帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
最後尾が、消えた。
その報告は、雪より白く聞こえた。
通信はほとんど死んでいた。ノイズの向こうでユウトの声が途切れ、ガレスの低い声も、アイラの遠い指示も、全部が吹雪に削られていく。ハウラーの低い音が、耳の奥でずっと鳴っていた。音というより圧だった。頭の内側を、見えない指で押されているみたいだった。
カナタの目の前には、第三避難列の中央があった。
リゼが持つ赤い布。
短い白線。
ガレス車両のライト。
ノノの《シジュウカラ》が灯す小さな赤灯。
それらを頼りに、十数人が戻り始めている。
動いている。
列になろうとしている。
でも、最後尾がいない。
列は、真ん中だけでは帰れない。
前だけでも帰れない。
後ろが切れたら、帰還ではなくなる。
それは、誰よりカナタが知っていた。
「カナタ」
ガレスが言った。
声は近いのに遠い。
「中央を戻せ。最後尾は俺が――」
「だめです」
カナタは即答していた。
自分でも驚くくらい早かった。
ガレスが眉を動かす。
「何?」
「一人で行くと、そこも切れます」
言葉にすると分かった。
これは今までと同じだ。
誰か一人が見に行く。
その人を見失う。
助けに行く。
また切れる。
列はそうやって崩れていく。
善意の形をして。
責任感の顔をして。
助けたいという正しさで。
カナタは雪の向こうを見た。
何も見えない。
白だけ。
でも、白の中にいるはずだった。
最後尾。
疲れた人。
遅れた人。
荷物を置けなかった人。
誰かを待っている人。
そこへ行く必要がある。
でも、全員で行けば中央が消える。
一人で行けば、その一人が消える。
なら。
「見える場所を、分けます」
カナタは言った。
声は震えなかった。
震えなかったことが、少し怖かった。
「ガレス副長は車両ライトで中央を押してください。リゼさんは赤手袋をここに残す。セナさん、動けない人を車へ。ノノさん、上から最後尾の熱源を拾ってください。俺は白線を伸ばします」
「一人で?」
セナが言った。
「いいえ」
カナタは通信機を握った。
ノイズ。
ハウラーの圧。
それでも、叫ぶ。
「ユウト!聞こえますか!」
返事はすぐには来なかった。
雪の向こうで、風が鳴った。
次に、途切れ途切れの声。
『……はい!なんか聞こえてます!だいたい!』
ユウトだった。
こんな時まで言い方が雑だった。
少しだけ安心した。
「第二列の収容後、曲がり角を維持してください!第三先頭を止めないで!でも急がせすぎない!」
『無茶な注文!』
「お願いします!」
『はい!』
「タクト!」
ノイズ。
『……はい!』
「中央から離れないでください!戻ってくる人を受けて!音が鳴るものを全部止めて!」
『全部!?』
「気になったものだけでいいです!」
『それなら!』
返事があった。
声は弱い。
でも、あった。
声が使えないなら、使える声だけ使う。
見えないなら、見える人に渡す。
カナタ一人では無理だ。
それをようやく、体の真ん中で認めた気がした。
リゼが赤い布を外した。
カナタへ渡そうとする。
カナタは首を振った。
「それはここに」
リゼが目を見開く。
「でも」
「リゼさんが持っているから、みんな見ます」
リゼは少し黙った。
そして、赤い布を白線に結びつけた。
風で揺れる。
赤い。
白の中で、やけに赤い。
「じゃあ」
リゼは掠れた声で言った。
「私は、ここ」
「はい」
「戻ってくる場所」
「お願いします」
リゼは頷いた。
セナが彼女の横に立つ。
「声は使わない」
「手は使う」
「倒れたら縛る」
「それ好きだね」
「好きじゃない。必要」
カナタは予備の白布を掴んだ。
