帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二十話 静かな雪原

 四つの丸。

 その下の《勝利》という文字。

 結露で滲んで、勝利というより、誰かが寝ぼけて書いた落書きみたいになっていた。ユウトはそれを指の腹で、きゅっ、きゅっと消していく。消えたところだけガラスが少し透明になって、その向こうに白い雪と、防雪柵と、まだ朝になりきっていない灰色の空が見えた。

「消すんですか」

 カナタが訊くと、ユウトは振り返った。

「はい」

「なぜ」

「帰ってきたら、また描くので」

「縁起担ぎですか」

「儀式です」

「重くなりましたね」

「豆四粒は重いんです」

 ユウトは真顔だった。

 それが冗談なのか本気なのか、最近は少し分かりにくい。

 たぶん、どちらでもある。

 タクトはその横で、空のオレンジソーダ缶を腰に結び直していた。布は少し汚れている。何度も雪に濡れて、乾いて、また濡れた布だ。セナが追加で巻いた缶の縁は、まだきれいに守られている。

「音、鳴らない?」

 ユウトが訊く。

 タクトは腰を少し揺らした。

 音はしない。

「鳴りません」

「よし。今日も静音仕様」

「車みたいに言わないでください」

 ミナが工具箱を抱えて通りかかった。

「車に失礼」

「そっちですか」

「缶は缶。車は車。格が違う」

「缶にも帰還実績ありますよ」

「じゃあ準車両」

「昇格した」

 少しだけ笑いが起きた。

 食堂の中には、まだ豆四粒の日の残り香があった。

 薄いスープの匂い。

 灯油ストーブの匂い。

 濡れた軍靴の匂い。

 その全部が、いまから外へ出る人間たちの背中にくっついている。

 カナタはそれを少し惜しいと思った。

 温かい場所から寒い場所へ行く時、人間はいつも少しだけ薄くなる。

 体温も。

 気持ちも。

 会話も。

 でも、行かなければならない。

 北方避難列は、定時通信に応答しなかった。

 それだけだった。

 攻撃を受けたとも、救援要請があったとも言っていない。

 ただ、返事がない。

 戦場では、それが一番怖いことがある。

 助けて、と言えるうちはまだいい。

 悲鳴があるうちは、そこに人がいる。

 返事がない場所は、何が残っているのか分からない。

 食堂の入口で、リゼが立っていた。

 毛布。

 患者服。

 軍用コート。

 白いタオル。

 完全装備だった。

「行ってらっしゃい」

 リゼが言った。

 セナが背後にいる。

 逃走防止用の配置だった。

「今日は来ないんですね」

 ユウトが言った。

「来ないんじゃない。来られない」

 リゼはセナを親指で指した。

「門番が強い」

「患者が弱いだけ」

 セナが言う。

「私はそこそこ強い患者」

「患者の時点で負け」

「ひどい」

 セナの声はいつも通りだった。

 それが少し安心だった。

 リゼはカナタを見た。

「帰ってきたら、窓に豆描くんでしょ」

「ユウトが」

「カナタさんは?」

「俺は見てます」

「ずるい」

「何がですか」

「見てるだけの人って、たまに一番ずるい」

 リゼは笑った。

 軽い声だった。

 でも少しだけ、何かが引っかかった。

 カナタは返事を探して、見つからなかった。

 外でエンジンがかかる。

 休み時間の終わりみたいな音。

 彼らは食堂を出た。

 雪は降っていなかった。

 珍しいことだった。

 そのせいで、世界はいつもより静かに見えた。

 雪が降っていない雪原は、白い紙のようだった。何も書かれていない。けれど、どこかで誰かがもう何かを書き終えて、その上から消しゴムをかけた後のようにも見えた。

 

