帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

15 / 15
第十五話 いなくなった列

 南方第三避難列は、敵に襲われたわけではなかった。

 少なくとも、最初は。

 そのことが分かるまでに、少し時間がかかった。

 雪の上には、答えが残っている。

 轍。

 足跡。

 落ちた荷物。

 途中で止まった車両の黒い排気跡。

 誰かが転んだ場所。

 誰かが立ち止まった場所。

 そういうものは全部、雪の上に薄く残る。強い風が吹けば消える。新しい雪が降れば埋まる。でも、消える前なら読める。

 カナタには、読めてしまう。

 それが少し嫌だった。

 読めるということは、そこにいた人間の迷いも、恐怖も、言い争いも、少しだけ見えてしまうということだった。

 輸送車は南方第三避難列が最後に確認された地点で止まった。

 道は白かった。

 空も白かった。

 その間に、細い黒い線のような轍がいくつも走っている。一本ではない。途中から二本になり、三本になり、何度か重なって、また離れていた。まるで雪の上に誰かが迷いながら字を書いて、途中で消すのを諦めたみたいだった。

「……割れてますね」

 ユウトが言った。

 声が白い息になって消える。

 カナタは頷いた。

「はい」

「授業、当日実施って感じですね」

「嫌な時間割です」

 冗談の形をしていた。

 でも、誰も笑わなかった。

 朝、雪の上に引いた線が、今は本物の轍になっている。

 先頭。

 中央。

 最後尾。

 歩ける人。

 歩けない人。

 歩けると言い張る人。

 全部、ここで割れたのだと思った。

 ミナが車から降りて、轍の一つを覗き込んだ。

 手袋の指先で雪を掘る。

「こっち、重い車」

「食料車?」

「たぶん。タイヤ幅が違う」

 別の轍。

「こっちは軽い。民間車かな」

 さらに西へ伸びる、細い足跡の群れ。

「で、これ」

 ミナが嫌そうな顔をした。

「歩いてる」

 その言葉で、空気が少しだけ冷えた。

 もともと寒い。

 でも、そういう寒さではなかった。

 歩いている。

 つまり、車に乗れなかった人間がいる。

 あるいは、自分から降りた人間がいる。

 荷物を抱えて。

 子供の手を引いて。

 負傷者を支えて。

 雪の中を歩いている。

 カナタは足跡を見た。

 大人の足跡。

 小さい足跡。

 途中で深く沈んだ跡。

 そこから少し引きずった跡。

 また歩き出した跡。

 人間は、足跡だけでも嘘をつけない。

 どれだけ「大丈夫」と言っても、雪は大丈夫ではなかったことを覚えている。

 ガレスが通信機を受け取った。

「アイラ、反応は」

『三方向』

 ノイズ。

『南、本隊らしき信号。弱い。東、車両群。荷重大。西、民間タグ複数。低速』

「敵は」

『まだ遠い。ただし熱源あり』

 まだ遠い。

 その言葉は、いつも短い猶予を意味する。

 安心ではない。

 猶予。

 カナタは三方向を見た。

 南。

 東。

 西。

 どれも正しい方角に見えた。

 南は拠点へ近い。

 東には食料車がいる。

 西には遅い人たちがいる。

 全部を同時には行けない。

 全部を捨てることもできない。

 だから選ぶ。

 選ぶという言葉は綺麗すぎる。

 実際には、先に見るものを決めるだけだ。

 その間に、見なかったものは少しずつ遠くなる。

「西です」

 カナタは言った。

 ユウトがこちらを見る。

「民間タグ?」

「低速です。先に捕まります」

「食料車は」

「東はまだ動けている」

「本隊は」

「南なら戻れる可能性があります」

 可能性。

 言ってから、その言葉の薄さが嫌になった。

 可能性という言葉は、逃げ道みたいだ。

 でも今は、それしかない。

 ガレスはしばらく煙草を噛んでいた。

 火はついていない。

 白い息だけが煙の代わりに出る。

「西へ行く」

 決まった。

 決まってしまった。

 東と南が少し遠くなる。

 その時、通信が割り込んだ。

『こちら東進車両群』

 男の声。

 荒い。

 疲れている。

