帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
食料車を追うことになった。
言葉にすると、少し変だった。
敵を追う、とか。
味方を救う、とか。
そういう言い方なら、まだ戦争らしい。
でも実際には、食料車を追っている。
粉末スープと乾パンと缶詰と水を積んだ車両群。豆が二粒か三粒かで人間の気分が少しだけ変わる、この拠点の明日を載せた車。誰かの朝食で、誰かの夕食で、負傷兵の薬を飲むための水で、子供が泣き止むまでのほんの数分だった。
それが、東へ逸れた。
現在位置不明。
周囲に熱源反応多数。
つまり、だいたい悪い。
輸送車の中は寒かった。
暖房はある。
あるだけだった。
吹き出し口から出てくる風は、温風というより、外気が少しだけ反省したものだった。窓は白く曇り、指で拭いてもすぐ戻る。車内には濡れた手袋の匂い、銃油の匂い、さっき飲んだ薄い豆スープの匂いが少し残っていた。
人間は匂いを持ち運ぶ。
食堂の匂いを車内へ。
車内の匂いを戦場へ。
戦場の匂いを、また食堂へ。
カナタは窓の曇りを袖で拭いた。
外は白かった。
防雪柵が続いている。
雪原の向こうに黒い木立。
空は低い。
どこまでも低い。
「食料車って、つまりご飯ですよね」
ユウトが言った。
荷台の端に座り、小銃を膝に置いている。
「はい」
「ご飯を助けに行くんですか」
「ご飯を運んでいる人を助けに行きます」
「言い方でだいぶ真面目になりますね」
「ご飯でも真面目です」
「まあ、豆二粒で人生変わりますし」
タクトが小さく笑った。
腰には布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。
音はしない。
でも、ある。
「食料車がなくなると、スープはどうなるんですか」
タクトが訊いた。
ミナが運転席から答える。
「薄くなる」
「今より?」
「今より」
「それはもう水では」
「水に豆の記憶を浮かべたものになる」
ユウトが深く頷いた。
「詩的だけど最悪」
「整備兵は詩人だから」
「初耳です」
軽い会話。
でも、誰も本気で笑ってはいなかった。
食料車がなくなるということは、スープが薄くなるだけではない。
歩ける人が歩けなくなる。
怒れる人が怒れなくなる。
泣く子供が泣き止まなくなる。
医療棟で薬を飲ませる水が減る。
列が遅くなる。
遅くなった列は壊れる。
食べることは、思っていたよりもずっと戦術だった。
でも、そんな言い方をしたくはなかった。
食べることくらい、ただ食べることであってほしかった。
助手席のガレスが通信機を取った。
「東進車両群、こちら第七混成機動群。応答しろ」
ノイズ。
車輪が氷を踏む音。
誰かの息。
しばらくして、男の声が返った。
『こちら第三補給班。救援か』
「誘導だ」
『誘導?』
「南へ戻れ。そこは逸れてる」
『戻れない』
声は硬かった。
疲れている。
でも折れていない声だった。
『こちらには避難列三日分の食料がある。敵を引いたまま本隊へ戻れば、避難民を巻き込む』
カナタは通信機を見た。
通信の向こうの男は、正しい。
正しすぎる。
食料は必要だ。
敵を引きつけているなら、戻れば危険も戻る。
ならば離れる。
自分たちだけで。
食料を抱えて。
その考えは間違っていない。
間違っていないから、怖い。
ガレスは短く言った。
「位置を送れ」
『送ったところで、君たちも巻き込む』
「もう出てる」
『なぜだ』
ガレスは火のつかない煙草を咥え直した。
「食堂のスープがこれ以上薄くなると困る」
通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。
ユウトが小声で言う。
「理由として正しいんですか」
ミナも小声で返す。
「正しいんじゃない?切実だし」
ガレスは続けた。
「食料も、人も、帰せる分だけ帰す。位置を送れ」
『無理だ』
「無理かどうかは見てから決める」
『君たちは何なんだ』
また、その問いだった。
君たちは何なんだ。
救援部隊ではない。
補給班でもない。
前線部隊でもない。
殿でもない。
撤退専門でもない。
まだ、名前がない。
ガレスは少しだけカナタを見た。
それから言った。
「第七混成機動群だ」
それ以上は言わなかった。
言えることが、それしかなかった。
輸送車は東へ進んだ。
道は細くなる。
雪は深くなる。
防雪柵が途切れ、古い標識が斜めに立っている。そこには夏季農道と書かれていた。夏季。今この白い世界で、その文字だけが季節を間違えている。
夏。
水道の匂い。
日焼けしたアスファルト。
購買の冷たい紙パック飲料。
そんなものを一瞬思い出して、すぐに消えた。
消えてくれた方がよかった。
思い出すと、今が遠くなる。
「リゼさん、乗ってませんよね」
ユウトが突然言った。
カナタは後部座席と荷台を見た。
「確認しました」
「毛布?」
「確認しました」
「食料箱?」
「さすがに」
その時、補給班から通信が入った。
『こちら第三補給班。妙な質問をしていいか』
ガレスが眉を動かす。
「何だ」
『食料車二号に、患者服の学徒がいる』
車内が沈黙した。
ユウトが天井を見た。
「密航適性、進化してません?」
通信にリゼの声が入った。
『密航じゃない。備蓄』
「人間を食料扱いしないでください」
『非常食よりは役に立つ』
「そういう問題では」
ミナがハンドルを叩いた。
「帰ったらセナに突き出すからね!」
『セナさんには、食料車が勝手に動いたと言って』
「無理がある!」
ほんの少し、車内に笑いが起きた。
その笑いが、すぐ消えないで残った。
