帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二十六話 白線

 白い布は、雪の上だと案外目立たない。

 当たり前だった。

 白いものを白いところに置いたら、白い。

 それを最初に言ったのはユウトだった。

 ハウンド七の食堂で、彼は配られた布束を両手に持ち、かなり真面目な顔でそう言った。

「白いですね」

「見れば分かります」

 カナタが答える。

「いや、白線作戦って言うからには、もっとこう、線になる白かと」

「白には白の種類があるんですか」

「ありますよ。豆スープの白、雪の白、医療棟の壁の白、セナさんの怒る前の顔色の白」

「最後のはやめなさい」

 セナが即座に言った。

 ユウトは椀を持ったまま姿勢を正す。

「すみません」

「顔色で例えるなら患者を使え」

「怒るポイントそこですか」

 食堂に少し笑いが起きた。

 朝だった。

 豆は二粒。

 湯気は細い。

 洗濯物はまだ外で凍っている。

 窓には、赤い手袋、空き缶、矢印、ラジカセの落書きが残っている。結露で滲んで、どれも少しずつ別のものになりかけていた。手袋はカニから花へ。缶は太鼓から壺へ。矢印は魚の骨から謎の植物へ。ラジカセは、もうラジカセだったかどうか怪しい。

 リゼはそれを見て、かすれた声で言った。

「美術館、劣化してる」

「保存環境が悪いですからね」

 タクトが答える。

「結露美術館」

 ユウトが言う。

「展示品が勝手に変形する」

「現代美術っぽい」

「分かるような分からないような」

 リゼは喉を押さえた。

 まだ完全には戻っていない。

 それでも、医療棟待機ではなかった。

 今日は作戦に参加する。

 セナの許可つき。

 ただし条件は多い。

 走らない。

 叫びすぎない。

 密航しない。

 勝手に備蓄を名乗らない。

 最後だけ妙に具体的だった。

「白線作戦って、つまり何ですか」

 タクトが訊いた。

 彼の腰には、布を巻き直したオレンジソーダ缶がある。

 今日は音がしないどころか、少し新品っぽい。

 本人は否定しているが、たぶん少し嬉しそうだった。

 ガレスが食堂の奥から歩いてきた。

 火のつかない煙草。

 くたびれたコート。

 眠そうな目。

 でも今日は、目の奥だけ妙に起きている。

「複数の避難列を同じ日に帰す」

 彼は短く言った。

 それだけで、食堂の空気が少し変わる。

「南西路、北東路、旧農道。三本の列が、吹雪の前にハウンド七へ入る予定だ」

「予定」

 ミナが言った。

 工具箱に腰かけている。

「予定って、だいたい壊れるやつ」

「だから白線を張る」

 ガレスは布束を指した。

「雪中誘導布。白に少しだけ灰を混ぜてある。吹雪の中でも、近くなら見える。道の端に張って、列が迷わないようにする」

 ユウトが布を広げた。

 白。

 たしかに、ただの白ではない。

 雪より少し鈍い。

 灰の混じった白。

 古い包帯みたいな色だった。

「これ、白線っていうより、洗濯物では」

「洗濯物でも人が帰ればいい」

 ガレスは言った。

 強い。

 布の身分を問わない男だった。

 カナタは布に触れた。

 ざらついている。

 冷たい。

 端に小さな金具がついている。雪面や防雪柵へ固定するためのものだ。

 昨日まで、彼らはその場で矢印を描き、赤い手袋を振り、信号弾を上げていた。

 今日は違う。

 最初から線を用意する。

 列が壊れる前に、帰るための道を作る。

 それは、少しだけ前へ進んだ感じがした。

 同時に、少し怖かった。

 準備が必要なほど、大きなことをする。

 そういう意味でもある。

「他部隊は」

 カナタが訊く。

「ブルーグラスが上から見る。アイゼンが北側で壁を作る。モールが補給車を出す。うちは、列を繋ぐ」

「豪華ですね」

 ユウトが言った。

「お祭り?」

「お祭りなら屋台が欲しい」

 リゼが言う。

「豆スープ屋台」

「普段と変わらない」

「じゃあオレンジソーダ屋台」

 タクトが一瞬だけ顔を上げた。

 誰も何も言わなかった。

 その沈黙に気づいて、タクトは少し笑った。

「売り切れです」

 笑いが起きた。

 それで少しだけ笑いが戻った。

 白線作戦の朝は、そんなふうに始まった。

 

