帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
四つの丸。
その下の《勝利》という文字。
結露で滲んで、勝利というより、誰かが寝ぼけて書いた落書きみたいになっていた。ユウトはそれを指の腹で、きゅっ、きゅっと消していく。消えたところだけガラスが少し透明になって、その向こうに白い雪と、防雪柵と、まだ朝になりきっていない灰色の空が見えた。
「消すんですか」
カナタが訊くと、ユウトは振り返った。
「はい」
「なぜ」
「帰ってきたら、また描くので」
「縁起担ぎですか」
「儀式です」
「重くなりましたね」
「豆四粒は重いんです」
ユウトは真顔だった。
それが冗談なのか本気なのか、最近は少し分かりにくい。
たぶん、どちらでもある。
タクトはその横で、空のオレンジソーダ缶を腰に結び直していた。布は少し汚れている。何度も雪に濡れて、乾いて、また濡れた布だ。セナが追加で巻いた缶の縁は、まだきれいに守られている。
「音、鳴らない?」
ユウトが訊く。
タクトは腰を少し揺らした。
音はしない。
「鳴りません」
「よし。今日も静音仕様」
「車みたいに言わないでください」
ミナが工具箱を抱えて通りかかった。
「車に失礼」
「そっちですか」
「缶は缶。車は車。格が違う」
「缶にも帰還実績ありますよ」
「じゃあ準車両」
「昇格した」
少しだけ笑いが起きた。
食堂の中には、まだ豆四粒の日の残り香があった。
薄いスープの匂い。
灯油ストーブの匂い。
濡れた軍靴の匂い。
その全部が、いまから外へ出る人間たちの背中にくっついている。
カナタはそれを少し惜しいと思った。
温かい場所から寒い場所へ行く時、人間はいつも少しだけ薄くなる。
体温も。
気持ちも。
会話も。
でも、行かなければならない。
北方避難列は、定時通信に応答しなかった。
それだけだった。
攻撃を受けたとも、救援要請があったとも言っていない。
ただ、返事がない。
戦場では、それが一番怖いことがある。
助けて、と言えるうちはまだいい。
悲鳴があるうちは、そこに人がいる。
返事がない場所は、何が残っているのか分からない。
食堂の入口で、リゼが立っていた。
毛布。
患者服。
軍用コート。
白いタオル。
完全装備だった。
「行ってらっしゃい」
リゼが言った。
セナが背後にいる。
逃走防止用の配置だった。
「今日は来ないんですね」
ユウトが言った。
「来ないんじゃない。来られない」
リゼはセナを親指で指した。
「門番が強い」
「患者が弱いだけ」
セナが言う。
「私はそこそこ強い患者」
「患者の時点で負け」
「ひどい」
セナの声はいつも通りだった。
それが少し安心だった。
リゼはカナタを見た。
「帰ってきたら、窓に豆描くんでしょ」
「ユウトが」
「カナタさんは?」
「俺は見てます」
「ずるい」
「何がですか」
「見てるだけの人って、たまに一番ずるい」
リゼは笑った。
軽い声だった。
でも少しだけ、何かが引っかかった。
カナタは返事を探して、見つからなかった。
外でエンジンがかかる。
休み時間の終わりみたいな音。
彼らは食堂を出た。
雪は降っていなかった。
珍しいことだった。
そのせいで、世界はいつもより静かに見えた。
雪が降っていない雪原は、白い紙のようだった。何も書かれていない。けれど、どこかで誰かがもう何かを書き終えて、その上から消しゴムをかけた後のようにも見えた。
輸送車は北へ進んだ。
ハウンド七から離れるにつれて、格納庫の音が後ろへ消える。工具の音。誰かの怒鳴り声。ストーブの燃える音。食堂の椅子が床を擦る音。
それらが消えた後に残るのは、エンジンと、タイヤが氷を噛む音と、車内の誰かの息だけだった。
「静かですね」
タクトが言った。
「いい静かさだといいんですけど」
ユウトが返す。
「いい静かさと悪い静かさ、ありますよね」
「ありますね」
「これは?」
ユウトは窓の外を見た。
しばらく考えてから言う。
「気まずい静かさ」
「人間関係みたいに言わないでください」
「雪原と距離感が掴めなくて」
ミナが運転席から言った。
「道路も黙ってる」
