帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
その日のスープには、豆が四粒入っていた。
最初に気づいたのはユウトだった。
食堂の配給口で椀を受け取り、湯気を吹き、いつもの癖で中を覗き込む。そこで彼は止まった。寒さで固まったのではなかった。椀の中に浮かぶ小さな褐色の丸を、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と数えて、そこで何かの答えを見つけたみたいな顔になった。
「……四」
ユウトが言った。
声が小さかった。
食堂は朝から混んでいた。
濡れた軍靴の匂い。灯油ストーブの焦げた匂い。薄いスープの匂い。雪を払わずに入ってきた兵士の肩から落ちる水の匂い。誰かの湿った手袋。誰かの咳。木の椀が机に当たる音。
そういうものが全部混ざって、ハウンド七の朝の匂いになる。
「四?」
タクトが隣から覗き込む。
「四粒」
「豆が?」
「豆が」
ユウトは椀を両手で持ち上げた。
まるで勲章でも授与されたみたいな顔だった。
「戦争、終わりました?」
「終わってません」
セナが即答した。
配給列の後ろからだった。
彼女は自分の椀を受け取りながら、豆の数を確認することもなく、淡々と続けた。
「豆四粒で終わる戦争なら、もっと早く終わってる」
「でも、かなり良い兆候じゃないですか」
ユウトが言う。
「前祝いくらいにはなる」
リゼの声だった。
食堂の隅、ストーブの近く。
医療棟の患者服の上に軍用コート、その上から毛布。いつもの姿だった。いや、いつもの姿になりつつあった。病人の格好が定着するのは、本人にとっても部隊にとってもたぶん良くない。
でも、誰も強く否定しなかった。
そういうものが食堂にあると、少しだけ安心するからだ。
「前祝いって何の」
カナタが訊く。
「明日も豆がある祝い」
「弱い」
「でも切実」
リゼは椀を覗き込んだ。
「私、三粒」
「貴族じゃないですか」
ユウトが真顔で言う。
「四粒の人が言うと嫌味だよ」
「いや、これは責任です。豆四粒を背負う者の」
「軽そう」
「でも落としたら泣きます」
小さな笑いが起きた。
ハウンド七の食堂は、朝から混んでいた。
帰還した食料車の影響で、配給量がほんの少し増えたらしい。ほんの少し。本当に少し。椀の底が見えなくなるほどではない。スープは相変わらず薄いし、湯気だけが立派だし、飲み終わった後に腹が満ちるわけでもない。
それでも、豆が増えた。
たった一粒か二粒。
けれどその一粒が、食堂の空気を少しだけ変えていた。
人間は、腹だけで生きているわけではない。
たぶん、豆の数でも生きている。
カナタは自分の椀を受け取った。
三粒。
十分だと思った。
昨日、雪の上で置いてきた食料車を思い出す。
傾いた車体。
空転する後輪。
固定されたアクセル。
誰も乗っていないのに唸っていたエンジン。
荷台に残った缶詰箱。
それに群がっていく黒い影。
あの車は帰ってこなかった。
あの箱も、全部は帰ってこなかった。
でも、帰ってきたものもあった。
今、椀の中に浮かんでいる。
豆の形をして。
そう思うと、豆はひどく小さく、ひどく重かった。
「カナタさん」
タクトが隣に来た。
腰には布を巻いた空のオレンジソーダ缶。
缶は相変わらず音を立てない。
最近はもう、誰もそれを変だと言わなくなった。
「三粒ですか」
「はい」
「自分も三です」
「安定ですね」
「安定って、こんな小さいものなんですね」
タクトは少し笑った。
その笑い方は、前より自然だった。
帰ってきたばかりの頃、彼はスープの湯気を見るだけで黙り込んでいた。今は豆を数えている。いいことなのかどうかは分からない。でも、悪いことではない気がした。
ミナは食堂の端で、椀を片手に工具箱を開いていた。
食事中に工具箱を開くな、という張り紙が近くにある。
その張り紙には、赤字で《特にミナ》と追記されていた。
「名指しされてますよ」
ユウトが言う。
「知ってる」
「閉じないんですか」
「食べてる」
「工具箱を?」
「スープを」
「じゃあ工具箱は」
「見てる」
「食事中に?」
「車も食事みたいなものだから」
「燃料の話ですか」
「うん」
ミナはそう言いながら、椀の中を見た。
「二粒」
「敗北ですね」
「三号車よりはマシ」
「三号車、豆一粒以下なんですか」
「エンジン音がね」
意味が分からない。
でも、ミナの中では通じているらしい。
食堂の窓は白く曇っていた。
誰かが指で落書きをしている。
昨日は雪だるまみたいなレイスだった。
今日は豆だった。
丸が四つ。
その下に《勝利》と書いてある。
たぶんユウトだ。
カナタはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
勝利。
大げさな言葉だ。
でも、今朝に限れば間違いではない気がした。
敵を倒したわけではない。
戦線を押し返したわけでもない。
都市を守ったわけでもない。
ただ、豆が四粒になった。
それだけで、昨日の行動が少しだけ形になった。
帰したものが、日常へ戻ってきた。
それはたぶん、この部隊にとっての勝利だった。
「カナタ」
ガレスが食堂に入ってきた。
くたびれたコート。
火のつかない煙草。
寝不足の顔。
朝のハウンド七に、よく似合う顔だった。
「報告書」
「はい」
「書け」
短く言って、紙を一枚差し出す。
カナタは椀を見た。
