帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

32 / 41
第三十二話 大掃除

 大掃除という言葉は、戦場では少しだけ浮いている。

 掃除をする場所があるということは、そこにしばらくいるつもりがあるということだ。

 床を拭く。

 窓を磨く。

 棚を整理する。

 誰のものか分からない靴下を見つけて、見なかったことにする。

 そういう行為は、明日ここにいることを前提にしている。

 戦争は、その前提をよく壊す。

 だからこそ、ハウンド七で大掃除をすると決まった朝、カナタは少し変な気分になった。

 春の空は低く、泥はまだ乾ききっていない。

 食堂裏の大鍋は昨日の炊き出しの匂いを残していた。豆と粉末スープと乾パンと、少し焦げた底の匂い。格納庫からは油の匂い。医療棟からは消毒液の匂い。そこへ、春の湿った土の匂いが混ざる。

 ハウンド七の春は、匂いが多すぎた。

 色は少ないのに。

「大掃除です」

 リゼが言った。

 手に持っているのは、ぼろ布だった。

 赤い布ではない。

 ただの灰色の雑巾。

 それを高く掲げる姿が、なぜかやけに偉そうだった。

「誰が決めたんですか」

 カナタが訊く。

「汚れ」

「汚れが?」

「限界を主張してきた」

「主張が聞こえるんですか」

「聞こえるよ。机とか床とか、あと窓とか」

 ミナが格納庫側から顔を出す。

「車も聞こえる」

「車は今関係ありません」

「掃除されたいって」

「三号車ですか」

「うん」

「あとで」

「後回しにすると拗ねる」

「車、感情が多いですね」

 ユウトが椀を持ったまま言った。

「三号車は、ハウンド七で一番繊細な大型物体だから」

「大型物体」

 マコトがメモ帳を開く。

「書かないで」

 ミナが即座に言う。

「しかし、特徴として」

「燃やす」

「了解しました」

 大掃除は、昨日の炊き出しの後片付けから始まった。

 という名目だった。

 本当は、帰還誘導班が正式編成され、新人も増え、食堂の片隅に帰ってきたもの置き場までできたせいで、ハウンド七の生活圏が少し広がったからだった。

 人が増える。

 物が増える。

 泥が増える。

 靴が増える。

 言葉も増える。

 増えたものは、いつか片づけなければならない。

 片づけないと、人は物の間で迷う。

 帰ってきた後にも迷う。

 それはリゼが言ったことだった。

 だから掃除をする。

 軍事的には、たぶん施設整理。

 生活的には、大掃除。

 心情的には、居場所作りだった。

 最初に食堂の床を掃いた。

 泥が出る。

 乾いたパンくずが出る。

 誰かの靴下の繊維が出る。

 小さな木片が出る。

 豆が一粒出た。

 ユウトがすぐ反応した。

「遺跡です」

「掃除してください」

「考古学的価値が」

「ありません」

「でも豆ですよ」

「だから掃いてください」

 リゼがほうきを差し出す。

「ユウト、豆係」

「豆係?」

「床から豆を救出する係」

「神聖な任務ですね」

「あとパンくずも」

「急に現実」

 タクトは帰ってきたもの置き場の机を拭いていた。

 天板の《帰りたい》という落書きは消さない。

 誰が決めたわけでもない。

 でも、消さないことになっている。

 その周りを丁寧に拭く。

 赤い手袋をどかし、白線布を畳み、黒札《なんか嫌》を立て直し、泥の薬瓶の下に小さな布を敷く。

 手つきが静かだった。

 音がしない。

 缶を鳴らさない人の手は、机を拭いても静かだった。

「タクトさん」

 マコトが近づく。

「その配置、決まっているんですか」

「なんとなく」

「なんとなく」

「赤いものは見える場所。割れそうなものは奥。豆は転がらないように」

「かなり決まっています」

「でも、なんとなくです」

 マコトは少し考えた。

「なんとなくにも、理由がありますね」

「たぶん」

「記録します」

「していいのかな」

