帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
授業は、朝の雪の中で始まった。
チャイムは鳴らなかった。
黒板もなかった。
教室もない。
あるのは、食堂裏の空き地と、半分だけ雪に埋まった輸送車と、昨日まで避難民だった学徒兵たちだった。空は低く、雪は細かく、吐いた息はすぐに白くなった。遠くの整備場から、金属を叩く音がした。かん、かん、かん。誰かが壊れた車にまだ生きていると言い聞かせている音だった。
朝のハウンド七は、学校に似ている。
そう思った。
校庭の代わりに雪の空き地があって、体育館の代わりに格納庫があって、朝礼台の代わりに弾薬箱がある。生徒の列はそろっていない。教師はいない。代わりに、ガレスが火のつかない煙草を咥え、ミナが工具箱を蹴り、セナが誰かに「寝るな」と怒鳴っている。
それでも、少しだけ学校に似ている。
たぶん、人が集まって、何かを覚えようとしているからだ。
それが、テストの範囲ではなく、生きて帰るための手順だとしても。
「寒い」
リゼが言った。
毛布を肩からかぶっている。
患者服の上に軍用コート。その上から毛布。首には白いタオル。靴はまだ学生靴。
全体的に、病人なのか、冬の遠足に遅刻した人なのか分からない。
「医療棟に戻れば暖かいですよ」
カナタが言うと、リゼは首を横に振った。
「医療棟は怒られる」
「ここでも怒られます」
「外だと逃げ道がある」
「患者の発想ではないです」
リゼは少しだけ笑った。
笑って、咳をした。
セナが遠くからこちらを見る。
リゼはすぐに背筋を伸ばした。
「今のは寒さ」
「何も言ってません」
「言われる前に弁明」
「有罪っぽいです」
学徒兵たちが小さく笑った。
笑い声は、雪に吸われてすぐ消えた。
それくらいがちょうどよかった。
大きく笑うには、みんな少し疲れすぎている。
カナタは足元の雪を棒でならした。
白い面ができる。
そこへ一本、線を引いた。
長い線。
曲がりもない。
ただの線。
「これが避難列です」
言った直後、すごく間抜けだと思った。
線を引いて、これが列です。
子供向けの授業みたいだ。
でも、誰も笑わなかった。
昨日、彼らは列から落ちかけた。
その前の日には学校を出た。
その前には、たぶん学校だったものの中で、日直の名前を消した。
だから、雪に引かれたただの線を、ちゃんと見ている。
「列って、ただ並ぶだけじゃないんですね」
タクトが言った。
腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶。
音はしない。
でも、そこにある。
「ただ並ぶだけなら、崩れます」
カナタは線の前に小さな四角を描いた。
「先頭」
真ん中に丸をいくつか。
「中央」
最後にまた四角。
「最後尾」
ユウトが腕を組んで頷いた。
「なるほど。図解されると急に授業感出ますね」
「分かりやすいですか」
「板書は下手です」
リゼが言った。
「教師陣の評価が厳しい」
「生徒側です」
「じゃあ生徒の評価が厳しい」
少し笑い。
カナタは線を指した。
「先頭は前を見ます。最後尾は後ろを見ます。じゃあ中央は何を見ると思いますか」
誰もすぐ答えなかった。
風が吹く。
線の端に雪の粉がかかる。
タクトが小さく言った。
「……隣?」
カナタは頷いた。
「はい。隣と、自分の荷物と、前の背中です」
「多い」
「多いです」
「中央、地味に忙しいですね」
「一番崩れやすいです」
その言葉で、少し空気が変わった。
第一部の頃、カナタは最後尾ばかり見ていた。
後ろから黒い影が来る。
後ろを守らなければ帰れない。
そう思っていた。
でも、違った。
列は後ろからだけ壊れるわけではない。
中央から壊れる。
荷物から壊れる。
声から壊れる。
誰かが「自分は大丈夫」と言った瞬間に壊れることもある。
「歩ける人」
カナタは線の横に丸を描いた。
「歩けない人」
その横に、小さな丸。
「歩けると言い張るけど歩けない人」
リゼが顔を上げた。
「こっち見た?」
「見てません」
「絶対見た」
「教材として」
「教材扱いされた」
学徒兵たちが笑う。
リゼは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに咳をした。
セナがまたこちらを見る。
今度はリゼだけでなく、カナタまで背筋が伸びた。
「歩けると言い張る人は、だいたい列を壊します」
カナタは続けた。
「悪気はありません。むしろ、いい人が多いです。迷惑をかけたくない。置いていかれたくない。だから大丈夫と言う」
雪の上の丸が、少し滲んでいく。
「でも、その人が倒れると、周りが止まります。止まると後ろが詰まります。詰まると、列が折れます」
リゼは黙っていた。
毛布の端を握っている。
自分の話だと分かっている顔だった。
でも、たぶんリゼだけの話ではない。
ここにいる全員の話だ。
カナタ自身の話でもある。
大丈夫ではないのに、大丈夫な顔をする。
それは戦場では優しさに見える。
