帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第二十九話 辞令の日

 春は、もう少し明るいものだと思っていた。

 少なくとも、カナタの知っている春はそうだった。

 校庭の隅に残った雪が、昼には水になって、放課後には泥になって、誰かの靴下を台無しにする。窓際の席が少しだけ暑くなる。教室の後ろで誰かが眠る。新しい学年の名簿が配られて、知らない名前がいくつか増える。

 春とは、そういうものだと思っていた。

 ハウンド七の春は違った。

 雪は消えたのではなく、汚れて残っている。

 白かったものは灰色になり、灰色だったものは黒くなり、黒かったものは泥の中へ沈んでいた。格納庫前の水たまりには、曇った空と、三号車の傷だらけの腹が映っている。風は冬より柔らかいのに、灯油と泥と濡れた靴下の匂いが混ざっていて、少しも春らしくない。

 それでも、春だった。

 食堂の窓が開いていたからだ。

 ほんの十センチ。

 それだけで、ハウンド七では季節が変わったことになる。

「閉めていいですか」

 ユウトが言った。

 木の椀を両手で包み、肩をすくめている。

「寒いです」

「春ですよ」

 カナタは答えた。

「春って、寒くないんですか」

「寒い春もあります」

「じゃあ閉めましょう」

「換気中です」

「戦場より食堂の空気が危険という判断ですか」

「靴下の匂いが」

「納得しました」

 ユウトは窓から離れた。

 食堂には湯気があった。

 豆スープの湯気。

 薄い。

 相変わらず薄い。

 けれど、冬の終わりよりは少しだけ量がある。食料車が戻ってきてから、豆は極端に減らなくなった。今日のカナタの椀には三粒入っていた。

 三粒。

 贅沢というほどではない。

 でも、数える価値はある。

「カナタさん、三粒ですか」

 ユウトが目ざとく言った。

「はい」

「貴族」

「その制度、まだ続いてるんですか」

「民意です」

「誰の」

「俺の」

「独裁ですね」

 タクトが隣で静かに笑った。

 腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。

 鳴らない。

 鳴らないことを、もう誰も特別に褒めない。

 それは少し不思議だった。

 最初はみんな、缶が鳴らないことに気づいていた。

 今は、鳴らない前提で動いている。

 誰かの努力が日常になると、褒められなくなる。

 でも、それはたぶん悪いことではない。

 タクトが帰ってきた証拠が、部隊の日常に混ざったということだから。

 食堂の隅には、帰ってきたもの置き場がある。

 古い学校机。

 天板には《帰りたい》という落書き。

 その上に、赤い手袋、白線布の切れ端、泥のついた薬瓶、優勝豆、黒札《なんか嫌》が置かれている。

 見るたびに、カナタは少し変な気分になる。

 戦果ではない。

 勲章でもない。

 ただの物だ。

 でも、そのただの物が、ここでは妙に強い。

 誰かが帰った後の、手触りだけが残っている。

 リゼはその机を拭いていた。

 包帯も、患者服も、もうない。

 制服に、少し大きい軍用コート。

 手首には赤い布。

 顔色は前よりいい。

 声も戻っている。

 ただ、戻ったからといって元通りではない。

 彼女は、もうただの避難民でも、ただの学徒でもなかった。

 赤い布を見る人がいる。

 彼女の声で、止まりかけた列が動くことがある。

 そういう役割が、人を少し変える。

 リゼは机の上の黒札を持ち上げた。

「これ、正式備品になるの?」

「なりません」

 カナタは即答した。

「でも使うよね」

「使います」

「じゃあ正式では」

「非公式です」

「便利な言葉」

「便利にしないと、書類が死にます」

「書類も死ぬんだ」

 リゼは笑った。

 その笑い方が春に似ていた。

 明るいのではない。

 少し泥がついている。

 でも、冬ではなかった。

 その時、食堂の入口が開いた。

 ガレスが入ってきた。

