帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
白い布は、雪の上だと案外目立たない。
当たり前だった。
白いものを白いところに置いたら、白い。
それを最初に言ったのはユウトだった。
ハウンド七の食堂で、彼は配られた布束を両手に持ち、かなり真面目な顔でそう言った。
「白いですね」
「見れば分かります」
カナタが答える。
「いや、白線作戦って言うからには、もっとこう、線になる白かと」
「白には白の種類があるんですか」
「ありますよ。豆スープの白、雪の白、医療棟の壁の白、セナさんの怒る前の顔色の白」
「最後のはやめなさい」
セナが即座に言った。
ユウトは椀を持ったまま姿勢を正す。
「すみません」
「顔色で例えるなら患者を使え」
「怒るポイントそこですか」
食堂に少し笑いが起きた。
朝だった。
豆は二粒。
湯気は細い。
洗濯物はまだ外で凍っている。
窓には、赤い手袋、空き缶、矢印、ラジカセの落書きが残っている。結露で滲んで、どれも少しずつ別のものになりかけていた。手袋はカニから花へ。缶は太鼓から壺へ。矢印は魚の骨から謎の植物へ。ラジカセは、もうラジカセだったかどうか怪しい。
リゼはそれを見て、かすれた声で言った。
「美術館、劣化してる」
「保存環境が悪いですからね」
タクトが答える。
「結露美術館」
ユウトが言う。
「展示品が勝手に変形する」
「現代美術っぽい」
「分かるような分からないような」
リゼは喉を押さえた。
まだ完全には戻っていない。
それでも、医療棟待機ではなかった。
今日は作戦に参加する。
セナの許可つき。
ただし条件は多い。
走らない。
叫びすぎない。
密航しない。
勝手に備蓄を名乗らない。
最後だけ妙に具体的だった。
「白線作戦って、つまり何ですか」
タクトが訊いた。
彼の腰には、布を巻き直したオレンジソーダ缶がある。
今日は音がしないどころか、少し新品っぽい。
本人は否定しているが、たぶん少し嬉しそうだった。
ガレスが食堂の奥から歩いてきた。
火のつかない煙草。
くたびれたコート。
眠そうな目。
でも今日は、目の奥だけ妙に起きている。
「複数の避難列を同じ日に帰す」
彼は短く言った。
それだけで、食堂の空気が少し変わる。
「南西路、北東路、旧農道。三本の列が、吹雪の前にハウンド七へ入る予定だ」
「予定」
ミナが言った。
工具箱に腰かけている。
「予定って、だいたい壊れるやつ」
「だから白線を張る」
ガレスは布束を指した。
「雪中誘導布。白に少しだけ灰を混ぜてある。吹雪の中でも、近くなら見える。道の端に張って、列が迷わないようにする」
ユウトが布を広げた。
白。
たしかに、ただの白ではない。
雪より少し鈍い。
灰の混じった白。
古い包帯みたいな色だった。
「これ、白線っていうより、洗濯物では」
「洗濯物でも人が帰ればいい」
ガレスは言った。
強い。
布の身分を問わない男だった。
カナタは布に触れた。
ざらついている。
冷たい。
端に小さな金具がついている。雪面や防雪柵へ固定するためのものだ。
昨日まで、彼らはその場で矢印を描き、赤い手袋を振り、信号弾を上げていた。
今日は違う。
最初から線を用意する。
列が壊れる前に、帰るための道を作る。
それは、少しだけ前へ進んだ感じがした。
同時に、少し怖かった。
準備が必要なほど、大きなことをする。
そういう意味でもある。
「他部隊は」
カナタが訊く。
「ブルーグラスが上から見る。アイゼンが北側で壁を作る。モールが補給車を出す。うちは、列を繋ぐ」
「豪華ですね」
ユウトが言った。
「お祭り?」
「お祭りなら屋台が欲しい」
リゼが言う。
「豆スープ屋台」
「普段と変わらない」
「じゃあオレンジソーダ屋台」
タクトが一瞬だけ顔を上げた。
