帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
炊き出しという言葉は、少しだけ嘘をつく。
炊く、というほど米はない。
出す、というほど量もない。
あるのは、大鍋に張った湯と、粉末スープと、缶詰の豆と、切るには細すぎる野菜の端と、食べるには硬すぎる乾パンを砕いたものだった。
それを混ぜる。
煮る。
薄くする。
さらに薄くする。
最後に、湯気だけは立派な食べ物ができる。
ハウンド七では、それを炊き出しと呼んだ。
春の朝は、泥の匂いがした。
食堂裏の空き地には、昨日までの轍が残っている。三号車がつけたもの、補給車がつけたもの、人が押して広げたもの。泥は乾ききらず、表面だけが薄く固まって、その下にまだ水を抱えている。踏むと、ぱき、と割れて、ぐず、と沈む。
あまり朝食向きの音ではなかった。
「靴が負ける音ですね」
マコトが言った。
真面目な顔だった。
昨日の新人教育以降、彼はこの表現をかなり気に入っているらしい。
「負け続けると、どうなるんですか」
ユウトが訊く。
「靴下が死にます」
マコトは即答した。
「成長が早い」
「ありがとうございます」
「褒めてるかは微妙です」
カナタは大鍋の横で、木の棒を持っていた。
混ぜる係だった。
軍の正式な役職ではない。
だが、今朝のハウンド七ではかなり重要だった。
鍋を混ぜないと底が焦げる。
底が焦げると、スープ全体が少し苦くなる。
少し苦くなるだけならまだいい。
ミナが「焦げ臭いスープは車に悪い」と言い出す。
車には飲ませない。
でも言い出す。
面倒なので、混ぜるしかない。
「カナタさん」
タクトが隣に来た。
腰の空き缶は今日も鳴らない。
手には、布で包んだ乾パンの袋。
「これ、どれくらい砕きますか」
「食べられるくらいに」
「硬いです」
「知っています」
「石に近いです」
「石は食べられません」
「乾パンも、時々怪しいです」
タクトは真面目に言った。
冗談なのか本気なのか、半分くらいだった。
ハウンド七の乾パンは古い。
倉庫の奥から出てきたもので、箱には三年前の日付が印字されている。食べられる、と補給班は言った。補給班が言う食べられる、は、生き物として摂取可能、くらいの意味である。
味の話はしていない。
歯の安全も保証していない。
「砕きます」
タクトは石に近い乾パンを布で包み、工具箱の横で叩き始めた。
かん。
かん。
かん。
その音に、何人かが反射的に顔を上げる。
銃声ではない。
工具音でもない。
乾パンの音だった。
誰かが気づいて、少し笑った。
笑いは小さい。
でも、湯気の中では十分だった。
今日の炊き出しは、避難民と他部隊との交流を兼ねていた。
交流。
それもまた、少し嘘をつく言葉だ。
実際には、食料の配分確認、避難民の状態把握、他部隊との顔合わせ、疲労者の発見、迷子の防止、靴乾燥棚の場所案内、苦情処理、子供の暇つぶし、そして少しだけ本当に交流だった。
全部まとめて炊き出し。
便利な言葉だった。
便利にしないと、人間はすぐ書類に埋もれる。
食堂裏には列ができていた。
配給列。
けれど、ただ並ばせるだけではない。
カナタたちは昨夜、リゼが言った「帰ってきた後も迷う」という話を受けて、食堂裏に短い導線を作った。
入口。
椀を受け取る。
水。
座る場所。
医療確認。
靴乾燥棚。
帰ってきたもの置き場。
その順番に、札を立てる。
黄色い札には《まず椀》。
青い札には《水》。
黒札には《なんか嫌な人はセナへ》。
「黒札の使い方、雑じゃない?」
リゼが言った。
赤い布を手首に巻き、配給列の横に立っている。
「でも、だいたい合ってます」
カナタは答えた。
「なんか嫌、で医療棟に送られるの嫌だな」
