帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
三号車は、朝から機嫌が悪かった。
ミナがそう言った。
車に機嫌があるのかとユウトが訊くと、ミナは工具箱を抱えたまま真顔で答えた。
「ある」
「あるんですか」
「ある。今日の三号車は、話しかけても返事が悪い」
「車って返事します?」
「する」
「どんな?」
「変な音」
「それ返事なんですか」
「人間も変な声出すでしょ」
「急に否定しにくい」
ハウンド七の車両格納庫は、朝から油と雪と灯油の匂いが混ざっていた。
格納庫と言っても、元は採掘基地の資材置き場だ。天井は高いが、隙間風が入る。床には古い泥と新しい雪解け水が広がり、金属のレールの間に凍った黒い水たまりが残っている。そこに、輸送車や軽装甲車や用途不明の牽引台車が押し込まれていた。
全部、疲れている。
人間も。
車も。
格納庫の奥では、三号車がボンネットを開けられたまま黙っていた。
黙っているように見えた。
ミナには何か喋っているのかもしれない。
「ほら、今も文句言ってる」
「聞こえないです」
タクトが言う。
「修行が足りない」
「整備兵になる予定はまだないです」
「予定は増えるもの」
「怖い」
タクトは工具箱の軽い方を運んでいた。
最近、彼は自然に格納庫へ来るようになった。理由はよく分からない。本人は「何かしてた方が落ち着く」と言っている。ミナは「工具を落とさなければ存在を許す」と言っている。
かなり高評価らしい。
カナタは格納庫の入口に立って、外の雪を見ていた。
雪は弱い。
風も弱い。
こういう日は、逆に嫌だった。
吹雪なら危ないと分かる。
静かな日は、危なさが見えにくい。
レイスも、最近は静かに来る。
声を奪う個体。
回り込む個体。
待つ個体。
人間の列が壊れるのを、ただ待っている。
「カナタ」
ガレスが入ってきた。
火のつかない煙草。
くたびれたコート。
眠そうな目。
ただし、今日は少しだけ面倒くさそうだった。
「仕事だ」
「はい」
「第九重防衛群《アイゼン・ウォール》の砲台を一基、南路まで移す」
ミナの手が止まった。
「ベルグ?」
「ベルグ」
「重いやつ?」
「重いやつ」
「やだ」
即答だった。
ユウトが首を傾げる。
「ベルグって何ですか」
ミナが振り返った。
「歩く砲台」
「歩くなら自分で行けばいいのでは」
「歩くけど遅い。あと、すぐ拗ねる」
「車両全般に人格付与しすぎでは」
「ベルグは人格あるよ。重いし」
「重いと人格が?」
「ある」
ガレスはその会話を無視した。
「アイゼンの防衛線を畳む。砲台を置いていくと、次の避難路が開かん。だが単独移動は遅い。うちが列を作る」
列。
その言葉で、カナタは少しだけ背筋を伸ばした。
人だけではない。
食料だけでもない。
今度は砲台だ。
重いもの。
遅いもの。
止まりやすいもの。
列に入ると、それだけで全体が変わる。
「敵は」
「小型散発。中型の可能性あり」
「ハウラーですか」
「違う。車両切断型の報告がある」
ミナが小さく舌打ちした。
「スレッシャー」
その名前だけで、格納庫の温度が少し下がった気がした。
スレッシャー。
車列を切る中大型レイス。
鎌のような前腕で、防雪柵ごと車両の間を裂く。
人を狙うというより、列の骨を折る個体。
ミナは三号車のボンネットを閉じた。
「三号車、出す」
「機嫌悪いんじゃ?」
ユウトが言う。
「だから出す。寝かせるともっと拗ねる」
「整備理論が感情論すぎる」
「機械は感情で動かないけど、整備兵は感情で動く」
ミナは工具箱を持ち上げた。
「行くよ」
北西の旧防衛線には、低い雪雲がかかっていた。
そこだけ世界が少し重く見えた。
アイゼン・ウォールの陣地は、名前の通り壁だった。雪の中に半分埋まった防壁。土嚢。鉄板。固定砲座。焼け焦げた雪。動かないものを動かないまま置き続けた場所。
その中央に、《ベルグ》がいた。
多脚固定砲台。