まだ半分残っている。
「今ですか」
「豆が冷める前に書け」
「冷めたら?」
「冷めた豆を食え」
「厳しい」
ガレスは隣の椅子に座った。
椀の中を見る。
「四粒」
ユウトが立ち上がった。
「副長も選ばれし者です」
ガレスは黙って報告書の紙をカナタへ渡した。
薄い紙。
端が少し湿っている。
カナタはペンを持った。
書くことは決まっている。
食料車両群、二両帰還。一両放棄。補給物資一部喪失。人的損耗なし。避難列配給改善見込み。
紙の上では簡単だった。
一両放棄。一部喪失。人的損耗なし。たったそれだけ。
でも、その一両には音があった。
エンジンの音。ミナが謝れと言った声。補給班の男が小さく「すまん」と言った声。雪に置いてきた缶詰箱の重さ。そういうものは、報告書の欄には入らない。入らないものの方が、本当は多い。
カナタはペン先を止めた。
「顔が暗い」
リゼが言った。
「報告書に負けてる」
「勝てるものなんですか」
「勝てないけど、引き分けくらいにはして」
「難しいですね」
「豆三粒の人ならいける」
カナタは椀を見た。
三粒。
湯気。
薄いスープ。
それから、紙に戻る。
作戦名欄はまだ空白だった。
カナタはそこを見て、ガレスに言った。
「作戦名」
「適当に書け」
「適当でいいんですか」
「どうせ後で誰かが直す」
ユウトが身を乗り出す。
「豆スープ防衛作戦」
「却下」
リゼが手を上げる。
「命の恩人割作戦」
「配給制度みたいになります」
ミナが工具箱から顔を上げる。
「車に謝れ作戦」
「趣旨が変わります」
タクトが少し考えて言った。
「明日の湯気作戦」
食堂の音が、ほんの少しだけ遠くなった。
悪くない。
いや、良すぎる気がした。
良すぎる名前は、書くのが恥ずかしい。
ガレスが煙草を咥え直す。
「詩人が増えたな」
タクトが慌てる。
「すみません」
「謝るな。採用はしねぇが」
「しないんですね」
「照れるだろ」
リゼが笑った。
「副長が照れるんだ」
「患者は黙って飲め」
「出た、会話の暴力」
リゼは素直にスープを飲んだ。
それから顔をしかめる。
「薄い」
「豆は増えてます」
「薄いものは薄い」
「厳しい」
「でも、昨日より好き」
その言葉は、何気なく落ちた。
椀から上がる湯気みたいに、ゆっくり上がって、すぐ消えた。
でもカナタの中には残った。
昨日より好き。
薄くても。
足りなくても。
戦争が終わっていなくても。
昨日より、ほんの少しだけまし。
そのくらいの勝利なら、たぶん信じてもいいのかもしれない。
食堂の外で、雪かきの音がしていた。
ざく、ざく、ざく。
一定のリズム。
遠くで三号車のエンジンが咳をする。
ミナが怒鳴る。
「今の音、聞いた? 絶対聞いたよね!」
誰に言っているのか分からない。
車にかもしれない。
世界にかもしれない。
タクトが缶を押さえて、少し笑った。
日常は、長く続かない。
でも、少しの間なら続く。
その少しの間に、人はスープを飲んで、豆を数えて、くだらない名前を考える。
それでまた次へ行く。
カナタはペンを動かした。
作戦名欄は空白のまま。
内容だけを書く。
事実だけを書く。
でも最後に、備考欄へ小さく一行足した。
《配給改善を確認》
それだけだった。
でも、それだけは書いておきたかった。
報告書を折りたたもうとした時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
食堂の笑い声が止まる。
椀を置く音。
椅子が引かれる音。
誰かが小さく息を止める音。
アイラの声が流れた。
『北方避難列、定時通信なし』
ノイズ。
『再呼び出し中』
食堂が静かになった。
完全にではない。
ストーブは鳴っている。
湯気は上がっている。
豆は椀の中にある。
でも、さっきまでの空気は消えた。
ユウトが椀を見た。
四粒のうち、まだ一粒残っている。
彼はそれをじっと見てから、飲み込んだ。
「早いですね」
小さく言った。
誰も答えなかった。
早い。
本当に早い。
昨日帰したものが、今日の湯気になった。
その湯気が消える前に、次の列が消えかけている。
ガレスが立ち上がった。
「確認に出る」
命令というより、いつもの作業みたいな声だった。
ミナが工具箱を閉じる。
セナが医療袋を肩にかける。
タクトが缶を押さえる。
リゼが毛布を外そうとして、セナに手首を掴まれる。
「医療棟」
「まだ何も」
「顔」
「顔で全部バレる世界、嫌なんだけど」
少しだけ笑いが起きた。
さっきより弱い。
でも、あった。
カナタは報告書を折りたたんだ。
作戦名の欄は、まだ空白だった。
その空白を見てから、椀の底を見る。
豆はもうない。
湯気だけが少し残っている。
明日の湯気。
それを運べた日だった。
そして、また誰かの湯気が消えかけている。
カナタは手袋をはめ直した。
まだ少し湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、また少し湿った。
「行きます」
ガレスがこちらを見る。
「言う前に動くな」
「言う顔でした」
「嫌な候補生だな」
「よく言われます」
嘘だった。
まだそんなには言われていない。
でも、これから言われる気がした。
食堂の扉が開く。
冷たい風が入る。
雪の匂い。
油の匂い。
スープの湯気。
それらが一瞬だけ混ざった。
カナタは外へ出た。
背中の食堂には、豆四粒の日の温かさがまだ少し残っていた。