帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
大掃除という言葉は、戦場では少しだけ浮いている。
掃除をする場所があるということは、そこにしばらくいるつもりがあるということだ。
床を拭く。
窓を磨く。
棚を整理する。
誰のものか分からない靴下を見つけて、見なかったことにする。
そういう行為は、明日ここにいることを前提にしている。
戦争は、その前提をよく壊す。
だからこそ、ハウンド七で大掃除をすると決まった朝、カナタは少し変な気分になった。
春の空は低く、泥はまだ乾ききっていない。
食堂裏の大鍋は昨日の炊き出しの匂いを残していた。豆と粉末スープと乾パンと、少し焦げた底の匂い。格納庫からは油の匂い。医療棟からは消毒液の匂い。そこへ、春の湿った土の匂いが混ざる。
ハウンド七の春は、匂いが多すぎた。
色は少ないのに。
「大掃除です」
リゼが言った。
手に持っているのは、ぼろ布だった。
赤い布ではない。
ただの灰色の雑巾。
それを高く掲げる姿が、なぜかやけに偉そうだった。
「誰が決めたんですか」
カナタが訊く。
「汚れ」
「汚れが?」
「限界を主張してきた」
「主張が聞こえるんですか」
「聞こえるよ。机とか床とか、あと窓とか」
ミナが格納庫側から顔を出す。
「車も聞こえる」
「車は今関係ありません」
「掃除されたいって」
「三号車ですか」
「うん」
「あとで」
「後回しにすると拗ねる」
「車、感情が多いですね」
ユウトが椀を持ったまま言った。
「三号車は、ハウンド七で一番繊細な大型物体だから」
「大型物体」
マコトがメモ帳を開く。
「書かないで」
ミナが即座に言う。
「しかし、特徴として」
「燃やす」
「了解しました」
大掃除は、昨日の炊き出しの後片付けから始まった。
という名目だった。
本当は、帰還誘導班が正式編成され、新人も増え、食堂の片隅に帰ってきたもの置き場までできたせいで、ハウンド七の生活圏が少し広がったからだった。
人が増える。
物が増える。
泥が増える。
靴が増える。
言葉も増える。
増えたものは、いつか片づけなければならない。
片づけないと、人は物の間で迷う。
帰ってきた後にも迷う。
それはリゼが言ったことだった。
だから掃除をする。
軍事的には、たぶん施設整理。
生活的には、大掃除。
心情的には、居場所作りだった。
最初に食堂の床を掃いた。
泥が出る。
乾いたパンくずが出る。
誰かの靴下の繊維が出る。
小さな木片が出る。
豆が一粒出た。
ユウトがすぐ反応した。
「遺跡です」
「掃除してください」
「考古学的価値が」
「ありません」
「でも豆ですよ」
「だから掃いてください」
リゼがほうきを差し出す。
「ユウト、豆係」
「豆係?」
「床から豆を救出する係」
「神聖な任務ですね」
「あとパンくずも」
「急に現実」
タクトは帰ってきたもの置き場の机を拭いていた。
天板の《帰りたい》という落書きは消さない。
誰が決めたわけでもない。
でも、消さないことになっている。
その周りを丁寧に拭く。
赤い手袋をどかし、白線布を畳み、黒札《なんか嫌》を立て直し、泥の薬瓶の下に小さな布を敷く。
手つきが静かだった。
音がしない。
缶を鳴らさない人の手は、机を拭いても静かだった。
「タクトさん」
マコトが近づく。
「その配置、決まっているんですか」
「なんとなく」
「なんとなく」
「赤いものは見える場所。割れそうなものは奥。豆は転がらないように」
「かなり決まっています」
「でも、なんとなくです」
マコトは少し考えた。
「なんとなくにも、理由がありますね」
「たぶん」
「記録します」
「していいのかな」
タクトは少し困った顔をした。
カナタは横から言う。
「していいと思います」
マコトは頷き、メモ帳に書いた。
なんとなくにも理由がある。
また少し詩みたいだった。
でも、現場では詩みたいな言葉の方が残ることがある。
窓拭きは、ヒナセが担当した。
理由は、背が届くからではない。
背はあまり届かない。
理由は、ガラス越しの見え方にこだわったからだ。
「ここ、曇りすぎると外の赤布が見えません」
ヒナセは言った。
「窓も誘導設備です」
「窓が?」
ユウトが訊く。
「はい。中から外を見る。外から中の灯りを見る。曇っていると、帰還地点が弱くなります」
「急に窓が偉くなった」
「もともと偉いです」
ヒナセは真面目な顔で窓を拭く。
外の泥。
赤い布。
格納庫。
三号車。
食堂へ戻ってくる道。
少しずつ見えるようになる。
汚れた布で拭いているので、完全にはきれいにならない。
それでも、前よりは見えた。
前より見える。
帰還誘導では、それだけでかなり大きい。
ハルクは棚を動かしていた。
大きな棚。
中身は空ではない。
普通なら三人がかりで動かすものを、ハルクは一人で少しずつずらしている。
ぎぎぎ、と床が鳴る。
「棚、苦しそう」
リゼが言った。
「棚にも感情が?」
マコトが訊く。
「ミナならあるって言いそう」
「ある」
格納庫からミナの声がした。
「聞こえてたんですか」
「棚が呼んだ」
「怖い」
棚の裏から、いろいろ出てきた。
古い包帯。
乾いた泥の塊。
折れたスプーン。
読めない名札。
そして、小さな紙片。
リゼがそれを拾った。
紙片には、子供の字で何かが書いてあった。
《かえる》
ひらがなだった。
蛙なのか、帰るなのか。
分からない。
分からないから、少し困る。
「これは」
マコトが訊きかけて、止まった。