 輸送車は北へ進んだ。

 ハウンド七から離れるにつれて、格納庫の音が後ろへ消える。工具の音。誰かの怒鳴り声。ストーブの燃える音。食堂の椅子が床を擦る音。

 それらが消えた後に残るのは、エンジンと、タイヤが氷を噛む音と、車内の誰かの息だけだった。

「静かですね」

 タクトが言った。

「いい静かさだといいんですけど」

 ユウトが返す。

「いい静かさと悪い静かさ、ありますよね」

「ありますね」

「これは?」

 ユウトは窓の外を見た。

 しばらく考えてから言う。

「気まずい静かさ」

「人間関係みたいに言わないでください」

「雪原と距離感が掴めなくて」

 ミナが運転席から言った。

「道路も黙ってる」

「道路は普段から喋りません」

「今日は特に黙ってる」

「整備兵の感覚、難しいですね」

 軽口はあった。

 でも、いつもより短かった。

 誰も長く話さない。

 言葉が雪原に落ちると、そのまま沈んでしまいそうだった。

 北方避難列の最後の通信地点に着いた時、そこには車があった。

 一台だけ。

 小型の民間バス。

 古い観光用らしい。

 側面には、夏の湖と花火の絵が描かれている。絵は半分剥げていて、湖の青だけが妙に鮮やかだった。雪の中で見る夏の青は、少し暴力的だった。

 バスは道の脇に止まっていた。

 エンジンは止まっている。

 窓は曇っていない。

 中に人影はない。

「……無人?」

 ユウトが呟いた。

 カナタは車を降りた。

 雪を踏む。

 きゅっ、と音がする。

 その音がやけに大きく聞こえた。

 バスの扉は開いていた。

 中には毛布が残っている。

 紙コップ。

 子供用の手袋。

 座席に置かれたままの小さなリュック。

 人はいない。

 血もない。

 荒らされた形跡もない。

 ただ、人だけが消えていた。

 それが一番嫌だった。

 死体があれば、何が起きたか分かる。

 壊れていれば、襲撃されたと分かる。

 でも、ここにはただ空白だけがある。

「足跡」

 タクトが言った。

 バスの横から、足跡が続いていた。

 道ではない方へ。

 雪原の中へ。

 不思議なほど整っている。

 列になっている。

 小さい足。

 大きい足。

 足を引きずる跡。

 荷物を持った跡。

 でも、乱れていない。

 逃げた足跡ではない。

 歩いている。

 静かに。

 まるで、誰かに呼ばれて、そのまま歩いていったように。

「変ですね」

 ユウトが言った。

「はい」

「逃げた感じじゃない」

「はい」

「じゃあ、なんで」

 その時、通信機がざらついた。

 アイラの声が入る。

『……こちら……ハウンド……応答……』

 ノイズ。

 声が遠い。

 カナタは通信機を取った。

「こちら第七。聞こえます」

『……聞こえ……ない……』

「アイラ?」

『……声……重なって……』

 通信が切れた。

 その瞬間だった。

 耳の奥で、何かが鳴った。

 音というより、圧だった。

 低い。

 地面の下からではない。

 空からでもない。

 耳の内側から、直接押されるような音。

 カナタは思わず片膝をついた。

 ユウトが顔をしかめる。

 タクトが缶を押さえた。

 ミナが車体に手をつく。

「なに、これ」

 声が遠い。

 近くにいるのに、遠い。

 近くにいるはずのユウトの息が、壁の向こうから聞こえる。

 自分の心臓だけが、やけにはっきり聞こえた。

 雪原の向こうで、黒い影が立っていた。

 小型レイスではない。

 大きい。

 細長い。

 前肢が異様に長い。

 首のあたりが裂けている。

 その裂け目が、震えている。

 鳴いている。

 いや、鳴いているというより、空気を歪ませている。

「ハウラー……」

 ミナが言った。

 噂でしか聞いたことがなかった中型レイス。

 声を壊す個体。

 通信を潰す個体。

 列の会話を奪うもの。

 ハウラーは動かない。

 ただ、そこに立っていた。

 それだけで、世界から声が遠くなる。

 カナタは足跡を見た。

 避難列の足跡。

 乱れていない。

 声が届かなかったのだ。

 呼び止める声。

 止まれという声。

 戻れという声。

 誰かの名前。

 全部、遠くされた。

 だから列は静かに道を外れた。

 パニックではない。

 もっと悪い。

 静かな崩壊だった。

「車へ!」

 カナタは叫んだ。

 叫んだつもりだった。

 自分の声が、遠く聞こえた。

 ユウトは聞こえていない。

 タクトもこちらを見ていない。

 ハウラーの音が、会話を押し潰している。

 カナタはユウトの肩を掴んだ。

 目を見る。

 車を指す。

 ユウトはようやく理解した。

 頷く。

 タクトを引く。

 ミナが車のライトを点滅させた。

 一回。

 二回。

 三回。

 音が使えない。

 なら、見えるものを使う。

 カナタは手を上げた。

 大きく。

 右。

 戻れ。

 車へ。

 ユウトが同じ動きをした。

 タクトも。

