帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二話 向きを変える

 車両の向きを変えるだけなら、撤退ではない。

 たぶん。

 カナタは自分でそう思った。

 かなり苦しい理屈だった。

 でも、戦争の現場では、たぶんそういう苦しい理屈が人間を少しだけ前に進める。命令は出ていない。撤退命令も、後退命令も、基地放棄の通達もない。ただ、輸送車を南側道路へ出やすいように並べ替える。それだけだ。

 それだけ。

 それだけのはずなのに、車庫の前に立っている兵士たちは、みんな少しだけ声が低かった。

 雪はまだ降っていた。

 午前中の雪は軽かった。

 午後の雪は、水分を含んで重くなっていた。襟元に入るとすぐに溶けて、首筋に冷たい線を引く。車体の鉄板には薄い氷が張り、手袋越しに触れても、金属の冷たさが骨まで届くようだった。

「三号車、バック」

 ガレスが言った。

「五号車、門側へ寄せろ」

「燃料車は?」

「最後だ。あれ詰まると全部終わる」

 ガレスの声はいつもと変わらない。

 眠そうで、面倒くさそうで、少し投げやり。

 でも、兵士たちはすぐ動いた。

 誰も質問しなかった。

 質問すると、この作業に名前がついてしまうからだ。

 撤退準備。

 そう呼んだ瞬間、これは命令違反になる。

 だから誰も呼ばない。

 ただ、向きを変える。

 輸送車のエンジンがかかった。

 低い振動が雪の上を這う。

 排気が白く膨らんで、すぐに雪に溶けていく。灯油と焦げたオイルの匂いが強くなった。倉庫の壁に貼られた古いポスターが、排気の風でぺらぺら鳴っていた。

 前線慰問公演のお知らせ。

 日付は三ヶ月前。

 写真の中の歌手は笑っている。

 その笑顔だけが、この基地で一番古くならないものみたいだった。

「学生」

 ガレスが言った。

「数えろ」

「車両ですか」

「人」

 カナタは一瞬だけ返事が遅れた。

「……はい」

 数える。

 兵士。

 整備兵。

 通信班。

 医療班。

 負傷兵。

 さっき北門から運び込まれた敗残兵。

 そして、基地に逃げ込んできた民間人。

 全部で、思っていたより多かった。

 人間は、まとまると重くなる。

 一人一人なら歩ける。

 名前も、顔も、癖もある。

 でも数字にすると、それは急に重くなる。

 三十人。

 百人。

 二百人。

 その数字が、車両の座席数より大きくなった時、人間は荷物よりも運びにくいものになる。

「多いな」

 カナタは言った。

「だろ」

「乗り切りません」

「だろうな」

 ガレスは火のつかない煙草を咥えた。

「だから向きを変えてる」

「向きで解決しますか」

「しねぇよ」

 短い。

 でも、本当だった。

 ミナが三号車の下から這い出てきた。

 頬に黒い油がついている。

「三号、動くよ」

「どれくらい」

「聞かないで」

「聞く」

「基地の外までは」

「その後は」

「機嫌次第」

 ガレスは少しだけ笑った。

「車も人間みたいになってきたな」

「人間より正直だよ。壊れる時はちゃんと音出すし」

 ミナは車体を軽く叩いた。

 こん、と乾いた音。

「人間は音出さずに壊れるから嫌」

 誰もすぐには返事をしなかった。

 ミナは言ってから、しまった、という顔をした。

 そしてすぐに工具箱を持ち上げた。

「次、五号見る」

 逃げるように行ってしまった。

 カナタはその背中を見ていた。

 小さい背中だった。

 でも、さっきまで三号車の下に入っていた時より、ずっと重そうに見えた。

 医療棟の扉が開いた。

 中からセナが出てくる。

 白い腕章。

 赤い手袋。

 手袋は本来白かったのかもしれない。

「搬送車、一台じゃ足りない」

 セナは言った。

 声に感情が少ない。

 疲れているのではなく、感情を出す余裕を別の場所に使っている声だった。

「重傷は?」

 ガレスが訊く。

「七」

「歩ける負傷は」

「歩けるって言い張ってるのが十六」

「実際は」

「八」

「嘘つきが多いな」

「死にたくないだけ」

 セナはカナタを見た。

「撤退するの」

 その言葉が、雪の上に落ちた。

 誰も拾わなかった。

 カナタもすぐには答えなかった。

「車両の向きを変えてるだけです」

「そういうことにしてるんだ」

「はい」

「便利だね」

 セナは怒っているようには見えなかった。

 怒るより前の顔だった。

「命令は?」

「まだです」

「じゃあ、負傷兵は動かせない」

「……」

「命令なしで搬送準備したら、医療棟は空になる。空になったら、もう戻れない」

 正しい。

 セナは正しい。

 正しいから、困る。

