帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第三十六話 春の水は信用しない

 失敗の翌朝は、いつもより静かだった。

 警報が鳴っていないのに、食堂の声が少し低い。

 椀が置かれる音も、椅子を引く音も、誰かが咳をする音も、全部がいつもより一枚布をかぶっているみたいだった。窓の外は春の曇り空で、泥は昨日と同じ色をしている。格納庫では三号車がいつものように咳をしていて、通信塔はいつものように低い雲の下に立っていた。

 世界は、事故が起きたことを知らない顔をしている。

 それが少し腹立たしかった。

 カナタは食堂の隅で、豆スープを見ていた。

 豆は二粒。

 市民。

 ユウトならそう言う。

 でも、そのユウトは今日は豆を数えなかった。

 椀を両手で持ったまま、ぼんやり湯気を見ている。湯気の向こうに、昨日の排水溝でも見えているような顔だった。

 タクトも黙っていた。

 腰の缶は鳴らない。

 鳴らないことが、今日は少し苦しい。

 マコトは食堂の入口近くに立っていた。

 メモ帳を持っていない。

 持っていないのに、右手の指だけが何かを書こうとしている。

 胸ポケットのあたりを触って、何もないことに気づき、また手を下ろす。

 それを何度か繰り返している。

 カナタは声をかけようとして、やめた。

 何を言えばいいか分からなかった。

 昨日、子供は帰った。

 命に別状はない。

 足は縫った。

 熱も下がった。

 でも、薬瓶が割れた。

 医療袋は泥で汚れた。

 排水溝の縁はさらに崩れた。

 黒札は一枚、帰ってきたもの置き場に置かれている。

 その下に、マコトの字で書かれた紙。

 《排水溝。春の水は信用しない》

 それを見るたび、食堂の空気がほんの少しだけ冷える。

 リゼはその紙の前にいた。

 赤い布を手首に巻き、机の上を拭いている。

 昨日までと同じように。

 ただ、今日はその手つきが少し遅い。

 紙を動かす時、指が止まる。

 読んでいるのではない。

 もう覚えている。

 でも、確認してしまう。

 そういう動きだった。

「朝礼」

 ガレスの声がした。

 食堂の入口。

 くたびれたコート。

 火のつかない煙草。

 眠そうな目。

 でも、その目だけは起きている。

「帰還誘導班、格納庫前」

 誰も文句を言わなかった。

 ユウトも豆の話をしなかった。

 それがいちばん、昨日の事故が残っている証拠だった。

 格納庫前には、昨日の黒札が置かれていた。

 泥は乾きかけている。

 文字は半分読めない。

 《なんか嫌》

 読めないのに、読める。

 その横に、割れた薬瓶の破片が小さな布の上に置かれていた。

 セナが置いたらしい。

 処分する前に見せるため。

 嫌な展示だった。

 でも、必要だった。

 カナタたちは半円に立った。

 ハルクは右端。

 ヒナセは通信機を胸に抱えている。

 マコトは手ぶら。

 ユウトは銃を持っていない。

 タクトは缶を押さえている。

 リゼは赤い布を握っている。

 ミナは工具箱を抱えている。

 セナは医療袋を肩にかけ、腕を組んでいた。

 ガレスは黒札を爪先で軽く示した。

「昨日の件だ」

 短い。

 それだけで、全員が少し息を止めた。

「まず、子供は生きてる。足も残る。走れるようになるかは医療次第だが、歩けなくなるわけじゃねぇ」

 空気が少しだけ動く。

 よかった。

 そう言いそうになって、誰も言わなかった。

 ガレスは続ける。

「薬は減った。医療袋は汚れた。排水路の危険範囲は見誤った。札は立てたが、人の足を止めきれなかった」

 言葉が一つずつ落ちる。

 石みたいに。

 誰かを責めているわけではない。

 でも、痛い。

 責められるより痛いことがある。

 事実を並べられることだ。

「反省会はしない」

 ガレスが言った。

 ユウトが少し顔を上げる。

「しないんですか」

「しても泥は浅くならん」

「でも」

「手順にする」

 それで、何人かが息を吐いた。

 責めない。

 終わらせない。

 手順にする。

 この部隊らしい言い方だった。

 セナが前へ出た。

「医療袋」

 短く言う。

 マコトが反射的に肩を震わせる。

 セナは彼を見た。

「マコトのせいじゃない」

「でも」

「違う」

 強かった。

