帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二十八話 帰還誘導

 最後尾が、消えた。

 その報告は、雪より白く聞こえた。

 通信はほとんど死んでいた。ノイズの向こうでユウトの声が途切れ、ガレスの低い声も、アイラの遠い指示も、全部が吹雪に削られていく。ハウラーの低い音が、耳の奥でずっと鳴っていた。音というより圧だった。頭の内側を、見えない指で押されているみたいだった。

 カナタの目の前には、第三避難列の中央があった。

 リゼが持つ赤い布。

 短い白線。

 ガレス車両のライト。

 ノノの《シジュウカラ》が灯す小さな赤灯。

 それらを頼りに、十数人が戻り始めている。

 動いている。

 列になろうとしている。

 でも、最後尾がいない。

 列は、真ん中だけでは帰れない。

 前だけでも帰れない。

 後ろが切れたら、帰還ではなくなる。

 それは、誰よりカナタが知っていた。

「カナタ」

 ガレスが言った。

 声は近いのに遠い。

「中央を戻せ。最後尾は俺が――」

「だめです」

 カナタは即答していた。

 自分でも驚くくらい早かった。

 ガレスが眉を動かす。

「何?」

「一人で行くと、そこも切れます」

 言葉にすると分かった。

 これは今までと同じだ。

 誰か一人が見に行く。

 その人を見失う。

 助けに行く。

 また切れる。

 列はそうやって崩れていく。

 善意の形をして。

 責任感の顔をして。

 助けたいという正しさで。

 カナタは雪の向こうを見た。

 何も見えない。

 白だけ。

 でも、白の中にいるはずだった。

 最後尾。

 疲れた人。

 遅れた人。

 荷物を置けなかった人。

 誰かを待っている人。

 そこへ行く必要がある。

 でも、全員で行けば中央が消える。

 一人で行けば、その一人が消える。

 なら。

「見える場所を、分けます」

 カナタは言った。

 声は震えなかった。

 震えなかったことが、少し怖かった。

「ガレス副長は車両ライトで中央を押してください。リゼさんは赤手袋をここに残す。セナさん、動けない人を車へ。ノノさん、上から最後尾の熱源を拾ってください。俺は白線を伸ばします」

