帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
新人教育は、食堂の裏で行われた。
教室ではない。
机もない。
黒板もない。
あるのは、泥と、半分乾いた雪と、三号車の横腹と、昨日からそこに置きっぱなしになっている空の燃料缶だった。燃料缶は風で少しだけ揺れて、かん、と小さな音を立てる。そのたびにタクトがちらっと見る。
音に反応する体になっている。
そういうことを、カナタは最近、見ただけで分かるようになっていた。
分かるようになりたかったわけではない。
でも、分かってしまう。
春のハウンド七は、学校と倉庫と壊れた駅を混ぜたような場所になっていた。
食堂の窓には結露が残っている。
格納庫ではミナが三号車に小言を言っている。
医療棟からはセナの怒鳴り声が飛んでくる。
通信塔は低い雲の下で、少しだけ湿った旗みたいに立っていた。
そして食堂裏には、帰還誘導班の新人三人が並んでいる。
ハルク・フォード。
大きい。
それだけで説明の七割くらいが済む。
盾を背負った姿は、壁が移動を覚えたみたいだった。
ヒナセ・アオイ。
小柄で、通信機材の鞄を肩にかけている。軍服の袖が少し余っているが、手元だけは落ち着いている。古い機械を見る時の目が、ミナが車を見る時に少し似ていた。
マコト・イシヤ。
背筋が伸びすぎている。
メモ帳を持っている。
緊張していることを隠す気がない顔だった。
たぶん隠せないのだ。
「では、新人教育を始めます」
カナタは言った。
言ってから、自分の声が少し硬いと思った。
教育。
教える。
自分が。
候補生だった頃の自分が聞いたら、たぶん変な顔をする。
今の自分も少し変な顔をしている気がする。
「先生」
リゼが食堂の窓から言った。
窓は十センチ開いている。
昨日より春だった。
「先生ではありません」
「じゃあ教官」
「それも違います」
「じゃあ湿った手袋先生」
「やめてください」
ユウトが後ろで吹き出した。
タクトも少し笑った。
マコトは真面目にメモ帳を開いた。
「湿った手袋先生、記録しますか」
「しないでください」
「了解しました」
最初の教育は、白線だった。
白い布を地面へ置く。
ただそれだけだ。
ただそれだけのことを、カナタたちは何度も命綱みたいに使ってきた。
吹雪の日。
ハウラーの音。
赤い布。
最後尾。
腰に結んだ白布。
思い出そうとしなくても、手袋の内側が少し冷える。
カナタは古い白布を持ち上げた。
泥で汚れている。
ところどころ擦り切れている。
元は白かった。
今は、白だったことを覚えている布、という感じだった。
「これは目印です」
カナタは言った。
「でも、線だけでは人は帰れません」
マコトがすぐメモを取る。
線だけでは帰れない。
字面だけ見ると、少し詩みたいで嫌だった。
「白線は、見る人がいて初めて線になります。布を置く人。布を見る人。布の先で待つ人。布から外れた人に気づく人」
カナタは布を泥の上に伸ばした。
白と泥の境目が、すぐに汚れる。
「だから、白線設置は一人の仕事ではありません」
「班で見る」
マコトが言った。
「はい」
「記録します」
「それはしてください」
ハルクが白布を見下ろす。
「敵は線を壊すか」
「壊す時もあります」
「人を狙う時もある」
「はい」
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
昨日の初仕事。
小型熱源。
泥で止まった民間車両列。
ハルクが初めて帰還誘導班の横に立った日。
レイスは列の端ではなく、人を見ていた。
止まりそうな人。
支えている人。
声を出している人。
列は線だ。
でも、レイスは線の中の柔らかい場所を覚え始めている。
それを口にすると、春の風が少し冷えた。
ユウトが手を上げた。
「先生」
「だから違います」
「質問です。白線が泥で見えない時は?」
「赤を足します」
リゼが窓の中から赤い布を振った。
「このように」
「教材が窓から出てきた」
ヒナセが小さく笑う。
