帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
白線は、思ったより早く消え始めた。
雪が強くなったからだ。
ただ降るのではない。
横から来る。
下から巻き上がる。
上から落ちる。
世界中の白が、いっせいにこちらへ押し寄せてくるみたいだった。さっきまで灰色に見えていた誘導布は、雪をかぶり、風に叩かれ、何度も地面へ伏せそうになった。
それでも、線だった。
細い。
頼りない。
でも線だった。
カナタは手袋の上から布を掴み、杭に固定し直した。
金具が凍っている。
指先が痛い。
息を吐くと、白いのか雪なのか分からないものが目の前に広がった。
「これ、白線っていうより遭難しかけた洗濯物ですね!」
ユウトが叫んだ。
声が風に削られる。
「洗濯物でも人が帰ればいいです!」
カナタも叫び返す。
「名言っぽい!」
「ガレス副長の受け売りです!」
「急に雑になった」
ユウトの声はまだ軽かった。
けれど、風に削られていた。
第二避難列は、すでに白線の入口へ入っていた。
人数は三十前後。
小型車両一台。
徒歩多数。
先頭はまだ見えている。
中央は雪に薄く消えかけている。
最後尾は、ほとんど白の向こうだった。
ノノの《シジュウカラ》が上空で低く旋回している。
羽音は吹雪に混じってほとんど聞こえない。
通信は乱れ始めていた。
『……第二列、中央……密度上昇……』
ノノの声が途切れる。
『後方に小型熱源……三、いや五……』
ハウラーの低い圧が、耳の奥へ入ってきた。
声が遠くなる。
さっきまで隣にいたはずの人間の声が、壁の向こうから聞こえるみたいになる。
リゼが赤い布を結んだ白線を振っていた。
喉を壊しかけているのに、声を出している。
「こっちー!赤いの見てー!白いのも見てー!両方見たら正解ー!」
セナがすぐ横から怒る。
「声、使いすぎ」
「今だけ」
「その今だけが多い」
「分割払い」
「喉は分割できない」
リゼは笑った。
声はかすれていた。
それでも、子供たちは赤い布を見た。
大人も見た。
白線が雪に溶けかけても、赤は残る。
赤は強い。
タクトは中央にいた。
第二避難列の真ん中。
子供と荷物と、疲れた大人が集まる場所。
彼は腰のオレンジソーダ缶を押さえながら、何度も声を出していた。
「詰めないでください!荷物は胸の前!鳴るものは布!足元、見て!」
ハウラーの音が来るたびに、声が削られる。
届かなくなる。
そのたびに、タクトは手で示した。
手を下げる。
止まらない。
手を開く。
間隔を空ける。
缶を指す。
音を消す。
子供の一人が真似をした。
また一人が真似をした。
小さな手信号が、列の中で増えていく。
カナタはそれを見た。
声が死んでも、動きが残る。
それは昨日までの彼らが拾ってきたものだった。
赤い手袋。
空き缶。
矢印。
ラジカセ。
白線。
どれも最初はただの物だった。
今は、列を繋ぐ言葉になっている。
「第二列、中央通過!」
ユウトが曲がり角で叫ぶ。
「先頭、旧橋へ!」
ミナの三号車が小型車両を押し出すように誘導していた。
タイヤが滑る。
ミナが怒鳴る。
「右!いや車の右!人間の右と同じ!もう左右を疑うな!」
運転手が必死に頷く。
三号車のライトが白線を照らす。
雪が光を反射して、視界が逆に白くなる。
「ライト強すぎませんか!」
ユウトが叫ぶ。
「見えないよりマシ!」
「見えすぎて見えない!」
「哲学言ってる暇あったら誘導!」
第二避難列が旧橋を抜けた。
全員ではない。
まだ最後尾が残っている。
だが、大きな詰まりはない。
カナタは一瞬だけ息を吐いた。
その瞬間、ノノの通信が割れた。
『第三列……南西……予定より逸脱……』
ノイズ。
『白線外。中央、消えます』
「中央が?」
カナタが訊く。
返事はなかった。
代わりに、シジュウカラが甲高い警告音を鳴らした。
ハウラーの音が重なる。
通信が、ほとんど潰れる。
耳の奥が重い。
頭の内側で雪が降っているみたいだった。
ガレスの声が途切れ途切れに届く。
『第三……列……見失……旧農道……南……』
カナタは地図を開いた。
紙が風に煽られる。
白線作戦の予定路。
南西から来る第三避難列。
旧農道へ合流するはずだった。
だが、吹雪で白線の外へ逸れた。
中央が消える。
つまり、列の真ん中が見えなくなっている。
先頭だけが進んで、最後尾だけが残り、中央が白に飲まれた。
最悪だった。
「ユウト、第二列を最後まで通してください!」
「はい!」
「タクト、中央から離れない!」
「はい!」
「ミナ、車両を旧橋へ!」
「分かってる!」
カナタはリゼを見た。
リゼは赤い布を握っている。
顔色は悪い。
声ももう限界に近い。
それでも目が合うと、彼女は少しだけ顎を上げた。
行く、という顔だった。
セナが先に言う。
「だめ」
「まだ何も」
「顔」
「顔で止めないで」
「喉、限界」
「じゃあ手だけ」
「吹雪の中で?」
「赤いから見える」
セナは一瞬だけ黙った。
そして医療袋から太い包帯を取り出した。
リゼの首に巻く。
「喉を冷やさない」
「許可?」
「監視付き」
「やった」
「喜ぶな」
カナタはリゼへ白線の予備布を渡した。
「第三列の中央を探します」
