帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
南方第三避難列は、敵に襲われたわけではなかった。
少なくとも、最初は。
そのことが分かるまでに、少し時間がかかった。
雪の上には、答えが残っている。
轍。
足跡。
落ちた荷物。
途中で止まった車両の黒い排気跡。
誰かが転んだ場所。
誰かが立ち止まった場所。
そういうものは全部、雪の上に薄く残る。強い風が吹けば消える。新しい雪が降れば埋まる。でも、消える前なら読める。
カナタには、読めてしまう。
それが少し嫌だった。
読めるということは、そこにいた人間の迷いも、恐怖も、言い争いも、少しだけ見えてしまうということだった。
輸送車は南方第三避難列が最後に確認された地点で止まった。
道は白かった。
空も白かった。
その間に、細い黒い線のような轍がいくつも走っている。一本ではない。途中から二本になり、三本になり、何度か重なって、また離れていた。まるで雪の上に誰かが迷いながら字を書いて、途中で消すのを諦めたみたいだった。
「……割れてますね」
ユウトが言った。
声が白い息になって消える。
カナタは頷いた。
「はい」
「授業、当日実施って感じですね」
「嫌な時間割です」
冗談の形をしていた。
でも、誰も笑わなかった。
朝、雪の上に引いた線が、今は本物の轍になっている。
先頭。
中央。
最後尾。
歩ける人。
歩けない人。
歩けると言い張る人。
全部、ここで割れたのだと思った。
ミナが車から降りて、轍の一つを覗き込んだ。
手袋の指先で雪を掘る。
「こっち、重い車」
「食料車?」
「たぶん。タイヤ幅が違う」
別の轍。
「こっちは軽い。民間車かな」
さらに西へ伸びる、細い足跡の群れ。
「で、これ」
ミナが嫌そうな顔をした。
「歩いてる」
その言葉で、空気が少しだけ冷えた。
もともと寒い。
でも、そういう寒さではなかった。
歩いている。
つまり、車に乗れなかった人間がいる。
あるいは、自分から降りた人間がいる。
荷物を抱えて。
子供の手を引いて。
負傷者を支えて。
雪の中を歩いている。
カナタは足跡を見た。
大人の足跡。
小さい足跡。
途中で深く沈んだ跡。
そこから少し引きずった跡。
また歩き出した跡。
人間は、足跡だけでも嘘をつけない。
どれだけ「大丈夫」と言っても、雪は大丈夫ではなかったことを覚えている。
ガレスが通信機を受け取った。
「アイラ、反応は」
『三方向』
ノイズ。
『南、本隊らしき信号。弱い。東、車両群。荷重大。西、民間タグ複数。低速』
「敵は」
『まだ遠い。ただし熱源あり』
まだ遠い。
その言葉は、いつも短い猶予を意味する。
安心ではない。
猶予。
カナタは三方向を見た。
南。
東。
西。
どれも正しい方角に見えた。
南は拠点へ近い。
東には食料車がいる。
西には遅い人たちがいる。
全部を同時には行けない。
全部を捨てることもできない。
だから選ぶ。
選ぶという言葉は綺麗すぎる。
実際には、先に見るものを決めるだけだ。
その間に、見なかったものは少しずつ遠くなる。
「西です」
カナタは言った。
ユウトがこちらを見る。
「民間タグ?」
「低速です。先に捕まります」
「食料車は」
「東はまだ動けている」
「本隊は」
「南なら戻れる可能性があります」
可能性。
言ってから、その言葉の薄さが嫌になった。
可能性という言葉は、逃げ道みたいだ。
でも今は、それしかない。
ガレスはしばらく煙草を噛んでいた。
火はついていない。
白い息だけが煙の代わりに出る。
「西へ行く」
決まった。
決まってしまった。
東と南が少し遠くなる。
その時、通信が割り込んだ。
『こちら東進車両群』
男の声。
荒い。