 戦争では、正しいことが多すぎる。

 前線を守るのも正しい。

 負傷兵を動かさないのも正しい。

 命令を待つのも正しい。

 そして、たぶん、今すぐ逃げるのも正しい。

 正しさが多すぎる場所では、誰かが一つ選ばなければならない。

 その選ばれなかった正しさが、あとで人を殺す。

「セナさん」

「なに」

「搬送準備だけ」

「……」

「準備だけなら、まだ撤退じゃないです」

 セナはしばらくカナタを見ていた。

 それから、少しだけ視線を落とす。

「屁理屈」

「はい」

「最低」

「はい」

「でも、準備はする」

 セナは医療棟へ戻った。

 扉が閉まる直前、消毒液の匂いが雪の中へ流れた。

 血の匂いも、少し。

 カナタはその匂いを吸い込んでしまって、すぐに後悔した。

 夕方が近づくと、基地は一度だけ静かになった。

 不思議な静けさだった。

 エンジンはかかっている。

 兵士は動いている。

 通信棟では誰かがずっと司令部を呼んでいる。

 それでも、基地全体が息を潜めているようだった。

 学校で、先生が教室に入ってくる直前の沈黙に似ていた。

 みんなが何かを待っている。

 叱られるのか。

 休み時間が終わるのか。

 それとも、窓ガラスが割れるのか。

 アイラは通信棟の入り口に座っていた。

 ヘッドセットを外して、膝に置いている。

 珍しかった。

「聞かないんですか」

 カナタが訊くと、アイラは首を振った。

「聞こえない」

「通信が?」

「人が」

 意味が分からなかった。

 でも、なんとなく分かった。

 アイラは、声の向こうに人間がいるかどうかを聞いている。

 今は、いない。

「第四線」

 アイラは言った。

「さっきまで、誰か泣いてた」

「……」

「今は、ノイズだけ」

 カナタは何も言えなかった。

 アイラは膝の上のヘッドセットを見ている。

 まるで、小さな動物の死骸を見ているみたいだった。

 その時。

 基地の照明が一度、落ちた。

 すぐ戻った。

 でも、その一瞬の暗闇で、全員が止まった。

 誰かの工具が床に落ちる音。

 遠くで犬のような鳴き声。

 いや。

 犬ではない。

 カナタは北門を見た。

 雪の向こうに、黒い点があった。

 一つ。

 二つ。

 増える。

 基地の監視灯がそれを照らした。

 人ではなかった。

 細長い四肢。

 雪に沈まない速さ。

 レイス。

 先行群。

 誰かが叫んだ。

「接敵!」

 その言葉を聞いた瞬間、基地はやっと戦場になった。

 でもカナタには、逆に少し遅すぎたように思えた。

 戦場になる前から、ここはもう壊れ始めていた。

 除雪車が戻らなかった時。

 通信が薄くなった時。

 医療棟が静かになりすぎた時。

 車両の向きを変えた時。

 その全部が、もう始まりだった。

「三号車、出せ!」

 ガレスが怒鳴った。

「五号車、門へ!」

「負傷兵搬送!」

「民間人、南側!」

 声が重なった。

 雪が舞う。

 エンジンが唸る。

 ミナが車体の上で怒鳴る。

「三号!お願いだから今だけいい子にして!」

 セナが医療棟から担架を押してくる。

「道空けて!」

 ユウトが弾薬箱を抱えて転びかける。

「うわっ、重っ!」

 ガレスがカナタを見た。

「学生」

「はい」

「当たったな」

「嬉しくないです」

「だろうな」

 北門の向こうで機銃が火を吹いた。

 レイスが雪の上に倒れる。

 でも、次が来る。

 その奥からまた次。

 暗い雪の中から、何かがずっと湧いてくる。

 基地内放送が入った。

『各隊、現位置を維持』

 ノイズ。

『繰り返す、現位置を――』

 そこで途切れた。

 ガレスが笑った。

 笑ったというより、息を吐いた。

「遅ぇよ」

 カナタは南側道路を見た。

 車両は向きを変えている。

 完璧ではない。

 でも、詰まらずに出せる。

 たぶん。

 たぶん、間に合う。

「撤退命令は」

 誰かが叫んだ。

 誰も答えない。

 その代わり、ガレスが言った。

「向きは変えた」

 それが答えだった。

 カナタは初めて、少しだけ息を吸えた。

 雪の匂いがした。

 灯油の匂い。

 血の匂い。

 オイルの匂い。

 全部混ざって、ひどく人間くさい匂いだった。

 北からは黒い影が来る。

 南にはまだ道がある。

 まだ。

 今なら。

「出します」

 カナタが言った。

 ガレスは煙草を咥えたまま頷いた。

「帰るぞ」

 その言葉は、撤退命令ではなかった。

 たぶん。

 でも、その場にいた全員が動いた。

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