帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二十三話 列の真ん中

 タクトは、缶を磨いていた。

 空のオレンジソーダ缶。

 中身はとっくにない。

 ラベルは色あせている。

 縁にはセナが巻いた布があり、胴の部分にはユウトが巻いた布がある。何度も濡れて、乾いて、また濡れて、布は少し硬くなっていた。

 それでも、タクトは朝になるとそれを拭く。

 食堂の隅で。

 豆スープを飲む前に。

 あるいは飲んだ後に。

 どちらでもいいのだと思う。

 缶を拭くという行為そのものが、彼にとって点呼みたいなものだった。

 今日もある。

 まだ持っている。

 まだ帰ってきている。

 そういう確認。

「それ、磨くと中身戻ります?」

 ユウトが椀を持って隣へ座った。

 今日の豆は二粒だった。

 ユウトは少し不満そうだったが、豆四粒の日を経験した後の二粒は、前よりも落差が大きいらしい。

「戻りません」

 タクトは真面目に答えた。

「じゃあ何のために」

「音が鳴らないか確認してます」

「偉い」

「偉いんですか」

「戦場で鳴らないものは偉いです」

「基準が低い」

「でも重要」

 ミナが通りがかりに言った。

 工具箱を抱えている。

「鳴らない缶は偉い。鳴る車は、場合による」

「場合によるんですか」

「いい音と悪い音がある」

「車にも音色が」

「ある」

 ミナは当然のように頷いた。

 タクトは缶を腰に結び直した。

 小さく体を揺らす。

 音はしない。

「合格」

 ミナが言った。

「ありがとうございます」

「じゃあ今日、中央見て」

「中央?」

「列の真ん中。荷物と子供と、歩けるって言い張る人が集まる場所」

 タクトは少しだけ固まった。

 ユウトが口を挟む。

「いきなり実地投入」

「もう何回もやってるでしょ」

「本人の同意は」

 ミナはタクトを見る。

「どう?」

 タクトは缶を押さえた。

 布越しに、缶の硬さが指へ返ってくる。

「やります」

「よし」

「軽い」

 ユウトが言った。

 ミナは工具箱を持ち直す。

「重く言ったら怖いでしょ」

 食堂の窓には、昨日ユウトが描いた赤い手袋の絵があった。

 下手だった。

 手袋というより、潰れたカニみたいだった。

 その下に《見えるものを信じろ》と書いてある。

 字は無駄にきれいだった。

 リゼがそれを見て、朝からずっと笑っている。

「カニ手袋」

「手袋です」

 ユウトが抗議する。

「カニだよ」

「五本指あります」

「カニにも足いっぱいあるし」

「雑な分類」

 リゼはまだ患者服だった。

 喉を少し痛めているため、今日の声はかすれている。

 それでも食堂にいる。

 セナが厳重監視している。

「リゼ、喋るな」

「今のは筆談」

「声出てる」

「心の声が漏れた」

「漏らすな」

 食堂に小さな笑いが起きた。

 最近、食堂の笑いは短くなったり長くなったりする。

 ハウラーが出た後は、みんな声を少し確かめるように喋っていた。声が届くことが当たり前ではなくなったからだ。

 笑い声も、少しだけ貴重になった。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 食堂の空気が切り替わる。

 もう誰も、警告音に驚いて椀を落としたりはしない。

 それが良いことなのか悪いことなのか、タクトにはまだ分からなかった。

 アイラの声が流れる。

『東側避難学徒群、移動中。護衛車両故障。第七、補助要請』

 ノイズ。

『人数、二十九。年少者多数』

 年少者。

 タクトは缶を押さえた。

 自分より年下。

 たぶん、学校にいた頃なら廊下ですれ違っても気にしなかった子たち。

 それが今、雪の中で列になっている。

 ガレスが入口に現れた。

「出るぞ」

 ユウトが立ち上がる。

「豆、残ってます」

「持っていけ」

「椀ごと?」

「腹に」

「ですよね」

 タクトはスープを飲み干した。

 薄い。

 温かい。

 豆は三粒だった。

 少しだけ勝った気がした。

 

