帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
春は、もう少し明るいものだと思っていた。
少なくとも、カナタの知っている春はそうだった。
校庭の隅に残った雪が、昼には水になって、放課後には泥になって、誰かの靴下を台無しにする。窓際の席が少しだけ暑くなる。教室の後ろで誰かが眠る。新しい学年の名簿が配られて、知らない名前がいくつか増える。
春とは、そういうものだと思っていた。
ハウンド七の春は違った。
雪は消えたのではなく、汚れて残っている。
白かったものは灰色になり、灰色だったものは黒くなり、黒かったものは泥の中へ沈んでいた。格納庫前の水たまりには、曇った空と、三号車の傷だらけの腹が映っている。風は冬より柔らかいのに、灯油と泥と濡れた靴下の匂いが混ざっていて、少しも春らしくない。
それでも、春だった。
食堂の窓が開いていたからだ。
ほんの十センチ。
それだけで、ハウンド七では季節が変わったことになる。
「閉めていいですか」
ユウトが言った。
木の椀を両手で包み、肩をすくめている。
「寒いです」
「春ですよ」
カナタは答えた。
「春って、寒くないんですか」
「寒い春もあります」
「じゃあ閉めましょう」
「換気中です」
「戦場より食堂の空気が危険という判断ですか」
「靴下の匂いが」
「納得しました」
ユウトは窓から離れた。
食堂には湯気があった。
豆スープの湯気。
薄い。
相変わらず薄い。
けれど、冬の終わりよりは少しだけ量がある。食料車が戻ってきてから、豆は極端に減らなくなった。今日のカナタの椀には三粒入っていた。
三粒。
贅沢というほどではない。
でも、数える価値はある。
「カナタさん、三粒ですか」
ユウトが目ざとく言った。
「はい」
「貴族」
「その制度、まだ続いてるんですか」
「民意です」
「誰の」
「俺の」
「独裁ですね」
タクトが隣で静かに笑った。
腰には、布を巻いた空のオレンジソーダ缶がある。
鳴らない。
鳴らないことを、もう誰も特別に褒めない。
それは少し不思議だった。
最初はみんな、缶が鳴らないことに気づいていた。
今は、鳴らない前提で動いている。
誰かの努力が日常になると、褒められなくなる。
でも、それはたぶん悪いことではない。
タクトが帰ってきた証拠が、部隊の日常に混ざったということだから。
食堂の隅には、帰ってきたもの置き場がある。
古い学校机。
天板には《帰りたい》という落書き。
その上に、赤い手袋、白線布の切れ端、泥のついた薬瓶、優勝豆、黒札《なんか嫌》が置かれている。
見るたびに、カナタは少し変な気分になる。
戦果ではない。
勲章でもない。
ただの物だ。
でも、そのただの物が、ここでは妙に強い。
誰かが帰った後の、手触りだけが残っている。
リゼはその机を拭いていた。
包帯も、患者服も、もうない。
制服に、少し大きい軍用コート。
手首には赤い布。
顔色は前よりいい。
声も戻っている。
ただ、戻ったからといって元通りではない。
彼女は、もうただの避難民でも、ただの学徒でもなかった。
赤い布を見る人がいる。
彼女の声で、止まりかけた列が動くことがある。
そういう役割が、人を少し変える。
リゼは机の上の黒札を持ち上げた。
「これ、正式備品になるの?」
「なりません」
カナタは即答した。
「でも使うよね」
「使います」
「じゃあ正式では」
「非公式です」
「便利な言葉」
「便利にしないと、書類が死にます」
「書類も死ぬんだ」
リゼは笑った。
その笑い方が春に似ていた。
明るいのではない。
少し泥がついている。
でも、冬ではなかった。
その時、食堂の入口が開いた。
ガレスが入ってきた。
くたびれたコート。
火のつかない煙草。
寝不足の顔。
いつも通りだった。
違ったのは、手に紙束を持っていることだ。
「集まれ」
食堂の音が少し変わった。
スプーンが止まる。
椀が置かれる。
椅子が軋む。
警報ではない。
でも、何かが始まる時の音だった。
ガレスは食堂の中央に立ち、紙束を軽く振った。
「辞令だ」
ユウトが小さく言った。
「嫌な紙の束ですね」
「紙はだいたい嫌だ」
ミナが格納庫側の扉から入ってきながら言った。
頬に油。
手には工具。
食堂に工具を持ち込むなという張り紙の下を、当然のように通過する。
「でも紙がないと部品請求できない」
「じゃあ少し好きです」
「現金」
ガレスは煙草を咥え直した。
火はついていない。
「本日付で、第七混成機動群内に帰還誘導班が正式編成される」
食堂が静かになった。
正式。
その言葉は妙に硬かった。
今まで何度も帰還誘導兵と呼ばれてきた。
避難民にも、他部隊にも、食堂の落書きにも。
けれど、それは呼び名だった。
今日は違う。
紙に書かれる。
命令系統に入る。
補給の欄に乗る。
たぶん、報告書の項目も増える。
正式になるというのは、便利になることでもあり、逃げにくくなることでもあった。
「班長代理、カナタ・レイヴン」
ガレスが紙を読む。
カナタは一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
「候補生扱いを解除。正式着任」
候補生。
その言葉が、少し遠くなる。
別に、急に強くなったわけではない。
何かを悟ったわけでもない。
手袋は今日も湿っているし、豆を三粒で少し喜ぶし、泥の道を見ると、どこで詰まるか考えてしまう。
それでも、紙の上では今日から正式だった。
変な感じだった。
自分だけが先に書類へ行ってしまい、体が少し遅れている気がする。
