帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第三十一話 湯気の列

 炊き出しという言葉は、少しだけ嘘をつく。

 炊く、というほど米はない。

 出す、というほど量もない。

 あるのは、大鍋に張った湯と、粉末スープと、缶詰の豆と、切るには細すぎる野菜の端と、食べるには硬すぎる乾パンを砕いたものだった。

 それを混ぜる。

 煮る。

 薄くする。

 さらに薄くする。

 最後に、湯気だけは立派な食べ物ができる。

 ハウンド七では、それを炊き出しと呼んだ。

 春の朝は、泥の匂いがした。

 食堂裏の空き地には、昨日までの轍が残っている。三号車がつけたもの、補給車がつけたもの、人が押して広げたもの。泥は乾ききらず、表面だけが薄く固まって、その下にまだ水を抱えている。踏むと、ぱき、と割れて、ぐず、と沈む。

 あまり朝食向きの音ではなかった。

「靴が負ける音ですね」

 マコトが言った。

 真面目な顔だった。

 昨日の新人教育以降、彼はこの表現をかなり気に入っているらしい。

「負け続けると、どうなるんですか」

 ユウトが訊く。

「靴下が死にます」

 マコトは即答した。

「成長が早い」

「ありがとうございます」

「褒めてるかは微妙です」

 カナタは大鍋の横で、木の棒を持っていた。

 混ぜる係だった。

 軍の正式な役職ではない。

 だが、今朝のハウンド七ではかなり重要だった。

 鍋を混ぜないと底が焦げる。

 底が焦げると、スープ全体が少し苦くなる。

 少し苦くなるだけならまだいい。

 ミナが「焦げ臭いスープは車に悪い」と言い出す。

 車には飲ませない。

 でも言い出す。

 面倒なので、混ぜるしかない。

「カナタさん」

 タクトが隣に来た。

 腰の空き缶は今日も鳴らない。

 手には、布で包んだ乾パンの袋。

「これ、どれくらい砕きますか」

「食べられるくらいに」

「硬いです」

「知っています」

「石に近いです」

「石は食べられません」

「乾パンも、時々怪しいです」

 タクトは真面目に言った。

 冗談なのか本気なのか、半分くらいだった。

 ハウンド七の乾パンは古い。

 倉庫の奥から出てきたもので、箱には三年前の日付が印字されている。食べられる、と補給班は言った。補給班が言う食べられる、は、生き物として摂取可能、くらいの意味である。

 味の話はしていない。

 歯の安全も保証していない。

「砕きます」

 タクトは石に近い乾パンを布で包み、工具箱の横で叩き始めた。

 かん。

 かん。

 かん。

 その音に、何人かが反射的に顔を上げる。

 銃声ではない。

 工具音でもない。

 乾パンの音だった。

 誰かが気づいて、少し笑った。

 笑いは小さい。

 でも、湯気の中では十分だった。

 今日の炊き出しは、避難民と他部隊との交流を兼ねていた。

 交流。

 それもまた、少し嘘をつく言葉だ。

 実際には、食料の配分確認、避難民の状態把握、他部隊との顔合わせ、疲労者の発見、迷子の防止、靴乾燥棚の場所案内、苦情処理、子供の暇つぶし、そして少しだけ本当に交流だった。