「道路は普段から喋りません」
「今日は特に黙ってる」
「整備兵の感覚、難しいですね」
軽口はあった。
でも、いつもより短かった。
誰も長く話さない。
言葉が雪原に落ちると、そのまま沈んでしまいそうだった。
北方避難列の最後の通信地点に着いた時、そこには車があった。
一台だけ。
小型の民間バス。
古い観光用らしい。
側面には、夏の湖と花火の絵が描かれている。絵は半分剥げていて、湖の青だけが妙に鮮やかだった。雪の中で見る夏の青は、少し暴力的だった。
バスは道の脇に止まっていた。
エンジンは止まっている。
窓は曇っていない。
中に人影はない。
「……無人?」
ユウトが呟いた。
カナタは車を降りた。
雪を踏む。
きゅっ、と音がする。
その音がやけに大きく聞こえた。
バスの扉は開いていた。
中には毛布が残っている。
紙コップ。
子供用の手袋。
座席に置かれたままの小さなリュック。
人はいない。
血もない。
荒らされた形跡もない。
ただ、人だけが消えていた。
それが一番嫌だった。
死体があれば、何が起きたか分かる。
壊れていれば、襲撃されたと分かる。
でも、ここにはただ空白だけがある。
「足跡」
タクトが言った。
バスの横から、足跡が続いていた。
道ではない方へ。
雪原の中へ。
不思議なほど整っている。
列になっている。
小さい足。
大きい足。
足を引きずる跡。
荷物を持った跡。
でも、乱れていない。
逃げた足跡ではない。
歩いている。
静かに。
まるで、誰かに呼ばれて、そのまま歩いていったように。
「変ですね」
ユウトが言った。
「はい」
「逃げた感じじゃない」
「はい」
「じゃあ、なんで」
その時、通信機がざらついた。
アイラの声が入る。
『……こちら……ハウンド……応答……』
ノイズ。
声が遠い。
カナタは通信機を取った。
「こちら第七。聞こえます」
『……聞こえ……ない……』
「アイラ?」
『……声……重なって……』
通信が切れた。
その瞬間だった。
耳の奥で、何かが鳴った。
音というより、圧だった。
低い。
地面の下からではない。
空からでもない。
耳の内側から、直接押されるような音。
カナタは思わず片膝をついた。
ユウトが顔をしかめる。
タクトが缶を押さえた。
ミナが車体に手をつく。
「なに、これ」
声が遠い。
近くにいるのに、遠い。
近くにいるはずのユウトの息が、壁の向こうから聞こえる。
自分の心臓だけが、やけにはっきり聞こえた。
雪原の向こうで、黒い影が立っていた。
小型レイスではない。
大きい。
細長い。
前肢が異様に長い。
首のあたりが裂けている。
その裂け目が、震えている。
鳴いている。
いや、鳴いているというより、空気を歪ませている。
「ハウラー……」
ミナが言った。
噂でしか聞いたことがなかった中型レイス。
声を壊す個体。
通信を潰す個体。
列の会話を奪うもの。
ハウラーは動かない。
ただ、そこに立っていた。
それだけで、世界から声が遠くなる。
カナタは足跡を見た。
避難列の足跡。
乱れていない。
声が届かなかったのだ。
呼び止める声。
止まれという声。
戻れという声。
誰かの名前。
全部、遠くされた。
だから列は静かに道を外れた。
パニックではない。
もっと悪い。
静かな崩壊だった。
「車へ!」
カナタは叫んだ。
叫んだつもりだった。
自分の声が、遠く聞こえた。
ユウトは聞こえていない。
タクトもこちらを見ていない。
ハウラーの音が、会話を押し潰している。
カナタはユウトの肩を掴んだ。
目を見る。
車を指す。
ユウトはようやく理解した。
頷く。
タクトを引く。
ミナが車のライトを点滅させた。
一回。
二回。
三回。
音が使えない。
なら、見えるものを使う。
カナタは手を上げた。
大きく。
右。
戻れ。
車へ。
ユウトが同じ動きをした。
タクトも。
手信号なんて、ちゃんと習ったわけではない。
でも、分かる。
分かるように動くしかない。
ハウラーの背後で、小型レイスの影がいくつか動いた。
黒い点。
避難列の足跡を追っている。
急がなければならない。
でも、声が使えない。
叫べない。
呼べない。