「赤は目立ちます。ですが、赤だけだと人が一点を見ます。線としては弱くなる」
カナタは赤い布を白布の途中へ結ぶ。
「だから、点と線を分けます。白線は進む方向。赤は戻る場所や合流点」
「点と線」
マコトが呟く。
「はい」
「かなり分かりやすいです」
「よかったです」
マコトは真面目に頷いた。
真面目すぎて、カナタは少し不安になる。
真面目な人間は、時々、自分の失敗も真面目に抱え込む。
そういう人は、列の中で急に重くなる。
まだ会ったばかりなのに、そんなことまで考えている自分が少し嫌だった。
次の教育は、荷物だった。
食堂裏に古い机を置き、その上にいろいろ並べる。
薬箱。
水筒。
毛布。
写真立て。
缶詰。
赤い手袋。
壊れたラジカセ。
靴下。
なぜか豆一粒。
「最後のは?」
ヒナセが訊いた。
「ユウトさんです」
カナタは答えた。
「教材です」
ユウトが胸を張る。
「食料の象徴」
「食べないでください」
「食べませんよ。さすがに教材は食べない」
「教材じゃなければ?」
「状況によります」
セナがどこからか現れた。
「食べるな」
「今、いませんでしたよね」
「聞こえた」
「怖い」
荷物一つ。
それがルールだった。
けれど、ルールだけでは足りない。
薬箱は必要だ。
水筒も必要だ。
写真も必要なことがある。
毛布は命になる。
靴下は、春の泥ではかなり強い。
壊れたラジカセは役に立たない。
でも、それを持っていないと歩けない人もいる。
「荷物は重さではなく、止まる理由で見ます」
カナタは言った。
「止まる理由」
マコトが繰り返す。
「はい。その荷物のせいで手が塞がるか。転んだ時に離せるか。置けと言ったら、その人が止まるか」
「置けと言ったら止まる」
「あります」
タクトが静かに言った。
腰の缶に触れている。
誰も何も言わなかった。
タクトは続けた。
「持ってるから歩けるものもあります」
短い。
でも、十分だった。
ハルクは机の上の物を見る。
「持たせるべき物と、持たせていい物が違う」
「はい」
「持たせてはいけない物もある」
「あります」
リゼが窓から顔を出す。
「あと、ポケットに入るなら勝ち」
「勝ち?」
ヒナセが訊く。
「写真は額ごと持つと負けるけど、写真だけなら勝ち」
「なるほど」
マコトがメモする。
写真だけなら勝ち。
それは記録していいのかとカナタは少し迷ったが、止めなかった。
たぶん、いい。
現場では、正確すぎる言葉より、少し変な言葉の方が届くことがある。
靴が負ける。
写真だけなら勝ち。
そういう言葉は、硬い命令より、人の手を動かす。
午前の最後は、列だった。
泥の上に線を引く。
先頭。
中央。
最後尾。
歩ける人。
歩けない人。
歩けると言い張る人。
カナタが丸を描くと、リゼが窓から言った。
「私のこと見た?」
「教材として」
「やっぱ見た」
「大丈夫と言う人ほど大丈夫ではない」
セナが横から言う。
全員が少し目を逸らした。
新人三人も含めて。
「全員、心当たりがある顔」
セナは言った。
「人類に刺さる」
ユウトが呟く。
「刺さっとけ」
セナの言葉は短い。
短いので、刺さる。
カナタは泥の上に、中央の丸を大きく描いた。
「中央は、地味です。でも一番崩れます」
「なぜですか」
マコトが訊く。
「前を見すぎる人と、後ろを気にする人が混ざるからです。荷物も、子供も、歩けない人も、だいたい中央に集まります」
「中央を見れば、列が見える」
タクトが言った。
「はい」
カナタは頷く。
「ただし、全部見ようとすると見えません」
マコトのペンが止まる。
「全部見ない」
「はい」
「でも、見落とすと」
「事故になります」
自分で言って、カナタは少しだけ胸が冷えた。
まだ起きていない事故の話をしているはずなのに、もうどこかで見たことがあるような気がした。
春の泥。
排水溝。
子供の足。
薬瓶。
それはこの時点では、まだ未来だった。
未来なのに、泥の匂いだけが先に来ている。
「全部見ない。でも、見える場所を分ける」
カナタは続けた。
「先頭。中央。最後尾。足元。音。車両。医療。通信。分けます」