 全部まとめて炊き出し。

 便利な言葉だった。

 便利にしないと、人間はすぐ書類に埋もれる。

 食堂裏には列ができていた。

 配給列。

 けれど、ただ並ばせるだけではない。

 カナタたちは昨夜、リゼが言った「帰ってきた後も迷う」という話を受けて、食堂裏に短い導線を作った。

 入口。

 椀を受け取る。

 水。

 座る場所。

 医療確認。

 靴乾燥棚。

 帰ってきたもの置き場。

 その順番に、札を立てる。

 黄色い札には《まず椀》。

 青い札には《水》。

 黒札には《なんか嫌な人はセナへ》。

「黒札の使い方、雑じゃない?」

 リゼが言った。

 赤い布を手首に巻き、配給列の横に立っている。

「でも、だいたい合ってます」

 カナタは答えた。

「なんか嫌、で医療棟に送られるの嫌だな」

「大丈夫と言うより信用できます」

「それはそう」

 セナは医療袋を持って、黒札の横に立っていた。

 腕を組んでいる。

 避難民が近づくと、顔色、息、手、歩き方を一瞬で見る。

 そして必要なら指さす。

「右。座って」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない顔」

「いえ、本当に」

「即答は信用しない」

 このやり取りが、朝から三回あった。

 全員、最終的に座った。

 セナは強い。

 物理ではなく、言葉の押し方が強い。

 ハルクは列の右側に立っていた。

 盾は持っていない。

 ただ立っている。

 それだけで、列が右へ膨らまない。

 子供が一人、ハルクを見上げる。

「大きい」

「そうだ」

「壁?」

「人だ」

「壁の人?」

「人だ」

 ハルクは少しも怒らなかった。

 子供は満足した顔で列へ戻った。

 ユウトが小声で言う。

「壁扱い、浸透してますね」

「人です」

 カナタとリゼの声が重なった。

 ハルクは少しだけ頷いた。

 ヒナセは拡声器を持って、列の案内をしていた。

『椀を受け取った方は、青い札へ。水です。水は勝ちです。泥に負けた靴は、奥の乾燥棚へ』

「水は勝ちなんですか」

 マコトが訊く。

「リゼさん案です」

 ヒナセが答える。

「雑だけど伝わる」

 リゼが言う。

「勝ち負けで世界を説明しすぎでは」

 カナタが言うと、ユウトが胸を張った。

「豆社会もありますし」

「それはあなたのせいです」

「文化です」

「責任を文化にしないでください」

 大鍋の中身は、少しずつ減っていった。

 椀を差し出す手。

 受け取る手。

 湯気に顔を近づける人。

 豆を探す子供。

 熱くて舌を出す老人。

 薄いな、と言って、それでも飲む兵士。

 誰も、うまいとは言わない。

 でも、まずいともあまり言わない。

 温かいものは、味とは別のところで仕事をする。

 胃へ落ちる。

 肩が下がる。

 指先が少し動く。

 言葉が戻る。

 カナタはそれを見るのが、少し好きだった。

 好きだと思ってから、少しだけ怖くなる。

 好きになると、失った時に残る。

 でも、嫌いになることはできない。

 湯気のある場所は、人間を少しだけ人間に戻す。

 それは帰還誘導兵にとって、たぶん弾薬より大事な時がある。

 炊き出しの途中、補給班の男が来た。

 食料車の時の男だった。

 名前はベルグではない。ベルグはまた別の人間だ。補給班の男は、まだカナタが名前を覚えきれていない。

 向こうもカナタを、たぶん「第七の嫌なことを言う候補生」くらいで覚えている。

 もう候補生ではない。

 でも、たぶん訂正するほどでもない。

 男は椀を受け取り、中を覗き込んだ。

「豆、三粒」

 ユウトがすぐ反応する。

「貴族です」

「何だそれは」

「階級です」

「軍にない階級を増やすな」

「食堂内限定です」

 補給班の男は少しだけ笑った。

 笑った顔は、前に食料車を捨てた時とは違っていた。

 疲れてはいる。

 でも、怒ってはいない。

 彼はスープを一口飲んだ。

「薄い」

「はい」

 カナタは答えた。

「だが、昨日よりましだ」

「はい」

「一台捨てた甲斐は、少しあったか」

 その言葉で、湯気が少し重くなる。

 傾いた食料車。

 固定されたアクセル。

 レイスを引きつけるために置いてきた車。

 荷台に残った缶詰箱。

 ミナが謝れと言った声。

 補給班の男が小さく、すまん、と言った声。

 全部が、一瞬だけ大鍋の湯気に混ざった。

 カナタは答えを探した。

 あった、と言っていいのか。

 なかった、と言うのか。

