帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第三十八話 学校設備調査任務

 学校へ行く朝は、少しだけ体が軽くなるものだと思っていた。

 嘘だ。

 たぶん、そんなことはなかった。

 眠い。

 靴下が片方だけ見つからない。

 鞄が重い。

 提出物を忘れた気がする。

 朝の空気は冷たい。

 校門までの道は、毎日少し長い。

 それでも、学校へ行くことには、どこか決まった手順があった。朝食を食べる。靴を履く。玄関を出る。道を歩く。門をくぐる。下駄箱で靴を替える。教室へ行く。

 帰る手順も、たぶんあった。

 チャイムが鳴る。

 机に教科書をしまう。

 誰かと廊下を歩く。

 校門を出る。

 途中で寄り道をする。

 家に帰る。

 リゼは、その手順の途中で止まったままだった。

 だから、その日、旧学校区へ向かう三号車の中で、カナタは何度もリゼを見た。

 見ないようにしようとして、見た。

 リゼは助手席に座っている。

 制服に軍用コート。

 手首には赤い布。

 患者服も包帯もない。

 顔色も悪くない。

 ただ、窓の外を見る目が、いつもの食堂の目と少し違った。

 前を見ているのではない。

 戻る場所を見ている。

 そういう目だった。

「見すぎ」

 リゼが言った。

 外を見たまま。

「すみません」

「心配?」

「はい」

「即答」

「嘘をつく場面ではないので」

「じゃあ、心配しといて」

「はい」

「でも、止めないで」

 その言い方が、少しだけずるかった。

 止めるなと言いながら、心配は許す。

 リゼは時々、そういう器用なわがままを言う。

 ユウトが荷台から顔を出した。

「リゼさん、靴は勝てそうですか」

「今日は引き分け狙い」

「現実的」

「勝てない勝負はしない」

「でも学校には行く」

「それは勝負じゃない」

「じゃあ何ですか」

 リゼは少し黙った。

 三号車が泥を踏む。

 ぐず、と鈍い音。

 窓の外では、春の旧道が低く続いている。雪はほとんど消えた。代わりに、道端の草が細く伸び始めている。空は曇っているのに、光だけは冬より柔らかかった。

「忘れ物」

 リゼは言った。

「取りに行く感じ」

 ユウトは少し考えてから頷いた。

「忘れ物なら仕方ないですね」

「軽い」

 カナタが言うと、ユウトは肩をすくめた。

「難しく言うと怖いので」

 それは、リゼの言葉だった。

 リゼは少しだけ笑った。

「盗用」

「継承です」

「便利な言葉」

 車内に小さな笑いが起きた。

 ミナは運転しながら、三号車のハンドルを軽く叩く。

「学校行くの、三号車は初めてだっけ」

「三号車に学歴が?」

 ユウトが言う。

「今日は見学」

「遠足みたいですね」

「春だし」

 タクトが荷台で缶を押さえた。

 音はしない。

「遠足なら、おやつが要ります」

「乾パンならある」

 ミナが答える。

「おやつというより鈍器」

「食べられる鈍器」

「嫌な分類」

 マコトはメモ帳を持っていなかった。

 今日は記録担当ではなく、足元担当として来ている。

 胸ポケットは空。

 その代わり、確認棒を持っている。

 ヒナセは通信機材と、小型マイクを抱えている。

 ハルクは盾。

 セナは医療袋。

 旧帰還誘導兵だけではない。

 新しい三人もいる。

 それが少し不思議だった。

 リゼの忘れ物を取りに行くのに、部隊が増えている。

 でも、たぶんそれでいい。

 帰ることは、ひとりでやると危ない。

 旧学校区の校門は、前より低く見えた。

 最初に見た時は、雪の中に黒く立っていた。

 今は泥の中に傾いている。

 看板の文字は半分剥がれていた。

 旧学区防衛学校。

 学校だったもの。

 学校でなくなったもの。

