帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
車両の向きを変えるだけなら、撤退ではない。
たぶん。
カナタは自分でそう思った。
かなり苦しい理屈だった。
でも、戦争の現場では、たぶんそういう苦しい理屈が人間を少しだけ前に進める。命令は出ていない。撤退命令も、後退命令も、基地放棄の通達もない。ただ、輸送車を南側道路へ出やすいように並べ替える。それだけだ。
それだけ。
それだけのはずなのに、車庫の前に立っている兵士たちは、みんな少しだけ声が低かった。
雪はまだ降っていた。
午前中の雪は軽かった。
午後の雪は、水分を含んで重くなっていた。襟元に入るとすぐに溶けて、首筋に冷たい線を引く。車体の鉄板には薄い氷が張り、手袋越しに触れても、金属の冷たさが骨まで届くようだった。
「三号車、バック」
ガレスが言った。
「五号車、門側へ寄せろ」
「燃料車は?」
「最後だ。あれ詰まると全部終わる」
ガレスの声はいつもと変わらない。
眠そうで、面倒くさそうで、少し投げやり。
でも、兵士たちはすぐ動いた。
誰も質問しなかった。
質問すると、この作業に名前がついてしまうからだ。
撤退準備。
そう呼んだ瞬間、これは命令違反になる。
だから誰も呼ばない。
ただ、向きを変える。
輸送車のエンジンがかかった。
低い振動が雪の上を這う。
排気が白く膨らんで、すぐに雪に溶けていく。灯油と焦げたオイルの匂いが強くなった。倉庫の壁に貼られた古いポスターが、排気の風でぺらぺら鳴っていた。
前線慰問公演のお知らせ。
日付は三ヶ月前。
写真の中の歌手は笑っている。
その笑顔だけが、この基地で一番古くならないものみたいだった。
「学生」
ガレスが言った。
「数えろ」
「車両ですか」
「人」
カナタは一瞬だけ返事が遅れた。
「……はい」
数える。
兵士。
整備兵。
通信班。
医療班。
負傷兵。
さっき北門から運び込まれた敗残兵。
そして、基地に逃げ込んできた民間人。
全部で、思っていたより多かった。
人間は、まとまると重くなる。
一人一人なら歩ける。
名前も、顔も、癖もある。
でも数字にすると、それは急に重くなる。
三十人。
百人。
二百人。
その数字が、車両の座席数より大きくなった時、人間は荷物よりも運びにくいものになる。
「多いな」
カナタは言った。
「だろ」
「乗り切りません」
「だろうな」
ガレスは火のつかない煙草を咥えた。
「だから向きを変えてる」
「向きで解決しますか」
「しねぇよ」
短い。
でも、本当だった。
ミナが三号車の下から這い出てきた。
頬に黒い油がついている。
「三号、動くよ」
「どれくらい」
「聞かないで」
「聞く」
「基地の外までは」
「その後は」
「機嫌次第」
ガレスは少しだけ笑った。
「車も人間みたいになってきたな」
「人間より正直だよ。壊れる時はちゃんと音出すし」
ミナは車体を軽く叩いた。
こん、と乾いた音。
「人間は音出さずに壊れるから嫌」
誰もすぐには返事をしなかった。
ミナは言ってから、しまった、という顔をした。
そしてすぐに工具箱を持ち上げた。
「次、五号見る」
逃げるように行ってしまった。
カナタはその背中を見ていた。
小さい背中だった。
でも、さっきまで三号車の下に入っていた時より、ずっと重そうに見えた。
医療棟の扉が開いた。
中からセナが出てくる。
白い腕章。
赤い手袋。
手袋は本来白かったのかもしれない。
「搬送車、一台じゃ足りない」
セナは言った。
声に感情が少ない。
疲れているのではなく、感情を出す余裕を別の場所に使っている声だった。
「重傷は?」
ガレスが訊く。
「七」
「歩ける負傷は」
「歩けるって言い張ってるのが十六」
「実際は」
「八」
「嘘つきが多いな」
「死にたくないだけ」
セナはカナタを見た。
「撤退するの」
その言葉が、雪の上に落ちた。
誰も拾わなかった。
カナタもすぐには答えなかった。
「車両の向きを変えてるだけです」
「そういうことにしてるんだ」
「はい」
「便利だね」
セナは怒っているようには見えなかった。
怒るより前の顔だった。
「命令は?」
「まだです」
「じゃあ、負傷兵は動かせない」
「……」
「命令なしで搬送準備したら、医療棟は空になる。空になったら、もう戻れない」
