帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
学校へ行く朝は、少しだけ体が軽くなるものだと思っていた。
嘘だ。
たぶん、そんなことはなかった。
眠い。
靴下が片方だけ見つからない。
鞄が重い。
提出物を忘れた気がする。
朝の空気は冷たい。
校門までの道は、毎日少し長い。
それでも、学校へ行くことには、どこか決まった手順があった。朝食を食べる。靴を履く。玄関を出る。道を歩く。門をくぐる。下駄箱で靴を替える。教室へ行く。
帰る手順も、たぶんあった。
チャイムが鳴る。
机に教科書をしまう。
誰かと廊下を歩く。
校門を出る。
途中で寄り道をする。
家に帰る。
リゼは、その手順の途中で止まったままだった。
だから、その日、旧学校区へ向かう三号車の中で、カナタは何度もリゼを見た。
見ないようにしようとして、見た。
リゼは助手席に座っている。
制服に軍用コート。
手首には赤い布。
患者服も包帯もない。
顔色も悪くない。
ただ、窓の外を見る目が、いつもの食堂の目と少し違った。
前を見ているのではない。
戻る場所を見ている。
そういう目だった。
「見すぎ」
リゼが言った。
外を見たまま。
「すみません」
「心配?」
「はい」
「即答」
「嘘をつく場面ではないので」
「じゃあ、心配しといて」
「はい」
「でも、止めないで」
その言い方が、少しだけずるかった。
止めるなと言いながら、心配は許す。
リゼは時々、そういう器用なわがままを言う。
ユウトが荷台から顔を出した。
「リゼさん、靴は勝てそうですか」
「今日は引き分け狙い」
「現実的」
「勝てない勝負はしない」
「でも学校には行く」
「それは勝負じゃない」
「じゃあ何ですか」
リゼは少し黙った。
三号車が泥を踏む。
ぐず、と鈍い音。
窓の外では、春の旧道が低く続いている。雪はほとんど消えた。代わりに、道端の草が細く伸び始めている。空は曇っているのに、光だけは冬より柔らかかった。
「忘れ物」
リゼは言った。
「取りに行く感じ」
ユウトは少し考えてから頷いた。
「忘れ物なら仕方ないですね」
「軽い」
カナタが言うと、ユウトは肩をすくめた。
「難しく言うと怖いので」
それは、リゼの言葉だった。
リゼは少しだけ笑った。
「盗用」
「継承です」
「便利な言葉」
車内に小さな笑いが起きた。
ミナは運転しながら、三号車のハンドルを軽く叩く。
「学校行くの、三号車は初めてだっけ」
「三号車に学歴が?」
ユウトが言う。
「今日は見学」
「遠足みたいですね」
「春だし」
タクトが荷台で缶を押さえた。
音はしない。
「遠足なら、おやつが要ります」
「乾パンならある」
ミナが答える。
「おやつというより鈍器」
「食べられる鈍器」
「嫌な分類」
マコトはメモ帳を持っていなかった。
今日は記録担当ではなく、足元担当として来ている。
胸ポケットは空。
その代わり、確認棒を持っている。
ヒナセは通信機材と、小型マイクを抱えている。
ハルクは盾。
セナは医療袋。
旧帰還誘導兵だけではない。
新しい三人もいる。
それが少し不思議だった。
リゼの忘れ物を取りに行くのに、部隊が増えている。
でも、たぶんそれでいい。
帰ることは、ひとりでやると危ない。
旧学校区の校門は、前より低く見えた。
最初に見た時は、雪の中に黒く立っていた。
今は泥の中に傾いている。
看板の文字は半分剥がれていた。
旧学区防衛学校。
学校だったもの。
学校でなくなったもの。
でも、リゼが校門の前で立ち止まった瞬間、そこは少しだけ学校に戻った。
たぶん、見る人のせいだ。
「着いた」
リゼが言った。
「はい」
「変な感じ」
「どんな」
「遅刻した朝みたい」
リゼは校門を見上げる。
「誰も怒らないのに」
誰も何も言わなかった。
怒る教師はいない。
門の前で待つ生徒もいない。
チャイムもない。
ただ、風が通る。
それだけだった。
校庭には、春の泥が広がっていた。
冬に雪で隠れていたものが、少しずつ顔を出している。
錆びた鉄棒。
折れた箒。
割れた窓ガラス。
誰かの上履き。
泥の中から半分だけ出ている白いボール。
体育館の壁には焦げ跡。
地下倉庫のあたりは、まだ黒い。
文化祭の残りを燃やした場所。
カナタは匂いを思い出した。
紙吹雪が燃える匂い。
絵の具とビニールが混ざった、甘くて嫌な匂い。
春の風の中に、もうその匂いはほとんどない。
ないのに、鼻の奥に残っている。
「地下は後」
リゼが言った。
カナタは彼女を見る。
「先に教室」
「分かりました」
「放送室は最後」
「はい」
順番がある。
リゼの中に、もう道ができている。
