帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第三話 南門

 基地を出る時、誰も振り返らなかった。

 そう見えた。

 本当は、みんな振り返りたかったのだと思う。

 車庫の壁。

 食堂の曇った窓。

 灯油臭い廊下。

 一ヶ月前の献立表。

 雪で半分埋まった弾薬箱。

 戻るつもりで置いた私物。

 そういうものを、最後に一度くらい見たかったはずだった。

 でも、振り返ると足が止まる。

 足が止まると、後ろから黒いものが来る。

 だから誰も振り返らない。

 輸送車の列は南門へ向かっていた。

 エンジン音が重なって、基地全体が大きな動物の腹の中みたいに震えている。排気の白い煙が雪と混じり、灯油とオイルと焦げたゴムの匂いが鼻の奥に張りついた。ときどき、医療棟から運ばれてくる担架の布が風でめくれて、血の匂いがそこに混ざった。

 その匂いは、温かかった。

 温かいのに、寒かった。

「三号車、前へ」

 ガレスの声が飛ぶ。

「詰めすぎるな。詰めたら死ぬぞ」

「詰めなくても死にそうなんですけど」

「じゃあ死に方を選べ」

「選択肢が終わってる」

 ユウトが弾薬箱を抱えながらぼやいた。

 いつもより声が小さい。

 たぶん、自分の声が震えているのを聞きたくないのだ。

 カナタは南門の横に立って、車列を見ていた。

 見ているというより、数えていた。

 一号車。

 二号車。

 三号車。

 負傷兵搬送車。

 燃料車。

 民間人を乗せた古いバス。

 バス。

 そのバスだけ、妙に現実から浮いていた。

 側面には古い観光地の広告が残っている。

 湖。

 夏祭り。

 浴衣姿の女の子。

 雪と排気煙と血の匂いの中で、それだけが季節を間違えていた。

 カナタは少しだけ目を逸らした。

 見ていると、嫌な気分になった。

 こんなところにも、普通だった時間があったのだと分かってしまうからだ。

「候補生」

 セナが来た。

 担架の端を持っている。

 反対側はユウトが持っていた。

 担架の上の兵士は目を閉じている。

 眠っているように見える。

 そう見えるだけだった。

「搬送車、もういっぱい」

「……あと何人ですか」

「重傷二人。歩けないのが四人」

 カナタは搬送車を見る。

 中はすでにいっぱいだった。

 床にも人が寝かされている。

 誰かの足が扉からはみ出していて、セナがそれを無言で押し戻した。

「三号車に乗せます」

「三号車は弾薬」

「弾薬を降ろします」

「全部?」

「半分」

 セナはカナタを見た。

 怒っている。

 でも、その怒りはカナタに向いているのか、戦争に向いているのか、セナ自身にも分かっていないようだった。

「半分で足りる?」

「分かりません」

「分からないのに降ろすの」

「乗せないと、ここに残ります」

「……」

「弾薬は歩けません」

 言ってから、かなり嫌な言い方だったと思った。

 セナも少しだけ目を細めた。

「人間も、歩けない時あるよ」

「はい」

「覚えてて」

「……はい」

 セナは担架を運んでいった。

 ユウトがこっちをちらっと見た。

 何か言いたそうだったが、言わなかった。

 言わないことが増えていく。

 たぶん撤退というのは、荷物だけじゃなく、言葉も置いていくのだと思った。

 北門の方で銃声が続いている。

 最初は短かった。

 点みたいな音。

 今は線になっている。

 途切れない。

 レイスが基地外縁へ取りついているのだろう。

 見なくても分かる。

 見たくないのに、頭の中では勝手に見えてしまう。

 雪の上を滑る黒い影。

 細い腕。

 銃弾に倒れても、後ろから別の影が出てくる。

 誰かが叫ぶ。

 誰かが止まる。

 止まった人間の後ろから、次の影が来る。

「カナタ」

 ミナが三号車の荷台から顔を出した。

「弾薬、ほんとに降ろす?」

「半分だけ」

「半分って嫌な言葉だよね」

「そうですね」

「全部持っていけない時にだけ使う」

 ミナは箱を一つ持ち上げた。

 重そうだった。

 でも彼女はそれを雪の上に降ろした。

 どさっ、という音。

 弾薬箱は雪に少し沈んだ。

 それは、置いていかれるものの音だった。

「ごめんね」

 ミナが小さく言った。

 弾薬箱に。

 カナタは聞こえなかったふりをした。

 南門の外には、細い道路が続いている。

 除雪車が戻らなかった道。

 轍はもうほとんど消えていた。

 でも、道はまだある。

 雪の下に、ぎりぎり残っている。

 カナタはその白い道を見ていた。

 見ていると、胸の奥が変なふうに冷える。

 道というのは不思議だ。

 ある時はただの線なのに、なくなりそうになると急に命綱みたいな顔をする。