ヒナセが頷く。
「声も分けられます」
「はい」
「拡声器、放送、手信号」
「使えるものは使います」
「学校のチャイムも?」
リゼが言った。
カナタは窓を見る。
リゼは軽い顔をしていた。
でも、旧学校区の話が出ると、その軽さの後ろに何かが見える。
まだ帰っていない場所。
放送室。
声。
「使えるなら」
カナタは答えた。
「ふうん」
リゼは赤い布を指で巻いた。
「じゃあ、そのうち行こう」
軽く言った。
軽く言ったのに、食堂裏の空気に小さな杭が打たれたみたいだった。
午後、実地訓練が行われた。
避難民役はユウト、タクト、リゼ、ミナ、なぜかセナ。
新人三人が誘導する。
カナタは見る側。
ガレスは少し離れた場所で煙草を咥えている。
火はついていない。
「始め」
ガレスが言った。
ユウトがいきなり荷物を三つ持った。
「家宝です」
「一つまでです」
マコトが即答する。
「全部大事です」
「ポケットに入るものは抜いてください」
「やるな」
リゼが感心する。
ユウトは荷物から豆を一粒抜いた。
「これだけ持ちます」
「それは置いてください」
「なぜ」
「食べそうなので」
「信用がない」
ヒナセは後方から拡声器を使う。
『泥の深い場所は、靴が負けます。白線の内側へ』
リゼが拍手した。
「いい」
ハルクは右側に立つ。
何も喋らない。
ただ立っている。
それだけで、右側へ流れそうな列が戻る。
壁があると、人はそちらへ行かない。
ハルクは本当に壁として優秀だった。
タクトは避難民役なのに、中央を直そうとしてしまう。
「役に入ってください」
カナタが言う。
「すみません」
「職業病ですね」
ユウトが言った。
「まだ職業になったばかりですけど」
「新鮮な職業病」
訓練は妙にうまくいった。
うまくいきすぎて、少し怖いくらいだった。
泥。
白線。
赤い布。
荷物。
声。
新人三人は、それぞれの場所を見ている。
カナタ一人ではない。
それが分かると、肩の力が少し抜けた。
抜けた瞬間、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
訓練の空気が消える。
誰も冗談を言わない。
アイラの声が流れる。
『南東補給路、民間車両列、再停止』
ノイズ。
『泥濘拡大。小型熱源、接近中』
昨日の初仕事の続きみたいな場所だった。
春の泥は、一度では終わらない。
カナタは白布を持ち上げた。
泥で汚れた布。
さっきまで教材だったものが、急に命綱になる。
「実地です」
リゼが窓から言った。
「嫌な言い方ですね」
「でも、そうでしょ」
「はい」
カナタは新人三人を見た。
ハルクは盾を背負う。
ヒナセは通信機を確認する。
マコトはメモ帳をしまい、足元を見る。
ちゃんと、しまった。
それでいい。
「行きます」
カナタは言った。
「今日やった通りに。全部見ないでください。自分の場所を見てください」
マコトが頷く。
「はい」
ヒナセも。
「声、分けます」
ハルクは短く言う。
「抜かせない」
ユウトが笑った。
「頼もしい壁」
「人です」
カナタとリゼの声が重なった。
少しだけ笑いが起きた。
笑いはすぐ、三号車のエンジン音に飲まれた。
食堂の湯気が背中に残る。
春の泥の匂いが前から来る。
新人教育は、午前で終わった。
午後からは、もう現場だった。
ハウンド七では、たいていそうだ。
授業は短い。
休み時間はもっと短い。
けれど、短い時間に覚えた線が、誰かを帰すことがある。
カナタは手袋をはめ直した。
湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ少しだけ、また湿った。
「悪化した」
小さく言う。
マコトが隣で真面目に訊いた。
「それも記録しますか」
「しないでください」
「了解しました」
三号車が泥へ出る。
白線布が荷台で揺れる。
赤い布が食堂の柱で揺れる。
新しい三人が、それぞれの場所を見ている。
帰還誘導班は、春の現場へ向かった。
靴が負ける場所へ。
人を勝たせるために。