帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

34 / 39
第三十四話 マコトの記録

 マコト・イシヤは、帰還誘導班に配属されて三日目に、記録してはいけないことが多すぎると知った。

 第一に、ミナ整備兵の車両に関する発言。

 車が怒る。

 車が泣く。

 車が拗ねる。

 車が春を嫌がる。

 どれも記録すると、整備報告なのか民間伝承なのか分からなくなる。

 第二に、ユウト兵長の豆に関する制度。

 一粒以下は敗北。

 二粒は市民。

 三粒は貴族。

 四粒以上は王権。

 五粒は未確認神話。

 記録すると、補給班から怒られる可能性が高い。

 第三に、リゼの発言。

 これは種類が多い。

 軽口。

 命令。

 冗談。

 ときどき、とても大事なこと。

 問題は、それらが同じ声で出てくることだった。

 たとえば今朝、リゼは食堂の窓に《靴は負けても人は帰る》と書いた。

 その下に、少し小さく《たぶん》と足した。

 マコトは、それを記録するべきか迷った。

 迷っているうちに、結露で文字が滲んだ。

 だから記録できなかった。

 記録できなかったものは、消える。

 そう思っていた。

 けれど、この部隊では違う。

 消えた文字ほど、誰かが覚えている。

 春のハウンド七は、朝から少し湿っていた。

 空気が湿っている。

 床も湿っている。

 手袋も湿っている。

 カナタ班長代理の手袋など、最初から湿るために生まれてきたように見える。本人は毎回、息を吹きかけて「悪化した」と呟く。マコトは初日にそれを記録しようとして、カナタから止められた。

 理由は、記録するほどのことではないから。

 しかしマコトには、記録するほどのことに見えた。

 湿った手袋を温めようとして、さらに湿らせる。

 不合理だ。

 でも、毎回やる。

 たぶん、温めるためではない。

 まだ手があることを確認しているのだと思う。

 そう書こうとして、やめた。

 想像は記録ではない。

 でも、記録に残らないことの方が多い。

 それが最近、少し分かってきた。

「マコト」

 カナタが声をかけてきた。

「はい」

「今日は、俺たちと出ます」

「任務ですか」

「軽い確認任務です」

 その瞬間、食堂にいた全員が少しだけこちらを見た。

 軽い確認任務。

 どうやら危険な言葉らしい。

 ユウトが椀を持ったまま言った。

「軽い任務ほど、だいたい靴が負けます」

「靴だけで済めばいいけどね」

 リゼが言う。

 セナが即座に続ける。

「医療袋、持て」

「はい」

 マコトは返事をして、メモ帳をしまった。

 最近、少しだけ分かってきた。

 帰還誘導班では、記録する前に手を空ける場面がある。

 書くより、持つ。

 数えるより、支える。

 覚えるより、声を出す。

 その順番を間違えると、あとで記録する人間が一人減るかもしれない。

 今日の任務は、南東補給路の確認だった。

 昨日の泥濘地帯より少し先。

 民間車両列が通る予定の旧道が、春の泥で使えるかを調べる。必要なら危険地点札を立て、白線を短く設置し、迂回路を探す。

 書類上はそういう任務だ。

 書類上は、いつもきれいだ。

 旧道は一本の線で、泥濘地帯は斜線で、危険地点は赤丸で示される。

 実際には、泥は赤くない。

 茶色い。

 黒い。

 足首を掴む。

 嫌な音がする。

 三号車の荷台で、マコトはそれを知った。

 ぐず。

 タイヤが泥を噛む。

 ぐず、ぐず。

 車体が少し揺れる。

 ミナが運転席で唸る。

「やだな。この道、三号車が嫌いな道だ」

「車に好き嫌いが?」

 マコトが訊く。

「ある」

「記録は」

「しない」

「はい」

 ユウトが隣で笑った。

「マコト君、記録したい顔してる」

「顔に出ますか」

「出てる。カナタさんほどじゃないけど」

「俺、出てますか」

 カナタが訊く。

「出てます」

 リゼが即答した。

「湿った手袋の顔」

「どういう顔ですか」

「温めたいのに悪化する顔」

「かなり嫌ですね」

 車内に小さな笑いが起きる。

 マコトは、それも記録したかった。

 だが、しなかった。

 笑い声は、紙に書くと乾く。

 今の笑いは、湿っている方がいい気がした。

 旧道に着くと、春はさらに泥だった。

 道の端に残った雪が水になり、水が低いところへ集まり、泥が小さな池のようになっている。水面には枯れ草が浮き、油の虹が薄く広がっていた。遠くで鳥が鳴いた。近くで三号車のエンジンが咳をした。

