帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
タクトは、缶を磨いていた。
空のオレンジソーダ缶。
中身はとっくにない。
ラベルは色あせている。
縁にはセナが巻いた布があり、胴の部分にはユウトが巻いた布がある。何度も濡れて、乾いて、また濡れて、布は少し硬くなっていた。
それでも、タクトは朝になるとそれを拭く。
食堂の隅で。
豆スープを飲む前に。
あるいは飲んだ後に。
どちらでもいいのだと思う。
缶を拭くという行為そのものが、彼にとって点呼みたいなものだった。
今日もある。
まだ持っている。
まだ帰ってきている。
そういう確認。
「それ、磨くと中身戻ります?」
ユウトが椀を持って隣へ座った。
今日の豆は二粒だった。
ユウトは少し不満そうだったが、豆四粒の日を経験した後の二粒は、前よりも落差が大きいらしい。
「戻りません」
タクトは真面目に答えた。
「じゃあ何のために」
「音が鳴らないか確認してます」
「偉い」
「偉いんですか」
「戦場で鳴らないものは偉いです」
「基準が低い」
「でも重要」
ミナが通りがかりに言った。
工具箱を抱えている。
「鳴らない缶は偉い。鳴る車は、場合による」
「場合によるんですか」
「いい音と悪い音がある」
「車にも音色が」
「ある」
ミナは当然のように頷いた。
タクトは缶を腰に結び直した。
小さく体を揺らす。
音はしない。
「合格」
ミナが言った。
「ありがとうございます」
「じゃあ今日、中央見て」
「中央?」
「列の真ん中。荷物と子供と、歩けるって言い張る人が集まる場所」
タクトは少しだけ固まった。
ユウトが口を挟む。
「いきなり実地投入」
「もう何回もやってるでしょ」
「本人の同意は」
ミナはタクトを見る。
「どう?」
タクトは缶を押さえた。
布越しに、缶の硬さが指へ返ってくる。
「やります」
「よし」
「軽い」
ユウトが言った。
ミナは工具箱を持ち直す。
「重く言ったら怖いでしょ」
食堂の窓には、昨日ユウトが描いた赤い手袋の絵があった。
下手だった。
手袋というより、潰れたカニみたいだった。
その下に《見えるものを信じろ》と書いてある。
字は無駄にきれいだった。
リゼがそれを見て、朝からずっと笑っている。
「カニ手袋」
「手袋です」
ユウトが抗議する。
「カニだよ」
「五本指あります」
「カニにも足いっぱいあるし」
「雑な分類」
リゼはまだ患者服だった。
喉を少し痛めているため、今日の声はかすれている。
それでも食堂にいる。
セナが厳重監視している。
「リゼ、喋るな」
「今のは筆談」
「声出てる」
「心の声が漏れた」
「漏らすな」
食堂に小さな笑いが起きた。
最近、食堂の笑いは短くなったり長くなったりする。
ハウラーが出た後は、みんな声を少し確かめるように喋っていた。声が届くことが当たり前ではなくなったからだ。
笑い声も、少しだけ貴重になった。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
食堂の空気が切り替わる。
もう誰も、警告音に驚いて椀を落としたりはしない。
それが良いことなのか悪いことなのか、タクトにはまだ分からなかった。
アイラの声が流れる。
『東側避難学徒群、移動中。護衛車両故障。第七、補助要請』
ノイズ。
『人数、二十九。年少者多数』
年少者。
タクトは缶を押さえた。
自分より年下。
たぶん、学校にいた頃なら廊下ですれ違っても気にしなかった子たち。
それが今、雪の中で列になっている。
ガレスが入口に現れた。
「出るぞ」
ユウトが立ち上がる。
「豆、残ってます」
「持っていけ」
「椀ごと?」
「腹に」
「ですよね」
タクトはスープを飲み干した。
薄い。
温かい。
豆は三粒だった。
