帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十四話 避難列の授業

 授業は、朝の雪の中で始まった。

 チャイムは鳴らなかった。

 黒板もなかった。

 教室もない。

 あるのは、食堂裏の空き地と、半分だけ雪に埋まった輸送車と、昨日まで避難民だった学徒兵たちだった。空は低く、雪は細かく、吐いた息はすぐに白くなった。遠くの整備場から、金属を叩く音がした。かん、かん、かん。誰かが壊れた車にまだ生きていると言い聞かせている音だった。

 朝のハウンド七は、学校に似ている。

 そう思った。

 校庭の代わりに雪の空き地があって、体育館の代わりに格納庫があって、朝礼台の代わりに弾薬箱がある。生徒の列はそろっていない。教師はいない。代わりに、ガレスが火のつかない煙草を咥え、ミナが工具箱を蹴り、セナが誰かに「寝るな」と怒鳴っている。

 それでも、少しだけ学校に似ている。

 たぶん、人が集まって、何かを覚えようとしているからだ。

 それが、テストの範囲ではなく、生きて帰るための手順だとしても。

「寒い」

 リゼが言った。

 毛布を肩からかぶっている。

 患者服の上に軍用コート。その上から毛布。首には白いタオル。靴はまだ学生靴。

 全体的に、病人なのか、冬の遠足に遅刻した人なのか分からない。

「医療棟に戻れば暖かいですよ」

 カナタが言うと、リゼは首を横に振った。

「医療棟は怒られる」

「ここでも怒られます」

「外だと逃げ道がある」

「患者の発想ではないです」

 リゼは少しだけ笑った。

 笑って、咳をした。

 セナが遠くからこちらを見る。

 リゼはすぐに背筋を伸ばした。

「今のは寒さ」

「何も言ってません」

「言われる前に弁明」

「有罪っぽいです」

 学徒兵たちが小さく笑った。

 笑い声は、雪に吸われてすぐ消えた。

 それくらいがちょうどよかった。

 大きく笑うには、みんな少し疲れすぎている。

 カナタは足元の雪を棒でならした。

 白い面ができる。

 そこへ一本、線を引いた。

 長い線。

 曲がりもない。

 ただの線。

「これが避難列です」

 言った直後、すごく間抜けだと思った。

 線を引いて、これが列です。

 子供向けの授業みたいだ。

 でも、誰も笑わなかった。

 昨日、彼らは列から落ちかけた。

 その前の日には学校を出た。

 その前には、たぶん学校だったものの中で、日直の名前を消した。

 だから、雪に引かれたただの線を、ちゃんと見ている。

「列って、ただ並ぶだけじゃないんですね」

 タクトが言った。

 腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶。

 音はしない。

 でも、そこにある。

「ただ並ぶだけなら、崩れます」

 カナタは線の前に小さな四角を描いた。

「先頭」

 真ん中に丸をいくつか。

「中央」

 最後にまた四角。

「最後尾」

 ユウトが腕を組んで頷いた。

「なるほど。図解されると急に授業感出ますね」

「分かりやすいですか」

「板書は下手です」

 リゼが言った。

「教師陣の評価が厳しい」

「生徒側です」

「じゃあ生徒の評価が厳しい」

 少し笑い。

 カナタは線を指した。

「先頭は前を見ます。最後尾は後ろを見ます。じゃあ中央は何を見ると思いますか」

 誰もすぐ答えなかった。

 風が吹く。

 線の端に雪の粉がかかる。

 タクトが小さく言った。

「……隣?」

 カナタは頷いた。

「はい。隣と、自分の荷物と、前の背中です」

「多い」

「多いです」

「中央、地味に忙しいですね」

「一番崩れやすいです」

 その言葉で、少し空気が変わった。

 第一部の頃、カナタは最後尾ばかり見ていた。

 後ろから黒い影が来る。

 後ろを守らなければ帰れない。

 そう思っていた。

 でも、違った。

 列は後ろからだけ壊れるわけではない。

 中央から壊れる。

 荷物から壊れる。

 声から壊れる。

 誰かが「自分は大丈夫」と言った瞬間に壊れることもある。

「歩ける人」

 カナタは線の横に丸を描いた。

「歩けない人」

 その横に、小さな丸。

「歩けると言い張るけど歩けない人」

 リゼが顔を上げた。

「こっち見た?」

「見てません」

「絶対見た」

「教材として」

「教材扱いされた」

 学徒兵たちが笑う。

 リゼは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに咳をした。

 セナがまたこちらを見る。

 今度はリゼだけでなく、カナタまで背筋が伸びた。

「歩けると言い張る人は、だいたい列を壊します」

 カナタは続けた。

「悪気はありません。むしろ、いい人が多いです。迷惑をかけたくない。置いていかれたくない。だから大丈夫と言う」

 雪の上の丸が、少し滲んでいく。

「でも、その人が倒れると、周りが止まります。止まると後ろが詰まります。詰まると、列が折れます」

 リゼは黙っていた。

 毛布の端を握っている。

 自分の話だと分かっている顔だった。

 でも、たぶんリゼだけの話ではない。

 ここにいる全員の話だ。

 カナタ自身の話でもある。

 大丈夫ではないのに、大丈夫な顔をする。

 それは戦場では優しさに見える。

 でも列にとっては、時々危険になる。

 それを言葉にしてしまう自分が、少し嫌だった。

「じゃあ、どう見分けるんですか」

 タクトが訊いた。