 手信号なんて、ちゃんと習ったわけではない。

 でも、分かる。

 分かるように動くしかない。

 ハウラーの背後で、小型レイスの影がいくつか動いた。

 黒い点。

 避難列の足跡を追っている。

 急がなければならない。

 でも、声が使えない。

 叫べない。

 呼べない。

 列を作るための一番柔らかい道具が奪われている。

 カナタは雪の上に棒を突き立てた。

 雪を大きく削る。

 矢印。

 車の方へ。

 ユウトが理解し、さらに前へ走って、同じ矢印を描く。

 タクトは落ちていた子供用の手袋を拾い、矢印の先へ置いた。

 赤い手袋。

 白い雪の上で、よく目立つ。

 それを見て、カナタは思った。

 声がなくても、日常の残骸は目印になる。

 赤い手袋。

 夏の湖の絵のバス。

 布を巻いた缶。

 そういうものが、人を戻す線になる。

 通信機がまた鳴る。

 今度はほとんどノイズだけ。

 だが、その中に微かに声が混じった。

『……こ……ども……』

 カナタは顔を上げた。

 東の雪原。

 足跡の先。

 小さな影が見えた。

 人だ。

 避難列の一部。

 立ち止まっている。

 いや、止まったのではない。

 互いに声が届かず、どちらへ行けばいいのか分からなくなっている。

 列が音を失って、ほどけている。

「見えるものだけ信じて!」

 カナタは叫んだ。

 声はたぶん届かない。

 でも、叫ばずにいられなかった。

 ミナが車両のライトをさらに点滅させる。

 ユウトが信号弾を取り出した。

 カナタを見る。

 撃つか。

 カナタは頷いた。

 赤い光が空へ上がった。

 音は聞こえない。

 ただ、光だけが雪原に広がる。

 白い世界に、赤い線。

 避難列の人々が顔を上げる。

 一人。

 また一人。

 光を見る。

 こちらを見る。

 カナタは両腕を大きく振った。

 こっちへ。

 戻れ。

 止まるな。

 ユウトも振る。

 タクトも振る。

 ミナが車を少し前へ出し、ライトを点け続ける。

 声ではなく、光で列を呼ぶ。

 足跡が戻り始めた。

 ばらばらに。

 でも、戻る。

 小型レイスが走る。

 ハウラーはまだ鳴いている。

 声が壊れている。

 通信も壊れている。

 でも、光は壊れない。

 少なくとも、今は。

 ガレスの車両が遅れて到着した。

 車載機銃が火を吹く。

 今度は音が聞こえた。

 いや、振動として体に来た。

 小型レイスが雪に倒れる。

 ハウラーが首を揺らした。

 裂けた部分が震える。

 音がさらに低くなる。

 カナタは耳を押さえた。

 視界が少し歪む。

 それでも、赤い手袋が見えた。

 雪の上の矢印が見えた。

 戻ってくる人の列が見えた。

 声がないなら、見えるものを増やせばいい。

 そのことだけを考えた。

 避難民たちが車の近くへ戻ってくる。

 泣いている子供。

 耳を押さえる老人。

 口を動かしているが声が聞こえない母親。

 それでも、戻ってくる。

 列は壊れかけていた。

 でも、完全には壊れていない。

 最後の数人が車両の陰に入った時、ハウラーはゆっくり後退した。

 逃げるというより、役目を終えたみたいに。

 黒い影が雪の向こうへ沈んでいく。

 音が少しずつ戻る。

 最初に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。

 次に、エンジン音。

 それからユウトの声。

「……うわ、戻った」

 タクトが耳を押さえながら言う。

「声、変じゃないですか」

「変です」

 ユウトは自分の喉を触った。

「俺、こんな声でしたっけ」

「だいたいそんな声です」

「だいたいで戻された」

 ミナが車体を叩く。

「車の音が聞こえる。よかった」

「人間より先に車ですか」

「どっちも大事」

 カナタは雪の上に座り込んだ。

 膝に力が入らなかった。

 赤い信号弾の光が、まだ薄く空に残っている。

 雪の上には、矢印があった。

 赤い手袋が、その先に落ちている。

 誰かのもの。

 たぶん子供のもの。

 声を失った列を戻した、小さな目印。

 ガレスが近づいてきた。

「見たか」

「はい」

「あいつら、列の止め方を覚えてる」

 カナタは頷いた。

 言葉がすぐには出なかった。

 レイスは、ただ襲ってくるだけではない。

 話すことを奪う。

 呼ぶことを奪う。

 列が列でいるための、声を奪う。

 それでも帰さなければならない。

 声がなくても。

 赤い手袋と、雪の矢印と、光で。

 ユウトが窓に描く豆のことを思い出した。

 帰ったら、また描くと言っていた。

 今度は、豆だけでは足りないかもしれない。

 矢印も必要だ。

 カナタは赤い手袋を拾った。

 濡れている。

 小さい。

 指の部分に雪が詰まっている。

 持ち主へ返さなければならない。

 これも、帰すものだと思った。

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