 そのどちらも違う。

「今日の湯気には、あります」

 結局、そう言った。

 補給班の男は椀を見た。

 しばらくして、頷いた。

「なら、よかった」

 よかった。

 簡単すぎる言葉だった。

 でも、今日の炊き出しでは、それくらいでいいのかもしれない。

 昼前、子供たちが帰ってきたもの置き場の前に集まっていた。

 赤い手袋。

 白線布。

 優勝豆。

 黒札。

 泥の薬瓶。

 どれも展示物としては地味すぎる。

 それでも、子供は見たがる。

「これ何?」

 小さな女の子が黒札を指した。

「なんか嫌な場所に立てる札」

 リゼが答える。

「なんか嫌って?」

「見たら分かる」

「見たくない」

「正解」

 子供は納得したように頷いた。

 次に、優勝豆を指す。

「これは?」

「大会の賞品」

「食べられる?」

「食べられない」

「豆なのに?」

「名誉だから」

「名誉って食べられないの?」

 ユウトが胸を押さえた。

「核心」

 タクトが小さく笑う。

 リゼも笑った。

 でも、子供は真面目だった。

 食べられない豆に価値があるのか。

 戦時下ではかなり重要な問いだった。

 リゼは少し考えてから言った。

「食べられないけど、見るとちょっと思い出す」

「何を?」

「帰ってきたこと」

 子供は優勝豆を見た。

 豆は黙っている。

 乾いて、小さくて、板に貼られている。

 少しも偉そうではない。

「じゃあ、いる」

 子供は言った。

 リゼは笑った。

「うん。いる」

 午後、日が少しだけ明るくなった。

 雲が薄くなったのだろう。

 春の光が、食堂裏の泥に反射する。

 きれいではない。

 でも、少し眩しい。

 大鍋は空に近づいていた。

 最後の方は、ほとんど湯だった。

 それでも、湯気はあった。

 ヒナセが拡声器を置き、肩を回す。

「声、疲れますね」

「届く声は疲れます」

 リゼが言った。

 カナタはその言葉を聞いて、少しだけ旧学校区の方を考えた。

 放送室。

 まだ行っていない場所。

 いつかリゼが戻る場所。

 そこにはきっと、もっと遠くへ届く声がある。

 遠くへ届く声は、もっと疲れるのだろうか。

 それとも、戻ってくるものもあるのだろうか。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 全員が顔を上げる。

 椀を持ったまま。

 空の鍋の横で。

 湯気の中で。

 アイラの声が流れた。

『定時連絡』

 少しのノイズ。

『各避難列、異常なし』

 食堂裏に、細く息を吐く音が広がった。

 誰かが笑った。

 誰かが椀を置いた。

 誰かが、よかった、と小さく言った。

 異常なし。

 それだけで、今日の炊き出しは最後まで炊き出しでいられた。

 戦闘にならなかった。

 撤収にもならなかった。

 ただ、湯を沸かし、薄いスープを配り、人が座って、少し話した。

 それは、小さすぎる勝利だった。

 でも、椀の底に残った豆くらいには確かだった。

 夕方、カナタは空になった大鍋を洗っていた。

 水は冷たい。

 指先が痛い。

 鍋の底には焦げが少しだけついている。

 完全には落ちない。

 ミナが見たら怒るかもしれない。

 いや、車ではないから怒らないかもしれない。

 分からない。

「カナタさん」

 リゼが横に来た。

 赤い布を手首から外し、絞っている。

「今日、帰ってきた感じした」

「誰がですか」

「みんな」

 リゼは食堂裏を見る。

 泥。

 札。

 空の椀。

 笑っている子供。

 靴を乾かす兵士。

 帰ってきたもの置き場。

「戦ってないのに」

「はい」

「でも、帰還誘導っぽかった」

 カナタは鍋の底をこすった。

 焦げは少しだけ落ちた。

「帰ってきた後も、帰還だからですかね」

 リゼは少しだけ目を丸くした。

 それから笑う。

「いいこと言うじゃん。湿った手袋先生」

「やめてください」

「正式採用」

「しないでください」

 春の夕方は、少し寒かった。

 でも、冬とは違った。

 大鍋から最後の湯気が上がる。

 薄くて、頼りなくて、すぐ消える。

 それでも、今日はその湯気の下に、ちゃんと人が集まっていた。

 カナタは手袋を外し、水を切った。

 指先は冷たい。

 でも、鍋は少しだけきれいになっていた。

 明日また、何かを煮るために。

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