 タクトは少し困った顔をした。

 カナタは横から言う。

「していいと思います」

 マコトは頷き、メモ帳に書いた。

 なんとなくにも理由がある。

 また少し詩みたいだった。

 でも、現場では詩みたいな言葉の方が残ることがある。

 窓拭きは、ヒナセが担当した。

 理由は、背が届くからではない。

 背はあまり届かない。

 理由は、ガラス越しの見え方にこだわったからだ。

「ここ、曇りすぎると外の赤布が見えません」

 ヒナセは言った。

「窓も誘導設備です」

「窓が?」

 ユウトが訊く。

「はい。中から外を見る。外から中の灯りを見る。曇っていると、帰還地点が弱くなります」

「急に窓が偉くなった」

「もともと偉いです」

 ヒナセは真面目な顔で窓を拭く。

 外の泥。

 赤い布。

 格納庫。

 三号車。

 食堂へ戻ってくる道。

 少しずつ見えるようになる。

 汚れた布で拭いているので、完全にはきれいにならない。

 それでも、前よりは見えた。

 前より見える。

 帰還誘導では、それだけでかなり大きい。

 ハルクは棚を動かしていた。

 大きな棚。

 中身は空ではない。

 普通なら三人がかりで動かすものを、ハルクは一人で少しずつずらしている。

 ぎぎぎ、と床が鳴る。

「棚、苦しそう」

 リゼが言った。

「棚にも感情が?」

 マコトが訊く。

「ミナならあるって言いそう」

「ある」

 格納庫からミナの声がした。

「聞こえてたんですか」

「棚が呼んだ」

「怖い」

 棚の裏から、いろいろ出てきた。

 古い包帯。

 乾いた泥の塊。

 折れたスプーン。

 読めない名札。

 そして、小さな紙片。

 リゼがそれを拾った。

 紙片には、子供の字で何かが書いてあった。

 《かえる》

 ひらがなだった。

 蛙なのか、帰るなのか。

 分からない。

 分からないから、少し困る。

「これは」

 マコトが訊きかけて、止まった。

 記録していいものか、迷ったのだろう。

 リゼは紙片を見ていた。

「どっちだろ」

「蛙かもしれません」

 カナタは言った。

「春だしね」

「はい」

「帰る、かもしれない」

「はい」

「どっちでもいいか」

 リゼは紙片を帰ってきたもの置き場の端に置いた。

「かえる、だから」

 誰も反対しなかった。

 昼前、炊き出しで余った野菜の端を使って、もう一度スープを作ることになった。

 掃除をしていると、人はなぜか腹が減る。

 戦場でもそうだった。

 体を動かすと腹が減る。

 その単純さだけは、どんな状況でも人間を裏切らない。

 大鍋の横では、ユウトが豆の投入権を主張していた。

「公平に分配するには、儀式が必要です」

「豆を入れるだけです」

 カナタは言った。

「豆を入れるだけ、ではありません。未来を入れるんです」

「その言い方、補給班に怒られます」

「詩的補給」

「却下」

 セナが通りがかりに言った。

「豆で遊ぶな」

「遊んでません」

「顔が遊んでる」

「顔で判断される世界」

「便利だから」

 リゼが隣で笑う。

「セナ、今日も強い」

「掃除しろ」

「してる」

「口が多い」

「声帯の運動」

「必要量を超えてる」

 リゼは口を尖らせたが、手は動かした。

 雑巾を絞る。

 水が灰色になる。

 それを見て、少しだけ顔をしかめる。

「汚れって、見えると嫌だね」

「見えない方がいいですか」

 カナタが訊く。

「ううん。見えた方が、拭ける」

 リゼはそう言って、机を拭いた。

 軽い言葉だった。

 でも、残った。

 見えた方が拭ける。

 汚れも。

 失敗も。

 帰ってきた後の迷子も。

 見えなければ、片づけられない。

 午後、掃除は格納庫へ移った。

 正確には、ミナが「食堂ばっかりずるい」と言ったからだった。

 格納庫は、掃除というより発掘だった。

 工具。

 部品。

 古いタイヤ。

 形の分からない金属片。

 おそらく何かの車両だったもの。