疲れている。
『第七混成機動群、聞こえるか』
ガレスが通信機を持ち直す。
「聞こえる」
『こちらは食料を持っている。避難列の三日分だ。止まれない』
「東は危険だ。戻れ」
『戻れば遅い連中に追いつかれる。食料を失えば全員が終わる』
声は正しかった。
正しすぎた。
カナタは東の轍を見た。
重い車の跡。
深い。
まっすぐ。
迷いが少ない。
食料を守る人たちは、自分たちが正しいと分かっている歩き方をしていた。
それが、少し怖かった。
正しい人間ほど、止まらない。
ガレスは短く言った。
「橋が落ちている」
ユウトが小さく顔を上げた。
ミナが一瞬だけガレスを見る。
通信の向こうが黙る。
『……どこの橋だ』
「東六号橋」
『確認していない情報だろう』
「確認しに行くまでに死ぬよりいい」
通信の向こうで、男が何かを飲み込む気配がした。
『こちらは止まれない』
「止まるな。速度を落とせ。後で拾う」
『後で、か』
男は笑った。
笑ったというより、息が漏れた。
『後で来ると言った部隊は、だいたい来ない』
ガレスは少し黙った。
それから言った。
「第七は来る」
返事はなかった。
通信は切れた。
雪の音だけが残る。
「副長」
ユウトが小声で言った。
「橋、落ちてるんですか」
「知らん」
「やっぱり」
「でも、いつか落ちる」
「哲学に逃げた」
少しだけ笑いが起きた。
それは薄い笑いだった。
雪の上で湯気が消えるみたいに、すぐ消えた。
西へ向かった。
車両二台。
カナタ、ユウト、タクト、ミナ。
ガレスは本隊との連絡を保つため後方へ残る。
リゼは医療棟。
のはずだった。
はずだったのに、小型輸送車の後部で毛布が不自然に盛り上がっていた。
カナタは黙ってその毛布を見た。
毛布も黙っていた。
「……リゼさん」
「違います」
「声」
「毛布です」
ユウトが頭を抱えた。
「毛布が喋った」
ミナは運転席でため息をついた。
「もう出るよ。降りるなら今」
毛布が少しだけ動いた。
リゼが顔を出す。
患者服。
軍用コート。
白いタオル。
青い顔。
「乗ってます」
「見れば分かります」
「じゃあ説明不要」
「帰ったらセナさんに引き渡します」
「横暴」
「密航です」
「積載です」
「人間を荷物にしないでください」
タクトが小さく笑った。
リゼはそれを見て、少しだけ得意そうな顔をした。
その顔を見ると、なぜか車内の空気が少し楽になる。
リゼは強いからではない。
弱っている。
熱もある。
でも彼女は、学校だった世界をまだ持っている。
だから、戦場の中で少しだけ日常の匂いがする。
それは時々、薬より効く。
西へ進む道は、途中から道路ではなくなった。
雪の下に舗装はあるはずだが、ほとんど見えない。轍だけが道だった。細く、頼りなく、途中で何度も迷っている。
車の窓から見る足跡は、さっきより深くなっていた。
疲れている。
体重が落ちている。
誰かを支えている。
荷物が重い。
そういうことが、足跡の沈み方で分かる。
分かってしまう。
「見える?」
リゼが訊いた。
「はい」
「なにが」
「列じゃなくなっていく感じ」
車内が少し静かになる。
リゼは窓の外を見た。
「嫌な見え方」
「はい」
「でも、見えないよりいいのかな」
カナタは答えなかった。
見えない方が楽なことは、たぶんたくさんある。
でも、見えなければ拾えないものもある。
しばらくして、前方に車両群が見えた。
民間バス一台。
軽輸送車二台。
荷車のような古い牽引車一台。
全部、止まっている。
人が外に出ていた。
揉めている。
遠くからでも分かった。
人間は、話し合っている時と、言い争っている時で、体の向きが違う。
今は、言い争っている。
車を降りると、声が一気に届いた。
「待てない!」
