれていく。靴底についた雪が床で溶けて、水になる。誰かが雑に拭く。また濡れる。灯油ストーブが赤い腹を見せながら唸っている。ストーブの近くは暖かい。でも、そこだけだった。
世界は広いのに、暖かい場所はびっくりするほど狭い。
カナタは食堂の隅に座って、木の椀を両手で包んでいた。
豆のスープ。
相変わらず薄い。
豆は二粒。
昨日は三粒だった気がする。
気のせいかもしれない。
こういう場所では、豆の数が記憶に残る。
大きなことは忘れる。
撤退した場所とか。
撃った数とか。
誰を置いてきたとか。
そういうものは曖昧になる。
でも豆の数は覚えている。
人間の頭は、たぶん戦争向きにできていない。
「カナタさん」
ユウトが向かいへ座った。
椀を置く。
中身を見る。
「負けました」
「何に」
「豆です」
椀を傾ける。
一粒。
カナタは少し考えてから言った。
「今日は調子悪いですね」
「豆運が?」
「全体的に」
「嫌な予言やめてください」
ユウトは笑った。
でも少し眠そうだった。
目の下が青い。
昨日、南方第三避難列から戻ってきてから、ほとんど寝ていないはずだ。
みんなそうだった。
帰還拠点という名前なのに、帰ってきても休めない。
休んだ瞬間に、別の列が消える。
どこかで誰かが立ち止まる。
誰かが道を間違える。
誰かが荷物を持ちすぎる。
そういうことで、人は死ぬ。
レイスに食われる前に。
雪に埋まる前に。
まず、人間は列から落ちる。
カナタはスープを飲んだ。
温かい。
味は薄い。
でも胃に落ちると、体の内側に小さな灯りがつくみたいだった。
遠い昔、冬の体育館で飲んだ缶コーンスープを思い出した。
部活帰り。
自販機。
白い息。
手袋。
そういうものを思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなる。
今はもう、自販機に缶スープはない。
あるのは壊れた自販機と、空っぽの棚だけだ。
その空っぽの中から、昨日ミナがオレンジソーダを一本だけ引っ張り出してきた。
まるで化石みたいに。
タクトはその缶をまだ持っていた。
食堂の端。
毛布にくるまって座っている。
腰には布を巻いた空き缶。
揺れても音がしない。
ユウトが巻いた布だ。
あれ以来、タクトは時々、無意識に缶へ触る。
銃より先に。
たぶん、確認している。
帰ってきたことを。
「おはようございます」
リゼが来た。
いつもの学生靴。
医療棟の患者服の上から、サイズの大きい軍用コートを羽織っている。毛布は今日はない。代わりに首へ白いタオルを巻いていた。
病人なのか、体育祭後なのか分からない格好だった。
「医療棟は」
「自主休講」
「学校じゃないんですから」
「じゃあ自主欠勤」
「もっと悪い」
リゼはカナタの隣へ座った。
椅子が軋む。
ストーブの赤い光が、彼女の頬を少しだけ暖かそうに見せた。
でも、顔色はまだ悪い。
白い。
雪みたいに白い。
「熱」
「ある」
「戻ってください」
「やだ」
「即答」
「食堂の方が生きてる感じする」
リゼはそう言って、配給されたスープを覗き込んだ。
「少な」
「はい」
「豆二粒?」
「今日は当たりです」
「この世界、基準が終わってる」
ユウトが小さく吹き出した。
食堂の窓は曇っていた。
誰かが指で落書きをしている。
丸い顔。
変な耳。
たぶんレイスのつもりだ。
でも下手すぎて雪だるまにしか見えない。
その横に、小さな字で《帰還順守》と書いてあった。
誰が書いたんだろう。
カナタはぼんやり考えた。
その時、食堂の入口が開いた。
冷たい風。
雪。
それからミナ。
工具箱を抱えている。
頬に黒い油。
髪にも雪。
「三号車、死にそう」
「いつもでは」
「今日は特に」
「違いが分からないです」
「車には分かる」
ミナはストーブの前へ行って、しゃがみ込んだ。
両手をかざす。
しばらく無言。
その姿が妙に子供っぽかった。