列を作るための一番柔らかい道具が奪われている。
カナタは雪の上に棒を突き立てた。
雪を大きく削る。
矢印。
車の方へ。
ユウトが理解し、さらに前へ走って、同じ矢印を描く。
タクトは落ちていた子供用の手袋を拾い、矢印の先へ置いた。
赤い手袋。
白い雪の上で、よく目立つ。
それを見て、カナタは思った。
声がなくても、日常の残骸は目印になる。
赤い手袋。
夏の湖の絵のバス。
布を巻いた缶。
そういうものが、人を戻す線になる。
通信機がまた鳴る。
今度はほとんどノイズだけ。
だが、その中に微かに声が混じった。
『……こ……ども……』
カナタは顔を上げた。
東の雪原。
足跡の先。
小さな影が見えた。
人だ。
避難列の一部。
立ち止まっている。
いや、止まったのではない。
互いに声が届かず、どちらへ行けばいいのか分からなくなっている。
列が音を失って、ほどけている。
「見えるものだけ信じて!」
カナタは叫んだ。
声はたぶん届かない。
でも、叫ばずにいられなかった。
ミナが車両のライトをさらに点滅させる。
ユウトが信号弾を取り出した。
カナタを見る。
撃つか。
カナタは頷いた。
赤い光が空へ上がった。
音は聞こえない。
ただ、光だけが雪原に広がる。
白い世界に、赤い線。
避難列の人々が顔を上げる。
一人。
また一人。
光を見る。
こちらを見る。
カナタは両腕を大きく振った。
こっちへ。
戻れ。
止まるな。
ユウトも振る。
タクトも振る。
ミナが車を少し前へ出し、ライトを点け続ける。
声ではなく、光で列を呼ぶ。
足跡が戻り始めた。
ばらばらに。
でも、戻る。
小型レイスが走る。
ハウラーはまだ鳴いている。
声が壊れている。
通信も壊れている。
でも、光は壊れない。
少なくとも、今は。
ガレスの車両が遅れて到着した。
車載機銃が火を吹く。
今度は音が聞こえた。
いや、振動として体に来た。
小型レイスが雪に倒れる。
ハウラーが首を揺らした。
裂けた部分が震える。
音がさらに低くなる。
カナタは耳を押さえた。
視界が少し歪む。
それでも、赤い手袋が見えた。
雪の上の矢印が見えた。
戻ってくる人の列が見えた。
声がないなら、見えるものを増やせばいい。
そのことだけを考えた。
避難民たちが車の近くへ戻ってくる。
泣いている子供。
耳を押さえる老人。
口を動かしているが声が聞こえない母親。
それでも、戻ってくる。
列は壊れかけていた。
でも、完全には壊れていない。
最後の数人が車両の陰に入った時、ハウラーはゆっくり後退した。
逃げるというより、役目を終えたみたいに。
黒い影が雪の向こうへ沈んでいく。
音が少しずつ戻る。
最初に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。
次に、エンジン音。
それからユウトの声。
「……うわ、戻った」
タクトが耳を押さえながら言う。
「声、変じゃないですか」
「変です」
ユウトは自分の喉を触った。
「俺、こんな声でしたっけ」
「だいたいそんな声です」
「だいたいで戻された」
ミナが車体を叩く。
「車の音が聞こえる。よかった」
「人間より先に車ですか」
「どっちも大事」
カナタは雪の上に座り込んだ。
膝に力が入らなかった。
赤い信号弾の光が、まだ薄く空に残っている。
雪の上には、矢印があった。
赤い手袋が、その先に落ちている。
誰かのもの。
たぶん子供のもの。
声を失った列を戻した、小さな目印。
ガレスが近づいてきた。
「見たか」
「はい」
「あいつら、列の止め方を覚えてる」
カナタは頷いた。
言葉がすぐには出なかった。
レイスは、ただ襲ってくるだけではない。
話すことを奪う。
呼ぶことを奪う。
列が列でいるための、声を奪う。
それでも帰さなければならない。
声がなくても。
赤い手袋と、雪の矢印と、光で。
ユウトが窓に描く豆のことを思い出した。
帰ったら、また描くと言っていた。
今度は、豆だけでは足りないかもしれない。
矢印も必要だ。
カナタは赤い手袋を拾った。
濡れている。
小さい。
指の部分に雪が詰まっている。
持ち主へ返さなければならない。
これも、帰すものだと思った。