『第七混成機動群、聞こえるか』

 ガレスが通信機を持ち直す。

「聞こえる」

『こちらは食料を持っている。避難列の三日分だ。止まれない』

「東は危険だ。戻れ」

『戻れば遅い連中に追いつかれる。食料を失えば全員が終わる』

 声は正しかった。

 正しすぎた。

 カナタは東の轍を見た。

 重い車の跡。

 深い。

 まっすぐ。

 迷いが少ない。

 食料を守る人たちは、自分たちが正しいと分かっている歩き方をしていた。

 それが、少し怖かった。

 正しい人間ほど、止まらない。

 ガレスは短く言った。

「橋が落ちている」

 ユウトが小さく顔を上げた。

 ミナが一瞬だけガレスを見る。

 通信の向こうが黙る。

『……どこの橋だ』

「東六号橋」

『確認していない情報だろう』

「確認しに行くまでに死ぬよりいい」

 通信の向こうで、男が何かを飲み込む気配がした。

『こちらは止まれない』

「止まるな。速度を落とせ。後で拾う」

『後で、か』

 男は笑った。

 笑ったというより、息が漏れた。

『後で来ると言った部隊は、だいたい来ない』

 ガレスは少し黙った。

 それから言った。

「第七は来る」

 返事はなかった。

 通信は切れた。

 雪の音だけが残る。

「副長」

 ユウトが小声で言った。

「橋、落ちてるんですか」

「知らん」

「やっぱり」

「でも、いつか落ちる」

「哲学に逃げた」

 少しだけ笑いが起きた。

 それは薄い笑いだった。

 雪の上で湯気が消えるみたいに、すぐ消えた。

 西へ向かった。

 車両二台。

 カナタ、ユウト、タクト、ミナ。

 ガレスは本隊との連絡を保つため後方へ残る。

 リゼは医療棟。

 のはずだった。

 はずだったのに、小型輸送車の後部で毛布が不自然に盛り上がっていた。

 カナタは黙ってその毛布を見た。

 毛布も黙っていた。

「……リゼさん」

「違います」

「声」

「毛布です」

 ユウトが頭を抱えた。

「毛布が喋った」

 ミナは運転席でため息をついた。

「もう出るよ。降りるなら今」

 毛布が少しだけ動いた。

 リゼが顔を出す。

 患者服。

 軍用コート。

 白いタオル。

 青い顔。

「乗ってます」

「見れば分かります」

「じゃあ説明不要」

「帰ったらセナさんに引き渡します」

「横暴」

「密航です」

「積載です」

「人間を荷物にしないでください」

 タクトが小さく笑った。

 リゼはそれを見て、少しだけ得意そうな顔をした。

 その顔を見ると、なぜか車内の空気が少し楽になる。

 リゼは強いからではない。

 弱っている。

 熱もある。

 でも彼女は、学校だった世界をまだ持っている。

 だから、戦場の中で少しだけ日常の匂いがする。

 それは時々、薬より効く。

 西へ進む道は、途中から道路ではなくなった。

 雪の下に舗装はあるはずだが、ほとんど見えない。轍だけが道だった。細く、頼りなく、途中で何度も迷っている。

 車の窓から見る足跡は、さっきより深くなっていた。

 疲れている。

 体重が落ちている。

 誰かを支えている。

 荷物が重い。

 そういうことが、足跡の沈み方で分かる。

 分かってしまう。

「見える?」

 リゼが訊いた。

「はい」

「なにが」

「列じゃなくなっていく感じ」

 車内が少し静かになる。

 リゼは窓の外を見た。

「嫌な見え方」

「はい」

「でも、見えないよりいいのかな」

 カナタは答えなかった。

 見えない方が楽なことは、たぶんたくさんある。

 でも、見えなければ拾えないものもある。

 しばらくして、前方に車両群が見えた。

 民間バス一台。

 軽輸送車二台。

 荷車のような古い牽引車一台。

 全部、止まっている。

 人が外に出ていた。

 揉めている。

 遠くからでも分かった。

 人間は、話し合っている時と、言い争っている時で、体の向きが違う。

 今は、言い争っている。

 車を降りると、声が一気に届いた。

「待てない!」

「子供がいるの!」

「負傷者を揺らせない!」

「食料車についていくべきだったんだ!」