 でも、リゼが校門の前で立ち止まった瞬間、そこは少しだけ学校に戻った。

 たぶん、見る人のせいだ。

「着いた」

 リゼが言った。

「はい」

「変な感じ」

「どんな」

「遅刻した朝みたい」

 リゼは校門を見上げる。

「誰も怒らないのに」

 誰も何も言わなかった。

 怒る教師はいない。

 門の前で待つ生徒もいない。

 チャイムもない。

 ただ、風が通る。

 それだけだった。

 校庭には、春の泥が広がっていた。

 冬に雪で隠れていたものが、少しずつ顔を出している。

 錆びた鉄棒。

 折れた箒。

 割れた窓ガラス。

 誰かの上履き。

 泥の中から半分だけ出ている白いボール。

 体育館の壁には焦げ跡。

 地下倉庫のあたりは、まだ黒い。

 文化祭の残りを燃やした場所。

 カナタは匂いを思い出した。

 紙吹雪が燃える匂い。

 絵の具とビニールが混ざった、甘くて嫌な匂い。

 春の風の中に、もうその匂いはほとんどない。

 ないのに、鼻の奥に残っている。

「地下は後」

 リゼが言った。

 カナタは彼女を見る。

「先に教室」

「分かりました」

「放送室は最後」

「はい」

 順番がある。

 リゼの中に、もう道ができている。

 校舎へ入る前に、ヒナセが通信を確認した。

「周辺反応、微弱。校舎内は不明です。金属反射が多い」

「レイスは」

 ハルクが訊く。

「今のところ、熱源なし。ただし、旧校舎内は見通し悪いです」

「俺が先に入る」

 ハルクが盾を構える。

「学校に盾が入るの、変だね」

 リゼが言う。

「壁よりまし」

 ハルクは短く答えた。

「自覚あったんだ」

 ユウトが小声で言う。

 ハルクは反応しない。

 校舎の中は、外より少し寒かった。

 春なのに。

 壁が水を吸っているからだろう。

 廊下には湿った木と古い紙の匂いがあった。チョークの粉の匂いも残っている。どこかで水が落ちる音がする。ぽた。少し間を置いて、また、ぽた。

 靴音が響く。

 軍靴。

 学生靴。

 工具の音。

 通信機材の小さな金属音。

 学校の廊下に似合わない音ばかりだった。

「廊下、走らない」

 リゼが小さく言った。

「校則ですか」

 ユウトが訊く。

「校則」

「戦時でも?」

「今だけ」

「今だけ守る校則」

「いいじゃん」

 リゼは少し笑った。

 その笑いは、廊下に落ちてすぐ消えた。

 教室の前に着く。

 リゼが扉に手をかけた。

 少し力を入れる。

 がた、と鳴る。

 開かない。

 ミナがすぐ工具を出した。

「鍵?」

「たぶん歪み」

「学校も機嫌悪い?」

「かなり」

 ミナは金具を見て、工具を差し込んだ。

 かん。

 かん。

 学校の廊下に工具の音が響く。

 その音が、妙に安心した。

 壊れたものを開けようとしている音。

 まだ使えるかもしれないと、言い聞かせる音。

 扉が開いた。

 教室には、まだ日直の名前が残っていた。

 黒板の右上。

 白いチョークの文字。

 リゼ。

 その隣、雑に消されたもう一人の名前。

 前より薄くなっている。

 でも、まだある。

 消えた名前の跡は、消えたというより、残ることに疲れているみたいだった。

 リゼは教室へ入った。

 足音が変わる。

 廊下の固い音から、教室の少し乾いた音へ。

 机がいくつか倒れている。

 椅子の脚が折れている。

 窓際の鉢植えは、完全に枯れていた。

 黒板には数式の跡。

 その下に弾痕。

 授業と戦闘が同じ壁に貼りついている。

 何度見ても、慣れなかった。

「ここ」

 リゼが言った。

「私、ここにいた」

「はい」

「たぶん、すごく普通に」

 彼女は倒れた椅子を一つ起こした。

 椅子は少し傾いている。

 それでも立った。

「ここで、眠かったり、購買のパンのこと考えたり、テスト嫌だなって思ったりしてた」