 空は低い。

 雲は灰色。

 冬より暖かいはずなのに、首の後ろだけが冷える。

「靴が負ける場所です」

 マコトは言った。

 カナタが頷く。

「はい。かなり」

「札を立てます」

「お願いします」

 マコトは黄色い札を取り出した。

 《泥》

 その下に、昨日リゼが書いた小さな文字がある。

 《靴が負ける》

 正式な文言ではない。

 だが、正式な文言より伝わる。

 マコトは札を泥の手前に立てた。

 少し斜めになった。

 直す。

 また傾く。

 泥が柔らかい。

 カナタが横から短い杭を渡してくれた。

「二点で固定した方がいいです」

「はい」

「泥は信用しないでください」

「はい」

 泥は信用しない。

 記録したい。

 しかし、今は杭を打つ。

 こん、と音がする。

 札が立つ。

 それだけで、少し道が道になる。

 ヒナセは通信機で周辺を確認している。

「ノイズ、多いです。旧線路側から反響があります」

「敵ですか」

 マコトが訊く。

「まだ分かりません」

 分からない。

 この部隊では、分からないという言葉がよく出る。

 最初は不安だった。

 だが最近は、分かったふりをされる方が怖いと思うようになった。

 ハルクは右側の林を見ている。

 盾は持っている。

 無駄に大きいと思っていたが、実際に隣に立たれると無駄ではない。

 林が少し遠く見える。

 壁の効果だった。

「白線、短く出します」

 カナタが言った。

 ユウトとタクトが布を伸ばす。

 手際がいい。

 昨日の大会ではふざけていたのに、現場では動きが違う。

 リゼは赤い布を旧道の曲がり角に結ぶ。

 白布は進む線。

 赤布は戻る点。

 その説明を、新人教育で受けたばかりだった。

 いま目の前で見ると、よく分かる。

 白はすぐ泥に汚れる。

 赤は残る。

 点と線。

 その二つで、人は不安を少しだけ減らせる。

「マコト」

 リゼが呼ぶ。

「はい」

「その黒札、こっち」

「黒札ですか」

「うん。ここ、なんか嫌」

 リゼが指さしたのは、旧道脇の水たまりだった。

 見た目はただの水たまりだ。

 深さは分からない。

 水面は静か。

 風もないのに、少しだけ波紋がある。

 マコトは近づきかけて、止まった。

 なんか嫌。

 理由はない。

 だが、足が止まった。

「黒札、立てます」

「うん」

 マコトは札を立てた。

 《なんか嫌》

 自分で書いたわけではないのに、少し恥ずかしい。

 でも、立てると安心した。

 名前がつくと、見えない嫌さが少しだけ外へ出る。

 その時、水たまりの奥で何かが動いた。

 音は小さい。

 泥が裂ける音。

 ぐず。

 マコトは息を止めた。

 水面が割れる。

 黒い腕が出た。

 細い。

 長い。

 レイス。

 列ではなく、人の近くに潜んでいた。

 マコトの目の前に。

「下がれ!」

 ハルクの声。

 短い。

 体が先に動いた。

 マコトは後ろへ跳んだ。

 足が滑る。

 泥に取られる。

 転ぶ。

 転びかけた腕を、カナタが掴んだ。

 強くない。

 でも、十分だった。

 ハルクの盾が前に出る。

 黒い腕が盾を叩く。

 乾いた音。

 レイスは水たまりから半身を出した。

 細い体。

 雪の頃の小型レイスより、さらに薄い。

 泥の中に伏せて、人が近づくのを待っていた。

 列を待つのではない。

 足元を見る人。

 札を立てる人。

 そういう人間を狙っていた。

「人を狙ってます!」

 マコトは叫んでいた。

 声が出た。

 記録ではない。

 報告だった。

 ヒナセの拡声器が鳴る。

『黒札から離れてください!水たまり、敵性!白線内へ!』

 ユウトが銃を構える。

「黒札、仕事した!」

「喜ぶのは後です!」

 カナタが返す。

 タクトは白線の端を押さえ、泥に沈まないよう固定している。

 リゼは赤い布を高く振る。