ノノがシジュウカラを操作している。
顔色が悪い。
指が震えている。
「南西に熱源、七。いや八。低速。止まりかけてます」
「方向は」
「赤灯、落とします」
「落とす?」
「小型ビーコンです。回収不能になるかも」
ノノは少し悔しそうに笑った。
「機材に謝る流れ、ミナさんから習いました」
「後で一緒に謝りましょう」
「はい」
シジュウカラから、小さな赤い光が雪の向こうへ落ちた。
一瞬、白の中に点が生まれる。
遠い。
でも、見える。
「あそこです!」
カナタは走り出した。
走るなと言われそうだった。
でも、今日はセナも止めなかった。
雪が深い。
足が沈む。
白布を引きずる。
杭を打つ暇はない。
だから、布の端を自分の腰に結び、もう片方をガレスの車両の牽引具に結んだ。
生きた白線。
動く線。
無茶だと思った。
でも、無茶でも線はできる。
後ろでガレスが怒鳴る。
「引きずられんなよ!」
「はい!」
「引きずられたら笑うぞ!」
「笑わないでください!」
少しだけ笑いが起きた。
たぶんリゼだ。
声は掠れて、すぐ風に消えた。
赤灯へ向かう途中、ハウラーの音が強くなった。
膝が抜けそうになる。
耳の奥が痛い。
視界が白く歪む。
それでも、腰の布が後ろへ伸びているのが分かった。
自分はまだ繋がっている。
それだけで、踏み出せた。
赤灯の近くに、人影があった。
八人。
報告通り。
いや、九人。
一人、雪の上に座り込んでいる。
最後尾。
彼らは声を失っていた。
ハウラーのせいで互いの声が届かず、吹雪で白線も見失い、そこで止まっていた。
小型レイスが、遠巻きに回っている。
まだ襲っていない。
待っている。
立ち上がるか。
ばらけるか。
誰かが走り出すか。
その瞬間を。
カナタは白布を掲げた。
叫ぶ。
「こっちです!」
声は届かない。
それでも、動きは見える。
腰から伸びる白布。
後ろへ続く線。
それを見た一人が、立ち上がった。
次に、座り込んだ人を支えようとする。
だが、足が動かない。
凍えている。
疲れている。
動けない。
カナタは迷った。
担ぐか。
待つか。
その瞬間、背後から別の光が来た。
三号車のライト。
ミナだ。
無茶な角度で車両を寄せてくる。
通信が割れる。
『三号車、白線に沿って到着!車両に謝る準備して!』
「来たんですか!」
『来た!車は文句言ってる!』
三号車が雪を押し分け、最後尾の横へ滑り込む。
タクトが荷台から飛び降りた。
「中央、受け渡しできます!」
「タクト、中央は?」
「ユウトさんに一瞬預けました!」
どこかでユウトの声が遠く聞こえた。
『一瞬って言ったよね!?これ、全然一瞬じゃない!』
吹雪の中で、なぜか少し笑えた。
タクトは座り込んだ人の荷物を外した。
「荷物、一つだけ!これは?」
その人は震える手で、小さな袋を指した。
「それだけですね。持ちます」
タクトは袋を自分の胸に抱えた。
腰の缶は鳴らない。
小型レイスが近づく。
ガレスの車両ライトが揺れる。
遠くで機銃音。
アイゼンの砲撃がさらに遠くで低く響いた。
壁を作っている。
誰かが、別の場所で支えている。
ノノが上を見る。
リゼが戻る場所で赤い手袋を振る。
セナが動けない人を受ける。
ユウトが曲がり角で叫ぶ。
ミナが三号車を雪に突っ込ませる。
タクトが荷物を抱える。
ガレスが撃つ。
そしてカナタは、白布を握っていた。
一人ではない。
全員が、別々の場所を見ている。
それでやっと、列が見える。
「戻ります!」
カナタは叫んだ。
今度は、届いた気がした。
最後尾の人々が動く。
三号車に乗れる人を乗せる。
歩ける人は白布に沿う。
座り込んでいた人は、セナの担架へ送る。
小型レイスが一体、飛び込んだ。
