帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
基地を出る時、誰も振り返らなかった。
そう見えた。
本当は、みんな振り返りたかったのだと思う。
車庫の壁。
食堂の曇った窓。
灯油臭い廊下。
一ヶ月前の献立表。
雪で半分埋まった弾薬箱。
戻るつもりで置いた私物。
そういうものを、最後に一度くらい見たかったはずだった。
でも、振り返ると足が止まる。
足が止まると、後ろから黒いものが来る。
だから誰も振り返らない。
輸送車の列は南門へ向かっていた。
エンジン音が重なって、基地全体が大きな動物の腹の中みたいに震えている。排気の白い煙が雪と混じり、灯油とオイルと焦げたゴムの匂いが鼻の奥に張りついた。ときどき、医療棟から運ばれてくる担架の布が風でめくれて、血の匂いがそこに混ざった。
その匂いは、温かかった。
温かいのに、寒かった。
「三号車、前へ」
ガレスの声が飛ぶ。
「詰めすぎるな。詰めたら死ぬぞ」
「詰めなくても死にそうなんですけど」
「じゃあ死に方を選べ」
「選択肢が終わってる」
ユウトが弾薬箱を抱えながらぼやいた。
いつもより声が小さい。
たぶん、自分の声が震えているのを聞きたくないのだ。
カナタは南門の横に立って、車列を見ていた。
見ているというより、数えていた。
一号車。
二号車。
三号車。
負傷兵搬送車。
燃料車。
民間人を乗せた古いバス。
バス。
そのバスだけ、妙に現実から浮いていた。
側面には古い観光地の広告が残っている。
湖。
夏祭り。
浴衣姿の女の子。
雪と排気煙と血の匂いの中で、それだけが季節を間違えていた。
カナタは少しだけ目を逸らした。
見ていると、嫌な気分になった。
こんなところにも、普通だった時間があったのだと分かってしまうからだ。
「候補生」
セナが来た。
担架の端を持っている。
反対側はユウトが持っていた。
担架の上の兵士は目を閉じている。
眠っているように見える。
そう見えるだけだった。
「搬送車、もういっぱい」
「……あと何人ですか」
「重傷二人。歩けないのが四人」
カナタは搬送車を見る。
中はすでにいっぱいだった。
床にも人が寝かされている。
誰かの足が扉からはみ出していて、セナがそれを無言で押し戻した。
「三号車に乗せます」
「三号車は弾薬」
「弾薬を降ろします」
「全部?」
「半分」
セナはカナタを見た。
怒っている。
でも、その怒りはカナタに向いているのか、戦争に向いているのか、セナ自身にも分かっていないようだった。
「半分で足りる?」
「分かりません」
「分からないのに降ろすの」
「乗せないと、ここに残ります」
「……」
「弾薬は歩けません」
言ってから、かなり嫌な言い方だったと思った。
セナも少しだけ目を細めた。
「人間も、歩けない時あるよ」
「はい」
「覚えてて」
「……はい」
セナは担架を運んでいった。
ユウトがこっちをちらっと見た。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
言わないことが増えていく。
たぶん撤退というのは、荷物だけじゃなく、言葉も置いていくのだと思った。
北門の方で銃声が続いている。
最初は短かった。
点みたいな音。
今は線になっている。
途切れない。
レイスが基地外縁へ取りついているのだろう。
見なくても分かる。
見たくないのに、頭の中では勝手に見えてしまう。
雪の上を滑る黒い影。
細い腕。
銃弾に倒れても、後ろから別の影が出てくる。
誰かが叫ぶ。
誰かが止まる。
止まった人間の後ろから、次の影が来る。
「カナタ」
ミナが三号車の荷台から顔を出した。
「弾薬、ほんとに降ろす?」
「半分だけ」
「半分って嫌な言葉だよね」
「そうですね」
「全部持っていけない時にだけ使う」
ミナは箱を一つ持ち上げた。
重そうだった。
でも彼女はそれを雪の上に降ろした。
どさっ、という音。
弾薬箱は雪に少し沈んだ。
それは、置いていかれるものの音だった。
「ごめんね」
ミナが小さく言った。
弾薬箱に。
カナタは聞こえなかったふりをした。
南門の外には、細い道路が続いている。
除雪車が戻らなかった道。
轍はもうほとんど消えていた。
でも、道はまだある。
雪の下に、ぎりぎり残っている。
カナタはその白い道を見ていた。
見ていると、胸の奥が変なふうに冷える。
