帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
失敗の翌朝は、いつもより静かだった。
警報が鳴っていないのに、食堂の声が少し低い。
椀が置かれる音も、椅子を引く音も、誰かが咳をする音も、全部がいつもより一枚布をかぶっているみたいだった。窓の外は春の曇り空で、泥は昨日と同じ色をしている。格納庫では三号車がいつものように咳をしていて、通信塔はいつものように低い雲の下に立っていた。
世界は、事故が起きたことを知らない顔をしている。
それが少し腹立たしかった。
カナタは食堂の隅で、豆スープを見ていた。
豆は二粒。
市民。
ユウトならそう言う。
でも、そのユウトは今日は豆を数えなかった。
椀を両手で持ったまま、ぼんやり湯気を見ている。湯気の向こうに、昨日の排水溝でも見えているような顔だった。
タクトも黙っていた。
腰の缶は鳴らない。
鳴らないことが、今日は少し苦しい。
マコトは食堂の入口近くに立っていた。
メモ帳を持っていない。
持っていないのに、右手の指だけが何かを書こうとしている。
胸ポケットのあたりを触って、何もないことに気づき、また手を下ろす。
それを何度か繰り返している。
カナタは声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいか分からなかった。
昨日、子供は帰った。
命に別状はない。
足は縫った。
熱も下がった。
でも、薬瓶が割れた。
医療袋は泥で汚れた。
排水溝の縁はさらに崩れた。
黒札は一枚、帰ってきたもの置き場に置かれている。
その下に、マコトの字で書かれた紙。
《排水溝。春の水は信用しない》
それを見るたび、食堂の空気がほんの少しだけ冷える。
リゼはその紙の前にいた。
赤い布を手首に巻き、机の上を拭いている。
昨日までと同じように。
ただ、今日はその手つきが少し遅い。
紙を動かす時、指が止まる。
読んでいるのではない。
もう覚えている。
でも、確認してしまう。
そういう動きだった。
「朝礼」
ガレスの声がした。
食堂の入口。
くたびれたコート。
火のつかない煙草。
眠そうな目。
でも、その目だけは起きている。
「帰還誘導班、格納庫前」
誰も文句を言わなかった。
ユウトも豆の話をしなかった。
それがいちばん、昨日の事故が残っている証拠だった。
格納庫前には、昨日の黒札が置かれていた。
泥は乾きかけている。
文字は半分読めない。
《なんか嫌》
読めないのに、読める。
その横に、割れた薬瓶の破片が小さな布の上に置かれていた。
セナが置いたらしい。
処分する前に見せるため。
嫌な展示だった。
でも、必要だった。
カナタたちは半円に立った。
ハルクは右端。
ヒナセは通信機を胸に抱えている。
マコトは手ぶら。
ユウトは銃を持っていない。
タクトは缶を押さえている。
リゼは赤い布を握っている。
ミナは工具箱を抱えている。
セナは医療袋を肩にかけ、腕を組んでいた。
ガレスは黒札を爪先で軽く示した。
「昨日の件だ」
短い。
それだけで、全員が少し息を止めた。
「まず、子供は生きてる。足も残る。走れるようになるかは医療次第だが、歩けなくなるわけじゃねぇ」
空気が少しだけ動く。
よかった。
そう言いそうになって、誰も言わなかった。
ガレスは続ける。
「薬は減った。医療袋は汚れた。排水路の危険範囲は見誤った。札は立てたが、人の足を止めきれなかった」
言葉が一つずつ落ちる。
石みたいに。
誰かを責めているわけではない。
でも、痛い。
責められるより痛いことがある。
事実を並べられることだ。
「反省会はしない」
ガレスが言った。
ユウトが少し顔を上げる。
「しないんですか」
「しても泥は浅くならん」
「でも」
「手順にする」
それで、何人かが息を吐いた。
責めない。
終わらせない。
手順にする。
この部隊らしい言い方だった。
セナが前へ出た。
「医療袋」
短く言う。
マコトが反射的に肩を震わせる。
セナは彼を見た。
「マコトのせいじゃない」
