帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
放送室へ持っていくものは、思ったより多かった。
外部バッテリー。
接続端子。
予備コード。
工具箱。
音を消す布。
確認棒。
医療袋。
赤い布。
白線布。
乾パン。
乾パンは必要なのかとカナタは思ったが、ユウトが「遠足にはおやつが必要です」と主張し、タクトが「鈍器にもなります」と補足し、ミナが「硬いものは何かと使える」と言ったので、結局ひと袋だけ積まれた。
食べ物の扱いではなかった。
だが、ハウンド七ではよくあることだった。
春の朝は、少しだけ晴れていた。
晴れている、と言っていいのか迷うくらいの晴れだった。雲は残っている。空は薄い灰色。でも、雲の端が少し明るく、泥の水たまりに小さな光が浮いていた。
それだけで、春は勝った顔をする。
冬よりずっと弱いくせに。
「今日、声出すんだよね」
ユウトが言った。
三号車の荷台で、乾パン袋を膝に置いている。
「機材確認です」
カナタは答えた。
「でも、マイクテストしますよね」
「すると思います」
「何て言うんですか」
「普通に、テスト、とか」
「味気ない」
リゼが助手席から振り返った。
「じゃあ、ユウトが考えて」
「いいんですか」
「採用するとは言ってない」
「予防線が早い」
ユウトは少し考えた。
「こちら旧学校区放送室。今日の豆は二粒です」
「却下」
カナタとリゼの声が重なった。
「早い」
「学校に豆を持ち込まないで」
「学校にも豆は必要です」
「必要だけど、最初の放送ではない」
リゼは少し笑った。
前回より、顔は軽い。
旧学校区へ向かう道でも、前ほど窓の外に沈んでいない。
けれど、放送室の話になると、声の端が少しだけ固くなる。
それは、緊張に似ていた。
怖さにも似ていた。
たぶん、どちらでもある。
ヒナセは通信機材を抱えていた。
大事そうに。
人間を抱えるみたいに。
「放送設備、使える可能性はどれくらいですか」
マコトが訊く。
今日はメモ帳を持っている。
ただし胸ポケットではなく、鞄の中。
すぐに手を空けられるように。
「校内の配線が生きていれば、三割くらい」
ヒナセが答える。
「三割」
「放送室の機材だけなら、五割。スピーカーまで含めると三割。体育館方面は、たぶん死んでます」
「たぶん」
「学校の機械なので」
ミナが運転しながら言う。
「学校の機械、信用ないね」
「古い機械は、信用じゃなくて交渉です」
「いいこと言う」
「整備兵に褒められると少し怖いです」
「機械側へようこそ」
「まだ行きません」
旧学校区は、今日もそこにあった。
当たり前だ。
建物は急には消えない。
でも、カナタには少し不思議だった。
前に見た場所が、また同じ形であること。
教室も、保健室も、地下倉庫も、放送室も、昨日と同じように壊れたままそこにある。
人間だけが毎回、少し違う顔で戻ってくる。
校門をくぐる前に、リゼは一度だけ息を吐いた。
白くはならない。
もう冬ではないからだ。
そのことが、少し寂しかった。
白い息は、寒さの証拠だった。
でも同時に、生きている証拠でもあった。
春になると、それが見えにくくなる。
「行こう」
リゼが言った。
今日は自分からだった。
校舎内は、前回と同じ匂いがした。
湿った木。
古い紙。
チョークの粉。
焦げたものの残り。
そこに、今日はバッテリーの金属臭と、ミナの工具油の匂いが混ざる。
ハルクが先頭。
ヒナセが機材。
カナタ、リゼ、ユウト、タクト、マコト、ミナ、セナが続く。
廊下を歩く時、リゼはまた言った。
「廊下、走らない」
「校則ですね」
ユウトが言う。
「今日は強めに適用」
「罰則は?」
「チョーク投げ」
「誰が」
「私が」
「命中率は」
「そこそこ」
「怖い」
リゼの軽口は、廊下に少しだけ学校を戻した。
