帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十七話 食料車

 食料車を追うことになった。

 言葉にすると、少し変だった。

 敵を追う、とか。

 味方を救う、とか。

 そういう言い方なら、まだ戦争らしい。

 でも実際には、食料車を追っている。

 粉末スープと乾パンと缶詰と水を積んだ車両群。豆が二粒か三粒かで人間の気分が少しだけ変わる、この拠点の明日を載せた車。誰かの朝食で、誰かの夕食で、負傷兵の薬を飲むための水で、子供が泣き止むまでのほんの数分だった。

 それが、東へ逸れた。

 現在位置不明。

 周囲に熱源反応多数。

 つまり、だいたい悪い。

 輸送車の中は寒かった。

 暖房はある。

 あるだけだった。

 吹き出し口から出てくる風は、温風というより、外気が少しだけ反省したものだった。窓は白く曇り、指で拭いてもすぐ戻る。車内には濡れた手袋の匂い、銃油の匂い、さっき飲んだ薄い豆スープの匂いが少し残っていた。

 人間は匂いを持ち運ぶ。

 食堂の匂いを車内へ。

 車内の匂いを戦場へ。

 戦場の匂いを、また食堂へ。

 カナタは窓の曇りを袖で拭いた。

 外は白かった。

 防雪柵が続いている。

 雪原の向こうに黒い木立。

 空は低い。

 どこまでも低い。

「食料車って、つまりご飯ですよね」

 ユウトが言った。

 荷台の端に座り、小銃を膝に置いている。

「はい」

「ご飯を助けに行くんですか」

「ご飯を運んでいる人を助けに行きます」

「言い方でだいぶ真面目になりますね」

「ご飯でも真面目です」

「まあ、豆二粒で人生変わりますし」

 タクトが小さく笑った。

 腰には布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。

 音はしない。

 でも、ある。

「食料車がなくなると、スープはどうなるんですか」

 タクトが訊いた。

 ミナが運転席から答える。

「薄くなる」

「今より?」

「今より」

「それはもう水では」

「水に豆の記憶を浮かべたものになる」

 ユウトが深く頷いた。

「詩的だけど最悪」

「整備兵は詩人だから」

「初耳です」

 軽い会話。

 でも、誰も本気で笑ってはいなかった。

 食料車がなくなるということは、スープが薄くなるだけではない。

 歩ける人が歩けなくなる。

 怒れる人が怒れなくなる。

 泣く子供が泣き止まなくなる。

 医療棟で薬を飲ませる水が減る。

 列が遅くなる。

 遅くなった列は壊れる。

 食べることは、思っていたよりもずっと戦術だった。

 でも、そんな言い方をしたくはなかった。

 食べることくらい、ただ食べることであってほしかった。

 助手席のガレスが通信機を取った。

「東進車両群、こちら第七混成機動群。応答しろ」

 ノイズ。

 車輪が氷を踏む音。

 誰かの息。

 しばらくして、男の声が返った。

『こちら第三補給班。救援か』

「誘導だ」

『誘導?』

「南へ戻れ。そこは逸れてる」

『戻れない』

 声は硬かった。

 疲れている。

 でも折れていない声だった。

『こちらには避難列三日分の食料がある。敵を引いたまま本隊へ戻れば、避難民を巻き込む』

 カナタは通信機を見た。

 通信の向こうの男は、正しい。

 正しすぎる。

 食料は必要だ。

 敵を引きつけているなら、戻れば危険も戻る。

 ならば離れる。

 自分たちだけで。

 食料を抱えて。

 その考えは間違っていない。

 間違っていないから、怖い。

 ガレスは短く言った。

「位置を送れ」

『送ったところで、君たちも巻き込む』

「もう出てる」

『なぜだ』

 ガレスは火のつかない煙草を咥え直した。

「食堂のスープがこれ以上薄くなると困る」

 通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。

 ユウトが小声で言う。

「理由として正しいんですか」

 ミナも小声で返す。

「正しいんじゃない?切実だし」

 ガレスは続けた。