正しい。
セナは正しい。
正しいから、困る。
戦争では、正しいことが多すぎる。
前線を守るのも正しい。
負傷兵を動かさないのも正しい。
命令を待つのも正しい。
そして、たぶん、今すぐ逃げるのも正しい。
正しさが多すぎる場所では、誰かが一つ選ばなければならない。
その選ばれなかった正しさが、あとで人を殺す。
「セナさん」
「なに」
「搬送準備だけ」
「……」
「準備だけなら、まだ撤退じゃないです」
セナはしばらくカナタを見ていた。
それから、少しだけ視線を落とす。
「屁理屈」
「はい」
「最低」
「はい」
「でも、準備はする」
セナは医療棟へ戻った。
扉が閉まる直前、消毒液の匂いが雪の中へ流れた。
血の匂いも、少し。
カナタはその匂いを吸い込んでしまって、すぐに後悔した。
夕方が近づくと、基地は一度だけ静かになった。
不思議な静けさだった。
エンジンはかかっている。
兵士は動いている。
通信棟では誰かがずっと司令部を呼んでいる。
それでも、基地全体が息を潜めているようだった。
学校で、先生が教室に入ってくる直前の沈黙に似ていた。
みんなが何かを待っている。
叱られるのか。
休み時間が終わるのか。
それとも、窓ガラスが割れるのか。
アイラは通信棟の入り口に座っていた。
ヘッドセットを外して、膝に置いている。
珍しかった。
「聞かないんですか」
カナタが訊くと、アイラは首を振った。
「聞こえない」
「通信が?」
「人が」
意味が分からなかった。
でも、なんとなく分かった。
アイラは、声の向こうに人間がいるかどうかを聞いている。
今は、いない。
「第四線」
アイラは言った。
「さっきまで、誰か泣いてた」
「……」
「今は、ノイズだけ」
カナタは何も言えなかった。
アイラは膝の上のヘッドセットを見ている。
まるで、小さな動物の死骸を見ているみたいだった。
その時。
基地の照明が一度、落ちた。
すぐ戻った。
でも、その一瞬の暗闇で、全員が止まった。
誰かの工具が床に落ちる音。
遠くで犬のような鳴き声。
いや。
犬ではない。
カナタは北門を見た。
雪の向こうに、黒い点があった。
一つ。
二つ。
増える。
基地の監視灯がそれを照らした。
人ではなかった。
細長い四肢。
雪に沈まない速さ。
レイス。
先行群。
誰かが叫んだ。
「接敵!」
その言葉を聞いた瞬間、基地はやっと戦場になった。
でもカナタには、逆に少し遅すぎたように思えた。
戦場になる前から、ここはもう壊れ始めていた。
除雪車が戻らなかった時。
通信が薄くなった時。
医療棟が静かになりすぎた時。
車両の向きを変えた時。
その全部が、もう始まりだった。
「三号車、出せ!」
ガレスが怒鳴った。
「五号車、門へ!」
「負傷兵搬送!」
「民間人、南側!」
声が重なった。
雪が舞う。
エンジンが唸る。
ミナが車体の上で怒鳴る。
「三号!お願いだから今だけいい子にして!」
セナが医療棟から担架を押してくる。
「道空けて!」
ユウトが弾薬箱を抱えて転びかける。
「うわっ、重っ!」
ガレスがカナタを見た。
「学生」
「はい」
「当たったな」
「嬉しくないです」
「だろうな」
北門の向こうで機銃が火を吹いた。
レイスが雪の上に倒れる。
でも、次が来る。
その奥からまた次。
暗い雪の中から、何かがずっと湧いてくる。
基地内放送が入った。
『各隊、現位置を維持』
ノイズ。
『繰り返す、現位置を――』
そこで途切れた。
ガレスが笑った。
笑ったというより、息を吐いた。
「遅ぇよ」
カナタは南側道路を見た。
車両は向きを変えている。
完璧ではない。
でも、詰まらずに出せる。
たぶん。
たぶん、間に合う。
「撤退命令は」
誰かが叫んだ。
誰も答えない。
その代わり、ガレスが言った。
「向きは変えた」
それが答えだった。
カナタは初めて、少しだけ息を吸えた。
雪の匂いがした。
灯油の匂い。
血の匂い。
オイルの匂い。
全部混ざって、ひどく人間くさい匂いだった。
北からは黒い影が来る。
南にはまだ道がある。
まだ。
今なら。
「出します」
カナタが言った。
ガレスは煙草を咥えたまま頷いた。
「帰るぞ」
その言葉は、撤退命令ではなかった。
たぶん。
でも、その場にいた全員が動いた。