道というのは不思議だ。
ある時はただの線なのに、なくなりそうになると急に命綱みたいな顔をする。
そこを通れるかどうかで、生きている人間の数が変わる。
道は何も言わない。
でも人を選ぶ。
「学生」
ガレスが隣に立った。
「最後尾、誰にする」
「……第七ですか」
「他にやる奴いるか」
いない。
誰もやりたがらない。
最後尾という言葉には、最初から死の匂いがついている。
でも、最後尾がない列は崩れる。
人間は、後ろがあるから前へ進める。
「俺が残ります」
「却下」
「まだ何も」
「候補生が格好つける場面じゃねぇ」
「格好つけてません」
「ならもっと悪い。死ぬ気で言ってる」
ガレスは火のつかない煙草を噛んだ。
「最後尾は、死ぬ役じゃねぇ」
「……」
「最後に帰る役だ」
その言葉は、雪の中ではあまり響かなかった。
でも、カナタの中には残った。
残ってしまった。
基地放送が鳴った。
『各隊、現位置を維持』
ノイズ。
『繰り返す。現位置を――』
そこでまた途切れる。
誰も聞いていなかった。
聞こえてはいた。
でも、聞いていなかった。
全員が車両を動かしている。
負傷兵を乗せている。
民間人を南門へ誘導している。
命令はまだ基地にいる。
人間だけが先に動き出していた。
その時、北の空が赤く光った。
爆発。
かなり大きい。
数秒遅れて衝撃が来た。
雪が屋根から落ちる。
誰かが悲鳴を上げた。
バスの中の子供が泣き出した。
その泣き声で、基地が一瞬だけ人間に戻った。
兵士も、整備兵も、衛生兵も、みんな一瞬だけそちらを見る。
泣き声は、戦場のどんな警報よりも早く人を振り向かせる。
「南門、開けろ!」
ガレスが叫んだ。
門が開く。
冷たい風が入ってくる。
基地の中の灯油臭い空気が、外へ流れた。
外の雪の匂いが、内側へ入ってきた。
それだけで、もう戻れない気がした。
一号車が動き出す。
二号車。
三号車。
古いバス。
負傷兵搬送車。
カナタは数え続ける。
数えることしかできない。
数字にすると人間は重くなる。
でも、数えないと失う。
「カナタ候補生!」
ユウトが走ってきた。
顔が青い。
「北門側、抜かれたって!」
「距離は」
「分かんないです!」
「見えた?」
「見えました」
「何が」
ユウトは一瞬だけ黙った。
「……黒いのが、壁を越えて」
それ以上言えなかった。
言わなくてよかった。
カナタは南門を見る。
まだ車両が残っている。
燃料車。
最後尾の護衛車。
それから、医療棟からまだ担架が出てくる。
遅い。
全部が遅い。
でも、人間を運ぶ動きは遅いものだ。
荷物みたいには積めない。
銃弾みたいには撃ち出せない。
一人ずつ、名前のある重さで動く。
「副長」
「おう」
「北門から南門まで、何分ですか」
「レイスなら三分」
「残りは」
「五分」
「足りません」
「だろうな」
ガレスは北側を見た。
顔は変わらない。
でも、煙草を噛む力が少し強くなった。
「学生」
「はい」
「橋まで行ったら、南側道路は一本だ」
「はい」
「ここで詰まると全員終わる」
「分かってます」
「分かってんなら、先に行け」
カナタはすぐ答えられなかった。
「最後尾は」
「俺らがやる」
「でも」
「候補生」
ガレスは珍しく、階級のような呼び方をした。
「後ろを見る奴が、後ろに残りすぎるな」
意味が分かるようで、分からなかった。
分からないまま、胸に刺さった。
その時、北門側から叫び声が上がった。
「来た!」
銃声。
機銃音。
レイスの鳴き声。
その鳴き声は、金属を爪で引っかく音に似ていた。
嫌な音だった。
人間の耳に残るようにできているみたいだった。
「最後尾、展開!」
ガレスが叫ぶ。
第七混成機動群の兵士たちが動く。
誰も格好よくない。
足はもつれる。
銃を構える手は震える。
誰かが悪態をつく。
それでも、全員が北を向いた。
前ではなく。
後ろを向いた。
南門の外へ車列が流れていく。
白い道へ。
消えかけた轍の上へ。
カナタは一度だけ基地を振り返った。
食堂の窓が見えた。
曇っている。
その向こうに、一ヶ月前の献立表がぼんやり見えた。
薄い豆のスープ。
乾パン。
よく分からない肉の缶詰。
それが急に、ひどく遠いものに見えた。
「カナタ!」
セナの声。
カナタは走った。
南門へ。
帰る列へ。
背中では、基地が戦場になっていた。
でも、まだ。
まだ、道は残っていた。