「燃料がない!」

「荷物を降ろせと言われても困る!」

 正論。

 正論。

 正論。

 正論は、重なると騒音になる。

 カナタはその真ん中へ入った。

 怖かった。

 レイスよりも、こういう場所の方が怖いことがある。

 敵は話を聞かない。

 人間は聞いてしまう。

 聞いて、そのうえで納得しない。

「第七混成機動群です」

 カナタは言った。

 何人かが振り向く。

「救援か」

「誘導です」

 また、その言葉が出た。

 誘導。

 そんな任務名はない。

 でも、他に言い方がなかった。

「南へ戻ります。歩ける人は歩いてください。歩けない人と子供を車へ。荷物は一つまで」

「荷物を置けっていうのか!」

 中年の男が怒鳴った。

 両手に大きな鞄。

 顔は赤い。

 怒りというより、泣くのを怒りに変えている顔だった。

「この中には、家のものが入ってる!」

「一つまでです」

「お前に何が分かる!」

 分からない。

 分かるはずがない。

 鞄の中に何が入っているのか。

 写真か。

 薬か。

 服か。

 誰かの骨かもしれない。

 分からない。

 分からないまま、決めなければならない。

 それが一番ひどい。

「一つまでです」

 カナタはもう一度言った。

 声は冷たかった。

 自分でもそう思った。

 嫌だった。

 でも、柔らかい声では列は動かない。

 男は鞄を握りしめた。

 その時、リゼが横に来た。

 青い顔で。

 毛布を肩にかけたまま。

「小さいものはポケット」

 彼女は自分のポケットを叩いた。

 中には軍手がある。

「大きいものは一つ。手が空いてないと、誰かを持てない」

 男はリゼを見た。

 学生靴。

 患者服。

 それでも、彼女は立っていた。

 男はしばらく何も言わなかった。

 そして、片方の鞄を雪の上に置いた。

 どさっ。

 小さな音だった。

 でも、その音で周りが少し動いた。

 一つ。

 また一つ。

 荷物が雪の上に置かれていく。

 誰かの生活だったもの。

 誰かの帰る理由だったもの。

 それが、白い道に並んでいく。

 タクトが自分の缶を押さえた。

 ユウトがそれを見る。

「大丈夫。それは持ってていい」

 タクトは小さく頷いた。

 その時、通信が鳴った。

 アイラの声。

『西側、熱源接近』

 ノイズ。

『レイス、複数』

 雪の向こうに黒い点が見えた。

 まだ遠い。

 でも、速い。

 人々がざわめく。

 列がまた崩れかける。

 カナタは息を吸った。

 雪の匂い。

 排気の匂い。

 革の鞄の匂い。

 人の息。

「列を作ります!」

 声が出た。

 思ったより大きく。

「歩ける人は右!歩けない人は車!子供は中央!荷物は一つ!後ろを見ないでください。後ろはこっちが見ます!」

 人が動いた。

 完璧ではない。

 遅い。

 でも動く。

 ユウトが曲がり角に立つ。

「こっち!右です!右!そっちは左です!」

 タクトが子供の手を取る。

「走らない。歩く。缶みたいに音立てない」

「缶?」

「こっちの話です」

 リゼが荷物を抱えた人を止める。

「一つ。ポケットは許可。鞄は一つ」

 ミナが車両を前へ出す。

「乗る順番!喧嘩したら降ろす!」

「もう降りてる!」

「じゃあ乗せない!」

「強い!」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いで、足が動いた。

 黒い影が近づく。

 ガレスの車両が後方へ回り込む。

 銃声。

 雪が跳ねる。

 列が動く。

 さっきまで集まりだったものが、一本の線になる。

 歪んでいる。

 遅い。

 泣いている。

 怒っている。

 でも、線だった。

 カナタは最後尾近くに立ち、後ろを見た。

 黒い影。

 白い雪。

 置かれた鞄。

 消えていく足跡。

 列は敵より先に人間で壊れる。

 でも。

 人間で作り直すこともできる。

 そのことを、カナタはこの日、雪の上で知った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。