でも列にとっては、時々危険になる。
それを言葉にしてしまう自分が、少し嫌だった。
「じゃあ、どう見分けるんですか」
タクトが訊いた。
セナが近づいてきた。
いつの間にか隣にいる。
寒いのに袖をまくっている。
腕に包帯の切れ端が巻きついている。
「顔色。息。手。返事」
短い。
「大丈夫ですって即答する奴は、だいたい大丈夫じゃない」
リゼが目を逸らした。
ユウトも目を逸らした。
タクトも何となく目を逸らした。
カナタも少し目を逸らした。
セナが全員を見た。
「全員、心当たりある顔」
「人類に刺さる指摘ですね」
ユウトが言った。
「黙れ、豆一粒」
「個人情報が豆で管理されてる」
少しだけ空気が戻る。
セナはカナタの棒を奪い、雪に大きく丸を描いた。
「これは倒れる前の人」
「絵が強いですね」
「黙って聞く」
「はい」
セナは丸の横に小さな線を引いた。
「この人を支える人が一人必要。支える人を支える人もいる。だから、倒れる人は一人でも、列は三人分遅れる」
学徒兵たちが静かになる。
セナの言葉は、医療の話なのに、作戦の話より怖かった。
人間は一人で倒れない。
周りを引っ張る。
助ける側も止まる。
それが列だ。
「じゃあ、最初から言う」
セナは言った。
「歩けないなら歩けないと言え。痛いなら痛いと言え。怖いなら怖いと言え。隠すな。隠す方が迷惑」
かなり強い言い方だった。
でも、誰も反発しなかった。
たぶん優しさだと分かったからだ。
優しい声ではなかった。
でも優しかった。
ミナが三号車の下から顔を出した。
「次、積載の授業やる?」
「やります」
「はい問題」
彼女は雪の上に工具を置いた。
「人間十二人、医療箱二つ、水二箱、毛布五枚、弾薬箱一つ。車は死にかけ。何を降ろす?」
ユウトが手を上げた。
「車を励ます」
「精神論は整備項目にありません」
「じゃあ弾薬」
「場合による」
「全部場合によるじゃないですか」
「そうだよ」
ミナは立ち上がった。
頬に油。
手袋は濡れている。
「避難列って、答えがあるようでない。距離が短いなら水を降ろす。戦闘が近いなら弾薬は残す。凍死しそうなら毛布を残す。車が死にそうなら全部軽くする」
「人間は?」
タクトが訊いた。
ミナは少し黙った。
「人間は、降ろさないために考える」
その言葉だけ、少し違う温度だった。
軽く言ったのに、重かった。
カナタはミナを見た。
彼女は三号車の方を見ていた。
車に謝れと言う人だ。
でも、彼女の中では、車は人を降ろさないために死にかけるものなのかもしれない。
だから怒る。
だから蹴る。
だから直す。
「荷物は一つまで」
カナタは言った。
学徒兵たちがこちらを見る。
「大きい荷物は一つ。小さいものはポケット。音が鳴るものは布で巻く。手が塞がるものは持たない」
タクトが自分の缶を押さえた。
リゼが軍手をポケットの中で握った。
その二つは、たぶん許される。
役には立たない。
でも、なくすと少し壊れる。
カナタはそれを最近知った。
人は、役に立つものだけでは帰れない。
でも、役に立たないものだけでは生きられない。
その間を選ぶ。
それが荷物の授業だった。
いや。
たぶん、帰るための授業だった。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
全員の顔が上がる。
さっきまで雪の上に線を引いていた空き地が、一瞬で戦場の入口になる。
アイラの声。
『南方第三避難列、信号再捕捉』
ノイズ。
『位置、想定より東に逸脱』
風が吹いた。
雪の上の線が少し消える。
先頭。
中央。
最後尾。
歩ける人。
歩けない人。
歩けると言い張る人。
全部、雪の中で崩れていく。
ガレスが歩いてきた。
煙草を咥えている。
火はついていない。
「列が割れたらしい」
誰もすぐには喋らなかった。
授業でやったばかりだった。
雪の上の線。
それが、どこかで本当に割れている。
リゼが小さく言った。
「実地?」
「嫌な言い方ですね」
「でも、そうでしょ」
カナタは南門を見た。
雪の向こうに道がある。
その道のどこかで、人間が分かれている。
正しい理由を抱えたまま。
間違った方向へ。
カナタは手袋をはめ直した。
湿っている。
息を吹きかけても温かくならない。
「授業は終わりです」
自分で言って、少しだけ胸が冷えた。
終わるのが早すぎる。
休み時間も。
授業も。
人が普通でいられる時間は、いつも短い。
ユウトが銃を取る。
タクトが缶を布の上から押さえる。
ミナが工具箱を閉める。
セナが医療袋を肩にかける。
リゼが毛布を外した。
セナがすぐに言った。
「リゼは医療棟」
「今の聞こえなかった」
「聞こえてる」
「耳が一時撤退した」
「戻せ」
少しだけ笑いが起きた。
笑いはすぐにエンジン音へ飲まれた。
雪の上に残った線は、車両の轍で消えていく。
でも、消えたわけではない。
誰かの頭の中に残る。
先頭。
中央。
最後尾。
列はただ並ぶものではない。
帰るために作るものだ。
そのことを、たぶん全員が少しだけ覚えてしまった。