それでも、窓の外には盾を持ったハルクの影があり、ヒナセの通信機には微かなノイズが走っている。
学校は戻る。
完全には戻らない。
その半端さが、いちばん痛い。
放送室に着くと、ヒナセはすぐ作業を始めた。
机の埃を払い、古いマイクを外し、端子を確認し、壁の配線盤を開ける。ミナが横から工具を出す。二人の会話は、だんだん人間の言葉ではなくなっていった。
「こっち、酸化してる」
「磨けば通る?」
「たぶん。接点死んでなければ」
「このコード、皮膜が硬い」
「春なのに冬を引きずってる」
「機械も季節を間違えるから」
「三号車みたいですね」
「今、三号車の悪口言った?」
「言ってません」
マコトは少し離れて、放送委員会当番表を見ていた。
紙は黄ばんでいる。
名前が並んでいる。
その中に、リゼの名前はなかった。
「放送委員ではなかったんですね」
マコトが言う。
「うん」
リゼは答えた。
「じゃあ、ここに来ることは」
「たまに。昼休みに曲をかける人がいて、覗いたりした」
「曲」
「うん。変な曲ばっかり」
「どんな」
リゼは少し考えた。
「校長先生が嫌そうな曲」
「分かるようで分からないです」
「それで合ってる」
ユウトがマイクを見て言った。
「これ、触っていいですか」
「だめ」
ヒナセが即答する。
「まだ何もしてません」
「する顔でした」
「顔で止める文化、広がってますね」
「便利なので」
リゼが笑った。
カナタは窓のそばに立った。
放送室の窓からは、校庭が見える。
鉄棒。
校門。
泥。
体育館の焦げ跡。
そして遠くに、三号車。
ハウンド七の食堂とは違う角度で、帰る道が見える。
声はここから出る。
目はここから見る。
放送室は、待つ場所ではなく、届かせる場所なのだと思った。
ヒナセが外部バッテリーを接続した。
小さなランプが一瞬だけ点いた。
全員が息を止める。
消えた。
「今、点きました?」
ユウトが訊く。
「点きました」
ヒナセが答える。
「消えましたね」
「点いたことが重要です」
ミナが工具を構える。
「機械は、一回返事したら説得できる」
「機械説得」
「基本」
そこから三十分、放送室は手術室みたいになった。
ヒナセが配線を確認し、ミナが端子を磨き、マコトが部品を手渡し、タクトがコードを布でまとめる。ユウトは何か手伝おうとして、三回邪魔になり、最終的に乾パン袋を見張る係になった。
「乾パン、逃げませんよね」
ユウトが言う。
「逃げたら怖い」
リゼが答える。
「動く乾パン」
「レイスより嫌かも」
「硬いですしね」
くだらない会話だった。
でも、放送室の埃っぽい空気の中では、それが少しありがたかった。
静かすぎると、過去の音が聞こえる。
チャイム。
昼休みの曲。
廊下の足音。
誰かの笑い声。
もうない音。
今は、くだらない声があった方がいい。
やがて、ランプが点いた。
今度は消えなかった。
古い機械の中で、小さく電気が流れる音がした。
じじ。
じじじ。
生き返る音というより、長く眠っていたものが嫌々目を開ける音だった。
「通りました」
ヒナセが言った。
「校内系統、一部生存。教室棟、廊下、玄関前。体育館は不明。地下は死んでます」
「三割?」
リゼが訊く。
「三割より少し上です」
「勝ち?」
「勝ちです」
ユウトが乾パン袋を掲げた。
「勝利の乾パン」
「下ろして」
セナが言った。
リゼはマイクの前に立った。
指先が少しだけ震えている。
カナタはそれに気づいた。
でも何も言わなかった。
リゼは、自分でマイクの高さを合わせた。
ヒナセがスイッチを見て、頷く。
「押せば入ります」
「何言えばいい?」
リゼが訊く。
「普通に、テストで」
カナタは答えた。
「味気ない」
「では」
「冗談。普通にする」
リゼは息を吸った。
マイクのスイッチを押す。
じじ、と音。
それから、校舎のどこかで、古いスピーカーが小さく鳴った。