 外では雪が降り始めていた。

 細かい雪。

 まだ吹雪ではない。

 でも、空は低くなっている。

 白線作戦は、天候との競争でもあった。

 午前中に布を張る。

 昼過ぎに第一避難列を通す。

 夕方までに三列を受け入れる。

 夜までに帰還確認。

 紙に書けば簡単だった。

 紙はいつも簡単だ。

 雪も、足の遅い人も、壊れる車も、急に泣く子供も、紙の上では場所を取らない。

 だから、現場で見る必要がある。

 カナタたちは出発した。

 最初の仕事は、旧農道への白線設置だった。

 輸送車の荷台には、布束と金具、杭、信号弾、予備の毛布、工具箱、医療袋。

 人間より荷物の方が多いように見えた。

 ミナがそれを見て言う。

「荷物の避難列だね」

「荷物も帰すものです」

 タクトが答える。

「いいこと言う」

 ユウトが拍手するふりをする。

「拍手は音が鳴るので控えてください」

「タクトが厳しくなった」

「中央担当なので」

「役職意識」

 カナタはその会話を聞きながら、窓の外を見た。

 雪は少し強くなっている。

 灰色の空の下、防雪柵が途切れ途切れに続く。

 その先に、今日の列が来る。

 三本。

 別々の場所から。

 別々の速度で。

 別々の理由を持って。

 それを一つの拠点へ帰す。

 今までとは違う。

 目の前の一列を帰すのではない。

 複数の列を、同時に壊さないようにする。

 自分一人では見られない。

 だから、分ける。

 見える場所を。

 役割を。

 責任を。

 旧農道の入口に着くと、ブルーグラスの観測兵が待っていた。

 小柄な女性兵。

 背中に折りたたみ式の無人観測機《シジュウカラ》を背負っている。

 名前はノノ。

 彼女は寒そうに鼻を赤くしながら敬礼した。

「第二航空観測隊、ノノです。上、見ます」

「第七混成機動群、カナタです。下、見ます」

 ユウトが小声で言う。

「きれいに対になった」

 ノノは少し笑った。

「上は寒いです」

「下も寒いです」

「じゃあ全部寒いですね」

「はい」

 簡単な会話。

 それだけで少し楽になる。

 ノノは雪の上に小型無人機を置いた。

 シジュウカラは鳥というより、金属の虫に近かった。細い羽。小さな機体。熱源センサー。雪が当たると、羽が少し震える。

「飛びます」

 低い音とともに、無人機が浮いた。

 音は小さい。

 でも、完全には消えない。

 タクトがそれを見て言う。

「鳴りますね」

 ノノが申し訳なさそうに頷く。

「鳴ります」

「布、巻きます?」

「落ちます」

「ですよね」

 作業が始まった。

 白線を張る。

 言葉にすると簡単だった。

 実際には、指が痛くなる作業だった。

 布を伸ばす。

 風に持っていかれる。

 杭を打つ。

 金具が凍る。

 雪を払う。

 また布を伸ばす。

 手袋越しでも金具は冷たく、何度も指先の感覚が薄くなった。

 ミナが文句を言った。

「これ、考えた人、現場で一回やってから配ってほしい」

「現場でやったら改良されますか」

 ユウトが訊く。

「少なくとも、金具を素手で触りたくない形にはする」

「切実」

 リゼは布の端を持っていた。

 走らない。

 叫ばない。

 でも、布を持つくらいならできる。

 セナは少し離れたところで見ていた。

 監視というより、もう諦めに近い。

「リゼ、寒くなったら言う」

「はい」

「はい、じゃなくて本当に」

「本当に、はい」

「その返事が怪しい」

 リゼは苦笑した。

 白線が少しずつ伸びていく。

 旧農道の入口から、曲がり角まで。

 そこから、小さな橋の手前まで。

 白い雪の上に、灰色がかった白い線ができる。

 近くで見れば分かる。

 遠くでは消える。

 けれど、吹雪の中で人は遠くなど見ない。

 足元の次。

 その次。

 さらに次。

 それが分かれば、歩ける。

 カナタは布を見た。

 道というには細い。

 でも、線だった。

 帰るための線。

「第一避難列、接近」

 ノノが言った。

 片耳に通信機を当てている。

「人数四十前後。車両二。徒歩多め。速度、遅いです」

「遅い理由は」

「熱源密度が中央で詰まってます。たぶん負傷者」

 カナタは頷いた。

「ユウト、曲がり角」

「はい」

「タクト、中央」

「はい」

「ミナ、車両」

「分かってる」

「リゼさんは」

「布」

 リゼが白線を掲げた。

 自分で役割を決めている。

 カナタは少し迷ったが、頷いた。

「お願いします」

 

