帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
春の水は、信用できない。
雪より柔らかい顔をしている。
氷より安全そうに見える。
けれど、地面の下で何をしているか分からない。
流れる。
削る。
溜まる。
濁る。
昨日まで道だった場所の下を、少しずつ空洞にしていることもある。
カナタがそれを知ったのは、春になってからだった。
正確には、その日の午後だった。
午前中のハウンド七は、いつも通り少しだけ間抜けだった。
食堂の窓には《靴は負けても人は帰る》という文字が、まだうっすら残っていた。結露で滲み、誰かが袖でこすった跡があり、後半はほとんど読めない。それでもユウトは、毎朝それを見て「名言が風化している」と言う。
風化ではない。
結露だ。
でも、わざわざ訂正するほどでもない。
豆スープの湯気が上がっている。
今日の豆は二粒。
市民。
ユウトは椀を覗き込み、肩を落とした。
「最近、王権が遠いです」
「四粒以上でしたっけ」
マコトが訊く。
「はい。五粒は神話です」
「補給記録にはありません」
「神話ですから」
「なるほど」
納得しないでほしい。
カナタはスープを飲んだ。
薄い。
温かい。
それだけで、今日もだいたい始まる。
リゼは帰ってきたもの置き場の机を拭いていた。
赤い布。
泥まみれの黒札。
優勝豆。
小さな紙片《かえる》。
並べる順番が少しずつ決まってきている。
誰が決めたわけでもない。
でも、乱れると誰かが直す。
そういう場所になった。
「今日の任務、軽いんだよね」
リゼが言った。
「確認だけです」
カナタは答えた。
その瞬間、食堂にいた何人かがこちらを見た。
軽い。
確認。
だけ。
この三つは、ハウンド七ではあまり信用されていない。
「言葉が悪い」
セナが言った。
医療袋を肩にかけている。
「どう言えば」
「重めの確認」
「悪化しました」
「軽いよりまし」
ミナが格納庫側から顔を出す。
「三号車は出す?」
「今回は徒歩です。近いので」
「三号車、休み?」
「はい」
「喜んでる」
「そうですか」
「ちょっと寂しそうでもある」
「複雑ですね」
今日の任務は、ハウンド七の南側排水路の確認だった。
雪解け水で水量が増え、旧道の脇にある排水溝が詰まりかけている。そこを確認し、必要なら危険札を立てる。近くの避難列が明日通る予定なので、足元の状態を見ておく。
書類上は、それだけだった。
近い。
敵性反応なし。
小規模。
徒歩で十分。
軽い任務の条件が、嫌なくらい揃っていた。
参加者は、カナタ、ユウト、マコト、タクト、ヒナセ。
護衛にハルク。
リゼは拠点側で帰還地点作成。
セナは医療棟待機。
ガレスは「転ぶなよ」とだけ言った。
それが一番不吉だった。
春の旧道は、冬よりも歩きにくかった。
雪は足を沈める。
泥は足を掴む。
水たまりは、何もない顔で穴を隠す。
カナタたちは白線布を短く持ち、必要な場所だけに札を立てながら進んだ。
ヒナセは小型通信機を見ている。
「通信、良好です。ノイズ少なめ」
「敵性反応は」
「ありません」
その言葉に、誰も安心しきらなかった。
マコトは足元を見ている。
記録より先に足元。
前回の黒札以来、彼はそれをかなり意識していた。
メモ帳は胸ポケット。
手は空いている。
いいことだ。
タクトは白布の端を持つ。
缶は鳴らない。
今日の道は静かだった。
静かすぎると、水の音がよく聞こえる。
ちょろちょろ。
ぐずぐず。
ごぼ。
ときどき、地面の下で何かが喋るような音がした。
「排水溝、こっちです」
マコトが言った。
旧道の左側。
半分崩れたコンクリートの縁。
その下を、水が黒く流れている。
落ち葉と泥と、細かい枝が詰まっていた。
見た目は地味だ。
危険には見えない。
それが、危なかった。
「札を立てます」
マコトが黄色い札を出した。
《泥》
その下に、小さく《靴が負ける》。
「ここは黒も」
カナタは言った。
「なんか嫌、ですか」
「はい」
「理由は」
マコトが訊いて、すぐに言い直した。
「理由は、後で」
「はい」
成長している。
理由より先に札。
それでいい。
マコトが黒札を立てる。
その時、少し離れた場所で声がした。
「こっち、通れる?」
避難民の子供だった。
十歳くらい。
近くの作業班についてきたのか、道の端に立っている。
手には小さな袋。
中身は分からない。
カナタはすぐに言った。
「下がってください」
声は普通だった。
強すぎない。
怖がらせない。
そう思った。
だが、子供は返事をしながら、一歩だけこちらへ出た。
「はーい」
軽い一歩。
春の泥に、靴が沈む。
その下で、地面が抜けた。
音は大きくなかった。
ばき、でもない。
どん、でもない。
ただ、ぐしゃ、と言った。
足元の薄い土が崩れ、子供の体が排水溝側へ傾く。
袋が飛んだ。
水が跳ねた。
カナタの頭は、一瞬だけ真っ白になった。
白ではない。
泥色の白だった。
「掴め!」
ハルクが叫んだ。
タクトが白布を放す。
ユウトが走る。
マコトが手を伸ばす。
子供の片足が排水溝へ落ちた。
水の中。