「でも」
「違う」
強かった。
「医療袋は落ちる。泥で汚れる。中で薬瓶が割れる。だから次から、薬瓶は硬いケースに分ける。袋の底には防水布。包帯は上段。泥に置くなら先に布を敷く」
セナは一つずつ言った。
怒っていない。
怒っていないから、余計に聞こえる。
「昨日、あなたは袋を落とさなかった。包帯も出した。止血もできた。そこは手順通り。薬瓶が割れたのは、手順が足りなかったから」
マコトの顔が歪んだ。
「自分が」
「違う」
セナはもう一度言った。
「手順が足りない。人の責任にすると、次も割れる」
マコトは何も言えなかった。
代わりに、頷いた。
カナタはその横顔を見た。
マコトはまだ苦しそうだった。
でも、少しだけ、立つ場所が戻ったように見えた。
次にヒナセが前へ出た。
「通信と声です」
彼女は小さな拡声器を持っていた。
「昨日、子供への声かけが近距離でした。聞こえてはいました。でも、足が先に動きました」
「どうする?」
ガレスが訊く。
「排水路や泥濘地帯では、危険札より手前に声の線を置きます」
「声の線?」
ユウトが呟く。
「はい。近づく前に聞こえる位置から、拡声器で止めます。近くで言うと、もう足が出ています」
ヒナセは排水路の簡単な図を紙に描いて見せた。
危険地点。
札。
誘導線。
声を出す位置。
確かに、昨日は札を立てる場所ばかり見ていた。
声をどこで出すかまでは、考えていなかった。
カナタは自分の中が少し冷えるのを感じた。
見えていなかった。
全部見ないと決めていた。
でも、見えるはずの場所を渡していなかった。
「採用」
ガレスが言った。
「声の線。名前は変だが」
「変でも使えれば」
リゼが言う。
「それ、帰還誘導班の標語にできそう」
「やめてください」
カナタは反射で言った。
少しだけ笑いが起きた。
小さい。
でも、朝から初めての笑いだった。
次はミナだった。
彼女は工具箱から、小さな金属棒を何本か取り出した。
「排水溝用の確認棒」
「棒?」
ユウトが言う。
「足で踏む前に突く。泥の深さと下の空洞を見る」
「武器になります?」
「ならない。たぶん」
「たぶん」
「でも、靴より先に負けてくれる」
ミナは一本をカナタへ投げた。
受け取る。
軽い。
先端に赤い印がある。
「赤まで沈んだらアウト。黄色なら注意。黒まで行ったら、そこはもう道じゃない」
「正式備品ですか」
マコトが訊く。
「今から正式」
ミナは言った。
「三号車の古いワイパーだから大事にして」
「ワイパーだったんですか」
「第二の人生」
リゼが小さく笑う。
「ワイパーから排水溝棒へ」
「出世?」
ユウトが訊く。
「用途変更」
ミナは真顔だった。
ハルクは排水溝棒を一本持ち、重さを確かめた。
「折れそうだ」
「折れたら謝って」
「了解」
すぐ謝る気らしい。
ミナは満足そうだった。
タクトは布の箱を持ってきた。
《音を消す布》
先日の大掃除で作った箱だ。
その中から何枚か取り出す。
「医療袋の中の瓶も、少し包めます」
「重くなる」
セナが言う。
「薄いやつだけ」
「音も消える?」
「少し」
「割れも少し防げる」
「たぶん」
セナは布を受け取った。
「使う」
タクトは少しだけ嬉しそうにした。
嬉しそう、というほど大きくはない。
でも、分かった。
自分の缶のために始めたことが、医療袋に使われる。
それは、帰ってきたものが次の誰かを帰す道具になる瞬間だった。
リゼは黒札の前にしゃがんだ。
泥まみれの札。
《なんか嫌》
彼女はその下に、新しい札を並べた。
《近づく前に止まる》
「これ、追加」
「言葉が強いですね」
カナタが言う。
「昨日の子、止まれなかったから」
「はい」
「止まれって言われた時には、もう足が出てた」
リゼは札を見た。
「だから、もっと手前」
ヒナセが頷く。
「声の線と合わせます」
「うん」
リゼは立ち上がった。
「帰還地点だけじゃなくて、止まる場所も作るんだね」
その言葉で、カナタは少しだけ目を伏せた。
帰すために止める。
進ませるために待たせる。
列は、動くだけでは壊れる。