校舎へ入る前に、ヒナセが通信を確認した。
「周辺反応、微弱。校舎内は不明です。金属反射が多い」
「レイスは」
ハルクが訊く。
「今のところ、熱源なし。ただし、旧校舎内は見通し悪いです」
「俺が先に入る」
ハルクが盾を構える。
「学校に盾が入るの、変だね」
リゼが言う。
「壁よりまし」
ハルクは短く答えた。
「自覚あったんだ」
ユウトが小声で言う。
ハルクは反応しない。
校舎の中は、外より少し寒かった。
春なのに。
壁が水を吸っているからだろう。
廊下には湿った木と古い紙の匂いがあった。チョークの粉の匂いも残っている。どこかで水が落ちる音がする。ぽた。少し間を置いて、また、ぽた。
靴音が響く。
軍靴。
学生靴。
工具の音。
通信機材の小さな金属音。
学校の廊下に似合わない音ばかりだった。
「廊下、走らない」
リゼが小さく言った。
「校則ですか」
ユウトが訊く。
「校則」
「戦時でも?」
「今だけ」
「今だけ守る校則」
「いいじゃん」
リゼは少し笑った。
その笑いは、廊下に落ちてすぐ消えた。
教室の前に着く。
リゼが扉に手をかけた。
少し力を入れる。
がた、と鳴る。
開かない。
ミナがすぐ工具を出した。
「鍵?」
「たぶん歪み」
「学校も機嫌悪い?」
「かなり」
ミナは金具を見て、工具を差し込んだ。
かん。
かん。
学校の廊下に工具の音が響く。
その音が、妙に安心した。
壊れたものを開けようとしている音。
まだ使えるかもしれないと、言い聞かせる音。
扉が開いた。
教室には、まだ日直の名前が残っていた。
黒板の右上。
白いチョークの文字。
リゼ。
その隣、雑に消されたもう一人の名前。
前より薄くなっている。
でも、まだある。
消えた名前の跡は、消えたというより、残ることに疲れているみたいだった。
リゼは教室へ入った。
足音が変わる。
廊下の固い音から、教室の少し乾いた音へ。
机がいくつか倒れている。
椅子の脚が折れている。
窓際の鉢植えは、完全に枯れていた。
黒板には数式の跡。
その下に弾痕。
授業と戦闘が同じ壁に貼りついている。
何度見ても、慣れなかった。
「ここ」
リゼが言った。
「私、ここにいた」
「はい」
「たぶん、すごく普通に」
彼女は倒れた椅子を一つ起こした。
椅子は少し傾いている。
それでも立った。
「ここで、眠かったり、購買のパンのこと考えたり、テスト嫌だなって思ったりしてた」
リゼは笑った。
「今考えると、かなり贅沢」
ユウトが言った。
「テストは嫌ですよ」
「だよね」
「そこは譲れません」
少しだけ笑いが起きた。
リゼは黒板の前に立つ。
チョーク受けには、短い白チョークが残っていた。
彼女はそれを手に取った。
指に粉がつく。
リゼは自分の名前の下に、何かを書こうとして止まった。
書かない。
チョークを戻す。
「まだ」
小さく言った。
カナタには、それが自分に向けた言葉なのか、黒板に向けた言葉なのか分からなかった。
次に、保健室へ向かった。
リゼは最初、行かないと言っていた。
でも、廊下の途中で足を止め、結局ドアを開けた。
中には白いカーテンが半分落ちていた。
ベッドは一台だけ残っている。
棚には空の薬瓶。
身長計。
古いポスター。
手洗い場の蛇口は錆びている。
セナが部屋を見回した。
「薬はない」
「見れば分かる」
リゼが言う。
「一応」
セナは短く答える。
リゼは身長計の前に立った。
少し背筋を伸ばす。
「伸びたかな」
「測ります?」
ユウトが訊く。
「やだ」
「なぜ」
「伸びてなかったら負ける」
「靴以外も負けるんですね」
「人生は勝敗が多い」
セナが横から言った。
「栄養が足りないと伸びない」
「急に現実」
「現実だから」
リゼは身長計から離れた。
でも、その指は少しだけ柱の傷を撫でた。
誰かの身長を刻んだ跡が、いくつも残っている。
数字。
日付。
名前。
リゼの名前はなかった。
それでも、彼女はそこを見ていた。
次は、地下倉庫だった。
理科準備室の奥。
人体模型は倒れていた。
ビーカーの破片は、前よりさらに細かくなっている。
黒板の《酸化》の文字はまだ残っていた。
その横の猫の落書きも。
口が三角で、ひげが六本。
猫はまだ笑っている。
「こいつ、強いね」
リゼが言った。
「猫ですか」
「うん。まだ笑ってる」
「描いた人、上手いですね」
「上手いかな」
「印象に残ります」
「それは上手いかも」
地下倉庫は、焦げていた。
文化祭の残りを燃やした場所。
段ボールの恐竜は、もうない。
看板もない。
紙吹雪もない。
床には黒い跡が残っている。
燃えたものの形だけが、うっすら分かる。
リゼはそこに立った。
長く。
