帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十六話 オレンジソーダ

 帰ってきた人間は、最初に何をするのか。

 眠る。

 泣く。

 食べる。

 怒る。

 黙る。

 たぶん人によって違う。

 けれど南方第三避難列から戻ってきた人たちは、だいたい同じような顔をしていた。何かを置いてきた顔だった。荷物だけではない。時間とか、言葉とか、立場とか、怒鳴る理由とか、そういうものを雪の上に置いてきた顔。

 ハウンド七の食堂は、夕方の少し前から混み始めた。

 外はまだ明るい。

 けれど雪雲が低く、窓の外の世界は昼なのか夕方なのかよく分からない色をしていた。食堂の中には灯油ストーブが二つあり、その周りだけが不自然に赤い。木の椀を持った人たちが、そこへ少しずつ寄っていく。

 温かい場所は、いつも狭い。

 カナタは配給列に並んでいた。

 前に三人。

 後ろに七人。

 自然に数えていた。

 自分で気づいて、嫌になる。

 最近、何でも列として見る。

 配給列。

 避難列。

 医療棟の待機列。

 車両の車間。

 寝床の順番。

 人間が並んでいると、どこから崩れるかを考えてしまう。誰が足を引きずっているか。誰が手を隠しているか。誰が大丈夫そうな顔をして大丈夫ではないか。

 スープを待っているだけなのに。

 何をしているんだろうと思った。

「カナタさん」

 ユウトが後ろから声をかけてきた。

 椀を持っている。

 顔は疲れているが、さっきより少しだけ明るい。

「今日、豆何粒だと思います?」

「予想ですか」

「はい」

「二粒」

「現実的すぎる」

「じゃあ三粒」

「急に希望を持った」

「希望は大事なので」

「でも二粒っぽいなぁ」

 ユウトは真剣だった。

 豆の数にここまで真剣になれるのは、たぶん良いことだ。

 良いことなのだと思いたい。

 配給係が椀にスープを注ぐ。

 湯気が上がる。

 薄い。

 水っぽい。

 それでも、湯気だけは立派だった。

 カナタの椀には豆が二粒入っていた。

 ユウトの椀には一粒だった。

「負けました」

「何に」

「世界に」

「豆にしてください」

 ユウトが肩を落とす。

 その横で、タクトが椀を受け取った。

 三粒。

 ユウトが見た。

 タクトも見た。

 気まずい沈黙。

「……すみません」

「謝られると余計負けた感じする」

 タクトは困ったように笑った。

 腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。

 南方第三避難列の現場でも、彼はそれを持っていた。走る時も。子供の手を引く時も。荷物を置かせる時も。

 音はしない。

 でも、そこにある。

 カナタはそれを見るたびに、昨日の食堂を思い出す。

 ぷしゅ、という音。

 炭酸の匂い。

 タクトが泣いたこと。

 甘い、と言った声。

 戦場で人が泣く理由は、死だけではない。

 甘いものでも泣く。

 それを知ってしまった。

 食堂の端に座ると、ストーブの熱が膝に当たった。

 熱い。

 でも背中は寒い。

 温度が体の中で分かれているみたいだった。

 リゼは少し遅れて来た。

 医療棟の患者服。

 その上に軍用コート。

 首には白いタオル。

 肩には毛布。

 完全に病人の格好なのに、顔だけは「ちょっと購買まで来ました」みたいな顔をしている。

「リゼさん」

 カナタが言った。

「医療棟」

「営業終了」

「医療棟に営業時間はないです」

「じゃあ私の診療時間が終わった」

「勝手に終わらせないでください」

 リゼは隣へ座った。

 座る時、少しだけ顔をしかめる。

 熱はまだある。

 たぶん肩も痛い。

 でも、彼女はそれを何でもないことにしたがる。

 その気持ちは分かる。

 分かるから厄介だった。

「豆は?」

 ユウトが訊いた。

 リゼは椀を覗き込む。

「二」

「普通」

「普通って何」

「一粒以下が敗北、二粒が市民権、三粒以上が貴族」

「豆社会、格差あるね」

「革命が必要です」

「まずスープ濃くして」

 リゼが笑った。

 少し咳をした。

 全員が一瞬そちらを見る。

 リゼはすぐ手を上げた。

「今のは笑いすぎ」

「笑いすぎるほど笑ってません」

 カナタが言うと、リゼは不満そうに目を細めた。

「細かい」

「生存確認です」

「嫌な言い方」

 そこへセナが来た。

 椀を持っている。

 怒っている。

 いや、たぶん怒っていない時の顔を忘れただけだ。

「リゼ」

「はい」

「食べたら戻る」

「今ちょうど食べ始めるところ」

「だから食べたら戻る」

「食べ終わらなければ?」

「椀ごと戻る」

「医療棟、持ち込み可?」

「私が可にする」

「強い」

 リゼは降参したようにスープを飲んだ。

 顔をしかめる。

「薄い」

「食べろ」

「飲むものじゃないの」

「どっちでもいい」

 その会話を聞きながら、タクトが缶に触れた。

 セナがそれに気づく。

「まだ持ってるの」

「はい」

「音は」

「鳴りません」

「見せて」

 タクトは少し迷ってから、缶を外した。

 布が丁寧に巻かれている。

 ユウトの仕事だ。

 セナはそれを手に取った。

 軽い。

 空だから。

 でも、なぜか捨てろとは言わなかった。

「軽いね」

「はい」

「角、危ない」

「え」

 セナは医療袋から小さな布を出し、缶の縁に追加で巻いた。

 手早い。

 包帯を巻くのと同じ手つきだった。

「これでいい」

 タクトは缶を受け取る。

 少し驚いた顔。

「持ってていいんですか」

「軽いんでしょ」

「はい」

「ならいい」

 セナはそれだけ言った。

 リゼが小さく笑う。

「優しい」

「うるさい」

「照れてる」

「熱測るぞ」

「横暴」

 食堂に少し笑いが起きた。

 笑いは、ストーブの熱みたいだった。