「大丈夫と言うより信用できます」
「それはそう」
セナは医療袋を持って、黒札の横に立っていた。
腕を組んでいる。
避難民が近づくと、顔色、息、手、歩き方を一瞬で見る。
そして必要なら指さす。
「右。座って」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔」
「いえ、本当に」
「即答は信用しない」
このやり取りが、朝から三回あった。
全員、最終的に座った。
セナは強い。
物理ではなく、言葉の押し方が強い。
ハルクは列の右側に立っていた。
盾は持っていない。
ただ立っている。
それだけで、列が右へ膨らまない。
子供が一人、ハルクを見上げる。
「大きい」
「そうだ」
「壁?」
「人だ」
「壁の人?」
「人だ」
ハルクは少しも怒らなかった。
子供は満足した顔で列へ戻った。
ユウトが小声で言う。
「壁扱い、浸透してますね」
「人です」
カナタとリゼの声が重なった。
ハルクは少しだけ頷いた。
ヒナセは拡声器を持って、列の案内をしていた。
『椀を受け取った方は、青い札へ。水です。水は勝ちです。泥に負けた靴は、奥の乾燥棚へ』
「水は勝ちなんですか」
マコトが訊く。
「リゼさん案です」
ヒナセが答える。
「雑だけど伝わる」
リゼが言う。
「勝ち負けで世界を説明しすぎでは」
カナタが言うと、ユウトが胸を張った。
「豆社会もありますし」
「それはあなたのせいです」
「文化です」
「責任を文化にしないでください」
大鍋の中身は、少しずつ減っていった。
椀を差し出す手。
受け取る手。
湯気に顔を近づける人。
豆を探す子供。
熱くて舌を出す老人。
薄いな、と言って、それでも飲む兵士。
誰も、うまいとは言わない。
でも、まずいともあまり言わない。
温かいものは、味とは別のところで仕事をする。
胃へ落ちる。
肩が下がる。
指先が少し動く。
言葉が戻る。
カナタはそれを見るのが、少し好きだった。
好きだと思ってから、少しだけ怖くなる。
好きになると、失った時に残る。
でも、嫌いになることはできない。
湯気のある場所は、人間を少しだけ人間に戻す。
それは帰還誘導兵にとって、たぶん弾薬より大事な時がある。
炊き出しの途中、補給班の男が来た。
食料車の時の男だった。
名前はベルグではない。ベルグはまた別の人間だ。補給班の男は、まだカナタが名前を覚えきれていない。
向こうもカナタを、たぶん「第七の嫌なことを言う候補生」くらいで覚えている。
もう候補生ではない。
でも、たぶん訂正するほどでもない。
男は椀を受け取り、中を覗き込んだ。
「豆、三粒」
ユウトがすぐ反応する。
「貴族です」
「何だそれは」
「階級です」
「軍にない階級を増やすな」
「食堂内限定です」
補給班の男は少しだけ笑った。
笑った顔は、前に食料車を捨てた時とは違っていた。
疲れてはいる。
でも、怒ってはいない。
彼はスープを一口飲んだ。
「薄い」
「はい」
カナタは答えた。
「だが、昨日よりましだ」
「はい」
「一台捨てた甲斐は、少しあったか」
その言葉で、湯気が少し重くなる。
傾いた食料車。
固定されたアクセル。
レイスを引きつけるために置いてきた車。
荷台に残った缶詰箱。
ミナが謝れと言った声。
補給班の男が小さく、すまん、と言った声。
全部が、一瞬だけ大鍋の湯気に混ざった。
カナタは答えを探した。
あった、と言っていいのか。
なかった、と言うのか。
そのどちらも違う。
「今日の湯気には、あります」
結局、そう言った。
補給班の男は椀を見た。
しばらくして、頷いた。
「なら、よかった」
よかった。
簡単すぎる言葉だった。
でも、今日の炊き出しでは、それくらいでいいのかもしれない。
