帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第三十九話 マイクテスト

 放送室へ持っていくものは、思ったより多かった。

 外部バッテリー。

 接続端子。

 予備コード。

 工具箱。

 音を消す布。

 確認棒。

 医療袋。

 赤い布。

 白線布。

 乾パン。

 乾パンは必要なのかとカナタは思ったが、ユウトが「遠足にはおやつが必要です」と主張し、タクトが「鈍器にもなります」と補足し、ミナが「硬いものは何かと使える」と言ったので、結局ひと袋だけ積まれた。

 食べ物の扱いではなかった。

 だが、ハウンド七ではよくあることだった。

 春の朝は、少しだけ晴れていた。

 晴れている、と言っていいのか迷うくらいの晴れだった。雲は残っている。空は薄い灰色。でも、雲の端が少し明るく、泥の水たまりに小さな光が浮いていた。

 それだけで、春は勝った顔をする。

 冬よりずっと弱いくせに。

「今日、声出すんだよね」

 ユウトが言った。

 三号車の荷台で、乾パン袋を膝に置いている。

「機材確認です」

 カナタは答えた。

「でも、マイクテストしますよね」

「すると思います」

「何て言うんですか」

「普通に、テスト、とか」

「味気ない」

 リゼが助手席から振り返った。

「じゃあ、ユウトが考えて」

「いいんですか」

「採用するとは言ってない」

「予防線が早い」

 ユウトは少し考えた。

「こちら旧学校区放送室。今日の豆は二粒です」

「却下」

 カナタとリゼの声が重なった。

「早い」

「学校に豆を持ち込まないで」

「学校にも豆は必要です」

「必要だけど、最初の放送ではない」

 リゼは少し笑った。

 前回より、顔は軽い。

 旧学校区へ向かう道でも、前ほど窓の外に沈んでいない。

 けれど、放送室の話になると、声の端が少しだけ固くなる。

 それは、緊張に似ていた。

 怖さにも似ていた。

 たぶん、どちらでもある。

 ヒナセは通信機材を抱えていた。

 大事そうに。

 人間を抱えるみたいに。

「放送設備、使える可能性はどれくらいですか」

 マコトが訊く。

 今日はメモ帳を持っている。

 ただし胸ポケットではなく、鞄の中。

 すぐに手を空けられるように。

「校内の配線が生きていれば、三割くらい」

 ヒナセが答える。

「三割」

「放送室の機材だけなら、五割。スピーカーまで含めると三割。体育館方面は、たぶん死んでます」

「たぶん」

「学校の機械なので」

 ミナが運転しながら言う。

「学校の機械、信用ないね」

「古い機械は、信用じゃなくて交渉です」

「いいこと言う」

「整備兵に褒められると少し怖いです」

「機械側へようこそ」

「まだ行きません」

 旧学校区は、今日もそこにあった。

 当たり前だ。

 建物は急には消えない。

 でも、カナタには少し不思議だった。

 前に見た場所が、また同じ形であること。

 教室も、保健室も、地下倉庫も、放送室も、昨日と同じように壊れたままそこにある。

 人間だけが毎回、少し違う顔で戻ってくる。

 校門をくぐる前に、リゼは一度だけ息を吐いた。

 白くはならない。

 もう冬ではないからだ。

 そのことが、少し寂しかった。

 白い息は、寒さの証拠だった。

 でも同時に、生きている証拠でもあった。

 春になると、それが見えにくくなる。

「行こう」

 リゼが言った。

 今日は自分からだった。

 校舎内は、前回と同じ匂いがした。

 湿った木。

 古い紙。

 チョークの粉。

 焦げたものの残り。

 そこに、今日はバッテリーの金属臭と、ミナの工具油の匂いが混ざる。

 ハルクが先頭。

 ヒナセが機材。

 カナタ、リゼ、ユウト、タクト、マコト、ミナ、セナが続く。

 廊下を歩く時、リゼはまた言った。

「廊下、走らない」

「校則ですね」

 ユウトが言う。

「今日は強めに適用」

「罰則は?」

「チョーク投げ」

「誰が」

「私が」

「命中率は」

「そこそこ」

「怖い」

 リゼの軽口は、廊下に少しだけ学校を戻した。

 それでも、窓の外には盾を持ったハルクの影があり、ヒナセの通信機には微かなノイズが走っている。

 学校は戻る。

 完全には戻らない。

 その半端さが、いちばん痛い。

 放送室に着くと、ヒナセはすぐ作業を始めた。

 机の埃を払い、古いマイクを外し、端子を確認し、壁の配線盤を開ける。ミナが横から工具を出す。二人の会話は、だんだん人間の言葉ではなくなっていった。

「こっち、酸化してる」

「磨けば通る?」

「たぶん。接点死んでなければ」

「このコード、皮膜が硬い」

「春なのに冬を引きずってる」

「機械も季節を間違えるから」

「三号車みたいですね」

「今、三号車の悪口言った?」

「言ってません」

 マコトは少し離れて、放送委員会当番表を見ていた。

 紙は黄ばんでいる。

 名前が並んでいる。

 その中に、リゼの名前はなかった。

「放送委員ではなかったんですね」

 マコトが言う。

「うん」

 リゼは答えた。

「じゃあ、ここに来ることは」

「たまに。昼休みに曲をかける人がいて、覗いたりした」

「曲」

「うん。変な曲ばっかり」

「どんな」

 リゼは少し考えた。

「校長先生が嫌そうな曲」

「分かるようで分からないです」

「それで合ってる」

