帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
帰ってきた人間は、最初に何をするのか。
眠る。
泣く。
食べる。
怒る。
黙る。
たぶん人によって違う。
けれど南方第三避難列から戻ってきた人たちは、だいたい同じような顔をしていた。何かを置いてきた顔だった。荷物だけではない。時間とか、言葉とか、立場とか、怒鳴る理由とか、そういうものを雪の上に置いてきた顔。
ハウンド七の食堂は、夕方の少し前から混み始めた。
外はまだ明るい。
けれど雪雲が低く、窓の外の世界は昼なのか夕方なのかよく分からない色をしていた。食堂の中には灯油ストーブが二つあり、その周りだけが不自然に赤い。木の椀を持った人たちが、そこへ少しずつ寄っていく。
温かい場所は、いつも狭い。
カナタは配給列に並んでいた。
前に三人。
後ろに七人。
自然に数えていた。
自分で気づいて、嫌になる。
最近、何でも列として見る。
配給列。
避難列。
医療棟の待機列。
車両の車間。
寝床の順番。
人間が並んでいると、どこから崩れるかを考えてしまう。誰が足を引きずっているか。誰が手を隠しているか。誰が大丈夫そうな顔をして大丈夫ではないか。
スープを待っているだけなのに。
何をしているんだろうと思った。
「カナタさん」
ユウトが後ろから声をかけてきた。
椀を持っている。
顔は疲れているが、さっきより少しだけ明るい。
「今日、豆何粒だと思います?」
「予想ですか」
「はい」
「二粒」
「現実的すぎる」
「じゃあ三粒」
「急に希望を持った」
「希望は大事なので」
「でも二粒っぽいなぁ」
ユウトは真剣だった。
豆の数にここまで真剣になれるのは、たぶん良いことだ。
良いことなのだと思いたい。
配給係が椀にスープを注ぐ。
湯気が上がる。
薄い。
水っぽい。
それでも、湯気だけは立派だった。
カナタの椀には豆が二粒入っていた。
ユウトの椀には一粒だった。
「負けました」
「何に」
「世界に」
「豆にしてください」
ユウトが肩を落とす。
その横で、タクトが椀を受け取った。
三粒。
ユウトが見た。
タクトも見た。
気まずい沈黙。
「……すみません」
「謝られると余計負けた感じする」
タクトは困ったように笑った。
腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。
南方第三避難列の現場でも、彼はそれを持っていた。走る時も。子供の手を引く時も。荷物を置かせる時も。
音はしない。
でも、そこにある。
カナタはそれを見るたびに、昨日の食堂を思い出す。
ぷしゅ、という音。
炭酸の匂い。
タクトが泣いたこと。
甘い、と言った声。
戦場で人が泣く理由は、死だけではない。
甘いものでも泣く。
それを知ってしまった。
食堂の端に座ると、ストーブの熱が膝に当たった。
熱い。
でも背中は寒い。
温度が体の中で分かれているみたいだった。
リゼは少し遅れて来た。
医療棟の患者服。
その上に軍用コート。
首には白いタオル。
肩には毛布。
完全に病人の格好なのに、顔だけは「ちょっと購買まで来ました」みたいな顔をしている。
「リゼさん」
カナタが言った。
「医療棟」
「営業終了」
「医療棟に営業時間はないです」
「じゃあ私の診療時間が終わった」
「勝手に終わらせないでください」
リゼは隣へ座った。
座る時、少しだけ顔をしかめる。
熱はまだある。
たぶん肩も痛い。
でも、彼女はそれを何でもないことにしたがる。
その気持ちは分かる。
分かるから厄介だった。
「豆は?」
ユウトが訊いた。
リゼは椀を覗き込む。
「二」
「普通」
「普通って何」
「一粒以下が敗北、二粒が市民権、三粒以上が貴族」
「豆社会、格差あるね」
「革命が必要です」
「まずスープ濃くして」
リゼが笑った。
少し咳をした。
全員が一瞬そちらを見る。
リゼはすぐ手を上げた。
「今のは笑いすぎ」
「笑いすぎるほど笑ってません」
カナタが言うと、リゼは不満そうに目を細めた。
「細かい」
「生存確認です」
「嫌な言い方」
そこへセナが来た。
椀を持っている。
怒っている。
いや、たぶん怒っていない時の顔を忘れただけだ。
「リゼ」
「はい」
「食べたら戻る」
「今ちょうど食べ始めるところ」
「だから食べたら戻る」
「食べ終わらなければ?」
「椀ごと戻る」
「医療棟、持ち込み可?」
「私が可にする」
「強い」
リゼは降参したようにスープを飲んだ。
顔をしかめる。
「薄い」
「食べろ」
「飲むものじゃないの」
「どっちでもいい」
その会話を聞きながら、タクトが缶に触れた。
セナがそれに気づく。
「まだ持ってるの」
「はい」
「音は」
「鳴りません」
「見せて」
タクトは少し迷ってから、缶を外した。
布が丁寧に巻かれている。
ユウトの仕事だ。
セナはそれを手に取った。
軽い。
空だから。
でも、なぜか捨てろとは言わなかった。
「軽いね」
「はい」
「角、危ない」
「え」
セナは医療袋から小さな布を出し、缶の縁に追加で巻いた。
手早い。
包帯を巻くのと同じ手つきだった。
「これでいい」
タクトは缶を受け取る。
少し驚いた顔。
「持ってていいんですか」
「軽いんでしょ」
「はい」
「ならいい」
セナはそれだけ言った。
リゼが小さく笑う。
「優しい」
「うるさい」
「照れてる」
「熱測るぞ」
「横暴」
食堂に少し笑いが起きた。