 狭い。

 弱い。

 でも、あるとないとでは全然違う。

 その時、食堂の入口で中年の男が立ち止まった。

 南方第三避難列で、大きな鞄を二つ持っていた男だった。

 カナタが片方を置かせた男。

 今は、一つだけ鞄を持っている。

 彼はカナタを見つけると、ゆっくり近づいてきた。

「少し、いいですか」

 食堂の音が少し遠くなる。

 カナタは椀を置いた。

「はい」

 男は鞄を膝に置く。

 手が震えていた。

 怒っているのか、寒いのか、分からない。

「さっきは、怒鳴ってすみません」

「いえ」

「置いてきた鞄に、娘の服が入っていました」

 カナタは何も言えなかった。

 男は鞄の留め具に指をかけた。

 開けはしない。

「こっちには、薬が入っています」

 薬。

 娘の服。

 どちらも軽くはない。

 どちらも捨てられるものではない。

 でも、一つしか持てなかった。

「あなたが言わなければ、私は両方持って、途中で倒れていたと思います」

 男は笑おうとした。

 上手くできなかった。

「今でも、服の方を考えています」

「……はい」

「でも、薬はあります」

 男の声は静かだった。

「娘も、生きています」

 カナタは頷いた。

 それしかできなかった。

 選んでよかったですね、とは言えない。

 正しかったですね、とも言えない。

 娘の服は雪の上にある。

 薬はここにある。

 娘は生きている。

 その三つが同時に存在している。

 それだけだった。

 男が去った後、しばらく誰も喋らなかった。

 豆スープの湯気が細く上がる。

 ストーブが低く鳴る。

 タクトが缶を押さえる。

 リゼが軍手をポケットの中で握る。

 カナタは自分の手袋を見る。

 湿っている。

 雪と、汗と、誰かの荷物を持った時の水気。

「嫌な仕事」

 リゼが言った。

「はい」

「でも、誰かが言わないと、あの人は選べなかった」

「はい」

「それも嫌」

「はい」

 セナがスープを飲み干した。

「嫌じゃなくなったら終わり」

 その声は静かだった。

 怒っていない。

 ただ、釘を刺すような声だった。

 カナタは頷いた。

 嫌でいなければならない。

 でも、嫌なまま言わなければならない。

 荷物は一つまで。

 歩ける人は歩いてください。

 後ろを見ないでください。

 そういう言葉を。

 自分はいつまで嫌がれるのだろうと思った。

 その時、外でエンジンがかかった。

 全員が反射的に顔を上げる。

 警報ではなかった。

 整備場の音。

 たぶん三号車だ。

 ミナが耳だけ動かした。

「変な音」

「いつもでは」

 ユウトが言う。

「いつもより変」

「重症ですね」

「車の悪口やめて」

 ミナはスープを一気に飲んで立ち上がった。

 顔をしかめる。

「まず」

「知ってます」

「でも温かい」

「知ってます」

 タクトも立った。

「あの、手伝います」

 ミナが振り返る。

「整備?」

「缶の音、消したので」

「缶と車は違うよ」

「知ってます」

「じゃあなぜ」

 タクトは少し黙った。

 それから言った。

「何かしてた方が、ちゃんと帰ってきた感じがするので」

 ミナは工具箱を見た。

 しばらくして、軽い方を差し出した。

「持って」

「はい」

「落としたら怒る」

「はい」

「怒られ慣れてる?」

 タクトは少しだけ笑った。

「これから慣れます」

「よろしい」

 二人が食堂を出ていく。

 扉が開く。

 冷たい風が入る。

 雪の匂い。

 油の匂い。

 ストーブの匂い。

 それらが一瞬混ざって、また食堂の匂いに戻る。

 カナタは残ったスープを飲んだ。

 豆は二粒。

 温かい。

 薄い。

 でも、今は必要だった。

 通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 食堂の空気が切り替わる。

 椀を置く音。

 椅子が引かれる音。

 誰かが息を止める音。

 アイラの声が流れた。

『東進食料車両群、再通信』

 ノイズ。

『現在位置、不明。周囲に熱源反応多数』

 ガレスが入口に現れた。

 いつからそこにいたのか分からない。

 火のつかない煙草。

 くたびれたコート。

 眠そうな目。

「今度は食料だ」

 誰もすぐには動かなかった。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ、食堂の湯気を見ていた。

 薄いスープ。

 豆二粒。

 それを運ぶ車両群。

 それを守っている人たち。

 それが消えたら、この湯気も細くなる。

 子供の椀も軽くなる。

 だから、行く。

 カナタは立ち上がった。

 自分でも早いと思った。

 ガレスが少しだけ眉を上げる。

「行きます」

「まだ何も言ってねぇ」

「言う顔でした」

「嫌な部下になってきたな」

「候補生です」

「もっと嫌だ」

 リゼが小さく笑った。

 セナが彼女の肩を押さえる。

「あなたは医療棟」

「まだ何も言ってない」

「言う顔だった」

「みんな顔で判断しすぎ」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いはすぐ、外のエンジン音に飲み込まれた。

 カナタは手袋をはめ直した。

 湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、また少し湿った。

 食堂の湯気が背中に残る。

 オレンジソーダの空き缶。

 置いてきた娘の服。

 豆二粒。

 それらを全部置いたまま、また雪の中へ出る。

 帰ってきた人間が、帰ってきたままでいる時間は短い。

 でも、その短い時間に飲んだ温かいものだけが、体の中で小さく残る。

 たぶん、それで次へ行く。

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