「食料も、人も、帰せる分だけ帰す。位置を送れ」

『無理だ』

「無理かどうかは見てから決める」

『君たちは何なんだ』

 また、その問いだった。

 君たちは何なんだ。

 救援部隊ではない。

 補給班でもない。

 前線部隊でもない。

 殿でもない。

 撤退専門でもない。

 まだ、名前がない。

 ガレスは少しだけカナタを見た。

 それから言った。

「第七混成機動群だ」

 それ以上は言わなかった。

 言えることが、それしかなかった。

 輸送車は東へ進んだ。

 道は細くなる。

 雪は深くなる。

 防雪柵が途切れ、古い標識が斜めに立っている。そこには夏季農道と書かれていた。夏季。今この白い世界で、その文字だけが季節を間違えている。

 夏。

 水道の匂い。

 日焼けしたアスファルト。

 購買の冷たい紙パック飲料。

 そんなものを一瞬思い出して、すぐに消えた。

 消えてくれた方がよかった。

 思い出すと、今が遠くなる。

「リゼさん、乗ってませんよね」

 ユウトが突然言った。

 カナタは後部座席と荷台を見た。

「確認しました」

「毛布?」

「確認しました」

「食料箱?」

「さすがに」

 その時、補給班から通信が入った。

『こちら第三補給班。妙な質問をしていいか』

 ガレスが眉を動かす。

「何だ」

『食料車二号に、患者服の学徒がいる』

 車内が沈黙した。

 ユウトが天井を見た。

「密航適性、進化してません?」

 通信にリゼの声が入った。

『密航じゃない。備蓄』

「人間を食料扱いしないでください」

『非常食よりは役に立つ』

「そういう問題では」

 ミナがハンドルを叩いた。

「帰ったらセナに突き出すからね!」

『セナさんには、食料車が勝手に動いたと言って』

「無理がある!」

 ほんの少し、車内に笑いが起きた。

 その笑いが、すぐ消えないで残った。

 リゼがいる。

 病人なのに。

 怒られるのに。

 それでもいる。

 彼女は戦力ではない。

 でも、いるだけで日常が混じる。

 患者服と学生靴と軽口が、戦場の金属臭を少しだけ薄める。

 それはたぶん、食料とは別の種類の補給だった。

 アイラの通信が入る。

『前方、熱源多数。食料車両群周辺』

 ノイズ。

『一部、低温。移動遅い』

「降りてるな」

 ガレスが言った。

 カナタは窓の外を見る。

 雪の向こうに、影があった。

 最初は黒い点だった。

 近づくにつれて、それが車両だと分かる。

 三台。

 一台は傾いている。

 後輪が溝に落ちている。

 荷台には防水シート。

 破れた端から、缶詰箱が見えている。

 人がいる。

 押している。

 掘っている。

 銃を構えている。

 そして、周囲を黒い影が回っていた。

 レイス。

 突っ込んでこない。

 待っている。

 まただ。

 帰る人間が慌てるのを待っている。

 車が止まるのを待っている。

 列が崩れるのを待っている。

「嫌な覚え方してんなぁ」

 ミナが低く言った。

 カナタは傾いた食料車を見た。

 食料。

 人。

 車。

 道。

 敵。

 全部は帰れない。

 そのことが、見ただけで分かった。

 分かってしまった。

「学生」

 ガレスが言った。

「どう見る」

 カナタは食料車を見る。

 荷台の箱。

 雪に赤くなった補給兵の指。

 防水シートを押さえている膝。

 足元の溝。

 レイスの輪。

 全部を持って帰ろうとすれば、全部止まる。

 食料を守って人が死ねば、食料は運べない。

 人を守って食料を捨てれば、別の誰かが明日倒れる。

 どちらも正しい。

 正しさが多すぎる。

「一台、捨てます」

 カナタは言った。

 車内が静かになった。

 ユウトが息を呑む。

「食料を?」

「はい」

 ミナが低く訊く。

「どれ」

「傾いてる一台。降ろせる分だけ降ろして、残りは囮にします」

「燃やすの」

「いいえ。エンジンを残します。熱と音で寄せる」

 ミナはひどく嫌そうな顔をした。

「車に謝って」

「すみません」

「軽い」