黒い流れ。
カナタは動いていた。
考えるより先に、地面へ伏せる。
手を伸ばす。
子供の袖を掴む。
泥で滑る。
指が抜けそうになる。
タクトがカナタのベルトを掴む。
ユウトがタクトを掴む。
ハルクが二人をまとめて引く。
人間の列。
帰るためではなく、落ちないための列。
「引く!」
ハルクの声。
短い。
強い。
子供が泣いた。
泣き声が、やっと聞こえた。
さっきまで、音がなかった気がした。
世界が、一拍遅れて戻ってくる。
泥の匂い。
水の冷たさ。
袖の布が裂ける感触。
ユウトの悪態。
マコトの息。
ヒナセの通信。
『医療班、南側排水路。落下事故。負傷一。繰り返します、落下事故』
子供は引き上げられた。
全身泥だらけ。
足から血が出ている。
骨は見えていない。
意識はある。
泣いている。
泣いているなら、生きている。
そう思ってしまった自分が嫌だった。
「医療袋!」
カナタが言うより早く、マコトが袋を開いていた。
手が震えている。
でも、開いている。
「止血、できます」
「はい」
マコトが包帯を出す。
カナタは子供の足を押さえる。
子供は泣きながら、袋を探していた。
「袋……」
「後で拾います」
カナタは言った。
「今は足です」
「でも」
「足です」
声が少し強かった。
子供が黙った。
泣き声だけになった。
タクトが泥の中から袋を拾った。
小さい。
布の袋。
中から、濡れた紙が少し見えた。
タクトは何も言わず、それを子供の胸の上に置いた。
子供は泣きながら握った。
マコトが包帯を巻く。
ぎこちない。
でも、できている。
ヒナセが周囲を見る。
「地面、さらに崩れます。下がってください」
ハルクが全員を押し戻す。
排水溝の縁が、もう一度崩れた。
さっきまでカナタが伏せていた場所だった。
黒い水が泥を飲む。
ごぼ、と音がした。
春の水は、やはり信用できなかった。
セナが到着したのは、数分後だった。
数分。
短い。
でも、事故の後の数分は長い。
子供の足を見て、セナはすぐに言った。
「命に別状なし。足は縫う。低体温注意。泣けるなら泣いてていい」
子供がさらに泣いた。
セナはカナタを見る。
「他は」
「なし」
「即答」
「……泥に手をつきました」
「後で洗う」
「はい」
「医療袋」
マコトが差し出す。
中身は泥で少し汚れていた。
包帯を出す時に落としたらしい。
薬瓶のひとつが割れている。
透明な液体が袋の底に溜まっていた。
セナの顔が少しだけ変わった。
怒りではない。
痛みを隠す顔だった。
「……使える分、確認する」
マコトが青くなる。
「すみません」
「今は謝らない」
「でも」
「後で」
セナは短く言った。
子供を担架へ移す。
ハルクが担ぐ。
ユウトが白布を回収する。
タクトが黒札を抜く。
ヒナセが通信を続ける。
カナタは排水溝を見ていた。
さっきまで、ただの地味な危険だった場所。
いまは、事故の場所になった。
札を立てた。
声もかけた。
でも、間に合わなかった。
死んではいない。
それでも、失敗だった。
軽い確認任務だった。
重めの確認と言い直した。
それでも、足りなかった。
ハウンド七に戻る道は、いつもより短く感じた。
近いからではない。
考えることが少なすぎたからだ。
頭の中に、同じ場面ばかり戻る。
子供の一歩。
泥が崩れる音。
袖の布。
薬瓶の割れた音は、実際には聞こえていない。
でも、聞こえた気がする。
食堂へ戻ると、リゼが赤い布を柱に結んで待っていた。
「戻った」
彼女が言った。
「はい」
「子供は」
「命に別状なし」
「そっか」
リゼは少しだけ息を吐いた。
それから、医療袋を見る。
泥。
割れた薬瓶。
言わなくても分かる。
「薬、減った?」
「はい」
カナタは答えた。
「そっか」
それだけだった。
誰も、よかったね、とは言わなかった。
命に別状なし。
それはよかった。
でも、薬は減った。
子供は怪我をした。
事故は起きた。
その三つが同時に存在している。
どれか一つだけを見て済ませることはできない。
夕方、帰ってきたもの置き場に、泥まみれの黒札がもう一枚増えた。
その下に、マコトが小さな紙を置いた。
《排水溝。春の水は信用しない》
字は少し震えていた。
ユウトが見て、小さく言う。
「名言っぽいですね」
誰も笑わなかった。
ユウトも笑わなかった。
食堂の窓には、朝の文字がまだ少し残っていた。
靴は負けても人は帰る。
たぶん。
カナタはその「たぶん」を見た。
今日、子供は帰った。
でも、足を怪我した。
薬は減った。
医療袋は泥で汚れた。
帰還誘導は、成功と失敗がきれいに分かれない。
帰ったから成功。
怪我をしたから失敗。
どちらも正しい。
どちらも、足りない。
夜、カナタは手袋を洗った。
泥がなかなか落ちない。
水は冷たい。
指先が痛い。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、また湿る。
「悪化した」
小さく呟く。
今日は、いつもよりその言葉が笑えなかった。
排水溝の音が、まだ耳の奥に残っていた。
ごぼ、と。
春の水が、下で笑ったみたいな音だった。