「子供がいるの!」
「負傷者を揺らせない!」
「食料車についていくべきだったんだ!」
「燃料がない!」
「荷物を降ろせと言われても困る!」
正論。
正論。
正論。
正論は、重なると騒音になる。
カナタはその真ん中へ入った。
怖かった。
レイスよりも、こういう場所の方が怖いことがある。
敵は話を聞かない。
人間は聞いてしまう。
聞いて、そのうえで納得しない。
「第七混成機動群です」
カナタは言った。
何人かが振り向く。
「救援か」
「誘導です」
また、その言葉が出た。
誘導。
そんな任務名はない。
でも、他に言い方がなかった。
「南へ戻ります。歩ける人は歩いてください。歩けない人と子供を車へ。荷物は一つまで」
「荷物を置けっていうのか!」
中年の男が怒鳴った。
両手に大きな鞄。
顔は赤い。
怒りというより、泣くのを怒りに変えている顔だった。
「この中には、家のものが入ってる!」
「一つまでです」
「お前に何が分かる!」
分からない。
分かるはずがない。
鞄の中に何が入っているのか。
写真か。
薬か。
服か。
誰かの骨かもしれない。
分からない。
分からないまま、決めなければならない。
それが一番ひどい。
「一つまでです」
カナタはもう一度言った。
声は冷たかった。
自分でもそう思った。
嫌だった。
でも、柔らかい声では列は動かない。
男は鞄を握りしめた。
その時、リゼが横に来た。
青い顔で。
毛布を肩にかけたまま。
「小さいものはポケット」
彼女は自分のポケットを叩いた。
中には軍手がある。
「大きいものは一つ。手が空いてないと、誰かを持てない」
男はリゼを見た。
学生靴。
患者服。
それでも、彼女は立っていた。
男はしばらく何も言わなかった。
そして、片方の鞄を雪の上に置いた。
どさっ。
小さな音だった。
でも、その音で周りが少し動いた。
一つ。
また一つ。
荷物が雪の上に置かれていく。
誰かの生活だったもの。
誰かの帰る理由だったもの。
それが、白い道に並んでいく。
タクトが自分の缶を押さえた。
ユウトがそれを見る。
「大丈夫。それは持ってていい」
タクトは小さく頷いた。
その時、通信が鳴った。
アイラの声。
『西側、熱源接近』
ノイズ。
『レイス、複数』
雪の向こうに黒い点が見えた。
まだ遠い。
でも、速い。
人々がざわめく。
列がまた崩れかける。
カナタは息を吸った。
雪の匂い。
排気の匂い。
革の鞄の匂い。
人の息。
「列を作ります!」
声が出た。
思ったより大きく。
「歩ける人は右!歩けない人は車!子供は中央!荷物は一つ!後ろを見ないでください。後ろはこっちが見ます!」
人が動いた。
完璧ではない。
遅い。
でも動く。
ユウトが曲がり角に立つ。
「こっち!右です!右!そっちは左です!」
タクトが子供の手を取る。
「走らない。歩く。缶みたいに音立てない」
「缶?」
「こっちの話です」
リゼが荷物を抱えた人を止める。
「一つ。ポケットは許可。鞄は一つ」
ミナが車両を前へ出す。
「乗る順番!喧嘩したら降ろす!」
「もう降りてる!」
「じゃあ乗せない!」
「強い!」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いで、足が動いた。
黒い影が近づく。
ガレスの車両が後方へ回り込む。
銃声。
雪が跳ねる。
列が動く。
さっきまで集まりだったものが、一本の線になる。
歪んでいる。
遅い。
泣いている。
怒っている。
でも、線だった。
カナタは最後尾近くに立ち、後ろを見た。
黒い影。
白い雪。
置かれた鞄。
消えていく足跡。
列は敵より先に人間で壊れる。
でも。
人間で作り直すこともできる。
そのことを、カナタはこの日、雪の上で知った。