帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
帰り道は、行きより重かった。
人が増えた。
食料が増えた。
車両が増えた。
それだけなら、喜んでいいはずだった。助けに行って、持って帰れるものが増えた。明日のスープに豆が一粒増えるかもしれない。医療棟で薬を飲ませる水が少し残るかもしれない。子供が空腹で泣く時間が、ほんの少しだけ短くなるかもしれない。
でも、増えたものは全部、列を重くする。
雪道は静かだった。
静かすぎて、車両ごとの音の違いが分かった。先頭車は乾いた音で走る。補給班の食料車は、低く、腹の底から唸る。ミナの輸送車はときどき変な咳をした。
車にも咳がある。
ミナが前にそう言っていた。
今の列は、全部が咳をしているようだった。
人も。
車も。
食料も。
道も。
カナタは荷台の後ろに座っていた。
膝の上に小銃。
手袋はまだ湿っている。
指先の感覚は少し鈍い。息を吐くと白くなる。その白さがすぐ後ろへ流れて、食料車の排気と混ざって消える。
後ろには、置いてきた食料車がある。
もう見えない。
でも、音だけはしばらく耳に残っていた。
誰も乗っていない車のエンジン音。
レイスを引きつけるために、熱と音だけを残された車。
あれは、たぶん車の鳴き声だった。
そう考えてしまって、カナタは少しだけ嫌になった。
「名前、つけます?」
ユウトが言った。
隣で、タクトが缶詰箱に布をかけている。箱同士がぶつかって音を立てないようにするためだ。空のオレンジソーダ缶に布を巻いた時と同じ手つきだった。
「何の名前ですか」
「この列」
「列に名前を?」
「だって、人と食料と補給班と学徒と患者服の密航者が混ざってますし」
通信からリゼの声が入った。
『密航者じゃない。備蓄』
「その設定まだ続けるんですか」
『継続は力』
「セナさんに聞かれたら終わりますよ」
『今は通信圏外ということにして』
「無理がある」
ほんの少し笑いが起きた。
笑いは弱い。
でも、あった。
カナタは思った。
列には、こういうものも必要なのだ。
銃。
燃料。
食料。
医療品。
それだけでは足りない。
誰かの冗談。
患者服で食料車に隠れるリゼ。
豆の数。
車に謝れと言うミナ。
空のオレンジソーダ缶。
そういう役に立たないものが、役に立つ時がある。
名前はない。
でも確かに、列を少しだけ前へ動かしている。
「豆スープ防衛隊」
タクトがぼそっと言った。
ユウトが吹き出した。
「採用したい」
「却下です」
カナタは言った。
「なんでですか。親しみやすいのに」
「真面目な報告書に書けません」
ミナの声が入る。
『報告書に“豆スープ防衛隊、帰還しました”って書いたら、ちょっと見たい』
ガレスが低く言った。
『くだらねぇ名前つける暇があるなら後ろ見ろ』
「見てます」
カナタは答えた。
見ている。
後ろ。
横。
前。
中央。
以前は最後尾ばかり見ていた。
後ろから黒いものが来る。
だから後ろを守る。
それだけだと思っていた。
でも、違った。
列は後ろからだけ壊れるわけではない。
中央から壊れる。
荷物から壊れる。
声から壊れる。
誰かが「自分は大丈夫」と言った瞬間に壊れる。
誰かが「これは必要だ」と言って荷物を手放さなかった時にも壊れる。
だから、見る場所が増えた。
目は二つしかないのに。
その時、アイラの通信が入った。
『後方熱源、減少』
ガレスが答える。
「囮車か」
『一部は。ただし』
短いノイズ。
『前方、熱源あり』
前方。
カナタは荷台から身を乗り出した。
雪の向こう。
白い道。
防雪柵。
その先、黒い点。
一つ。
二つ。
増える。
息が冷たくなる。
「待ち伏せです」
すぐ分かった。
嫌になるくらい、すぐ。
レイスは追ってこなかったのではない。
回り込んでいた。
しかも、先頭の正面ではない。
道が細くなる場所。
右に防雪柵。
左に凍った用水路。
前が詰まれば、中央が止まる。
中央が止まれば、食料車が詰まる。
食料車が止まれば、人が焦る。
焦った人間が横へ逃げる。
用水路へ落ちる。
防雪柵へ寄る。
そこで列が折れる。
そこまで見えた。
見たくなかった。
でも見えた。
「中央も見てください」
カナタは言った。
『中央?』
ガレスの声。
「前が止まると、中央が詰まります。敵はそこを見ています」
少し沈黙。
ミナが言った。
『最悪』
補給班の男も通信に入る。
『食料車は急には止まれない』
「止めません」
『どうする』
どうする。
カナタは道を見た。
防雪柵。
用水路。
雪の硬さ。
車両の間隔。
徒歩組の位置。
リゼが乗っている食料車二号。
ユウトとタクト。
ミナの車。
ガレスの先頭車。
すべてが線になる。
絡まりかけた糸。
切れそうな場所。
それを切らないために、逆に分ける。
「列を三つに分けます」
カナタは言った。
通信が静かになった。
「先頭は速度を落とさず右へ寄せて敵を引く。中央の食料車は車間を開ける。徒歩組と軽車両は防雪柵沿いに抜ける。最後尾は止まらない。止まったら詰まります」
『簡単に言うな』
ガレスが言った。
「難しく言う時間がありません」
『それもそうだ』