 第一避難列が見えた。

 雪の中から、人影が少しずつ現れる。

 白い息。

 荷物。

 小型車両。

 疲れた顔。

 列は崩れていない。

 ただ、重い。

 中央に負傷者がいる。

 両側に支える人。

 その周囲が詰まっている。

 白線を見つけた先頭の男が、顔を上げた。

「この線に沿って!」

 ユウトが叫ぶ。

「布が見えたら正解です!見えなくなったら近づきすぎか遠すぎ!」

「どっちだ!」

「どっちかです!」

「雑!」

 笑いが少し起きた。

 人が動く。

 白線に沿う。

 曲がる。

 詰まりかけた中央を、タクトが調整する。

「近すぎます!荷物、腰より上!音鳴ってます、布巻いて!」

 ミナが車両を誘導する。

「そこ深い!左!左って言ってる!車の左!人間の左右と車の左右は同じ!」

 リゼが布を振る。

 声は控えめ。

 でも、手は大きく動く。

「こっちー。白い線のこっちー」

 セナが負傷者を見つける。

「大丈夫って言う前に車へ」

「まだ何も」

「顔」

 列は進んだ。

 白線は効いた。

 思った以上に。

 人は、見るものがあると歩ける。

 それがただの布でも。

 白くて、少し灰色で、洗濯物みたいな布でも。

 第一避難列が通過した時、カナタは少し息を吐いた。

 成功。

 いや、通過。

 まだ一つ目だ。

 ノノの通信が入る。

「第二避難列、予定より早いです。北東から接近」

 ガレスの声も重なる。

『南西の第三列、遅れている。吹雪が強くなる前に入れたい』

 カナタは空を見た。

 雪が濃くなっている。

 白線が少し見えにくくなってきた。

 遠くで、低い音がした。

 ハウラーか。

 風か。

 まだ分からない。

 ノノが顔を上げた。

「上空、熱源複数。小型。あと……中型反応」

 ユウトが呟く。

「お祭りじゃないですか」

「屋台なしの」

 タクトが返す。

「嫌すぎる」

 リゼが布を握り直した。

 カナタは白線を見た。

 さっきまで道だったものが、雪に埋まり始めている。

 作った線は、放っておくと消える。

 維持しなければならない。

 列も同じだ。

「白線を張り直します」

 カナタは言った。

「第二列が来る前に、曲がり角を補強。第三列用に旧橋側へ延長。全部はできません。見えるところから」

 ユウトが頷く。

「補習ですね」

「はい」

 リゼがかすれた声で笑った。

「また補習」

 カナタも少しだけ笑った。

 その時、シジュウカラが上空で警告音を鳴らした。

 小さな電子音。

 ノノの顔色が変わる。

「通信、乱れます」

 次の瞬間、耳の奥に低い圧が来た。

 ハウラー。

 まだ遠い。

 でも、始まった。

 白線が風で揺れる。

 雪が強くなる。

 声が少しずつ遠くなる。

 第二避難列の先頭が、白い向こうに見えた。

 カナタは布を掴んだ。

 冷たい。

 指先が痛い。

 でも、線はそこにある。

「声が消える前に、見えるものを増やします!」

 カナタは叫んだ。

 ユウトが白線を持って走る。

 タクトが杭を抱える。

 ミナが車両ライトを点ける。

 リゼがポケットから赤い布取り出し白線の端に結ぶ。

 白の中に、赤が一つ。

 それだけで、線は少しだけ強くなった。

 カナタはそれを見て思った。

 これはまだ作戦の入口だ。

 白線は、ただの布だ。

 すぐ埋まる。

 すぐ切れる。

 すぐ見えなくなる。

 でも、今はこれが道になる。

 人が帰るための、細い細い道に。

 第二避難列が、吹雪の中から現れた。

 その背後で、黒い影が動いていた。

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