 セナが近づいてきた。

 いつの間にか隣にいる。

 寒いのに袖をまくっている。

 腕に包帯の切れ端が巻きついている。

「顔色。息。手。返事」

 短い。

「大丈夫ですって即答する奴は、だいたい大丈夫じゃない」

 リゼが目を逸らした。

 ユウトも目を逸らした。

 タクトも何となく目を逸らした。

 カナタも少し目を逸らした。

 セナが全員を見た。

「全員、心当たりある顔」

「人類に刺さる指摘ですね」

 ユウトが言った。

「黙れ、豆一粒」

「個人情報が豆で管理されてる」

 少しだけ空気が戻る。

 セナはカナタの棒を奪い、雪に大きく丸を描いた。

「これは倒れる前の人」

「絵が強いですね」

「黙って聞く」

「はい」

 セナは丸の横に小さな線を引いた。

「この人を支える人が一人必要。支える人を支える人もいる。だから、倒れる人は一人でも、列は三人分遅れる」

 学徒兵たちが静かになる。

 セナの言葉は、医療の話なのに、作戦の話より怖かった。

 人間は一人で倒れない。

 周りを引っ張る。

 助ける側も止まる。

 それが列だ。

「じゃあ、最初から言う」

 セナは言った。

「歩けないなら歩けないと言え。痛いなら痛いと言え。怖いなら怖いと言え。隠すな。隠す方が迷惑」

 かなり強い言い方だった。

 でも、誰も反発しなかった。

 たぶん優しさだと分かったからだ。

 優しい声ではなかった。

 でも優しかった。

 ミナが三号車の下から顔を出した。

「次、積載の授業やる?」

「やります」

「はい問題」

 彼女は雪の上に工具を置いた。

「人間十二人、医療箱二つ、水二箱、毛布五枚、弾薬箱一つ。車は死にかけ。何を降ろす?」

 ユウトが手を上げた。

「車を励ます」

「精神論は整備項目にありません」

「じゃあ弾薬」

「場合による」

「全部場合によるじゃないですか」

「そうだよ」

 ミナは立ち上がった。

 頬に油。

 手袋は濡れている。

「避難列って、答えがあるようでない。距離が短いなら水を降ろす。戦闘が近いなら弾薬は残す。凍死しそうなら毛布を残す。車が死にそうなら全部軽くする」

「人間は?」

 タクトが訊いた。

 ミナは少し黙った。

「人間は、降ろさないために考える」

 その言葉だけ、少し違う温度だった。

 軽く言ったのに、重かった。

 カナタはミナを見た。

 彼女は三号車の方を見ていた。

 車に謝れと言う人だ。

 でも、彼女の中では、車は人を降ろさないために死にかけるものなのかもしれない。

 だから怒る。

 だから蹴る。

 だから直す。

「荷物は一つまで」

 カナタは言った。

 学徒兵たちがこちらを見る。

「大きい荷物は一つ。小さいものはポケット。音が鳴るものは布で巻く。手が塞がるものは持たない」

 タクトが自分の缶を押さえた。

 リゼが軍手をポケットの中で握った。

 その二つは、たぶん許される。

 役には立たない。

 でも、なくすと少し壊れる。

 カナタはそれを最近知った。

 人は、役に立つものだけでは帰れない。

 でも、役に立たないものだけでは生きられない。

 その間を選ぶ。

 それが荷物の授業だった。

 いや。

 たぶん、帰るための授業だった。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 全員の顔が上がる。

 さっきまで雪の上に線を引いていた空き地が、一瞬で戦場の入口になる。

 アイラの声。

『南方第三避難列、信号再捕捉』

 ノイズ。

『位置、想定より東に逸脱』

 風が吹いた。

 雪の上の線が少し消える。

 先頭。

 中央。

 最後尾。

 歩ける人。

 歩けない人。

 歩けると言い張る人。

 全部、雪の中で崩れていく。

 ガレスが歩いてきた。

 煙草を咥えている。

 火はついていない。

「列が割れたらしい」

 誰もすぐには喋らなかった。

 授業でやったばかりだった。

 雪の上の線。

 それが、どこかで本当に割れている。

 リゼが小さく言った。

「実地?」

「嫌な言い方ですね」

「でも、そうでしょ」

 カナタは南門を見た。

 雪の向こうに道がある。

 その道のどこかで、人間が分かれている。

 正しい理由を抱えたまま。

 間違った方向へ。

 カナタは手袋をはめ直した。

 湿っている。

 息を吹きかけても温かくならない。

「授業は終わりです」

 自分で言って、少しだけ胸が冷えた。

 終わるのが早すぎる。

 休み時間も。

 授業も。

 人が普通でいられる時間は、いつも短い。

 ユウトが銃を取る。

 タクトが缶を布の上から押さえる。

 ミナが工具箱を閉める。

 セナが医療袋を肩にかける。

 リゼが毛布を外した。

 セナがすぐに言った。

「リゼは医療棟」

「今の聞こえなかった」

「聞こえてる」

「耳が一時撤退した」

「戻せ」

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いはすぐにエンジン音へ飲まれた。

 雪の上に残った線は、車両の轍で消えていく。

 でも、消えたわけではない。

 誰かの頭の中に残る。

 先頭。

 中央。

 最後尾。

 列はただ並ぶものではない。

 帰るために作るものだ。

 そのことを、たぶん全員が少しだけ覚えてしまった。

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