帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第十九話 豆四粒の日

 その日のスープには、豆が四粒入っていた。

 最初に気づいたのはユウトだった。

 食堂の配給口で椀を受け取り、湯気を吹き、いつもの癖で中を覗き込む。そこで彼は止まった。寒さで固まったのではなかった。椀の中に浮かぶ小さな褐色の丸を、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と数えて、そこで何かの答えを見つけたみたいな顔になった。

「……四」

 ユウトが言った。

 声が小さかった。

 食堂は朝から混んでいた。

 濡れた軍靴の匂い。灯油ストーブの焦げた匂い。薄いスープの匂い。雪を払わずに入ってきた兵士の肩から落ちる水の匂い。誰かの湿った手袋。誰かの咳。木の椀が机に当たる音。

 そういうものが全部混ざって、ハウンド七の朝の匂いになる。

「四?」

 タクトが隣から覗き込む。

「四粒」

「豆が?」

「豆が」

 ユウトは椀を両手で持ち上げた。

 まるで勲章でも授与されたみたいな顔だった。

「戦争、終わりました?」

「終わってません」

 セナが即答した。

 配給列の後ろからだった。

 彼女は自分の椀を受け取りながら、豆の数を確認することもなく、淡々と続けた。

「豆四粒で終わる戦争なら、もっと早く終わってる」

「でも、かなり良い兆候じゃないですか」

 ユウトが言う。

「前祝いくらいにはなる」

 リゼの声だった。

 食堂の隅、ストーブの近く。

 医療棟の患者服の上に軍用コート、その上から毛布。いつもの姿だった。いや、いつもの姿になりつつあった。病人の格好が定着するのは、本人にとっても部隊にとってもたぶん良くない。

 でも、誰も強く否定しなかった。

 そういうものが食堂にあると、少しだけ安心するからだ。

「前祝いって何の」

 カナタが訊く。

「明日も豆がある祝い」

「弱い」

「でも切実」

 リゼは椀を覗き込んだ。

「私、三粒」

「貴族じゃないですか」

 ユウトが真顔で言う。

「四粒の人が言うと嫌味だよ」

「いや、これは責任です。豆四粒を背負う者の」

「軽そう」

「でも落としたら泣きます」

 小さな笑いが起きた。

 ハウンド七の食堂は、朝から混んでいた。

 帰還した食料車の影響で、配給量がほんの少し増えたらしい。ほんの少し。本当に少し。椀の底が見えなくなるほどではない。スープは相変わらず薄いし、湯気だけが立派だし、飲み終わった後に腹が満ちるわけでもない。