 そこを通れるかどうかで、生きている人間の数が変わる。

 道は何も言わない。

 でも人を選ぶ。

「学生」

 ガレスが隣に立った。

「最後尾、誰にする」

「……第七ですか」

「他にやる奴いるか」

 いない。

 誰もやりたがらない。

 最後尾という言葉には、最初から死の匂いがついている。

 でも、最後尾がない列は崩れる。

 人間は、後ろがあるから前へ進める。

「俺が残ります」

「却下」

「まだ何も」

「候補生が格好つける場面じゃねぇ」

「格好つけてません」

「ならもっと悪い。死ぬ気で言ってる」

 ガレスは火のつかない煙草を噛んだ。

「最後尾は、死ぬ役じゃねぇ」

「……」

「最後に帰る役だ」

 その言葉は、雪の中ではあまり響かなかった。

 でも、カナタの中には残った。

 残ってしまった。

 基地放送が鳴った。

『各隊、現位置を維持』

 ノイズ。

『繰り返す。現位置を――』

 そこでまた途切れる。

 誰も聞いていなかった。

 聞こえてはいた。

 でも、聞いていなかった。

 全員が車両を動かしている。

 負傷兵を乗せている。

 民間人を南門へ誘導している。

 命令はまだ基地にいる。

 人間だけが先に動き出していた。

 その時、北の空が赤く光った。

 爆発。

 かなり大きい。

 数秒遅れて衝撃が来た。

 雪が屋根から落ちる。

 誰かが悲鳴を上げた。

 バスの中の子供が泣き出した。

 その泣き声で、基地が一瞬だけ人間に戻った。

 兵士も、整備兵も、衛生兵も、みんな一瞬だけそちらを見る。

 泣き声は、戦場のどんな警報よりも早く人を振り向かせる。

「南門、開けろ!」

 ガレスが叫んだ。

 門が開く。

 冷たい風が入ってくる。

 基地の中の灯油臭い空気が、外へ流れた。

 外の雪の匂いが、内側へ入ってきた。

 それだけで、もう戻れない気がした。

 一号車が動き出す。

 二号車。

 三号車。

 古いバス。

 負傷兵搬送車。

 カナタは数え続ける。

 数えることしかできない。

 数字にすると人間は重くなる。

 でも、数えないと失う。

「カナタ候補生!」

 ユウトが走ってきた。

 顔が青い。

「北門側、抜かれたって!」

「距離は」

「分かんないです!」

「見えた?」

「見えました」

「何が」

 ユウトは一瞬だけ黙った。

「……黒いのが、壁を越えて」

 それ以上言えなかった。

 言わなくてよかった。

 カナタは南門を見る。

 まだ車両が残っている。

 燃料車。

 最後尾の護衛車。

 それから、医療棟からまだ担架が出てくる。

 遅い。

 全部が遅い。

 でも、人間を運ぶ動きは遅いものだ。

 荷物みたいには積めない。

 銃弾みたいには撃ち出せない。

 一人ずつ、名前のある重さで動く。

「副長」

「おう」

「北門から南門まで、何分ですか」

「レイスなら三分」

「残りは」

「五分」

「足りません」

「だろうな」

 ガレスは北側を見た。

 顔は変わらない。

 でも、煙草を噛む力が少し強くなった。

「学生」

「はい」

「橋まで行ったら、南側道路は一本だ」

「はい」

「ここで詰まると全員終わる」

「分かってます」

「分かってんなら、先に行け」

 カナタはすぐ答えられなかった。

「最後尾は」

「俺らがやる」

「でも」

「候補生」

 ガレスは珍しく、階級のような呼び方をした。

「後ろを見る奴が、後ろに残りすぎるな」

 意味が分かるようで、分からなかった。

 分からないまま、胸に刺さった。

 その時、北門側から叫び声が上がった。

「来た!」

 銃声。

 機銃音。

 レイスの鳴き声。

 その鳴き声は、金属を爪で引っかく音に似ていた。

 嫌な音だった。

 人間の耳に残るようにできているみたいだった。

「最後尾、展開!」

 ガレスが叫ぶ。

 第七混成機動群の兵士たちが動く。

 誰も格好よくない。

 足はもつれる。

 銃を構える手は震える。

 誰かが悪態をつく。

 それでも、全員が北を向いた。

 前ではなく。

 後ろを向いた。

 南門の外へ車列が流れていく。

 白い道へ。

 消えかけた轍の上へ。

 カナタは一度だけ基地を振り返った。

 食堂の窓が見えた。

 曇っている。

 その向こうに、一ヶ月前の献立表がぼんやり見えた。

 薄い豆のスープ。

 乾パン。

 よく分からない肉の缶詰。

 それが急に、ひどく遠いものに見えた。

「カナタ!」

 セナの声。

 カナタは走った。

 南門へ。

 帰る列へ。

 背中では、基地が戦場になっていた。

 でも、まだ。

 まだ、道は残っていた。

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