「あとでちゃんと」

「あとがあればね」

 輸送車が食料班のそばへ滑り込んだ。

 補給班の男が駆け寄ってくる。

 通信の男だった。

 頬が赤く、目が血走っている。

「捨てるだと!?」

「一台だけです」

「一台に何人分あると思ってる!」

「人が死ぬと運べません」

「理屈を言うな!」

「理屈です」

 カナタは自分の声が冷たいと思った。

 嫌だった。

 でも、温かい言葉ではこの人は動けない。

 この人は食料を守っている。

 明日のスープを守っている。

 その正しさを折るには、こちらも別の正しさを出すしかない。

「全部守ろうとすると、全部止まります。動くものだけ帰します」

 男はカナタを睨んだ。

 今にも殴りそうだった。

 その時、リゼの声が通信に入った。

『補給班の人』

「誰だ」

『患者服の備蓄です』

「何だそれは」

『食堂のスープ、今日豆二粒でした』

 男が一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。

『一台分全部は無理でも、明日の豆を一粒増やせる分は持って帰ってください』

 通信が静かになった。

 男の顔から怒りが少しだけ抜けた。

 代わりに、ひどく疲れたものが出てきた。

 豆一粒。

 それは作戦単位ではない。

 補給計画でもない。

 でも、たぶん正しい単位だった。

 食料は、人を数字で支えるものではない。

 椀の中の豆として、湯気として、子供の口の中へ届くものだ。

 男は歯を食いしばった。

 それから叫んだ。

「降ろせ!持てる分だけだ!残りは囮にする!」

 人が動いた。

 缶詰箱が運ばれる。

 水箱が移される。

 粉末スープの袋が雪に落ちる。

 誰かが拾う。

 また落とす。

 ミナが傾いた食料車のエンジンを見る。

「まだ回る!」

「囮にできますか」

「できるけど謝って!」

「すみません!」

「だから軽い!」

 レイスが近づく。

 ガレスたちが撃つ。

 補給班も撃つ。

 でもレイスは正面から来ない。

 横へ回る。

 積み替え列の中央へ。

 敵も分かっている。

 どこを突けば崩れるか。

「ユウト!」

「はい!」

「中央です!」

 ユウトはすぐ走った。

 タクトも続く。

 二人は銃ではなく、声を使った。

「箱は手渡し!走らない!落としたら拾わない!次!」

「子供じゃない、箱を見る!手を見る!あと足元!」

「誰に言ってるの!?」

「俺にもです!」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いで、列が整う。

 手から手へ。

 箱が流れる。

 食料にも列ができる。

 カナタはそれを見た。

 人だけではない。

 物も帰すのだ。

 持てる分だけ。

 生きて届く分だけ。

 ミナがアクセルを固定する。

 傾いた食料車が、誰も乗っていないまま唸り始めた。

 熱が立つ。

 音が増える。

 レイスがそちらへ向く。

「下がれ!」

 ガレスが叫ぶ。

 残り二台が動き出す。

 補給班の男は、傾いた車両を見た。

 捨てる車。

 捨てる食料。

 捨てる努力。

 彼は敬礼しなかった。

 ただ、小さく言った。

「すまん」

 車に。

 たぶん。

 ミナは何も言わなかった。

 車列が南へ動く。

 背後では、エンジンだけを唸らせる食料車にレイスが群がっていく。

 缶詰箱がいくつか、荷台に残っていた。

 それも置いていく。

 カナタは後ろを見た。

 白い雪。

 黒い影。

 唸るエンジン。

 置いてきた食料。

 豆一粒分かもしれない。

 一食分かもしれない。

 誰かの明日かもしれない。

 それでも、全部は帰れない。

 人を帰すために食料を捨てる。

 食料を帰すために車を捨てる。

 何かを帰すたびに、何かが帰れなくなる。

 その順番を決める役に、まだ名前はない。

 でももう、誰かがやらなければならなかった。

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