タクトが反射的に缶を押さえる。
その横で、ミナが工具箱を投げた。
がん、と音が鳴る。
小型レイスの頭が一瞬逸れる。
ガレスの銃撃。
黒い影が雪に倒れる。
ミナが叫ぶ。
「工具箱に謝れ!」
「今!?」
ユウトの声が遠くから返る。
「後で!」
そのやり取りに、最後尾の誰かが笑った。
小さく。
震えながら。
でも笑った。
その人は歩いた。
笑いながら歩いた。
帰るために。
白布をたどって戻る道は長かった。
実際には、たいした距離ではなかったのかもしれない。
でも、吹雪の中では永遠みたいだった。
赤い布が見えた時、カナタは初めて自分が息を止めていたことに気づいた。
リゼがそこにいた。
セナに支えられながら。
喉を使えない代わりに、手を振っている。
赤い色。
戻る場所。
最後尾がそこへ入った。
第三避難列の中央と繋がる。
さらに先頭へ。
旧橋へ。
白線へ。
ハウンド七へ。
列が、戻った。
「全員?」
カナタは訊いた。
声が掠れていた。
タクトが人数を数える。
一度間違える。
もう一度数える。
セナが負傷者を確認する。
ノノが熱源を照合する。
ユウトが曲がり角から戻ってくる。
顔中雪まみれだった。
「第三列、先頭と中央、接続しました!」
「最後尾は」
「今、入りました!」
ガレスが通信機を叩いた。
「全車、白線に沿って撤収。アイゼン、壁を畳め。モール、補給車を入れろ。ブルーグラス、上を頼む」
返事は断続的だった。
でも、あった。
列が動き始める。
白線作戦の最後の帰還。
吹雪はまだ強い。
ハウラーの音も消えていない。
小型レイスもまだいる。
でも、列は一本になった。
細く。
曲がり。
何度も途切れかけながら。
それでも一本だった。
ハウンド七の門が見えた時、誰も歓声を上げなかった。
みんな疲れすぎていた。
ただ、門の灯りを見て、歩幅が少しだけ揃った。
それで十分だった。
避難列が拠点へ吸い込まれていく。
負傷者は医療棟へ。
子供は食堂へ。
補給車は格納庫へ。
白布は雪に濡れて、泥に汚れて、ところどころ破れていた。
リゼの赤い布もほつれている。
それでも帰ってきた。
食堂に入ると、窓の落書きが迎えた。
手袋。
缶。
矢印。
ラジカセ。
その横に、ユウトが震える指で新しい線を描いた。
白線。
ガラスの上では透明に近くて、ほとんど見えない。
「見えないですね」
タクトが言った。
「見えない線です」
ユウトが言う。
「だめじゃないですか」
「でも、あったんですよ」
リゼが椅子に座り込んだ。
声は出ない。
でも、笑っていた。
セナが毛布をかける。
「今日は喋るな」
リゼは頷いた。
珍しく素直だった。
食堂の奥で、避難民の一人が言った。
「帰還誘導兵が来てくれて、助かった」
その言葉は、湯気の中に落ちた。
誰もすぐには反応しなかった。
帰還誘導兵。
誰かが正式に決めた名前ではない。
教本にもない。
兵科表にもない。
ただ、今日帰ってきた人が、そう呼んだ。
それだけだった。
でも、それだけで十分な気がした。
ユウトがカナタを見た。
タクトも。
ミナも、工具箱を抱えたまま振り返る。
ガレスは煙草を咥えようとして、やめた。
セナは何も言わない。
リゼは毛布の中から親指を立てた。
カナタは何か言おうとして、やめた。
言葉にすると、まだ早い気がした。
でも、否定もしなかった。
食堂ではスープが配られ始めていた。
豆は二粒。
湯気は細い。
白線は汚れている。
赤い布はほつれている。
缶は鳴らない。
靴は濡れている。
みんな疲れている。
それでも、列は帰った。
カナタは椀を受け取った。
温かかった。
薄かった。
ちゃんと、味がした。
窓の見えない白線は、結露で少し滲んだ。
でも、そこにあった。