巨大な胴体に、太い砲身。
四本の機械脚。
歩ける砲台というより、歩かされている小さな建物に近かった。
脚部には雪が詰まり、胴体には砲撃の煤がこびりついている。側面には古い白線と、誰かが指で描いた小さな犬の絵があった。
「犬」
タクトが言った。
「犬ですね」
ユウトも見る。
「ベルグさん、犬派?」
ミナが睨む。
「さん付けはよし」
「そこはいいんだ」
アイゼン・ウォールの兵士たちは、ハウンド七を見て少しだけ困った顔をした。
悪意はない。
ただ、どう扱えばいいのか分からない顔だった。
重防衛群は、動かないための部隊だ。
陣地を作り、時間を稼ぎ、敵を止める。
ハウンド七は、動かすための部隊だ。
人を、車を、食料を、列を。
似ていない。
でも、今日は一緒に動かなければならない。
アイゼンの隊長は、広い肩の男だった。
名前はロウ。
顔に深い傷がある。
声は低い。
「第七混成機動群か」
「はい」
カナタが答える。
「砲台を帰す部隊と聞いた」
「人も帰します」
「それは助かる」
ロウは淡々と言った。
皮肉ではなかった。
本当にそう思っている声だった。
「ベルグは遅い。だが置いていけば次の路が潰れる。頼む」
カナタはベルグを見る。
巨大な砲台。
重い。
遅い。
でも、必要。
食料車と同じだ。
人と同じだ。
帰す必要があるものは、だいたい重い。
「列を組みます」
カナタは雪の上に棒で線を引いた。
先頭にアイゼンの軽車両。
中央にベルグ。
両側にハウンド七の輸送車。
後方にガレスの車両。
徒歩組はなし。
人員は車内か砲台周辺。
「ベルグを中央に?」
ロウが訊く。
「はい。重いものは中央です。前に置くと全体が詰まります。後ろに置くと切られます」
「中央は狙われる」
「だから守ります」
ミナがベルグの脚部を見ながら言う。
「脚、二番と四番が渋い。これで急停止したら死ぬよ」
ロウが眉を動かす。
「直せるか」
「直す。今すぐ」
「どれくらいかかる」
「文句言われなければ早い」
ロウは少しだけ笑った。
「誰に」
「ベルグに」
「……そうか」
アイゼン兵が何人か困惑していた。
ミナは気にしない。
タクトに工具を渡す。
「これ持って」
「はい」
「落としたらベルグに謝って」
「ベルグさんに」
「さん付けよし」
ユウトが小声で言った。
「やっぱり基準が分からない」
移動はゆっくり始まった。
ベルグの脚が雪を踏む。
ぎしり。
金属が軋む。
低い振動が足元から伝わる。
砲台というより、建物が歩いているみたいだった。
車列は遅い。
非常に遅い。
歩くよりは速い。
でも、戦場ではほとんど止まっているように感じる速度だった。
カナタは三号車の荷台から、列全体を見ていた。
ベルグが中央。
その両側に車両。
前と後ろ。
間隔。
雪の硬さ。
アイゼン兵の足取り。
すべてが重い。
重い列は、急に曲がれない。
急に止まれない。
急に戻れない。
だから、崩れる前に気づくしかない。
「カナタさん」
ユウトが隣に来た。
「こういう列、初めてですね」
「はい」
「人じゃなくて砲台」
「でも、同じです」
「同じ?」
「止まると、周りが止まります」
ユウトはベルグを見た。
「説得力が大きい」
「物理的に」
その時、通信が鳴った。
アイラの声。
『右前方、熱源高速接近』
ロウの声が重なる。
『小型か』
『違います。中大型反応』
ミナが舌打ちした。
「来た」
雪原の右側。
防雪柵の切れ目。
黒い影が走っていた。
低い。
四足。
前腕が異様に長い。
その先が、鎌のように曲がっている。
スレッシャー。
速い。
まっすぐではない。
斜めに入ってくる。
狙いはベルグではない。
ベルグと前方車両の間。
車間だ。
「前、詰めない!」
カナタが叫ぶ。
「ベルグ、速度維持!」
ロウが即座に命令を飛ばす。
『前方車、右へ寄せろ!切らせるな!』
ガレスの車両が後方から機銃を撃つ。
雪が跳ねる。
だがスレッシャーは止まらない。
銃弾を受けながら、低く滑るように走る。