 外へ出ると、雪は止んでいた。

 空は灰色。

 風は弱い。

 それでも寒い。

 輸送車の中で、タクトは自分の手袋を何度も握り直した。

 缶は鳴らない。

 でも、自分の心臓は少しうるさい。

「緊張してる?」

 ユウトが訊いた。

「してます」

「正直でよろしい」

「隠すとセナさんに怒られます」

「正しい学習」

 カナタは車窓の外を見ていた。

 雪の道。

 防雪柵。

 遠くの黒い木立。

 いつもの景色。

 でも、同じ雪道は一つもない。

 人が通ると変わる。

 車が通ると変わる。

 レイスが通ると、もっと変わる。

 今日の列は、子供が多い。

 子供の列は、壊れ方が違う。

 速く走れない。

 でも、急に走る。

 荷物を捨てない。

 でも、急に泣いて全部落とす。

 大人より正直で、大人より読みにくい。

「タクト」

 カナタが言った。

「はい」

「今日は中央をお願いします」

「……はい」

「荷物の音。子供の歩幅。疲れている人。全部を見る必要はありません」

「全部見なくていいんですか」

「はい。気になったものだけ、声にしてください」

 タクトは少しだけ驚いた。

 全部見ろ、と言われると思っていた。

 でも、そうではないらしい。

 カナタは続けた。

「全部見ようとすると、何も言えなくなります」

 それは、自分にも言っているようだった。

 タクトは頷いた。

 缶を押さえる。

 音はしない。

 