 リゼは笑った。

「今考えると、かなり贅沢」

 ユウトが言った。

「テストは嫌ですよ」

「だよね」

「そこは譲れません」

 少しだけ笑いが起きた。

 リゼは黒板の前に立つ。

 チョーク受けには、短い白チョークが残っていた。

 彼女はそれを手に取った。

 指に粉がつく。

 リゼは自分の名前の下に、何かを書こうとして止まった。

 書かない。

 チョークを戻す。

「まだ」

 小さく言った。

 カナタには、それが自分に向けた言葉なのか、黒板に向けた言葉なのか分からなかった。

 次に、保健室へ向かった。

 リゼは最初、行かないと言っていた。

 でも、廊下の途中で足を止め、結局ドアを開けた。

 中には白いカーテンが半分落ちていた。

 ベッドは一台だけ残っている。

 棚には空の薬瓶。

 身長計。

 古いポスター。

 手洗い場の蛇口は錆びている。

 セナが部屋を見回した。

「薬はない」

「見れば分かる」

 リゼが言う。

「一応」

 セナは短く答える。

 リゼは身長計の前に立った。

 少し背筋を伸ばす。

「伸びたかな」

「測ります?」

 ユウトが訊く。

「やだ」

「なぜ」

「伸びてなかったら負ける」

「靴以外も負けるんですね」

「人生は勝敗が多い」

 セナが横から言った。

「栄養が足りないと伸びない」

「急に現実」

「現実だから」

 リゼは身長計から離れた。

 でも、その指は少しだけ柱の傷を撫でた。

 誰かの身長を刻んだ跡が、いくつも残っている。

 数字。

 日付。

 名前。

 リゼの名前はなかった。

 それでも、彼女はそこを見ていた。

 次は、地下倉庫だった。

 理科準備室の奥。

 人体模型は倒れていた。

 ビーカーの破片は、前よりさらに細かくなっている。

 黒板の《酸化》の文字はまだ残っていた。

 その横の猫の落書きも。

 口が三角で、ひげが六本。

 猫はまだ笑っている。

「こいつ、強いね」

 リゼが言った。

「猫ですか」

「うん。まだ笑ってる」

「描いた人、上手いですね」

「上手いかな」

「印象に残ります」

「それは上手いかも」

 地下倉庫は、焦げていた。

 文化祭の残りを燃やした場所。

 段ボールの恐竜は、もうない。

 看板もない。

 紙吹雪もない。

 床には黒い跡が残っている。

 燃えたものの形だけが、うっすら分かる。

 リゼはそこに立った。

 長く。

 誰も声をかけなかった。

 地下は湿っている。

 焦げた匂いは薄くなっている。

 でも、完全には消えていない。

 タクトが缶を押さえる。

 音はしない。

 ミナは何も言わず、焦げ跡の端に落ちていた小さな金具を拾った。

「これ、恐竜の首のテープ留め?」

 リゼが見る。

 小さな金具。

 焦げて黒い。

 何だったのかは分からない。

 でも、たぶん何かだった。

「持って帰る?」

 ミナが訊く。

 リゼは少し考えた。

「ううん」

「いいの?」

「ここに置いとく」

「忘れ物なのに?」

「全部持って帰ると、ここが空っぽになる」

 リゼは焦げ跡を見る。

「空っぽにしたいわけじゃない」

 カナタはその言葉を覚えた。

 全部持って帰ることが、帰ることではない。

 置いてあると分かって帰ることも、たぶん必要なのだ。

 最後に、放送室へ向かった。

 階段を上る。

 二階の廊下。

 窓から校庭が見える。

 鉄棒。

 校門。

 三号車。

 春の泥。

 放送室の扉は閉まっていた。

 古いプレートに《放送室》と書いてある。

 文字は少し剥げている。

 ヒナセが前に出た。

「鍵、壊れています」

「開く?」

 リゼが訊く。

「たぶん」

「たぶん多いね」

「学校の機械なので」

 ヒナセは細い工具を取り出した。

 ミナが横から覗く。