笑いは、ストーブの熱みたいだった。
狭い。
弱い。
でも、あるとないとでは全然違う。
その時、食堂の入口で中年の男が立ち止まった。
南方第三避難列で、大きな鞄を二つ持っていた男だった。
カナタが片方を置かせた男。
今は、一つだけ鞄を持っている。
彼はカナタを見つけると、ゆっくり近づいてきた。
「少し、いいですか」
食堂の音が少し遠くなる。
カナタは椀を置いた。
「はい」
男は鞄を膝に置く。
手が震えていた。
怒っているのか、寒いのか、分からない。
「さっきは、怒鳴ってすみません」
「いえ」
「置いてきた鞄に、娘の服が入っていました」
カナタは何も言えなかった。
男は鞄の留め具に指をかけた。
開けはしない。
「こっちには、薬が入っています」
薬。
娘の服。
どちらも軽くはない。
どちらも捨てられるものではない。
でも、一つしか持てなかった。
「あなたが言わなければ、私は両方持って、途中で倒れていたと思います」
男は笑おうとした。
上手くできなかった。
「今でも、服の方を考えています」
「……はい」
「でも、薬はあります」
男の声は静かだった。
「娘も、生きています」
カナタは頷いた。
それしかできなかった。
選んでよかったですね、とは言えない。
正しかったですね、とも言えない。
娘の服は雪の上にある。
薬はここにある。
娘は生きている。
その三つが同時に存在している。
それだけだった。
男が去った後、しばらく誰も喋らなかった。
豆スープの湯気が細く上がる。
ストーブが低く鳴る。
タクトが缶を押さえる。
リゼが軍手をポケットの中で握る。
カナタは自分の手袋を見る。
湿っている。
雪と、汗と、誰かの荷物を持った時の水気。
「嫌な仕事」
リゼが言った。
「はい」
「でも、誰かが言わないと、あの人は選べなかった」
「はい」
「それも嫌」
「はい」
セナがスープを飲み干した。
「嫌じゃなくなったら終わり」
その声は静かだった。
怒っていない。
ただ、釘を刺すような声だった。
カナタは頷いた。
嫌でいなければならない。
でも、嫌なまま言わなければならない。
荷物は一つまで。
歩ける人は歩いてください。
後ろを見ないでください。
そういう言葉を。
自分はいつまで嫌がれるのだろうと思った。
その時、外でエンジンがかかった。
全員が反射的に顔を上げる。
警報ではなかった。
整備場の音。
たぶん三号車だ。
ミナが耳だけ動かした。
「変な音」
「いつもでは」
ユウトが言う。
「いつもより変」
「重症ですね」
「車の悪口やめて」
ミナはスープを一気に飲んで立ち上がった。
顔をしかめる。
「まず」
「知ってます」
「でも温かい」
「知ってます」
タクトも立った。
「あの、手伝います」
ミナが振り返る。
「整備?」
「缶の音、消したので」
「缶と車は違うよ」
「知ってます」
「じゃあなぜ」
タクトは少し黙った。
それから言った。
「何かしてた方が、ちゃんと帰ってきた感じがするので」
ミナは工具箱を見た。
しばらくして、軽い方を差し出した。
「持って」
「はい」
「落としたら怒る」
「はい」
「怒られ慣れてる?」
タクトは少しだけ笑った。
「これから慣れます」
「よろしい」
二人が食堂を出ていく。
扉が開く。
冷たい風が入る。
雪の匂い。
油の匂い。
ストーブの匂い。
それらが一瞬混ざって、また食堂の匂いに戻る。
カナタは残ったスープを飲んだ。
豆は二粒。
温かい。
薄い。
でも、今は必要だった。
通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
食堂の空気が切り替わる。
椀を置く音。
椅子が引かれる音。
誰かが息を止める音。
アイラの声が流れた。
『東進食料車両群、再通信』
ノイズ。
『現在位置、不明。周囲に熱源反応多数』
ガレスが入口に現れた。
いつからそこにいたのか分からない。
火のつかない煙草。
くたびれたコート。
眠そうな目。
「今度は食料だ」
誰もすぐには動かなかった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、食堂の湯気を見ていた。
薄いスープ。
豆二粒。
それを運ぶ車両群。
それを守っている人たち。
それが消えたら、この湯気も細くなる。
子供の椀も軽くなる。
だから、行く。
カナタは立ち上がった。
自分でも早いと思った。
ガレスが少しだけ眉を上げる。
「行きます」
「まだ何も言ってねぇ」
「言う顔でした」
「嫌な部下になってきたな」
「候補生です」
「もっと嫌だ」
リゼが小さく笑った。
セナが彼女の肩を押さえる。
「あなたは医療棟」
「まだ何も言ってない」
「言う顔だった」
「みんな顔で判断しすぎ」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いはすぐ、外のエンジン音に飲み込まれた。
カナタは手袋をはめ直した。
湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、また少し湿った。
食堂の湯気が背中に残る。
オレンジソーダの空き缶。
置いてきた娘の服。
豆二粒。
それらを全部置いたまま、また雪の中へ出る。
帰ってきた人間が、帰ってきたままでいる時間は短い。
でも、その短い時間に飲んだ温かいものだけが、体の中で小さく残る。
たぶん、それで次へ行く。