 東側避難学徒群は、古い農道の脇で止まっていた。

 護衛車両は一台。

 右前輪が壊れている。

 車体が斜めになり、子供たちがその周りに集まっていた。

 年少者多数という報告は正しかった。

 十歳くらいの子。

 もっと小さい子。

 学徒兵と呼ぶには幼すぎる。

 でも避難民と呼ぶには、みんな妙に整列を覚えていた。

 小さな肩に小さな荷物。

 首から名札。

 手袋の色がばらばら。

 赤。

 青。

 黄色。

 雪の中で、それだけが少し明るかった。

「ちっちゃい」

 ユウトが呟いた。

「声が出てます」

 カナタが言う。

「すみません」

「でも、分かります」

 列を作り直す必要があった。

 護衛車両は動かない。

 代わりにハウンド七の輸送車へ、歩けない子と荷物を移す。

 歩ける子は徒歩。

 大人は少ない。

 引率の若い教師らしい女性が一人。

 彼女は疲れ切った顔で、何度も人数を数えていた。

「二十九。二十九います。たぶん」

 たぶん。

 その言葉が痛かった。

 タクトは中央へ入った。

 子供たちの間。

 腰の缶が揺れる。

 音はしない。

「荷物、一つずつ」

 タクトは言った。

 声が少し上ずった。

「音が鳴るものは布で巻いてください。鳴ると、怖いやつが来ます」

 子供の一人が訊いた。

「怖いやつ?」

「黒いやつ」

「レイス?」

「そうです」

「お兄ちゃん、それ、何?」

 別の子がタクトの缶を指した。

 タクトは一瞬迷った。

「空き缶です」

「なんで持ってるの」

「……帰ってきたから」

 子供は首を傾げた。

 分からないという顔。

 タクトも上手く説明できなかった。

 でも、言い直す。

「これ、鳴ると危ないので、布を巻いてます。だから、みんなの荷物も、鳴らないようにします」

 それなら分かったらしい。

 子供たちは自分の荷物を確認し始めた。

 水筒。

 金属の弁当箱。

 小さな缶。

 鈴のついたお守り。

 鳴るものは多い。

 日常は意外とうるさい。

 タクトは布を配った。

 足りない分は、ミナが整備用の古布を投げてくれた。

「油ついてるけど」

「いいんですか」

「鳴るよりマシ」

 子供たちは少し嫌そうにしながらも、それを巻いた。

 油の匂いがした。

 雪と、子供用手袋と、古い布と、油。

 変な匂いだった。

 でも、列の匂いになった。

 移動が始まった。

 カナタは前後を見ている。

 ユウトは曲がり角。

 ミナは故障車両から使えるものを外している。

 セナは疲れた子を抜き、車へ回す。

 タクトは中央。

 真ん中は、思ったより忙しかった。

 子供は歩幅が違う。

 急に止まる。

 急に走る。

 急に泣きそうになる。

 荷物の紐が解ける。

 手袋を落とす。

 隣の子とぶつかる。

 でも、一つずつ直せば、列は続く。

「そこ、近すぎます」

「走らない」

「荷物、鳴ってます」

「泣くなら歩きながらで」

「お兄ちゃん、それ前も誰か言ってた」

「たぶん俺です」

 少しだけ笑いが起きた。

 タクトはその笑いで、胸が軽くなるのを感じた。

 自分の声で、人が少し動いた。

 それは不思議な感覚だった。

 戦うより、怖いかもしれない。

 その時だった。

 列の後方で、小さな金属音が鳴った。

 からん。

 雪の上に響く、嫌なほど澄んだ音。

 全員が止まりかけた。

 子供が一人、泣きそうな顔で立っている。

 足元には、小さな缶。

 中に何かが入っているのか、もう一度転がって鳴った。

 からん。

 遠くの雪原で、黒い点が動いた。

「止まらない!」

 カナタの声。

 ユウトが後方を見る。

 ミナが工具を落としそうになる。

 タクトは落ちた缶を見た。

 それから、自分の腰のオレンジソーダ缶。

 一瞬、思った。

 自分の缶を投げれば、音でそちらへ引けるかもしれない。

 鳴らないように巻いた布を外せば。

 空き缶は軽い。

 遠くへ投げられる。

 中身はない。

 役に立つ。

 今なら。

 タクトは缶に手をかけた。

 その手首を、ユウトが掴んだ。

「それは違う」

「でも」

「それは持って帰るやつ」

 ユウトの声は強かった。

 珍しく。

「音なら、別ので出す」

 彼は足元の壊れた水筒を拾った。

 中に石を入れる。

 遠くへ投げる。

 からん、と音が鳴った。

 黒い点がそちらへ向く。

 ガレスの車両が機銃を撃つ。

 雪が跳ねる。

 小型レイスが一体、倒れた。

 列は止まらない。

 止まりかけたけれど、止まらなかった。

 タクトは自分の缶を握ったまま立っていた。

 手が震えている。

 ユウトが小さく言う。

「持って帰るものまで捨てると、帰った後に困る」

「……はい」

「それ、授業に出ます」

「何の」

「帰還学」

「そんな科目ないです」

「作るんだよ、たぶん」

 タクトは少しだけ笑った。

 泣きそうでもあった。

 子供の落とした缶は、セナが拾って布で巻いた。

「次、鳴らしたら没収」

「はい」

 子供は真剣に頷いた。

 列は再び動き出す。

 真ん中は相変わらず忙しい。

 でも、タクトは少しだけ分かった。

 中央は、壊れる場所ではなく、直し続ける場所なのだ。

 落ちたものを拾う。

 鳴るものを包む。

 泣きそうな子を歩かせる。

 持って帰るものを、勝手に捨てさせない。

 それが中央の仕事だった。

 

 ハウンド七へ戻る頃には、夕方が近かった。

 食堂の窓に描かれた赤い手袋の横に、ユウトが新しい絵を描いた。

 丸い缶。

 下手だった。

 缶というより、潰れた太鼓だった。

 その下に、《鳴らすな》と書かれていた。

 タクトはそれを見て、少しだけ笑った。

「もう少し上手く描けませんか」

「味です」

「味で全部済ませるの、ずるいです」

 リゼがかすれた声で言う。

「カニ手袋の隣に太鼓缶」

「手袋と缶です」

「窓が美術館になってきたね」

「展示名は?」

 ユウトが訊く。

 リゼは少し考えた。

「帰ってきた変なもの展」

 タクトは腰の缶を押さえた。

 音はしない。

 でも、そこにある。

 今日、捨てようとした。

 でも、捨てなかった。

 持って帰ってきた。

 それだけで、少しだけ胸の奥が温かかった。

 豆スープの湯気とは違う温かさ。

 たぶん、自分で自分を少し持って帰れたからだ。

 カナタが窓の絵を見ていた。

 赤い手袋。

 丸い缶。

 下手な矢印。

 どれも役に立たない落書きだった。

 でも、戦場で役に立ったものばかりだった。

「増えていきますね」

 タクトが言う。

「はい」

 カナタは頷いた。

「帰すものが」

 食堂の外では、雪がまた降り始めていた。

 窓の落書きは、結露で少し滲んでいる。

 それでも、まだ見える。

 見えるうちは、たぶん道になる。

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