ガレスは少し笑った。
それから、声を低くする。
『各車、聞いたな。列を三つに割る。ただし壊すな。戻すために割る』
その言葉が、カナタの胸に残った。
割る。
でも壊さない。
戻すために割る。
矛盾している。
でも、たぶん正しい。
リゼの声が入る。
『先生』
「先生じゃないです」
『こういう時、授業なら何点?』
「赤点です」
『厳しい』
「実地なので」
『じゃあ補習で生き残る』
ユウトが小さく笑った。
タクトも笑った。
笑いながら、二人は缶詰箱を固定し直す。
手が震えている。
でも動いている。
それでいい。
ミナが速度を上げる。
ガレスの車両が先頭へ出る。
補給班が食料車へ合図を送る。
列が少しずつ形を変え始めた。
前へ出る車。
間隔を開ける車。
徒歩組を守る車。
声を出す人。
数える人。
荷物を押さえる人。
それぞれが、自分の場所を持つ。
名前のない役割が、雪の上で生まれていく。
レイスが前方から動いた。
黒い影が低く走る。
ガレスの車両が機銃を撃つ。
雪が跳ねる。
レイスが散る。
だが何体かは横へ流れた。
中央へ。
予想通り。
予想通りという言葉が嫌だった。
「中央!」
カナタが叫ぶ。
ユウトが動く。
「タクト、右!」
「はい!」
二人は食料車の横へ走る。
銃を撃つためではない。
人を動かすために。
「詰めない!箱押さえて!車間空けて!そこ走らない!」
「子供は車の陰!缶詰箱、落ちたら拾わない!後で泣く!」
「後で泣くって何!?」
「今泣くと走れないので!」
少しだけ笑いが起きた。
笑いながら、人が動いた。
笑いはすぐ消える。
でも、足を一歩前に出すには十分だった。
ミナの車両が食料車と徒歩組の間へ入る。
防雪柵ぎりぎり。
鉄板が柵を擦る。
嫌な音。
ミナが悲鳴みたいな声を上げる。
『こすった!今こすった!』
「人が通れます!」
『車が泣いてる!』
「人も泣きます!」
『じゃあ全員泣け!』
文句を言いながら、彼女は車を寄せ続けた。
その隙間を徒歩組が抜ける。
補給班の男が食料車の上から叫ぶ。
「箱を押さえろ!落とすな!でも人を先に通せ!」
その声は、さっきまでの声と違った。
食料だけを守る声ではない。
食料と人を、同じ列に乗せようとしている声だった。
レイスが中央へ飛び込む。
カナタが撃つ。
外れる。
ガレスが撃つ。
一体が倒れる。
もう一体が食料車二号の荷台へ跳ぶ。
リゼの声。
『こっち来た』
「伏せてください!」
『患者服で伏せるの嫌なんだけど』
「服の問題じゃないです!」
銃声。
リゼではない。
補給班の男が撃った。
レイスが荷台から落ちる。
少し遅れて、リゼの声。
『今の人、豆一粒追加で』
補給班の男が怒鳴る。
『勝手に配給を増やすな!』
『命の恩人割』
『そんな制度はない!』
カナタは笑いそうになった。
笑っている場合ではない。
でも、笑いそうになった。
その瞬間、前方の黒い影が崩れた。
ガレスの車両が右へ寄せる。
レイスが先頭へ集中する。
中央が抜ける。
徒歩組も抜ける。
最後尾が止まらない。
列が、一度三つに分かれて、また一本へ戻っていく。
雪の上に三本の轍ができる。
それが、少しずつ近づいて、一つになる。
綺麗ではなかった。
歪んでいる。
遅い。
誰かが転びかける。
誰かが怒鳴る。
缶詰箱が一つ落ちる。
誰も拾わない。
後で泣く。
でも今は進む。
最後の食料車が狭路を抜けた時、歓声はなかった。
ただ、みんなが息を吐いた。
白い息がいくつも重なって、夕方前の雪の中に消えた。
カナタは荷台の後ろから、今通ってきた道を見た。
防雪柵の傷。
落ちた缶詰箱。
黒い影。
三本の轍。
それが一本へ戻るところ。
列は壊れなかった。
違う。
一度、壊れかけた。
それを、みんなで作り直した。
ガレスが先頭を開けた。
ミナが車を寄せた。
ユウトが人を動かした。
タクトが声を出した。
リゼが余計なことを言った。
補給班が食料を守った。
歩ける人が歩いた。
歩けない人が乗った。
誰かが缶詰箱を諦めた。
その全部で、列は帰る。
カナタは初めて、少しだけ息が吸えた。
自分一人が見ればいいわけではない。
見える場所を、分ければいい。
役割を、渡せばいい。
それが、列を作るということなのかもしれなかった。
通信にリゼの声が入る。
『先生』
「先生じゃないです」
『じゃあ、今日の授業名は?』
カナタは雪の上の轍を見た。
別れて、戻る線。
「……列を作る授業です」
『まんま』
「分かりやすい方がいいので」
『じゃあ合格?』
カナタは少し考えた。
後ろにはまだ敵がいる。
前にはまだ道がある。
拠点までは遠い。
帰れていない。
でも、線は戻った。
「補習です」
『厳しいなぁ』
リゼが笑った。
ユウトも笑った。
タクトも、たぶん笑った。
車列は南へ進む。
人と、食料と、壊れかけの車と、名前のない役割を乗せて。
まだ誰も、それを制度とは呼ばない。
専門の兵科でもない。
教本にも載っていない。
けれどこの日、雪の上に一本の列ができた。
帰るための列。
それを作る人間たちが、確かにそこにいた。
そしてその先に、明日の湯気がある。
豆が一粒増えるかもしれない、薄いスープの湯気が。