止まる場所があるから、また動ける。
たぶん、それも手順だった。
午前は、事故地点の再現訓練になった。
格納庫前にロープで排水溝の線を作る。
泥の代わりに濡れた布を敷く。
危険札。
声の線。
確認棒。
医療袋の置き方。
子供役はユウトだった。
「なぜ俺が」
「足が軽そうだから」
リゼが言う。
「褒めてます?」
「事故りそう」
「ひどい」
ユウトは袋を持って、わざと危険地点へ近づく。
ヒナセが手前から拡声器で止める。
『止まってください。札の先は足元が負けます』
「足元が負ける」
ユウトが反応する。
「分かりやすい」
「では、そこから右へ」
リゼが赤布を振る。
マコトが確認棒で地面を突く。
タクトが医療袋の置き布を広げる。
セナが見ている。
ハルクが右側を塞ぐ。
カナタは全体を見る。
全部ではない。
分けている。
昨日より少しだけ、見える場所が増えている。
訓練は何度も繰り返された。
一回目は遅い。
二回目は声が重なる。
三回目はユウトが変な芝居を始めて、セナに怒られる。
四回目で、少し形になる。
五回目で、マコトの手が震えなくなった。
完全ではない。
でも、事故は手順になり始めていた。
昼、食堂でスープを飲んだ。
豆は二粒。
市民。
ユウトがようやく言った。
「今日は市民権があります」
誰かが小さく笑った。
朝より、ちゃんと笑えた。
マコトは椀を見ていた。
「昨日の子に、スープ届きましたか」
セナが答える。
「届いた。熱くて怒ってた」
「怒れるなら」
「いい」
セナは短く言った。
マコトは頷いた。
それだけで、少し顔が戻った。
午後、カナタたちは事故現場へ戻った。
本物の排水溝。
春の水。
黒い泥。
崩れた縁。
昨日の跡は、まだあった。
子供の足跡。
引きずった跡。
カナタが伏せた場所。
さらに崩れた場所。
見たくない。
でも、見る。
見えた方が拭ける。
リゼが昨日言ったことを思い出した。
今は、拭くのではなく、札を立てる。
ヒナセが声の線の位置を決める。
マコトが危険札を手前に立てる。
ミナの確認棒で地面を突く。
タクトが白布を張る。
ハルクが通行止めのロープを支える。
リゼが赤い布を、かなり手前の木に結ぶ。
「ここから先は、足元が負ける」
彼女は言った。
「人は?」
ユウトが訊く。
「戻れば勝ち」
「名言っぽい」
「実用情報」
カナタは排水溝を見た。
昨日と同じ音がする。
ごぼ。
水が下で笑ったみたいな音。
でも、今日はその手前に札がある。
声を出す場所がある。
確認棒がある。
ロープがある。
人がいる。
事故は消えない。
でも、同じ事故を減らすことはできるかもしれない。
それを希望と呼ぶには、少し地味すぎる。
でも、帰還誘導班にはそれくらいが合っていた。
夕方、ハウンド七へ戻ると、帰ってきたもの置き場に新しいものが増えた。
折れた確認棒の先端。
訓練中にハルクが折ったものだ。
ミナが怒り、ハルクが謝り、最終的に「折れて危険が分かったので有効」ということになった。
その横に、マコトが新しい紙を置いた。
《止まる場所も、帰る道》
リゼがそれを見た。
「いいじゃん」
マコトは少し照れた。
「記録です」
「詩みたい」
「すみません」
「褒めてる」
食堂の窓には、昨日の文字が滲んでいる。
靴は負けても人は帰る。
たぶん。
今日、カナタはその下に小さく書き足した。
《止まってから》
リゼがそれを見て笑う。
「湿った手袋先生、追記」
「やめてください」
「でも、いいね」
カナタは指についた結露を払った。
外は春の夕方だった。
排水溝の音は、まだ耳に残っている。
薬瓶が割れたことも、子供の泣き声も、泥の冷たさも、全部残っている。
でも、それらは今日、少しだけ形を変えた。
責めるためではなく。
忘れるためでもなく。
次に止まるために。
次に帰るために。
カナタは手袋を見る。
やはり湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、また少し湿った。
「悪化した」
今日は少しだけ、笑えた。
ほんの少しだけ。