 それでも、豆が増えた。

 たった一粒か二粒。

 けれどその一粒が、食堂の空気を少しだけ変えていた。

 人間は、腹だけで生きているわけではない。

 たぶん、豆の数でも生きている。

 カナタは自分の椀を受け取った。

 三粒。

 十分だと思った。

 昨日、雪の上で置いてきた食料車を思い出す。

 傾いた車体。

 空転する後輪。

 固定されたアクセル。

 誰も乗っていないのに唸っていたエンジン。

 荷台に残った缶詰箱。

 それに群がっていく黒い影。

 あの車は帰ってこなかった。

 あの箱も、全部は帰ってこなかった。

 でも、帰ってきたものもあった。

 今、椀の中に浮かんでいる。

 豆の形をして。

 そう思うと、豆はひどく小さく、ひどく重かった。

「カナタさん」

 タクトが隣に来た。

 腰には布を巻いた空のオレンジソーダ缶。

 缶は相変わらず音を立てない。

 最近はもう、誰もそれを変だと言わなくなった。

「三粒ですか」

「はい」

「自分も三です」

「安定ですね」

「安定って、こんな小さいものなんですね」

 タクトは少し笑った。

 その笑い方は、前より自然だった。

 帰ってきたばかりの頃、彼はスープの湯気を見るだけで黙り込んでいた。今は豆を数えている。いいことなのかどうかは分からない。でも、悪いことではない気がした。

 ミナは食堂の端で、椀を片手に工具箱を開いていた。

 食事中に工具箱を開くな、という張り紙が近くにある。

 その張り紙には、赤字で《特にミナ》と追記されていた。

「名指しされてますよ」

 ユウトが言う。

「知ってる」

「閉じないんですか」

「食べてる」

「工具箱を?」

「スープを」

「じゃあ工具箱は」

「見てる」

「食事中に?」

「車も食事みたいなものだから」

「燃料の話ですか」

「うん」

 ミナはそう言いながら、椀の中を見た。

「二粒」

「敗北ですね」

「三号車よりはマシ」

「三号車、豆一粒以下なんですか」

「エンジン音がね」

 意味が分からない。

 でも、ミナの中では通じているらしい。

 食堂の窓は白く曇っていた。

 誰かが指で落書きをしている。

 昨日は雪だるまみたいなレイスだった。

 今日は豆だった。

 丸が四つ。

 その下に《勝利》と書いてある。

 たぶんユウトだ。

 カナタはそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 勝利。

 大げさな言葉だ。

 でも、今朝に限れば間違いではない気がした。

 敵を倒したわけではない。

 戦線を押し返したわけでもない。

 都市を守ったわけでもない。

 ただ、豆が四粒になった。

 それだけで、昨日の行動が少しだけ形になった。

 帰したものが、日常へ戻ってきた。

 それはたぶん、この部隊にとっての勝利だった。

「カナタ」

 ガレスが食堂に入ってきた。

 くたびれたコート。

 火のつかない煙草。

 寝不足の顔。

 朝のハウンド七に、よく似合う顔だった。

「報告書」

「はい」

「書け」

 短く言って、紙を一枚差し出す。

 カナタは椀を見た。

 まだ半分残っている。

「今ですか」

「豆が冷める前に書け」

「冷めたら?」

「冷めた豆を食え」

「厳しい」

 ガレスは隣の椅子に座った。

 椀の中を見る。

「四粒」

 ユウトが立ち上がった。

「副長も選ばれし者です」

 ガレスは黙って報告書の紙をカナタへ渡した。

 薄い紙。

 端が少し湿っている。

 カナタはペンを持った。

 書くことは決まっている。

 食料車両群、二両帰還。一両放棄。補給物資一部喪失。人的損耗なし。避難列配給改善見込み。

 紙の上では簡単だった。

 一両放棄。一部喪失。人的損耗なし。たったそれだけ。

 でも、その一両には音があった。

 エンジンの音。ミナが謝れと言った声。補給班の男が小さく「すまん」と言った声。雪に置いてきた缶詰箱の重さ。そういうものは、報告書の欄には入らない。入らないものの方が、本当は多い。

 カナタはペン先を止めた。

「顔が暗い」

 リゼが言った。

「報告書に負けてる」

「勝てるものなんですか」

「勝てないけど、引き分けくらいにはして」

「難しいですね」

「豆三粒の人ならいける」

 カナタは椀を見た。

 三粒。

 湯気。

 薄いスープ。

 それから、紙に戻る。

 作戦名欄はまだ空白だった。

 カナタはそこを見て、ガレスに言った。

「作戦名」

「適当に書け」

「適当でいいんですか」

「どうせ後で誰かが直す」

 ユウトが身を乗り出す。

「豆スープ防衛作戦」

「却下」

 リゼが手を上げる。

「命の恩人割作戦」

「配給制度みたいになります」

 ミナが工具箱から顔を上げる。

「車に謝れ作戦」

「趣旨が変わります」

 タクトが少し考えて言った。

「明日の湯気作戦」

 食堂の音が、ほんの少しだけ遠くなった。

 悪くない。

 いや、良すぎる気がした。

 良すぎる名前は、書くのが恥ずかしい。

 ガレスが煙草を咥え直す。

「詩人が増えたな」

 タクトが慌てる。

「すみません」

「謝るな。採用はしねぇが」

「しないんですね」

「照れるだろ」

 リゼが笑った。

「副長が照れるんだ」

「患者は黙って飲め」

「出た、会話の暴力」

 