誰も何も言わなかった。
その沈黙に気づいて、タクトは少し笑った。
「売り切れです」
笑いが起きた。
それで少しだけ笑いが戻った。
白線作戦の朝は、そんなふうに始まった。
外では雪が降り始めていた。
細かい雪。
まだ吹雪ではない。
でも、空は低くなっている。
白線作戦は、天候との競争でもあった。
午前中に布を張る。
昼過ぎに第一避難列を通す。
夕方までに三列を受け入れる。
夜までに帰還確認。
紙に書けば簡単だった。
紙はいつも簡単だ。
雪も、足の遅い人も、壊れる車も、急に泣く子供も、紙の上では場所を取らない。
だから、現場で見る必要がある。
カナタたちは出発した。
最初の仕事は、旧農道への白線設置だった。
輸送車の荷台には、布束と金具、杭、信号弾、予備の毛布、工具箱、医療袋。
人間より荷物の方が多いように見えた。
ミナがそれを見て言う。
「荷物の避難列だね」
「荷物も帰すものです」
タクトが答える。
「いいこと言う」
ユウトが拍手するふりをする。
「拍手は音が鳴るので控えてください」
「タクトが厳しくなった」
「中央担当なので」
「役職意識」
カナタはその会話を聞きながら、窓の外を見た。
雪は少し強くなっている。
灰色の空の下、防雪柵が途切れ途切れに続く。
その先に、今日の列が来る。
三本。
別々の場所から。
別々の速度で。
別々の理由を持って。
それを一つの拠点へ帰す。
今までとは違う。
目の前の一列を帰すのではない。
複数の列を、同時に壊さないようにする。
自分一人では見られない。
だから、分ける。
見える場所を。
役割を。
責任を。
旧農道の入口に着くと、ブルーグラスの観測兵が待っていた。
小柄な女性兵。
背中に折りたたみ式の無人観測機《シジュウカラ》を背負っている。
名前はノノ。
彼女は寒そうに鼻を赤くしながら敬礼した。
「第二航空観測隊、ノノです。上、見ます」
「第七混成機動群、カナタです。下、見ます」
ユウトが小声で言う。
「きれいに対になった」
ノノは少し笑った。
「上は寒いです」
「下も寒いです」
「じゃあ全部寒いですね」
「はい」
簡単な会話。
それだけで少し楽になる。
ノノは雪の上に小型無人機を置いた。
シジュウカラは鳥というより、金属の虫に近かった。細い羽。小さな機体。熱源センサー。雪が当たると、羽が少し震える。
「飛びます」
低い音とともに、無人機が浮いた。
音は小さい。
でも、完全には消えない。
タクトがそれを見て言う。
「鳴りますね」
ノノが申し訳なさそうに頷く。
「鳴ります」
「布、巻きます?」
「落ちます」
「ですよね」
作業が始まった。
白線を張る。
言葉にすると簡単だった。
実際には、指が痛くなる作業だった。
布を伸ばす。
風に持っていかれる。
杭を打つ。
金具が凍る。
雪を払う。
また布を伸ばす。
手袋越しでも金具は冷たく、何度も指先の感覚が薄くなった。
ミナが文句を言った。
「これ、考えた人、現場で一回やってから配ってほしい」
「現場でやったら改良されますか」
ユウトが訊く。
「少なくとも、金具を素手で触りたくない形にはする」
「切実」
リゼは布の端を持っていた。
走らない。
叫ばない。
でも、布を持つくらいならできる。
セナは少し離れたところで見ていた。
監視というより、もう諦めに近い。
「リゼ、寒くなったら言う」
「はい」
「はい、じゃなくて本当に」
「本当に、はい」
「その返事が怪しい」
リゼは苦笑した。
白線が少しずつ伸びていく。
旧農道の入口から、曲がり角まで。
そこから、小さな橋の手前まで。
白い雪の上に、灰色がかった白い線ができる。
近くで見れば分かる。
遠くでは消える。
けれど、吹雪の中で人は遠くなど見ない。
足元の次。
その次。
さらに次。
それが分かれば、歩ける。
カナタは布を見た。
道というには細い。