記録していいものか、迷ったのだろう。
リゼは紙片を見ていた。
「どっちだろ」
「蛙かもしれません」
カナタは言った。
「春だしね」
「はい」
「帰る、かもしれない」
「はい」
「どっちでもいいか」
リゼは紙片を帰ってきたもの置き場の端に置いた。
「かえる、だから」
誰も反対しなかった。
昼前、炊き出しで余った野菜の端を使って、もう一度スープを作ることになった。
掃除をしていると、人はなぜか腹が減る。
戦場でもそうだった。
体を動かすと腹が減る。
その単純さだけは、どんな状況でも人間を裏切らない。
大鍋の横では、ユウトが豆の投入権を主張していた。
「公平に分配するには、儀式が必要です」
「豆を入れるだけです」
カナタは言った。
「豆を入れるだけ、ではありません。未来を入れるんです」
「その言い方、補給班に怒られます」
「詩的補給」
「却下」
セナが通りがかりに言った。
「豆で遊ぶな」
「遊んでません」
「顔が遊んでる」
「顔で判断される世界」
「便利だから」
リゼが隣で笑う。
「セナ、今日も強い」
「掃除しろ」
「してる」
「口が多い」
「声帯の運動」
「必要量を超えてる」
リゼは口を尖らせたが、手は動かした。
雑巾を絞る。
水が灰色になる。
それを見て、少しだけ顔をしかめる。
「汚れって、見えると嫌だね」
「見えない方がいいですか」
カナタが訊く。
「ううん。見えた方が、拭ける」
リゼはそう言って、机を拭いた。
軽い言葉だった。
でも、残った。
見えた方が拭ける。
汚れも。
失敗も。
帰ってきた後の迷子も。
見えなければ、片づけられない。
午後、掃除は格納庫へ移った。
正確には、ミナが「食堂ばっかりずるい」と言ったからだった。
格納庫は、掃除というより発掘だった。
工具。
部品。
古いタイヤ。
形の分からない金属片。
おそらく何かの車両だったもの。
ミナが一つ一つに反応する。
「これはまだ使える」
「これは死んでる」
「これは死んでるけど、部品取りで生きる」
「これは……何?」
「ミナさんにも分からないんですか」
マコトが訊く。
「分からないものは、だいたい大事か邪魔」
「雑ですね」
「戦場だとそれで十分」
ハルクが古い装甲板を持ち上げる。
「重い」
「ハルクさんが重いって言うと、かなり重そうですね」
ユウトが言う。
「重い」
「二回言った」
装甲板は、格納庫の入口脇へ立てかけられた。
ミナが少し離れて見る。
「いいね。風よけになる」
「装甲板から風よけへ」
リゼが言う。
「転職だ」
「成功?」
「たぶん」
タクトは古い布を選別していた。
使える布。
使えない布。
音を消せる布。
包める布。
捨てる布。
その分け方が独特だった。
「音を消せる布、という分類があるんですね」
ヒナセが言う。
「あります」
タクトは短く答えた。
「かなり重要です」
「はい」
「じゃあ、箱を作ります」
ヒナセは空き箱に紙を貼った。
《音を消す布》
それを見て、タクトが少しだけ嬉しそうな顔をした。
地味な顔だった。
でも、カナタには分かった。
自分のやっていたことに、箱と名前がついたのだ。
名前がつくと、次の人が使える。
それは、帰還誘導班が正式になった時と少し似ていた。
夕方、掃除は終わった。
正確には、終わったことにした。
掃除は本気でやると終わらない。
戦争と同じで、どこかで区切らなければならない。
食堂は前より少し広くなった。
窓は前より少し外が見える。
帰ってきたもの置き場には、紙片《かえる》が増えた。
格納庫には《音を消す布》の箱ができた。
靴乾燥棚の横には、《負けた靴はこちら》という札が立った。
誰が書いたかは言わなくても分かる。
ユウトだった。
「名札、増えましたね」
マコトが言った。
「はい」
カナタは食堂を見渡した。
「迷いにくくなりました」
「拠点にも誘導が必要なんですね」
「帰ってきた後も、です」
その言葉を、リゼが少し離れた場所で聞いていた。
彼女は窓のそばへ行き、結露の残ったガラスに指で小さく書いた。
《おかえり》
昨日の《帰ろう》ではない。
今日は、おかえり。
カナタはそれを見て、何も言わなかった。
言うと、少し恥ずかしい。
たぶん、リゼもそうだ。
通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
全員の顔が上がる。
掃除道具を持ったまま。
雑巾を絞ったまま。
豆スープの鍋を見ながら。
アイラの声が流れる。
『定時連絡。各避難列、異常なし』
息を吐く音が、食堂と格納庫に広がった。
異常なし。
掃除の日が、掃除の日のまま終わる。
それは、かなり贅沢なことだった。
夜、カナタは最後に食堂の床を見た。
まだ汚れている。
でも、朝よりはましだった。
それでいいと思った。
完全にきれいにはならない。
ここは戦場の中の拠点だ。
泥は入る。
血も入る。
焦げた匂いも、濡れた靴下の匂いも、泣き声も入る。
それでも、拭く。
札を立てる。
箱に名前をつける。
机の上の物を並べ直す。
帰ってきた人が、少しだけ迷わないように。
帰ってきた後、自分がここにいていいのだと思えるように。
カナタは手袋を見た。
掃除でまた湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ泥の匂いがした。
「悪化した」
小さく呟く。
食堂の窓には、《おかえり》の文字がまだ残っていた。
結露で少し滲んでいる。
でも、読めた。
それで十分だった。