「医療袋は落ちる。泥で汚れる。中で薬瓶が割れる。だから次から、薬瓶は硬いケースに分ける。袋の底には防水布。包帯は上段。泥に置くなら先に布を敷く」

 セナは一つずつ言った。

 怒っていない。

 怒っていないから、余計に聞こえる。

「昨日、あなたは袋を落とさなかった。包帯も出した。止血もできた。そこは手順通り。薬瓶が割れたのは、手順が足りなかったから」

 マコトの顔が歪んだ。

「自分が」

「違う」

 セナはもう一度言った。

「手順が足りない。人の責任にすると、次も割れる」

 マコトは何も言えなかった。

 代わりに、頷いた。

 カナタはその横顔を見た。

 マコトはまだ苦しそうだった。

 でも、少しだけ、立つ場所が戻ったように見えた。

 次にヒナセが前へ出た。

「通信と声です」

 彼女は小さな拡声器を持っていた。

「昨日、子供への声かけが近距離でした。聞こえてはいました。でも、足が先に動きました」

「どうする?」

 ガレスが訊く。

「排水路や泥濘地帯では、危険札より手前に声の線を置きます」

「声の線?」

 ユウトが呟く。

「はい。近づく前に聞こえる位置から、拡声器で止めます。近くで言うと、もう足が出ています」

 ヒナセは排水路の簡単な図を紙に描いて見せた。

 危険地点。

 札。

 誘導線。

 声を出す位置。

 確かに、昨日は札を立てる場所ばかり見ていた。

 声をどこで出すかまでは、考えていなかった。

 カナタは自分の中が少し冷えるのを感じた。

 見えていなかった。

 全部見ないと決めていた。

 でも、見えるはずの場所を渡していなかった。

「採用」

 ガレスが言った。

「声の線。名前は変だが」

「変でも使えれば」

 リゼが言う。

「それ、帰還誘導班の標語にできそう」

「やめてください」

 カナタは反射で言った。

 少しだけ笑いが起きた。

 小さい。

 でも、朝から初めての笑いだった。

 次はミナだった。

 彼女は工具箱から、小さな金属棒を何本か取り出した。

「排水溝用の確認棒」

「棒?」

 ユウトが言う。

「足で踏む前に突く。泥の深さと下の空洞を見る」

「武器になります?」

「ならない。たぶん」

「たぶん」

「でも、靴より先に負けてくれる」

 ミナは一本をカナタへ投げた。

 受け取る。

 軽い。

 先端に赤い印がある。

「赤まで沈んだらアウト。黄色なら注意。黒まで行ったら、そこはもう道じゃない」

「正式備品ですか」

 マコトが訊く。

「今から正式」

 ミナは言った。

「三号車の古いワイパーだから大事にして」

「ワイパーだったんですか」

「第二の人生」

 リゼが小さく笑う。

「ワイパーから排水溝棒へ」

「出世?」

 ユウトが訊く。

「用途変更」

 ミナは真顔だった。

 ハルクは排水溝棒を一本持ち、重さを確かめた。

「折れそうだ」

「折れたら謝って」

「了解」

 すぐ謝る気らしい。

 ミナは満足そうだった。

 タクトは布の箱を持ってきた。

 《音を消す布》

 先日の大掃除で作った箱だ。

 その中から何枚か取り出す。

「医療袋の中の瓶も、少し包めます」

「重くなる」

 セナが言う。

「薄いやつだけ」

「音も消える?」

「少し」

「割れも少し防げる」

「たぶん」

 セナは布を受け取った。

「使う」

 タクトは少しだけ嬉しそうにした。

 嬉しそう、というほど大きくはない。

 でも、分かった。

 自分の缶のために始めたことが、医療袋に使われる。

 それは、帰ってきたものが次の誰かを帰す道具になる瞬間だった。

 リゼは黒札の前にしゃがんだ。

 泥まみれの札。

 《なんか嫌》

 彼女はその下に、新しい札を並べた。

 《近づく前に止まる》

「これ、追加」

「言葉が強いですね」

 カナタが言う。

「昨日の子、止まれなかったから」

「はい」

「止まれって言われた時には、もう足が出てた」

 リゼは札を見た。

「だから、もっと手前」

 ヒナセが頷く。

「声の線と合わせます」

「うん」

 リゼは立ち上がった。

「帰還地点だけじゃなくて、止まる場所も作るんだね」

 その言葉で、カナタは少しだけ目を伏せた。

 帰すために止める。

 進ませるために待たせる。

 列は、動くだけでは壊れる。

 止まる場所があるから、また動ける。

 たぶん、それも手順だった。

 午前は、事故地点の再現訓練になった。

 格納庫前にロープで排水溝の線を作る。