「こっち!赤い方へ!」

 まだ避難民はいない。

 でも、全員が動く方向を揃える。

 訓練と同じ。

 ただし、敵がいる。

 ハルクが盾でレイスを押さえる。

 レイスは横へ逃げようとした。

 細い。

 速い。

 人の足元を抜けるような動き。

 カナタが撃つ。

 外れる。

 ユウトが撃つ。

 泥が跳ねる。

 ヒナセが叫ぶ。

「右、もう一体!」

 林の影から、もう一つ黒いものが出る。

 ハルクは前の一体を押さえている。

 間に合わない。

 マコトは医療袋を持ったまま立っていた。

 手は空いていない。

 銃はある。

 でも、構えれば医療袋を落とす。

 落とすか。

 持つか。

 一秒もなかった。

 その時、セナの声を思い出した。

 軽い任務にも医療袋。

 持たせたなら、落とすな。

 マコトは医療袋を胸に抱えたまま、黒札の杭を引き抜いた。

 それをレイスの前へ投げた。

 札が泥に刺さる。

 黒い板。

 《なんか嫌》

 レイスの動きが一瞬だけ逸れた。

 音ではない。

 障害物として。

 ほんの一瞬。

 その一瞬で、リゼが叫ぶ。

「今!」

 ユウトが撃つ。

 当たる。

 レイスが泥へ倒れた。

 マコトは息を吐いた。

 足が震えていた。

 医療袋は落としていない。

 メモ帳も落としていない。

 黒札は泥まみれになっていた。

「マコト!」

 カナタが来る。

「怪我は」

「ありません」

「即答は信用しません」

「ありません。たぶん」

「たぶんで十分です」

 カナタは少しだけ笑った。

 マコトはその顔を見て、ようやく自分が震えていることに気づいた。

 ハルクが一体目を倒した。

 銃声。

 泥。

 静けさ。

 春の鳥が、遠くでまた鳴いた。

 任務は中止にならなかった。

 危険地点を追加し、白線を引き直し、旧道の一部を通行不可とした。

 ヒナセが通信を送る。

 カナタが道を見る。

 リゼが赤い布を結び直す。

 ユウトが泥に落ちた黒札を拾う。

「これ、勲章ですね」

 彼は言った。

「泥まみれです」

 マコトは答える。

「帰ってきたもの置き場行き」

「黒札は備品では」

「今日は戦ったので」

 タクトが小さく頷いた。

「戦った札」

 ミナが通信で言う。

『札にも謝っておいて』

「何で聞こえてるんですか」

『三号車が聞いた』

 マコトは、初めて少し笑った。

 怖かった。

 今も怖い。

 レイスが泥から出てきた感覚が、まだ膝に残っている。

 でも笑えた。

 それは、この部隊の変さのせいかもしれなかった。

 ハウンド七へ戻ると、食堂はいつもの匂いがした。

 豆スープ。

 灯油。

 濡れた靴。

 泥。

 帰ってきたもの置き場の机に、ユウトが泥まみれの黒札を置いた。

 《なんか嫌》

 文字は半分泥で読めない。

 でも、読めた。

 リゼがそれを見て言った。

「今日は、なんか嫌が当たった日」

「はい」

 マコトは答えた。

「記録する?」

 カナタが訊いた。

 マコトはメモ帳を開いた。

 少し考える。

 それから書いた。

 《黒札、有効》

 短い。

 それだけ。

 でも、その下に小さく付け足した。

 《記録より先に声》

 カナタはそれを見て、何も言わなかった。

 リゼも言わない。

 ユウトも茶化さない。

 マコトはメモ帳を閉じた。

 記録してはいけないことは多い。

 記録できないことは、もっと多い。

 でも、記録するべきことも確かにある。

 春の泥。

 黒札。

 人を狙うレイス。

 医療袋を落とさなかったこと。

 声が出たこと。

 そして、帰ってきたこと。

 その日のスープには豆が二粒入っていた。

 市民だった。

 マコトはそれを数えて、初めて少しだけ安心した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。