戦争が始まる前なら、こういう人はゲームセンターとかにいた気がする。
徹夜明けの顔で。
ジャージ姿で。
コンビニの肉まんとか食べながら。
そういうどうでもいい記憶が、最近やけに頭へ浮かぶ。
死にそうな時ほど、人間は関係ないことを思い出す。
「タクト」
ミナが言った。
「はい」
「缶まだ持ってるんだ」
「軽いので」
「便利な言葉だなぁ、それ」
タクトは少し困った顔をした。
「置いていく理由より、持っていく理由の方が少ないと、逆に捨てられなくなるんです」
食堂が少し静かになった。
タクト自身、言ってから驚いた顔をしていた。
たぶん考えて言ったわけじゃない。
口から出た。
帰還した人間の言葉は、時々そういう出方をする。
自分でも知らない場所から。
リゼが小さく言う。
「分かる」
彼女はポケットから軍手を出した。
文化祭倉庫で拾った軍手。
白かったはずなのに、今は灰色だった。
「これ、別に必要じゃないんだよね」
「はい」
カナタは答えた。
「でも、ないと嫌」
その言葉は静かだった。
食堂の音が少し遠くなる。
スプーン。
咳。
ストーブ。
誰かの笑い声。
全部が少しだけ遠い。
リゼは軍手を見ていた。
「学校ってさ」
彼女は言った。
「なんか、全部くだらなかったじゃん」
「……」
「体育祭とか。文化祭とか。購買パン争奪戦とか」
「最後だけ妙に命懸けですね」
「実際命懸けだったし」
少し笑う。
でも、その笑いはすぐ消えた。
「なのに、なくなると、ああいうのしか思い出せない」
カナタは返事ができなかった。
たぶん、みんなそうなのだ。
世界が壊れる時、人は立派なものを覚えていない。
教科書とか。
校訓とか。
正義とか。
そういうものは案外残らない。
残るのは、昼休みの匂いとか。
濡れた廊下とか。
購買パンとか。
くだらない悪口とか。
そういうものだ。
だから、人は帰りたがる。
世界ではなく。
どうでもよかった日常へ。
その時、食堂の奥で椅子が倒れた。
全員が反射的に顔を上げる。
一瞬で静かになる。
倒れたのは、ただの椅子だった。
年配の避難民が謝りながら拾っている。
誰かが笑った。
でも、その笑いは少し硬かった。
みんな、音に慣れすぎている。
大きな音がすると、まず死を考える。
そういう体になっている。
カナタは窓の外を見た。
雪。
灰色の空。
防雪柵。
その向こうに続く道。
帰還拠点の周囲には、道が多すぎた。
どこからでも来られる。
どこへでも行ける。
そして、どこでも消える。
だから無意識に出口を見てしまう。
どこが詰まるか。
どこで列が折れるか。
どこへ逃がせるか。
それを考えている自分に気づいて、少し気持ち悪くなった。
「また見てる」
リゼが言った。
「はい」
「何が見えるの」
カナタは少し考えた。
でも、上手く言葉にならない。
「……帰れなくなる場所です」
リゼはしばらく黙っていた。
それから軍手を握る。
「嫌な能力」
「はい」
「でも、たぶん必要」
その言葉が終わるのとほとんど同時だった。
通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
食堂の空気が変わる。
ストーブの音だけが妙に大きく聞こえた。
アイラの声。
ノイズ混じり。
『南方第三避難列、再呼び出し』
短い沈黙。
『応答なし』
雪が降っていた。
静かに。
さっきまで、豆の数で話していた食堂が、一瞬で戦場へ戻る。
ガレスが入口に現れた。
火のついていない煙草。
くたびれたコート。
眠そうな目。
でも、その目だけが起きている。
「休み時間、終わりだ」
誰も返事をしなかった。
返事をしなくても、全員立ち上がっていたからだ。
ユウトが銃を取る。
ミナが工具箱を閉じる。
タクトが缶を押さえる。
リゼが軍手をポケットへ戻す。
ストーブの赤い光が、誰もいなくなる食堂を照らしていた。
湯気だけが残る。
帰りそこねた白い息みたいに。