 ミナが一つ一つに反応する。

「これはまだ使える」

「これは死んでる」

「これは死んでるけど、部品取りで生きる」

「これは……何?」

「ミナさんにも分からないんですか」

 マコトが訊く。

「分からないものは、だいたい大事か邪魔」

「雑ですね」

「戦場だとそれで十分」

 ハルクが古い装甲板を持ち上げる。

「重い」

「ハルクさんが重いって言うと、かなり重そうですね」

 ユウトが言う。

「重い」

「二回言った」

 装甲板は、格納庫の入口脇へ立てかけられた。

 ミナが少し離れて見る。

「いいね。風よけになる」

「装甲板から風よけへ」

 リゼが言う。

「転職だ」

「成功?」

「たぶん」

 タクトは古い布を選別していた。

 使える布。

 使えない布。

 音を消せる布。

 包める布。

 捨てる布。

 その分け方が独特だった。

「音を消せる布、という分類があるんですね」

 ヒナセが言う。

「あります」

 タクトは短く答えた。

「かなり重要です」

「はい」

「じゃあ、箱を作ります」

 ヒナセは空き箱に紙を貼った。

 《音を消す布》

 それを見て、タクトが少しだけ嬉しそうな顔をした。

 地味な顔だった。

 でも、カナタには分かった。

 自分のやっていたことに、箱と名前がついたのだ。

 名前がつくと、次の人が使える。

 それは、帰還誘導班が正式になった時と少し似ていた。

 夕方、掃除は終わった。

 正確には、終わったことにした。

 掃除は本気でやると終わらない。

 戦争と同じで、どこかで区切らなければならない。

 食堂は前より少し広くなった。

 窓は前より少し外が見える。

 帰ってきたもの置き場には、紙片《かえる》が増えた。

 格納庫には《音を消す布》の箱ができた。

 靴乾燥棚の横には、《負けた靴はこちら》という札が立った。

 誰が書いたかは言わなくても分かる。

 ユウトだった。

「名札、増えましたね」

 マコトが言った。

「はい」

 カナタは食堂を見渡した。

「迷いにくくなりました」

「拠点にも誘導が必要なんですね」

「帰ってきた後も、です」

 その言葉を、リゼが少し離れた場所で聞いていた。

 彼女は窓のそばへ行き、結露の残ったガラスに指で小さく書いた。

 《おかえり》

 昨日の《帰ろう》ではない。

 今日は、おかえり。

 カナタはそれを見て、何も言わなかった。

 言うと、少し恥ずかしい。

 たぶん、リゼもそうだ。

 通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 全員の顔が上がる。

 掃除道具を持ったまま。

 雑巾を絞ったまま。

 豆スープの鍋を見ながら。

 アイラの声が流れる。

『定時連絡。各避難列、異常なし』

 息を吐く音が、食堂と格納庫に広がった。

 異常なし。

 掃除の日が、掃除の日のまま終わる。

 それは、かなり贅沢なことだった。

 夜、カナタは最後に食堂の床を見た。

 まだ汚れている。

 でも、朝よりはましだった。

 それでいいと思った。

 完全にきれいにはならない。

 ここは戦場の中の拠点だ。

 泥は入る。

 血も入る。

 焦げた匂いも、濡れた靴下の匂いも、泣き声も入る。

 それでも、拭く。

 札を立てる。

 箱に名前をつける。

 机の上の物を並べ直す。

 帰ってきた人が、少しだけ迷わないように。

 帰ってきた後、自分がここにいていいのだと思えるように。

 カナタは手袋を見た。

 掃除でまた湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ泥の匂いがした。

「悪化した」

 小さく呟く。

 食堂の窓には、《おかえり》の文字がまだ残っていた。

 結露で少し滲んでいる。

 でも、読めた。

 それで十分だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。