 泥の代わりに濡れた布を敷く。

 危険札。

 声の線。

 確認棒。

 医療袋の置き方。

 子供役はユウトだった。

「なぜ俺が」

「足が軽そうだから」

 リゼが言う。

「褒めてます?」

「事故りそう」

「ひどい」

 ユウトは袋を持って、わざと危険地点へ近づく。

 ヒナセが手前から拡声器で止める。

『止まってください。札の先は足元が負けます』

「足元が負ける」

 ユウトが反応する。

「分かりやすい」

「では、そこから右へ」

 リゼが赤布を振る。

 マコトが確認棒で地面を突く。

 タクトが医療袋の置き布を広げる。

 セナが見ている。

 ハルクが右側を塞ぐ。

 カナタは全体を見る。

 全部ではない。

 分けている。

 昨日より少しだけ、見える場所が増えている。

 訓練は何度も繰り返された。

 一回目は遅い。

 二回目は声が重なる。

 三回目はユウトが変な芝居を始めて、セナに怒られる。

 四回目で、少し形になる。

 五回目で、マコトの手が震えなくなった。

 完全ではない。

 でも、事故は手順になり始めていた。

 昼、食堂でスープを飲んだ。

 豆は二粒。

 市民。

 ユウトがようやく言った。

「今日は市民権があります」

 誰かが小さく笑った。

 朝より、ちゃんと笑えた。

 マコトは椀を見ていた。

「昨日の子に、スープ届きましたか」

 セナが答える。

「届いた。熱くて怒ってた」

「怒れるなら」

「いい」

 セナは短く言った。

 マコトは頷いた。

 それだけで、少し顔が戻った。

 午後、カナタたちは事故現場へ戻った。

 本物の排水溝。

 春の水。

 黒い泥。

 崩れた縁。

 昨日の跡は、まだあった。

 子供の足跡。

 引きずった跡。

 カナタが伏せた場所。

 さらに崩れた場所。

 見たくない。

 でも、見る。

 見えた方が拭ける。

 リゼが昨日言ったことを思い出した。

 今は、拭くのではなく、札を立てる。

 ヒナセが声の線の位置を決める。

 マコトが危険札を手前に立てる。

 ミナの確認棒で地面を突く。

 タクトが白布を張る。

 ハルクが通行止めのロープを支える。

 リゼが赤い布を、かなり手前の木に結ぶ。

「ここから先は、足元が負ける」

 彼女は言った。

「人は?」

 ユウトが訊く。

「戻れば勝ち」

「名言っぽい」

「実用情報」

 カナタは排水溝を見た。

 昨日と同じ音がする。

 ごぼ。

 水が下で笑ったみたいな音。

 でも、今日はその手前に札がある。

 声を出す場所がある。

 確認棒がある。

 ロープがある。

 人がいる。

 事故は消えない。

 でも、同じ事故を減らすことはできるかもしれない。

 それを希望と呼ぶには、少し地味すぎる。

 でも、帰還誘導班にはそれくらいが合っていた。

 夕方、ハウンド七へ戻ると、帰ってきたもの置き場に新しいものが増えた。

 折れた確認棒の先端。

 訓練中にハルクが折ったものだ。

 ミナが怒り、ハルクが謝り、最終的に「折れて危険が分かったので有効」ということになった。

 その横に、マコトが新しい紙を置いた。

 《止まる場所も、帰る道》

 リゼがそれを見た。

「いいじゃん」

 マコトは少し照れた。

「記録です」

「詩みたい」

「すみません」

「褒めてる」

 食堂の窓には、昨日の文字が滲んでいる。

 靴は負けても人は帰る。

 たぶん。

 今日、カナタはその下に小さく書き足した。

 《止まってから》

 リゼがそれを見て笑う。

「湿った手袋先生、追記」

「やめてください」

「でも、いいね」

 カナタは指についた結露を払った。

 外は春の夕方だった。

 排水溝の音は、まだ耳に残っている。

 薬瓶が割れたことも、子供の泣き声も、泥の冷たさも、全部残っている。

 でも、それらは今日、少しだけ形を変えた。

 責めるためではなく。

 忘れるためでもなく。

 次に止まるために。

 次に帰るために。

 カナタは手袋を見る。

 やはり湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、また少し湿った。

「悪化した」

 今日は少しだけ、笑えた。

 ほんの少しだけ。

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