昼前、子供たちが帰ってきたもの置き場の前に集まっていた。
赤い手袋。
白線布。
優勝豆。
黒札。
泥の薬瓶。
どれも展示物としては地味すぎる。
それでも、子供は見たがる。
「これ何?」
小さな女の子が黒札を指した。
「なんか嫌な場所に立てる札」
リゼが答える。
「なんか嫌って?」
「見たら分かる」
「見たくない」
「正解」
子供は納得したように頷いた。
次に、優勝豆を指す。
「これは?」
「大会の賞品」
「食べられる?」
「食べられない」
「豆なのに?」
「名誉だから」
「名誉って食べられないの?」
ユウトが胸を押さえた。
「核心」
タクトが小さく笑う。
リゼも笑った。
でも、子供は真面目だった。
食べられない豆に価値があるのか。
戦時下ではかなり重要な問いだった。
リゼは少し考えてから言った。
「食べられないけど、見るとちょっと思い出す」
「何を?」
「帰ってきたこと」
子供は優勝豆を見た。
豆は黙っている。
乾いて、小さくて、板に貼られている。
少しも偉そうではない。
「じゃあ、いる」
子供は言った。
リゼは笑った。
「うん。いる」
午後、日が少しだけ明るくなった。
雲が薄くなったのだろう。
春の光が、食堂裏の泥に反射する。
きれいではない。
でも、少し眩しい。
大鍋は空に近づいていた。
最後の方は、ほとんど湯だった。
それでも、湯気はあった。
ヒナセが拡声器を置き、肩を回す。
「声、疲れますね」
「届く声は疲れます」
リゼが言った。
カナタはその言葉を聞いて、少しだけ旧学校区の方を考えた。
放送室。
まだ行っていない場所。
いつかリゼが戻る場所。
そこにはきっと、もっと遠くへ届く声がある。
遠くへ届く声は、もっと疲れるのだろうか。
それとも、戻ってくるものもあるのだろうか。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
全員が顔を上げる。
椀を持ったまま。
空の鍋の横で。
湯気の中で。
アイラの声が流れた。
『定時連絡』
少しのノイズ。
『各避難列、異常なし』
食堂裏に、細く息を吐く音が広がった。
誰かが笑った。
誰かが椀を置いた。
誰かが、よかった、と小さく言った。
異常なし。
それだけで、今日の炊き出しは最後まで炊き出しでいられた。
戦闘にならなかった。
撤収にもならなかった。
ただ、湯を沸かし、薄いスープを配り、人が座って、少し話した。
それは、小さすぎる勝利だった。
でも、椀の底に残った豆くらいには確かだった。
夕方、カナタは空になった大鍋を洗っていた。
水は冷たい。
指先が痛い。
鍋の底には焦げが少しだけついている。
完全には落ちない。
ミナが見たら怒るかもしれない。
いや、車ではないから怒らないかもしれない。
分からない。
「カナタさん」
リゼが横に来た。
赤い布を手首から外し、絞っている。
「今日、帰ってきた感じした」
「誰がですか」
「みんな」
リゼは食堂裏を見る。
泥。
札。
空の椀。
笑っている子供。
靴を乾かす兵士。
帰ってきたもの置き場。
「戦ってないのに」
「はい」
「でも、帰還誘導っぽかった」
カナタは鍋の底をこすった。
焦げは少しだけ落ちた。
「帰ってきた後も、帰還だからですかね」
リゼは少しだけ目を丸くした。
それから笑う。
「いいこと言うじゃん。湿った手袋先生」
「やめてください」
「正式採用」
「しないでください」
春の夕方は、少し寒かった。
でも、冬とは違った。
大鍋から最後の湯気が上がる。
薄くて、頼りなくて、すぐ消える。
それでも、今日はその湯気の下に、ちゃんと人が集まっていた。
カナタは手袋を外し、水を切った。
指先は冷たい。
でも、鍋は少しだけきれいになっていた。
明日また、何かを煮るために。