『……テスト』
リゼの声が、放送室の中ではなく、廊下の向こうから返ってきた。
全員が黙った。
自分の声が、自分の外から聞こえる。
それは変な感覚だ。
リゼは少し目を見開いている。
『マイクテスト』
今度は、もう少しはっきり聞こえた。
廊下。
教室。
玄関。
学校だった場所に、リゼの声が戻った。
カナタは、なぜか胸の奥が少し痛くなった。
成功した。
ただの機材確認だ。
それなのに、何かが戻ったような気がした。
その時、ヒナセの通信機が鳴った。
短いノイズ。
「外周、熱源」
ハルクが盾を持つ。
「数は」
「一。小型。速いです」
「廊下?」
「校舎内ではありません。外です。……でも」
ヒナセの声が少し硬くなる。
「放送に反応したかもしれません」
放送室が静かになった。
リゼの指が、まだマイクのスイッチに触れている。
声を出した。
届いた。
そして、何かがそれを聞いた。
列を狙うのではなく、人を狙うレイス。
なら、声を出す人間も狙うかもしれない。
それは、とても単純で、とても嫌な想像だった。
「撤収します」
カナタは言った。
リゼがこちらを見る。
「まだ」
「今日は準備です」
「でも」
「次に、使うために戻ります」
少しだけ沈黙。
リゼはマイクを見る。
古いマイク。
埃のついたスイッチ。
さっきまで死んでいて、今は少し生きているもの。
「分かった」
リゼは言った。
ヒナセが電源を落とす。
ランプが消える。
放送室は、急にただの部屋に戻った。
けれど、さっきの声は廊下に残っている気がした。
外へ出ると、小型レイスは校庭の端にいた。
黒い影。
細い体。
こちらを見ている。
校門ではない。
車でもない。
放送室の窓を見ていた。
ハルクが前に出る。
ユウトが銃を構える。
ミナが三号車を前へ出す。
レイスは突っ込んでこなかった。
少しだけ身を低くし、次の瞬間、校庭の泥を蹴って林の方へ消えた。
「逃げた?」
ユウトが言う。
「見てた」
リゼが言った。
声が少し低い。
「私の声を」
誰もすぐには否定しなかった。
否定するには、見えすぎていた。
ハウンド七へ戻る道で、車内は静かだった。
乾パン袋も静かだった。
ユウトですら、しばらく豆の話をしなかった。
リゼは窓の外を見ている。
でも、行きとは違う。
戻る場所ではなく、次に行く場所を見ている目だった。
「怖くなりましたか」
カナタは訊いた。
訊いてから、少し直接すぎたと思った。
リゼは窓の外を見たまま答える。
「うん」
「……はい」
「でも、声が出た」
「はい」
「聞こえた」
「はい」
「なら、次はちゃんと言える」
「何を」
リゼは少し考えた。
「帰る時間だよ、って」
三号車のエンジンが、春の道で小さく咳をした。
ハウンド七に戻ると、食堂の窓にリゼは新しい文字を書いた。
《マイク、生存》
ユウトがその下に小さく書き足した。
《乾パンも生存》
セナが無言で消した。
少しだけ笑いが起きた。
笑いは弱かった。
でも、戻ってきた。
帰ってきたもの置き場には、ヒナセが古い端子の焦げた欠片を置いた。
放送室を起こした時に外したものだ。
小さくて、黒い。
何の価値もなさそうだった。
でも、今日の声を通すために外されたものだった。
カナタはそれを見て、放送室の声を思い出した。
テスト。
マイクテスト。
廊下の向こうから返ってきたリゼの声。
そして、その声を見ていた黒い影。
次は、ただのテストでは済まない。
そのことを、たぶん全員が分かっていた。
夕方の定時連絡は、異常なしだった。
食堂の湯気は細い。
豆は二粒。
市民。
カナタは手袋をはめ直した。
今日も湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ放送室の埃の匂いがした。
リゼの声は、まだ耳の奥に残っていた。
小さく。
でも、確かに。