少しだけ勝った気がした。
外へ出ると、雪は止んでいた。
空は灰色。
風は弱い。
それでも寒い。
輸送車の中で、タクトは自分の手袋を何度も握り直した。
缶は鳴らない。
でも、自分の心臓は少しうるさい。
「緊張してる?」
ユウトが訊いた。
「してます」
「正直でよろしい」
「隠すとセナさんに怒られます」
「正しい学習」
カナタは車窓の外を見ていた。
雪の道。
防雪柵。
遠くの黒い木立。
いつもの景色。
でも、同じ雪道は一つもない。
人が通ると変わる。
車が通ると変わる。
レイスが通ると、もっと変わる。
今日の列は、子供が多い。
子供の列は、壊れ方が違う。
速く走れない。
でも、急に走る。
荷物を捨てない。
でも、急に泣いて全部落とす。
大人より正直で、大人より読みにくい。
「タクト」
カナタが言った。
「はい」
「今日は中央をお願いします」
「……はい」
「荷物の音。子供の歩幅。疲れている人。全部を見る必要はありません」
「全部見なくていいんですか」
「はい。気になったものだけ、声にしてください」
タクトは少しだけ驚いた。
全部見ろ、と言われると思っていた。
でも、そうではないらしい。
カナタは続けた。
「全部見ようとすると、何も言えなくなります」
それは、自分にも言っているようだった。
タクトは頷いた。
缶を押さえる。
音はしない。
東側避難学徒群は、古い農道の脇で止まっていた。
護衛車両は一台。
右前輪が壊れている。
車体が斜めになり、子供たちがその周りに集まっていた。
年少者多数という報告は正しかった。
十歳くらいの子。
もっと小さい子。
学徒兵と呼ぶには幼すぎる。
でも避難民と呼ぶには、みんな妙に整列を覚えていた。
小さな肩に小さな荷物。
首から名札。
手袋の色がばらばら。
赤。
青。
黄色。
雪の中で、それだけが少し明るかった。
「ちっちゃい」
ユウトが呟いた。
「声が出てます」
カナタが言う。
「すみません」
「でも、分かります」
列を作り直す必要があった。
護衛車両は動かない。
代わりにハウンド七の輸送車へ、歩けない子と荷物を移す。
歩ける子は徒歩。
大人は少ない。
引率の若い教師らしい女性が一人。
彼女は疲れ切った顔で、何度も人数を数えていた。
「二十九。二十九います。たぶん」
たぶん。
その言葉が痛かった。
タクトは中央へ入った。
子供たちの間。
腰の缶が揺れる。
音はしない。
「荷物、一つずつ」
タクトは言った。
声が少し上ずった。
「音が鳴るものは布で巻いてください。鳴ると、怖いやつが来ます」
子供の一人が訊いた。
「怖いやつ?」
「黒いやつ」
「レイス?」
「そうです」
「お兄ちゃん、それ、何?」
別の子がタクトの缶を指した。
タクトは一瞬迷った。
「空き缶です」
「なんで持ってるの」
「……帰ってきたから」
子供は首を傾げた。
分からないという顔。
タクトも上手く説明できなかった。
でも、言い直す。
「これ、鳴ると危ないので、布を巻いてます。だから、みんなの荷物も、鳴らないようにします」
それなら分かったらしい。
子供たちは自分の荷物を確認し始めた。
水筒。
金属の弁当箱。
小さな缶。
鈴のついたお守り。
鳴るものは多い。
日常は意外とうるさい。
タクトは布を配った。
足りない分は、ミナが整備用の古布を投げてくれた。
「油ついてるけど」
「いいんですか」
「鳴るよりマシ」
子供たちは少し嫌そうにしながらも、それを巻いた。
油の匂いがした。
雪と、子供用手袋と、古い布と、油。
変な匂いだった。
でも、列の匂いになった。
移動が始まった。
カナタは前後を見ている。
ユウトは曲がり角。
ミナは故障車両から使えるものを外している。
セナは疲れた子を抜き、車へ回す。
タクトは中央。
真ん中は、思ったより忙しかった。
子供は歩幅が違う。