声に出してから、自分でも無茶だと思った。
吹雪。
ハウラー。
通信不良。
白線外。
中央消失。
それでも探す。
列の中央は、放っておくと本当に消える。
人がいるのに、列から消える。
それが一番まずい。
ノノがシジュウカラの予備バッテリーを交換していた。
手が震えている。
「上、荒れてます。でも熱源、拾えます。たぶん」
「たぶんで十分です」
「たぶん、言っちゃだめな仕事なんですけど」
「今日は言ってください」
ノノは頷いた。
シジュウカラが再び浮かぶ。
すぐに白へ消えた。
カナタ、リゼ、セナ、ガレスの車両一台が南へ出た。
第二列の声が後ろへ遠ざかる。
白線も後ろへ消える。
前には、何もない。
雪。
風。
低いハウラーの音。
白の中で、方向感覚が少しずつ死んでいく。
リゼが布を握る。
赤い布が風に暴れる。
「これ、見えてる?」
リゼが訊く。
声は小さい。
でも近いから聞こえる。
「近くなら」
カナタは答えた。
「じゃあ近くまで行けばいい」
「簡単に言いますね」
「難しく言うと怖いから」
それは、たぶん本音だった。
南へ進むほど、足跡が見えてきた。
乱れている。
第三避難列の跡。
先頭の轍は東へ流れている。
最後尾の足跡は西へ残っている。
中央の跡が薄い。
吹雪で埋まりかけている。
その中に、止まった跡がいくつもあった。
声が届かなくなったのだ。
白線が見えなくなった。
先頭についていく声も、後ろを待てという声も消えた。
人は、進む理由と止まる理由を同時に失うと、そこに立ち尽くす。
カナタには、それが足跡で分かった。
「いました!」
ノノの通信。
途切れ途切れ。
『南南西……小集団……十数名……動きなし……周辺に小型……あとハウラー二』
二。
ハウラー二体。
カナタの喉が乾いた。
声が消える。
通信も消える。
列の中央が、本当に消される。
雪の向こうに、人影が見えた。
十数人。
固まっている。
動いていない。
子供もいる。
老人もいる。
誰かが何かを叫んでいるが、声は聞こえない。
ハウラーの低い圧がすべてを削っている。
カナタは大きく手を振った。
見えない。
距離がある。
リゼが前へ出た。
セナが腕を掴む。
「走るな」
「走らない」
リゼは歩いた。
雪に足を取られながら。
赤い布を高く上げる。
白い布を引きずる。
声を出す。
「こっち――!」
声は掠れた。
すぐ風に飛ばされた。
でも、人影の一つが顔を上げた。
赤を見た。
リゼはもう一度手を振る。
「赤いの、見て――!」
咳が混じる。
セナが隣で支える。
カナタは雪の上に矢印を描いた。
深く。
何度も。
ガレスの車両がライトを点滅させる。
ノノのシジュウカラが上空で小さな赤灯を点ける。
点。
線。
光。
声。
残っているものを全部使う。
人影が動いた。
一人。
また一人。
中央だったものが、もう一度列になろうとする。
だが、背後で黒い影が動いた。
小型レイス。
その奥に、細長い影が二つ。
ハウラー。
裂けた首が震える。
音がさらに低くなる。
リゼの声が消えた。
完全に。
口は動いている。
でも、声は聞こえない。
カナタは一瞬、何をすればいいのか分からなくなった。
声がない。
白線もない。
通信も死にかけている。
中央が見つかった。
でも、どうやって戻す。
頭の中が白くなった。
雪と同じ色になった。
その時、リゼが赤い布をカナタの胸へ押しつけた。
目が合う。
彼女は声を出さずに、口だけで言った。
見える場所を。
分けて。
カナタは息を吸った。
そうだ。
一人で全部見なくていい。
一人で全部呼ばなくていい。
「ガレス副長、車両ライトを右へ!ノノさん、赤灯を中央上へ!セナさん、動けない人を抜いてください!リゼさんは布を振るだけでいい!」
声が届くかどうかは分からない。
でも、近くには届いた。
ガレスの車両が右へ振る。
ライトが雪を切る。
ノノのシジュウカラが赤灯を揺らす。
セナが動けない老人を支える。
リゼが赤い手袋を振る。
カナタは白布を雪に敷いた。
新しい白線。
短い。
曲がっている。
でも、線だ。
中央の人々が動き出す。
子供が泣いている。
大人が口を開けて何か叫んでいる。
聞こえない。
でも歩いている。
小型レイスが迫る。
ガレスが撃つ。
雪が跳ねる。
ハウラーは倒せない。
でも、列は動いた。
戻る。
白線へ。
見える場所へ。
帰るための細い線へ。
その時、通信が一瞬だけ回復した。
ユウトの声が割り込む。
『カナタさん!第二列、収容完了!第三の先頭、こっち来てます!でも最後尾が――』
そこで切れた。
最後尾。
今度はそこか。
カナタは振り返った。
白い。
どこまでも白い。
第三列の中央は動き出した。
でも、最後尾が見えない。
前には戻る人々。
後ろには消えた最後尾。
ハウラー二体。
吹雪。
白線は短い。
リゼが膝をついた。
セナが支える。
カナタの心臓が嫌な音を立てた。
ここで終わりではない。
むしろ、ここからだった。
ガレスが通信機を叩く。
「第七全車へ。第三列、中央回収。だが最後尾を見失った」
ノイズ。
返事はない。
雪が強くなる。
白線が埋まる。
リゼの持つ赤い布だけが、まだ見えている。
カナタはそれを見た。
そして、白の向こうを見た。
最後尾は、まだ帰ってきていない。