リゼが小さく拍手した。
一回。
ぱち。
ユウトが続ける。
タクトも。
ミナも工具を持ったまま、ぱちぱちと叩いた。
「班長代理、おめでとうございます」
ユウトが言う。
「代理です」
「代理班長」
「余計変です」
「じゃあ代班」
「略さないでください」
「湿った手袋班長」
リゼが言った。
「やめてください」
「正式名称っぽい」
「ぽくないです」
少し笑いが起きた。
その笑いで、紙の硬さが少しだけ薄くなった。
ガレスは次の紙をめくる。
「追加配属もある」
食堂の入口に、三人が立っていた。
いつからいたのか分からない。
ひとりは背の高い兵士だった。
大きな盾を背負っている。
無口そうな顔。
肩幅が、入口の幅を少し疑わせる。
「ハルク・フォード。前線防衛班より転属。帰還誘導班の護衛担当」
ハルクは短く頭を下げた。
「ハルクだ。抜かせない」
自己紹介が短い。
でも、何をする人かは分かった。
リゼが小声で言う。
「壁だ」
「人です」
カナタは訂正した。
「壁っぽい人」
「それなら」
次は、小柄な少女だった。
髪を短く切り、通信機材の入った鞄を肩にかけている。軍服は新しいが、袖が少し余っている。
「ヒナセ・アオイ。通信補助。旧教育区設備に詳しい」
「ヒナセです。放送機材と校内配線なら、たぶん少し分かります」
「たぶん?」
ユウトが反応する。
「学校の機械は、たぶんで動くことが多いので」
「名言っぽい」
「危険な名言ですね」
最後は、真面目そうな若い兵士だった。
背筋が伸びている。
メモ帳を持っている。
緊張が顔に出すぎていて、むしろ好感が持てる。
「マコト・イシヤ。新任。記録、誘導補助」
「マコト・イシヤです。よろしくお願いします。記録します」
「何を?」
ミナが訊く。
「必要なことを」
「じゃあ、車への謝罪文化は記録しないで」
「すでに必要そうです」
「燃やすよ」
「何をですか」
「記録」
マコトは真剣に困った顔をした。
リゼが笑う。
「大丈夫。ここ、だいたい変だから」
「変、ですか」
「うん。最初に知っておくと楽」
マコトはメモ帳を開いた。
カナタは反射で言った。
「今のは書かなくていいです」
「しかし」
「書かなくていいです」
「了解しました」
新しい人が増える。
それは、食堂に椅子を足すことに似ていた。
場所が少し狭くなる。
けれど、誰かが座れる。
誰かが話す。
椀の数が増える。
靴乾燥棚が足りなくなる。
面倒も増える。
たぶん、帰せる人も増える。
ガレスは紙束を閉じた。
「以上だ。今日から帰還誘導班は正式部隊として動く。お前らの変なやり方も、一部は正式に扱われる」
「一部?」
ユウトが訊く。
「全部正式にしたら司令部が倒れる」
「弱い」
「司令部は紙に弱い」
ミナが言った。
「車は泥に弱い」
「人は豆に弱い」
「それはユウトさんだけでは」
タクトが小さく言った。
「裏切り」
また少し笑いが起きる。
春の食堂。
泥の匂い。
豆スープ。
新しい辞令。
新しい名前。
古い机。
帰ってきたもの。
全部が混ざって、ハウンド七の朝になった。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
食堂の空気が一瞬で変わる。
笑っていた人間の手が止まる。
マコトは反射でメモ帳を握った。
ハルクは盾へ手を伸ばす。
ヒナセは通信機を押さえる。
リゼは赤い布に触れる。
カナタは椀を置いた。
豆三粒のスープは、まだ半分残っている。
アイラの声が流れた。
『南東補給路、民間車両列が泥濘で停止』
ノイズ。
『小型熱源、接近中。護衛要請』
正式編成の朝は、式典では終わらなかった。
たぶん、その方がこの部隊らしかった。
ガレスがカナタを見る。
「班長代理」
「はい」
「初仕事だ」
カナタは食堂の出口を見た。
泥の春。
止まった車両列。
小型熱源。
新しい三人。
見なければならないものが増えた。
でも、ひとりで全部見る必要はない。
それを、冬の終わりに学んだ。
「ユウトさん、前方」
「はい!」
「タクトさん、中央」
「はい」
「ミナさん、三号車」
「もう起こしてる!」
「ハルクさん、右側護衛」
「了解」
「ヒナセさん、通信と音声」
「はい」
「マコト、記録は後。今は足元を見てください」
「はい!」
リゼが赤い布を手首から外した。
「私は?」
カナタは少しだけ迷った。
以前なら、戻る場所で待ってください、と言ったかもしれない。
でも、今のリゼは待つだけの人ではない。
「帰還地点を作ってください」
リゼは笑った。
「つまり、ここで帰ってこいって言う係」
「はい」
「了解」
彼女は食堂の柱に赤い布を結んだ。
それだけで、そこが帰る場所になった。
カナタは外へ出た。
春の泥が靴に跳ねる。
空は低い。
風は少し湿っている。
背中では、食堂の湯気がまだ上がっていた。
正式になったからといって、何かが急に変わるわけではない。
手袋は湿る。
車は咳をする。
豆は少ない。
道は泥だらけ。
それでも、今日からは紙の上でも、ここにある。
帰還誘導班。
名前のついた、変な部隊。
カナタは手袋をはめ直した。
まだ少し湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、また少し湿った。
「悪化した」
小さく呟く。
後ろでユウトが笑った。
「正式手袋ですね」
「嫌な正式名称を増やさないでください」
三号車のエンジンがかかる。
泥の春へ、帰還誘導班は走り出した。
戻ってくる人のために。
まだ冷めていない、豆三粒のスープを食堂に残したまま。