「一人で?」

 セナが言った。

「いいえ」

 カナタは通信機を握った。

 ノイズ。

 ハウラーの圧。

 それでも、叫ぶ。

「ユウト!聞こえますか!」

 返事はすぐには来なかった。

 雪の向こうで、風が鳴った。

 次に、途切れ途切れの声。

『……はい!なんか聞こえてます!だいたい!』

 ユウトだった。

 こんな時まで言い方が雑だった。

 少しだけ安心した。

「第二列の収容後、曲がり角を維持してください!第三先頭を止めないで!でも急がせすぎない!」

『無茶な注文!』

「お願いします!」

『はい!』

「タクト!」

 ノイズ。

『……はい!』

「中央から離れないでください!戻ってくる人を受けて!音が鳴るものを全部止めて!」

『全部!?』

「気になったものだけでいいです!」

『それなら!』

 返事があった。

 声は弱い。

 でも、あった。

 声が使えないなら、使える声だけ使う。

 見えないなら、見える人に渡す。

 カナタ一人では無理だ。

 それをようやく、体の真ん中で認めた気がした。

 リゼが赤い布を外した。

 カナタへ渡そうとする。

 カナタは首を振った。

「それはここに」

 リゼが目を見開く。

「でも」

「リゼさんが持っているから、みんな見ます」

 リゼは少し黙った。

 そして、赤い布を白線に結びつけた。

 風で揺れる。

 赤い。

 白の中で、やけに赤い。

「じゃあ」

 リゼは掠れた声で言った。

「私は、ここ」

「はい」

「戻ってくる場所」

「お願いします」

 リゼは頷いた。

 セナが彼女の横に立つ。

「声は使わない」

「手は使う」

「倒れたら縛る」

「それ好きだね」

「好きじゃない。必要」

 カナタは予備の白布を掴んだ。

 ノノがシジュウカラを操作している。

 顔色が悪い。

 指が震えている。

「南西に熱源、七。いや八。低速。止まりかけてます」

「方向は」

「赤灯、落とします」

「落とす?」

「小型ビーコンです。回収不能になるかも」

 ノノは少し悔しそうに笑った。

「機材に謝る流れ、ミナさんから習いました」

「後で一緒に謝りましょう」

「はい」

 シジュウカラから、小さな赤い光が雪の向こうへ落ちた。

 一瞬、白の中に点が生まれる。

 遠い。

 でも、見える。

「あそこです!」

 カナタは走り出した。

 走るなと言われそうだった。

 でも、今日はセナも止めなかった。

 雪が深い。

 足が沈む。

 白布を引きずる。

 杭を打つ暇はない。

 だから、布の端を自分の腰に結び、もう片方をガレスの車両の牽引具に結んだ。

 生きた白線。

 動く線。

 無茶だと思った。

 でも、無茶でも線はできる。

 後ろでガレスが怒鳴る。

「引きずられんなよ!」

「はい!」

「引きずられたら笑うぞ!」

「笑わないでください!」

 少しだけ笑いが起きた。

 たぶんリゼだ。

 声は掠れて、すぐ風に消えた。

 赤灯へ向かう途中、ハウラーの音が強くなった。

 膝が抜けそうになる。

 耳の奥が痛い。

 視界が白く歪む。

 それでも、腰の布が後ろへ伸びているのが分かった。

 自分はまだ繋がっている。

 それだけで、踏み出せた。

 赤灯の近くに、人影があった。

 八人。

 報告通り。

 いや、九人。

 一人、雪の上に座り込んでいる。

 最後尾。

 彼らは声を失っていた。

 ハウラーのせいで互いの声が届かず、吹雪で白線も見失い、そこで止まっていた。

 小型レイスが、遠巻きに回っている。

 まだ襲っていない。

 待っている。

 立ち上がるか。

 ばらけるか。

 誰かが走り出すか。

 その瞬間を。

 カナタは白布を掲げた。

 叫ぶ。

「こっちです!」

 声は届かない。

 それでも、動きは見える。

 腰から伸びる白布。

 後ろへ続く線。

 それを見た一人が、立ち上がった。

 次に、座り込んだ人を支えようとする。

 だが、足が動かない。

 凍えている。

 疲れている。

 動けない。

 カナタは迷った。

 担ぐか。

 待つか。

 その瞬間、背後から別の光が来た。

 三号車のライト。

 ミナだ。

 無茶な角度で車両を寄せてくる。

 通信が割れる。

『三号車、白線に沿って到着!車両に謝る準備して!』

「来たんですか!」

『来た!車は文句言ってる!』

 三号車が雪を押し分け、最後尾の横へ滑り込む。

 タクトが荷台から飛び降りた。

「中央、受け渡しできます!」

「タクト、中央は?」

「ユウトさんに一瞬預けました!」

 どこかでユウトの声が遠く聞こえた。

『一瞬って言ったよね!?これ、全然一瞬じゃない!』

 吹雪の中で、なぜか少し笑えた。

 タクトは座り込んだ人の荷物を外した。

「荷物、一つだけ!これは?」

 その人は震える手で、小さな袋を指した。

「それだけですね。持ちます」

 タクトは袋を自分の胸に抱えた。

 腰の缶は鳴らない。

 小型レイスが近づく。

 ガレスの車両ライトが揺れる。