ミナが運転席で叫んだ。
「三号車、無理するよ!」
「車に言ってます?」
タクトが訊く。
「全員に言ってる!」
三号車がベルグの右側へ寄る。
防雪柵ぎりぎり。
スレッシャーの進路を塞ぐ。
金属音。
鎌状の前腕が車体をかすめた。
火花。
ミナが悲鳴を上げる。
「こすった!今、こすった!」
「生きてます!」
ユウトが叫ぶ。
「車も人も!」
「ならよし!」
スレッシャーが跳ぶ。
ベルグの脚へ向かう。
カナタには、その先が見えた。
ここで脚を切られたら、ベルグが止まる。
ベルグが止まれば、列が詰まる。
列が詰まれば、スレッシャーはもう一度回り込む。
終わる。
「二番脚!」
カナタが叫ぶ。
ミナが反応した。
「タクト、固定具!」
「はい!」
タクトが工具箱から金属固定具を取り出す。
走る。
雪に足を取られながら、ベルグの脚部へ。
「危ない!」
ユウトが叫び、タクトの前へ出る。
銃を撃つ。
スレッシャーの進路が一瞬ずれる。
その一瞬で、ミナがベルグの脚部へ飛びついた。
「動かすな!でも止めるな!」
ロウが怒鳴る。
「どっちだ!」
「脚だけ優しく!本体は歩け!」
「無茶を言う!」
「機械は無茶が嫌いだけど、たまに聞く!」
意味が分からない。
でも、なぜか伝わった。
ベルグの歩調が少しだけ変わる。
完全には止まらない。
ミナが固定具を噛ませる。
タクトが押さえる。
手が震えている。
でも離さない。
スレッシャーが再び突っ込む。
ガレスの機銃。
アイゼン兵の砲撃。
ベルグの副砲が低く唸る。
雪原が爆ぜた。
スレッシャーの体が横へ吹き飛ぶ。
倒れたわけではない。
でも、列から剥がれた。
「進め!」
カナタが叫ぶ。
「止まらないでください!」
列が動く。
遅い。
重い。
でも動く。
ベルグが軋みながら歩く。
三号車が側面につく。
ガレスが後方を撃つ。
ロウが前方を開ける。
ミナはベルグの脚にしがみついたまま、何かを言っている。
たぶん謝れとか、我慢しろとか、そういうことだった。
南路の安全圏に入った時、全員がほとんど同時に息を吐いた。
ベルグは止まった。
今度は、安全に止まった。
ミナは雪の上に座り込んだ。
手袋が油と雪で黒くなっている。
「重い」
「お疲れさまです」
カナタが言う。
「車も砲も、人も、重い」
「はい」
「でも置いてくると、もっと重い」
ミナはベルグを見上げた。
側面の小さな犬の絵は、まだ残っていた。
「よし。謝って」
ユウトが困る。
「誰が」
「全員」
「なぜ」
「ベルグに無理させた」
ロウが近づいてきた。
顔の傷に雪がついている。
彼はしばらくベルグを見て、それから小さく頭を下げた。
「すまなかった」
アイゼン兵たちが固まる。
ミナも少し固まった。
それから満足そうに頷いた。
「よし」
ユウトが小声で言った。
「重防衛群の隊長が砲台に謝った」
タクトも小声で返す。
「歴史的瞬間ですか」
「たぶん」
ロウはカナタを見た。
「前を守るだけでは、帰れないのだな」
「はい」
「重いものを中央に置く理由が分かった」
彼はベルグの脚部を見た。
「帰還誘導、というのはこういうことか」
カナタは少しだけ言葉に詰まった。
帰還誘導。
誰かがまた、その言葉に近いものを口にした。
人を帰す。
食料を帰す。
声を帰す。
そして今日は、砲台を帰した。
帰すものは、増えていく。
カナタはベルグの側面の犬を見た。
誰が描いたのか分からない。
たぶん、暇な兵士が描いたのだろう。
役に立たない落書き。
でも、今日それも帰ってきた。
そう思うと、少しだけ良かった。
ミナが立ち上がる。
「帰ったら三号車にも謝ってね」
「まだ謝罪先が」
ユウトが言う。
「ある。今日は車両受難の日」
ミナは工具箱を持ち上げた。
タクトが軽い方を持つ。
格納庫へ帰る列ができる。
人と、車と、砲台と、小さな犬の落書きを乗せた列。
カナタはその後ろ姿を見た。
重いものを帰すには、軽い冗談が必要なのかもしれない。
そんなことを思った。