 くたびれたコート。

 火のつかない煙草。

 寝不足の顔。

 いつも通りだった。

 違ったのは、手に紙束を持っていることだ。

「集まれ」

 食堂の音が少し変わった。

 スプーンが止まる。

 椀が置かれる。

 椅子が軋む。

 警報ではない。

 でも、何かが始まる時の音だった。

 ガレスは食堂の中央に立ち、紙束を軽く振った。

「辞令だ」

 ユウトが小さく言った。

「嫌な紙の束ですね」

「紙はだいたい嫌だ」

 ミナが格納庫側の扉から入ってきながら言った。

 頬に油。

 手には工具。

 食堂に工具を持ち込むなという張り紙の下を、当然のように通過する。

「でも紙がないと部品請求できない」

「じゃあ少し好きです」

「現金」

 ガレスは煙草を咥え直した。

 火はついていない。

「本日付で、第七混成機動群内に帰還誘導班が正式編成される」

 食堂が静かになった。

 正式。

 その言葉は妙に硬かった。

 今まで何度も帰還誘導兵と呼ばれてきた。

 避難民にも、他部隊にも、食堂の落書きにも。

 けれど、それは呼び名だった。

 今日は違う。

 紙に書かれる。

 命令系統に入る。

 補給の欄に乗る。

 たぶん、報告書の項目も増える。

 正式になるというのは、便利になることでもあり、逃げにくくなることでもあった。

「班長代理、カナタ・レイヴン」

 ガレスが紙を読む。

 カナタは一瞬、返事が遅れた。

「……はい」

「候補生扱いを解除。正式着任」

 候補生。

 その言葉が、少し遠くなる。

 別に、急に強くなったわけではない。

 何かを悟ったわけでもない。

 手袋は今日も湿っているし、豆を三粒で少し喜ぶし、泥の道を見ると、どこで詰まるか考えてしまう。

 それでも、紙の上では今日から正式だった。

 変な感じだった。

 自分だけが先に書類へ行ってしまい、体が少し遅れている気がする。

 リゼが小さく拍手した。

 一回。

 ぱち。

 ユウトが続ける。

 タクトも。

 ミナも工具を持ったまま、ぱちぱちと叩いた。

「班長代理、おめでとうございます」

 ユウトが言う。

「代理です」

「代理班長」

「余計変です」

「じゃあ代班」

「略さないでください」

「湿った手袋班長」

 リゼが言った。

「やめてください」

「正式名称っぽい」

「ぽくないです」

 少し笑いが起きた。

 その笑いで、紙の硬さが少しだけ薄くなった。

 ガレスは次の紙をめくる。

「追加配属もある」

 食堂の入口に、三人が立っていた。

 いつからいたのか分からない。

 ひとりは背の高い兵士だった。

 大きな盾を背負っている。

 無口そうな顔。

 肩幅が、入口の幅を少し疑わせる。

「ハルク・フォード。前線防衛班より転属。帰還誘導班の護衛担当」

 ハルクは短く頭を下げた。

「ハルクだ。抜かせない」

 自己紹介が短い。

 でも、何をする人かは分かった。

 リゼが小声で言う。

「壁だ」

「人です」

 カナタは訂正した。

「壁っぽい人」

「それなら」

 次は、小柄な少女だった。

 髪を短く切り、通信機材の入った鞄を肩にかけている。軍服は新しいが、袖が少し余っている。

「ヒナセ・アオイ。通信補助。旧教育区設備に詳しい」

「ヒナセです。放送機材と校内配線なら、たぶん少し分かります」

「たぶん?」

 ユウトが反応する。

「学校の機械は、たぶんで動くことが多いので」

「名言っぽい」

「危険な名言ですね」

 最後は、真面目そうな若い兵士だった。

 背筋が伸びている。

 メモ帳を持っている。

 緊張が顔に出すぎていて、むしろ好感が持てる。

「マコト・イシヤ。新任。記録、誘導補助」

「マコト・イシヤです。よろしくお願いします。記録します」

「何を?」

 ミナが訊く。

「必要なことを」

「じゃあ、車への謝罪文化は記録しないで」

「すでに必要そうです」

「燃やすよ」

「何をですか」

「記録」

 マコトは真剣に困った顔をした。