リゼがいる。
病人なのに。
怒られるのに。
それでもいる。
彼女は戦力ではない。
でも、いるだけで日常が混じる。
患者服と学生靴と軽口が、戦場の金属臭を少しだけ薄める。
それはたぶん、食料とは別の種類の補給だった。
アイラの通信が入る。
『前方、熱源多数。食料車両群周辺』
ノイズ。
『一部、低温。移動遅い』
「降りてるな」
ガレスが言った。
カナタは窓の外を見る。
雪の向こうに、影があった。
最初は黒い点だった。
近づくにつれて、それが車両だと分かる。
三台。
一台は傾いている。
後輪が溝に落ちている。
荷台には防水シート。
破れた端から、缶詰箱が見えている。
人がいる。
押している。
掘っている。
銃を構えている。
そして、周囲を黒い影が回っていた。
レイス。
突っ込んでこない。
待っている。
まただ。
帰る人間が慌てるのを待っている。
車が止まるのを待っている。
列が崩れるのを待っている。
「嫌な覚え方してんなぁ」
ミナが低く言った。
カナタは傾いた食料車を見た。
食料。
人。
車。
道。
敵。
全部は帰れない。
そのことが、見ただけで分かった。
分かってしまった。
「学生」
ガレスが言った。
「どう見る」
カナタは食料車を見る。
荷台の箱。
雪に赤くなった補給兵の指。
防水シートを押さえている膝。
足元の溝。
レイスの輪。
全部を持って帰ろうとすれば、全部止まる。
食料を守って人が死ねば、食料は運べない。
人を守って食料を捨てれば、別の誰かが明日倒れる。
どちらも正しい。
正しさが多すぎる。
「一台、捨てます」
カナタは言った。
車内が静かになった。
ユウトが息を呑む。
「食料を?」
「はい」
ミナが低く訊く。
「どれ」
「傾いてる一台。降ろせる分だけ降ろして、残りは囮にします」
「燃やすの」
「いいえ。エンジンを残します。熱と音で寄せる」
ミナはひどく嫌そうな顔をした。
「車に謝って」
「すみません」
「軽い」
「あとでちゃんと」
「あとがあればね」
輸送車が食料班のそばへ滑り込んだ。
補給班の男が駆け寄ってくる。
通信の男だった。
頬が赤く、目が血走っている。
「捨てるだと!?」
「一台だけです」
「一台に何人分あると思ってる!」
「人が死ぬと運べません」
「理屈を言うな!」
「理屈です」
カナタは自分の声が冷たいと思った。
嫌だった。
でも、温かい言葉ではこの人は動けない。
この人は食料を守っている。
明日のスープを守っている。
その正しさを折るには、こちらも別の正しさを出すしかない。
「全部守ろうとすると、全部止まります。動くものだけ帰します」
男はカナタを睨んだ。
今にも殴りそうだった。
その時、リゼの声が通信に入った。
『補給班の人』
「誰だ」
『患者服の備蓄です』
「何だそれは」
『食堂のスープ、今日豆二粒でした』
男が一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
『一台分全部は無理でも、明日の豆を一粒増やせる分は持って帰ってください』
通信が静かになった。
男の顔から怒りが少しだけ抜けた。
代わりに、ひどく疲れたものが出てきた。
豆一粒。
それは作戦単位ではない。
補給計画でもない。
でも、たぶん正しい単位だった。
食料は、人を数字で支えるものではない。
椀の中の豆として、湯気として、子供の口の中へ届くものだ。
男は歯を食いしばった。
それから叫んだ。
「降ろせ!持てる分だけだ!残りは囮にする!」
人が動いた。
缶詰箱が運ばれる。
水箱が移される。
粉末スープの袋が雪に落ちる。
誰かが拾う。
また落とす。
ミナが傾いた食料車のエンジンを見る。
「まだ回る!」
「囮にできますか」
「できるけど謝って!」
「すみません!」
「だから軽い!」
レイスが近づく。
ガレスたちが撃つ。
補給班も撃つ。
でもレイスは正面から来ない。
横へ回る。
積み替え列の中央へ。
敵も分かっている。
どこを突けば崩れるか。
「ユウト!」
「はい!」
「中央です!」
ユウトはすぐ走った。
タクトも続く。
二人は銃ではなく、声を使った。
「箱は手渡し!走らない!落としたら拾わない!次!」
「子供じゃない、箱を見る!手を見る!あと足元!」
「誰に言ってるの!?」
「俺にもです!」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いで、列が整う。
手から手へ。
箱が流れる。
食料にも列ができる。
カナタはそれを見た。
人だけではない。
物も帰すのだ。
持てる分だけ。
生きて届く分だけ。
ミナがアクセルを固定する。
傾いた食料車が、誰も乗っていないまま唸り始めた。
熱が立つ。
音が増える。
レイスがそちらへ向く。
「下がれ!」
ガレスが叫ぶ。
残り二台が動き出す。
補給班の男は、傾いた車両を見た。
捨てる車。
捨てる食料。
捨てる努力。
彼は敬礼しなかった。
ただ、小さく言った。
「すまん」
車に。
たぶん。
ミナは何も言わなかった。
車列が南へ動く。
背後では、エンジンだけを唸らせる食料車にレイスが群がっていく。
缶詰箱がいくつか、荷台に残っていた。
それも置いていく。
カナタは後ろを見た。
白い雪。
黒い影。
唸るエンジン。
置いてきた食料。
豆一粒分かもしれない。
一食分かもしれない。
誰かの明日かもしれない。
それでも、全部は帰れない。
人を帰すために食料を捨てる。
食料を帰すために車を捨てる。
何かを帰すたびに、何かが帰れなくなる。
その順番を決める役に、まだ名前はない。
でももう、誰かがやらなければならなかった。