誰も声をかけなかった。
地下は湿っている。
焦げた匂いは薄くなっている。
でも、完全には消えていない。
タクトが缶を押さえる。
音はしない。
ミナは何も言わず、焦げ跡の端に落ちていた小さな金具を拾った。
「これ、恐竜の首のテープ留め?」
リゼが見る。
小さな金具。
焦げて黒い。
何だったのかは分からない。
でも、たぶん何かだった。
「持って帰る?」
ミナが訊く。
リゼは少し考えた。
「ううん」
「いいの?」
「ここに置いとく」
「忘れ物なのに?」
「全部持って帰ると、ここが空っぽになる」
リゼは焦げ跡を見る。
「空っぽにしたいわけじゃない」
カナタはその言葉を覚えた。
全部持って帰ることが、帰ることではない。
置いてあると分かって帰ることも、たぶん必要なのだ。
最後に、放送室へ向かった。
階段を上る。
二階の廊下。
窓から校庭が見える。
鉄棒。
校門。
三号車。
春の泥。
放送室の扉は閉まっていた。
古いプレートに《放送室》と書いてある。
文字は少し剥げている。
ヒナセが前に出た。
「鍵、壊れています」
「開く?」
リゼが訊く。
「たぶん」
「たぶん多いね」
「学校の機械なので」
ヒナセは細い工具を取り出した。
ミナが横から覗く。
「貸そうか」
「大丈夫です」
「手つきいいね」
「ありがとうございます」
「学校荒らしっぽい」
「褒めてます?」
「かなり」
鍵が開く。
放送室の中は、埃っぽかった。
机。
古いマイク。
スイッチ盤。
コード。
割れた窓。
外から入った泥。
壁には、行事予定の紙が貼られている。
《春季清掃》
《避難訓練》
《放送委員会当番表》
避難訓練。
その文字が、冗談みたいに見えた。
冗談ではない。
でも、ひどく遠い。
リゼはマイクの前に立った。
触れない。
ただ見る。
ヒナセが機材を確認する。
「電源は死んでます。でも、外部バッテリーがあれば、校内放送の一部は使えるかもしれません」
「使える?」
リゼが訊く。
「たぶん」
「またたぶん」
「でも、たぶんです」
リゼはマイクを見たまま、少しだけ笑った。
「ここから声、出せるんだ」
「はい」
「学校中に?」
「残っていれば」
「残ってるかな」
「確認します」
その時、通信機が小さく鳴った。
ヒナセが顔を上げる。
「外周、微弱熱源」
ハルクが盾を構える。
「数は」
「一。すぐには来ません」
校舎の空気が変わった。
学校だった場所から、戦場だった場所へ。
その切り替わりは速い。
速すぎる。
「今日はここまで」
カナタは言った。
リゼを見る。
リゼはまだマイクを見ていた。
それから頷く。
「うん」
「戻ります」
「うん」
彼女は一度だけ、マイクに指先で触れた。
埃がつく。
白い粉ではなく、灰色の埃。
「次は、声出す」
リゼが言った。
小さい声だった。
でも、放送室ではよく響いた。
校舎を出る時、リゼは振り返らなかった。
最初にここから逃げた時、誰も振り返らなかった。
でも、今日のそれは少し違った。
振り返らないのではなく、次に来る場所として背中に置いたように見えた。
三号車に戻ると、ミナがエンジンをかけた。
「学校見学、終わり?」
「今日は」
リゼが答える。
「次、放送室」
「機材いるね」
ヒナセが頷く。
「バッテリーと接続端子を準備します」
「三号車、運べる?」
リゼが訊く。
ミナはハンドルを軽く叩いた。
「文句言いながら運ぶ」
「頼もしい」
「あとで謝って」
「うん」
ハウンド七へ戻る道で、リゼは窓の外を見ていた。
行きより少しだけ顔が軽い。
全部回収したわけではない。
むしろ、置いてきたものを確認しただけだった。
でも、それでよかったのかもしれない。
帰るには、まず何を置いてきたのか知らなければならない。
食堂に戻ると、帰ってきたもの置き場にリゼは何も置かなかった。
ユウトが不思議そうに訊く。
「何も持ってこなかったんですか」
「持ってこなかった」
「忘れ物なのに?」
「今日は、場所を見に行った」
「じゃあ次」
「うん」
リゼは食堂の窓に指で書いた。
《次は放送》
結露で少し滲む。
でも、読めた。
カナタはそれを見て、旧学校区の放送室を思い出した。
埃。
マイク。
避難訓練の紙。
声を待っている場所。
春の夕方、通信塔から定時連絡が流れた。
『各避難列、異常なし』
食堂の中で、誰かが小さく息を吐いた。
リゼは窓の文字を見ていた。
半分置いてきた場所へ、もう一度行く。
今度は、声を出すために。
カナタの手袋は今日も湿っていた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ埃の匂いがした気がした。
学校の匂いだった。
たぶん。