 リゼが笑う。

「大丈夫。ここ、だいたい変だから」

「変、ですか」

「うん。最初に知っておくと楽」

 マコトはメモ帳を開いた。

 カナタは反射で言った。

「今のは書かなくていいです」

「しかし」

「書かなくていいです」

「了解しました」

 新しい人が増える。

 それは、食堂に椅子を足すことに似ていた。

 場所が少し狭くなる。

 けれど、誰かが座れる。

 誰かが話す。

 椀の数が増える。

 靴乾燥棚が足りなくなる。

 面倒も増える。

 たぶん、帰せる人も増える。

 ガレスは紙束を閉じた。

「以上だ。今日から帰還誘導班は正式部隊として動く。お前らの変なやり方も、一部は正式に扱われる」

「一部?」

 ユウトが訊く。

「全部正式にしたら司令部が倒れる」

「弱い」

「司令部は紙に弱い」

 ミナが言った。

「車は泥に弱い」

「人は豆に弱い」

「それはユウトさんだけでは」

 タクトが小さく言った。

「裏切り」

 また少し笑いが起きる。

 春の食堂。

 泥の匂い。

 豆スープ。

 新しい辞令。

 新しい名前。

 古い机。

 帰ってきたもの。

 全部が混ざって、ハウンド七の朝になった。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 食堂の空気が一瞬で変わる。

 笑っていた人間の手が止まる。

 マコトは反射でメモ帳を握った。

 ハルクは盾へ手を伸ばす。

 ヒナセは通信機を押さえる。

 リゼは赤い布に触れる。

 カナタは椀を置いた。

 豆三粒のスープは、まだ半分残っている。

 アイラの声が流れた。

『南東補給路、民間車両列が泥濘で停止』

 ノイズ。

『小型熱源、接近中。護衛要請』

 正式編成の朝は、式典では終わらなかった。

 たぶん、その方がこの部隊らしかった。

 ガレスがカナタを見る。

「班長代理」

「はい」

「初仕事だ」

 カナタは食堂の出口を見た。

 泥の春。

 止まった車両列。

 小型熱源。

 新しい三人。

 見なければならないものが増えた。

 でも、ひとりで全部見る必要はない。

 それを、冬の終わりに学んだ。

「ユウトさん、前方」

「はい!」

「タクトさん、中央」

「はい」

「ミナさん、三号車」

「もう起こしてる!」

「ハルクさん、右側護衛」

「了解」

「ヒナセさん、通信と音声」

「はい」

「マコト、記録は後。今は足元を見てください」

「はい!」

 リゼが赤い布を手首から外した。

「私は?」

 カナタは少しだけ迷った。

 以前なら、戻る場所で待ってください、と言ったかもしれない。

 でも、今のリゼは待つだけの人ではない。

「帰還地点を作ってください」

 リゼは笑った。

「つまり、ここで帰ってこいって言う係」

「はい」

「了解」

 彼女は食堂の柱に赤い布を結んだ。

 それだけで、そこが帰る場所になった。

 カナタは外へ出た。

 春の泥が靴に跳ねる。

 空は低い。

 風は少し湿っている。

 背中では、食堂の湯気がまだ上がっていた。

 正式になったからといって、何かが急に変わるわけではない。

 手袋は湿る。

 車は咳をする。

 豆は少ない。

 道は泥だらけ。

 それでも、今日からは紙の上でも、ここにある。

 帰還誘導班。

 名前のついた、変な部隊。

 カナタは手袋をはめ直した。

 まだ少し湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、また少し湿った。

「悪化した」

 小さく呟く。

 後ろでユウトが笑った。

「正式手袋ですね」

「嫌な正式名称を増やさないでください」

 三号車のエンジンがかかる。

 泥の春へ、帰還誘導班は走り出した。

 戻ってくる人のために。

 まだ冷めていない、豆三粒のスープを食堂に残したまま。

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