「貸そうか」

「大丈夫です」

「手つきいいね」

「ありがとうございます」

「学校荒らしっぽい」

「褒めてます?」

「かなり」

 鍵が開く。

 放送室の中は、埃っぽかった。

 机。

 古いマイク。

 スイッチ盤。

 コード。

 割れた窓。

 外から入った泥。

 壁には、行事予定の紙が貼られている。

 《春季清掃》

 《避難訓練》

 《放送委員会当番表》

 避難訓練。

 その文字が、冗談みたいに見えた。

 冗談ではない。

 でも、ひどく遠い。

 リゼはマイクの前に立った。

 触れない。

 ただ見る。

 ヒナセが機材を確認する。

「電源は死んでます。でも、外部バッテリーがあれば、校内放送の一部は使えるかもしれません」

「使える?」

 リゼが訊く。

「たぶん」

「またたぶん」

「でも、たぶんです」

 リゼはマイクを見たまま、少しだけ笑った。

「ここから声、出せるんだ」

「はい」

「学校中に?」

「残っていれば」

「残ってるかな」

「確認します」

 その時、通信機が小さく鳴った。

 ヒナセが顔を上げる。

「外周、微弱熱源」

 ハルクが盾を構える。

「数は」

「一。すぐには来ません」

 校舎の空気が変わった。

 学校だった場所から、戦場だった場所へ。

 その切り替わりは速い。

 速すぎる。

「今日はここまで」

 カナタは言った。

 リゼを見る。

 リゼはまだマイクを見ていた。

 それから頷く。

「うん」

「戻ります」

「うん」

 彼女は一度だけ、マイクに指先で触れた。

 埃がつく。

 白い粉ではなく、灰色の埃。

「次は、声出す」

 リゼが言った。

 小さい声だった。

 でも、放送室ではよく響いた。

 校舎を出る時、リゼは振り返らなかった。

 最初にここから逃げた時、誰も振り返らなかった。

 でも、今日のそれは少し違った。

 振り返らないのではなく、次に来る場所として背中に置いたように見えた。

 三号車に戻ると、ミナがエンジンをかけた。

「学校見学、終わり?」

「今日は」

 リゼが答える。

「次、放送室」

「機材いるね」

 ヒナセが頷く。

「バッテリーと接続端子を準備します」

「三号車、運べる?」

 リゼが訊く。

 ミナはハンドルを軽く叩いた。

「文句言いながら運ぶ」

「頼もしい」

「あとで謝って」

「うん」

 ハウンド七へ戻る道で、リゼは窓の外を見ていた。

 行きより少しだけ顔が軽い。

 全部回収したわけではない。

 むしろ、置いてきたものを確認しただけだった。

 でも、それでよかったのかもしれない。

 帰るには、まず何を置いてきたのか知らなければならない。

 食堂に戻ると、帰ってきたもの置き場にリゼは何も置かなかった。

 ユウトが不思議そうに訊く。

「何も持ってこなかったんですか」

「持ってこなかった」

「忘れ物なのに?」

「今日は、場所を見に行った」

「じゃあ次」

「うん」

 リゼは食堂の窓に指で書いた。

 《次は放送》

 結露で少し滲む。

 でも、読めた。

 カナタはそれを見て、旧学校区の放送室を思い出した。

 埃。

 マイク。

 避難訓練の紙。

 声を待っている場所。

 春の夕方、通信塔から定時連絡が流れた。

『各避難列、異常なし』

 食堂の中で、誰かが小さく息を吐いた。

 リゼは窓の文字を見ていた。

 半分置いてきた場所へ、もう一度行く。

 今度は、声を出すために。

 カナタの手袋は今日も湿っていた。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ埃の匂いがした気がした。

 学校の匂いだった。

 たぶん。

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