 遠くで機銃音。

 アイゼンの砲撃がさらに遠くで低く響いた。

 壁を作っている。

 誰かが、別の場所で支えている。

 ノノが上を見る。

 リゼが戻る場所で赤い手袋を振る。

 セナが動けない人を受ける。

 ユウトが曲がり角で叫ぶ。

 ミナが三号車を雪に突っ込ませる。

 タクトが荷物を抱える。

 ガレスが撃つ。

 そしてカナタは、白布を握っていた。

 一人ではない。

 全員が、別々の場所を見ている。

 それでやっと、列が見える。

「戻ります!」

 カナタは叫んだ。

 今度は、届いた気がした。

 最後尾の人々が動く。

 三号車に乗れる人を乗せる。

 歩ける人は白布に沿う。

 座り込んでいた人は、セナの担架へ送る。

 小型レイスが一体、飛び込んだ。

 タクトが反射的に缶を押さえる。

 その横で、ミナが工具箱を投げた。

 がん、と音が鳴る。

 小型レイスの頭が一瞬逸れる。

 ガレスの銃撃。

 黒い影が雪に倒れる。

 ミナが叫ぶ。

「工具箱に謝れ!」

「今!?」

 ユウトの声が遠くから返る。

「後で!」

 そのやり取りに、最後尾の誰かが笑った。

 小さく。

 震えながら。

 でも笑った。

 その人は歩いた。

 笑いながら歩いた。

 帰るために。

 白布をたどって戻る道は長かった。

 実際には、たいした距離ではなかったのかもしれない。

 でも、吹雪の中では永遠みたいだった。

 赤い布が見えた時、カナタは初めて自分が息を止めていたことに気づいた。

 リゼがそこにいた。

 セナに支えられながら。

 喉を使えない代わりに、手を振っている。

 赤い色。

 戻る場所。

 最後尾がそこへ入った。

 第三避難列の中央と繋がる。

 さらに先頭へ。

 旧橋へ。

 白線へ。

 ハウンド七へ。

 列が、戻った。

「全員?」

 カナタは訊いた。

 声が掠れていた。

 タクトが人数を数える。

 一度間違える。

 もう一度数える。

 セナが負傷者を確認する。

 ノノが熱源を照合する。

 ユウトが曲がり角から戻ってくる。

 顔中雪まみれだった。

「第三列、先頭と中央、接続しました!」

「最後尾は」

「今、入りました!」

 ガレスが通信機を叩いた。

「全車、白線に沿って撤収。アイゼン、壁を畳め。モール、補給車を入れろ。ブルーグラス、上を頼む」

 返事は断続的だった。

 でも、あった。

 列が動き始める。

 白線作戦の最後の帰還。

 吹雪はまだ強い。

 ハウラーの音も消えていない。

 小型レイスもまだいる。

 でも、列は一本になった。

 細く。

 曲がり。

 何度も途切れかけながら。

 それでも一本だった。

 ハウンド七の門が見えた時、誰も歓声を上げなかった。

 みんな疲れすぎていた。

 ただ、門の灯りを見て、歩幅が少しだけ揃った。

 それで十分だった。

 避難列が拠点へ吸い込まれていく。

 負傷者は医療棟へ。

 子供は食堂へ。

 補給車は格納庫へ。

 白布は雪に濡れて、泥に汚れて、ところどころ破れていた。

 リゼの赤い布もほつれている。

 それでも帰ってきた。

 食堂に入ると、窓の落書きが迎えた。

 手袋。

 缶。

 矢印。

 ラジカセ。

 その横に、ユウトが震える指で新しい線を描いた。

 白線。

 ガラスの上では透明に近くて、ほとんど見えない。

「見えないですね」

 タクトが言った。

「見えない線です」

 ユウトが言う。

「だめじゃないですか」

「でも、あったんですよ」

 リゼが椅子に座り込んだ。

 声は出ない。

 でも、笑っていた。

 セナが毛布をかける。

「今日は喋るな」

 リゼは頷いた。

 珍しく素直だった。

 食堂の奥で、避難民の一人が言った。

「帰還誘導兵が来てくれて、助かった」

 その言葉は、湯気の中に落ちた。

 誰もすぐには反応しなかった。

 帰還誘導兵。

 誰かが正式に決めた名前ではない。

 教本にもない。

 兵科表にもない。

 ただ、今日帰ってきた人が、そう呼んだ。

 それだけだった。

 でも、それだけで十分な気がした。

 ユウトがカナタを見た。

 タクトも。

 ミナも、工具箱を抱えたまま振り返る。

 ガレスは煙草を咥えようとして、やめた。

 セナは何も言わない。

 リゼは毛布の中から親指を立てた。

 カナタは何か言おうとして、やめた。

 言葉にすると、まだ早い気がした。

 でも、否定もしなかった。

 食堂ではスープが配られ始めていた。

 豆は二粒。

 湯気は細い。

 白線は汚れている。

 赤い布はほつれている。

 缶は鳴らない。

 靴は濡れている。

 みんな疲れている。

 それでも、列は帰った。

 カナタは椀を受け取った。

 温かかった。

 薄かった。

 ちゃんと、味がした。

 窓の見えない白線は、結露で少し滲んだ。

 でも、そこにあった。

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