 リゼは素直にスープを飲んだ。

 それから顔をしかめる。

「薄い」

「豆は増えてます」

「薄いものは薄い」

「厳しい」

「でも、昨日より好き」

 その言葉は、何気なく落ちた。

 椀から上がる湯気みたいに、ゆっくり上がって、すぐ消えた。

 でもカナタの中には残った。

 昨日より好き。

 薄くても。

 足りなくても。

 戦争が終わっていなくても。

 昨日より、ほんの少しだけまし。

 そのくらいの勝利なら、たぶん信じてもいいのかもしれない。

 食堂の外で、雪かきの音がしていた。

 ざく、ざく、ざく。

 一定のリズム。

 遠くで三号車のエンジンが咳をする。

 ミナが怒鳴る。

「今の音、聞いた? 絶対聞いたよね!」

 誰に言っているのか分からない。

 車にかもしれない。

 世界にかもしれない。

 タクトが缶を押さえて、少し笑った。

 日常は、長く続かない。

 でも、少しの間なら続く。

 その少しの間に、人はスープを飲んで、豆を数えて、くだらない名前を考える。

 それでまた次へ行く。

 カナタはペンを動かした。

 作戦名欄は空白のまま。

 内容だけを書く。

 事実だけを書く。

 でも最後に、備考欄へ小さく一行足した。

 《配給改善を確認》

 それだけだった。

 でも、それだけは書いておきたかった。

 報告書を折りたたもうとした時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 食堂の笑い声が止まる。

 椀を置く音。

 椅子が引かれる音。

 誰かが小さく息を止める音。

 アイラの声が流れた。

『北方避難列、定時通信なし』

 ノイズ。

『再呼び出し中』

 食堂が静かになった。

 完全にではない。

 ストーブは鳴っている。

 湯気は上がっている。

 豆は椀の中にある。

 でも、さっきまでの空気は消えた。

 ユウトが椀を見た。

 四粒のうち、まだ一粒残っている。

 彼はそれをじっと見てから、飲み込んだ。

「早いですね」

 小さく言った。

 誰も答えなかった。

 早い。

 本当に早い。

 昨日帰したものが、今日の湯気になった。

 その湯気が消える前に、次の列が消えかけている。

 ガレスが立ち上がった。

「確認に出る」

 命令というより、いつもの作業みたいな声だった。

 ミナが工具箱を閉じる。

 セナが医療袋を肩にかける。

 タクトが缶を押さえる。

 リゼが毛布を外そうとして、セナに手首を掴まれる。

「医療棟」

「まだ何も」

「顔」

「顔で全部バレる世界、嫌なんだけど」

 少しだけ笑いが起きた。

 さっきより弱い。

 でも、あった。

 カナタは報告書を折りたたんだ。

 作戦名の欄は、まだ空白だった。

 その空白を見てから、椀の底を見る。

 豆はもうない。

 湯気だけが少し残っている。

 明日の湯気。

 それを運べた日だった。

 そして、また誰かの湯気が消えかけている。

 カナタは手袋をはめ直した。

 まだ少し湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、また少し湿った。

「行きます」

 ガレスがこちらを見る。

「言う前に動くな」

「言う顔でした」

「嫌な候補生だな」

「よく言われます」

 嘘だった。

 まだそんなには言われていない。

 でも、これから言われる気がした。

 食堂の扉が開く。

 冷たい風が入る。

 雪の匂い。

 油の匂い。

 スープの湯気。

 それらが一瞬だけ混ざった。

 カナタは外へ出た。

 背中の食堂には、豆四粒の日の温かさがまだ少し残っていた。

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