でも、線だった。
帰るための線。
「第一避難列、接近」
ノノが言った。
片耳に通信機を当てている。
「人数四十前後。車両二。徒歩多め。速度、遅いです」
「遅い理由は」
「熱源密度が中央で詰まってます。たぶん負傷者」
カナタは頷いた。
「ユウト、曲がり角」
「はい」
「タクト、中央」
「はい」
「ミナ、車両」
「分かってる」
「リゼさんは」
「布」
リゼが白線を掲げた。
自分で役割を決めている。
カナタは少し迷ったが、頷いた。
「お願いします」
第一避難列が見えた。
雪の中から、人影が少しずつ現れる。
白い息。
荷物。
小型車両。
疲れた顔。
列は崩れていない。
ただ、重い。
中央に負傷者がいる。
両側に支える人。
その周囲が詰まっている。
白線を見つけた先頭の男が、顔を上げた。
「この線に沿って!」
ユウトが叫ぶ。
「布が見えたら正解です!見えなくなったら近づきすぎか遠すぎ!」
「どっちだ!」
「どっちかです!」
「雑!」
笑いが少し起きた。
人が動く。
白線に沿う。
曲がる。
詰まりかけた中央を、タクトが調整する。
「近すぎます!荷物、腰より上!音鳴ってます、布巻いて!」
ミナが車両を誘導する。
「そこ深い!左!左って言ってる!車の左!人間の左右と車の左右は同じ!」
リゼが布を振る。
声は控えめ。
でも、手は大きく動く。
「こっちー。白い線のこっちー」
セナが負傷者を見つける。
「大丈夫って言う前に車へ」
「まだ何も」
「顔」
列は進んだ。
白線は効いた。
思った以上に。
人は、見るものがあると歩ける。
それがただの布でも。
白くて、少し灰色で、洗濯物みたいな布でも。
第一避難列が通過した時、カナタは少し息を吐いた。
成功。
いや、通過。
まだ一つ目だ。
ノノの通信が入る。
「第二避難列、予定より早いです。北東から接近」
ガレスの声も重なる。
『南西の第三列、遅れている。吹雪が強くなる前に入れたい』
カナタは空を見た。
雪が濃くなっている。
白線が少し見えにくくなってきた。
遠くで、低い音がした。
ハウラーか。
風か。
まだ分からない。
ノノが顔を上げた。
「上空、熱源複数。小型。あと……中型反応」
ユウトが呟く。
「お祭りじゃないですか」
「屋台なしの」
タクトが返す。
「嫌すぎる」
リゼが布を握り直した。
カナタは白線を見た。
さっきまで道だったものが、雪に埋まり始めている。
作った線は、放っておくと消える。
維持しなければならない。
列も同じだ。
「白線を張り直します」
カナタは言った。
「第二列が来る前に、曲がり角を補強。第三列用に旧橋側へ延長。全部はできません。見えるところから」
ユウトが頷く。
「補習ですね」
「はい」
リゼがかすれた声で笑った。
「また補習」
カナタも少しだけ笑った。
その時、シジュウカラが上空で警告音を鳴らした。
小さな電子音。
ノノの顔色が変わる。
「通信、乱れます」
次の瞬間、耳の奥に低い圧が来た。
ハウラー。
まだ遠い。
でも、始まった。
白線が風で揺れる。
雪が強くなる。
声が少しずつ遠くなる。
第二避難列の先頭が、白い向こうに見えた。
カナタは布を掴んだ。
冷たい。
指先が痛い。
でも、線はそこにある。
「声が消える前に、見えるものを増やします!」
カナタは叫んだ。
ユウトが白線を持って走る。
タクトが杭を抱える。
ミナが車両ライトを点ける。
リゼがポケットから赤い布取り出し白線の端に結ぶ。
白の中に、赤が一つ。
それだけで、線は少しだけ強くなった。
カナタはそれを見て思った。
これはまだ作戦の入口だ。
白線は、ただの布だ。
すぐ埋まる。
すぐ切れる。
すぐ見えなくなる。
でも、今はこれが道になる。
人が帰るための、細い細い道に。
第二避難列が、吹雪の中から現れた。
その背後で、黒い影が動いていた。