急に止まる。
急に走る。
急に泣きそうになる。
荷物の紐が解ける。
手袋を落とす。
隣の子とぶつかる。
でも、一つずつ直せば、列は続く。
「そこ、近すぎます」
「走らない」
「荷物、鳴ってます」
「泣くなら歩きながらで」
「お兄ちゃん、それ前も誰か言ってた」
「たぶん俺です」
少しだけ笑いが起きた。
タクトはその笑いで、胸が軽くなるのを感じた。
自分の声で、人が少し動いた。
それは不思議な感覚だった。
戦うより、怖いかもしれない。
その時だった。
列の後方で、小さな金属音が鳴った。
からん。
雪の上に響く、嫌なほど澄んだ音。
全員が止まりかけた。
子供が一人、泣きそうな顔で立っている。
足元には、小さな缶。
中に何かが入っているのか、もう一度転がって鳴った。
からん。
遠くの雪原で、黒い点が動いた。
「止まらない!」
カナタの声。
ユウトが後方を見る。
ミナが工具を落としそうになる。
タクトは落ちた缶を見た。
それから、自分の腰のオレンジソーダ缶。
一瞬、思った。
自分の缶を投げれば、音でそちらへ引けるかもしれない。
鳴らないように巻いた布を外せば。
空き缶は軽い。
遠くへ投げられる。
中身はない。
役に立つ。
今なら。
タクトは缶に手をかけた。
その手首を、ユウトが掴んだ。
「それは違う」
「でも」
「それは持って帰るやつ」
ユウトの声は強かった。
珍しく。
「音なら、別ので出す」
彼は足元の壊れた水筒を拾った。
中に石を入れる。
遠くへ投げる。
からん、と音が鳴った。
黒い点がそちらへ向く。
ガレスの車両が機銃を撃つ。
雪が跳ねる。
小型レイスが一体、倒れた。
列は止まらない。
止まりかけたけれど、止まらなかった。
タクトは自分の缶を握ったまま立っていた。
手が震えている。
ユウトが小さく言う。
「持って帰るものまで捨てると、帰った後に困る」
「……はい」
「それ、授業に出ます」
「何の」
「帰還学」
「そんな科目ないです」
「作るんだよ、たぶん」
タクトは少しだけ笑った。
泣きそうでもあった。
子供の落とした缶は、セナが拾って布で巻いた。
「次、鳴らしたら没収」
「はい」
子供は真剣に頷いた。
列は再び動き出す。
真ん中は相変わらず忙しい。
でも、タクトは少しだけ分かった。
中央は、壊れる場所ではなく、直し続ける場所なのだ。
落ちたものを拾う。
鳴るものを包む。
泣きそうな子を歩かせる。
持って帰るものを、勝手に捨てさせない。
それが中央の仕事だった。
ハウンド七へ戻る頃には、夕方が近かった。
食堂の窓に描かれた赤い手袋の横に、ユウトが新しい絵を描いた。
丸い缶。
下手だった。
缶というより、潰れた太鼓だった。
その下に、《鳴らすな》と書かれていた。
タクトはそれを見て、少しだけ笑った。
「もう少し上手く描けませんか」
「味です」
「味で全部済ませるの、ずるいです」
リゼがかすれた声で言う。
「カニ手袋の隣に太鼓缶」
「手袋と缶です」
「窓が美術館になってきたね」
「展示名は?」
ユウトが訊く。
リゼは少し考えた。
「帰ってきた変なもの展」
タクトは腰の缶を押さえた。
音はしない。
でも、そこにある。
今日、捨てようとした。
でも、捨てなかった。
持って帰ってきた。
それだけで、少しだけ胸の奥が温かかった。
豆スープの湯気とは違う温かさ。
たぶん、自分で自分を少し持って帰れたからだ。
カナタが窓の絵を見ていた。
赤い手袋。
丸い缶。
下手な矢印。
どれも役に立たない落書きだった。
でも、戦場で役に立ったものばかりだった。
「増えていきますね」
タクトが言う。
「はい」
カナタは頷いた。
「帰すものが」
食堂の外では、雪がまた降り始めていた。
窓の落書きは、結露で少し滲んでいる。
それでも、まだ見える。
見えるうちは、たぶん道になる。