 ユウトがマイクを見て言った。

「これ、触っていいですか」

「だめ」

 ヒナセが即答する。

「まだ何もしてません」

「する顔でした」

「顔で止める文化、広がってますね」

「便利なので」

 リゼが笑った。

 カナタは窓のそばに立った。

 放送室の窓からは、校庭が見える。

 鉄棒。

 校門。

 泥。

 体育館の焦げ跡。

 そして遠くに、三号車。

 ハウンド七の食堂とは違う角度で、帰る道が見える。

 声はここから出る。

 目はここから見る。

 放送室は、待つ場所ではなく、届かせる場所なのだと思った。

 ヒナセが外部バッテリーを接続した。

 小さなランプが一瞬だけ点いた。

 全員が息を止める。

 消えた。

「今、点きました?」

 ユウトが訊く。

「点きました」

 ヒナセが答える。

「消えましたね」

「点いたことが重要です」

 ミナが工具を構える。

「機械は、一回返事したら説得できる」

「機械説得」

「基本」

 そこから三十分、放送室は手術室みたいになった。

 ヒナセが配線を確認し、ミナが端子を磨き、マコトが部品を手渡し、タクトがコードを布でまとめる。ユウトは何か手伝おうとして、三回邪魔になり、最終的に乾パン袋を見張る係になった。

「乾パン、逃げませんよね」

 ユウトが言う。

「逃げたら怖い」

 リゼが答える。

「動く乾パン」

「レイスより嫌かも」

「硬いですしね」

 くだらない会話だった。

 でも、放送室の埃っぽい空気の中では、それが少しありがたかった。

 静かすぎると、過去の音が聞こえる。

 チャイム。

 昼休みの曲。

 廊下の足音。

 誰かの笑い声。

 もうない音。

 今は、くだらない声があった方がいい。

 やがて、ランプが点いた。

 今度は消えなかった。

 古い機械の中で、小さく電気が流れる音がした。

 じじ。

 じじじ。

 生き返る音というより、長く眠っていたものが嫌々目を開ける音だった。

「通りました」

 ヒナセが言った。

「校内系統、一部生存。教室棟、廊下、玄関前。体育館は不明。地下は死んでます」

「三割?」

 リゼが訊く。

「三割より少し上です」

「勝ち?」

「勝ちです」

 ユウトが乾パン袋を掲げた。

「勝利の乾パン」

「下ろして」

 セナが言った。

 リゼはマイクの前に立った。

 指先が少しだけ震えている。

 カナタはそれに気づいた。

 でも何も言わなかった。

 リゼは、自分でマイクの高さを合わせた。

 ヒナセがスイッチを見て、頷く。

「押せば入ります」

「何言えばいい?」

 リゼが訊く。

「普通に、テストで」

 カナタは答えた。

「味気ない」

「では」

「冗談。普通にする」

 リゼは息を吸った。

 マイクのスイッチを押す。

 じじ、と音。

 それから、校舎のどこかで、古いスピーカーが小さく鳴った。

『……テスト』

 リゼの声が、放送室の中ではなく、廊下の向こうから返ってきた。

 全員が黙った。

 自分の声が、自分の外から聞こえる。

 それは変な感覚だ。

 リゼは少し目を見開いている。

『マイクテスト』

 今度は、もう少しはっきり聞こえた。

 廊下。

 教室。

 玄関。

 学校だった場所に、リゼの声が戻った。

 カナタは、なぜか胸の奥が少し痛くなった。

 成功した。

 ただの機材確認だ。

 それなのに、何かが戻ったような気がした。

 その時、ヒナセの通信機が鳴った。

 短いノイズ。

「外周、熱源」

 ハルクが盾を持つ。

「数は」

「一。小型。速いです」

「廊下?」

「校舎内ではありません。外です。……でも」

 ヒナセの声が少し硬くなる。

「放送に反応したかもしれません」

 放送室が静かになった。

 リゼの指が、まだマイクのスイッチに触れている。

 声を出した。

 届いた。

 そして、何かがそれを聞いた。

 列を狙うのではなく、人を狙うレイス。

 なら、声を出す人間も狙うかもしれない。

 それは、とても単純で、とても嫌な想像だった。

「撤収します」

 カナタは言った。

 リゼがこちらを見る。

「まだ」

「今日は準備です」

「でも」

「次に、使うために戻ります」

 少しだけ沈黙。

 リゼはマイクを見る。

 古いマイク。

 埃のついたスイッチ。

 さっきまで死んでいて、今は少し生きているもの。

「分かった」

 リゼは言った。

 ヒナセが電源を落とす。

 ランプが消える。

 放送室は、急にただの部屋に戻った。

 けれど、さっきの声は廊下に残っている気がした。

 外へ出ると、小型レイスは校庭の端にいた。

 黒い影。

 細い体。

 こちらを見ている。

 校門ではない。

 車でもない。

 放送室の窓を見ていた。

 ハルクが前に出る。

 ユウトが銃を構える。

 ミナが三号車を前へ出す。

 レイスは突っ込んでこなかった。

 少しだけ身を低くし、次の瞬間、校庭の泥を蹴って林の方へ消えた。

「逃げた?」

 ユウトが言う。

「見てた」

 リゼが言った。

 声が少し低い。

「私の声を」

 誰もすぐには否定しなかった。

 否定するには、見えすぎていた。

 ハウンド七へ戻る道で、車内は静かだった。

 乾パン袋も静かだった。

 ユウトですら、しばらく豆の話をしなかった。

 リゼは窓の外を見ている。

 でも、行きとは違う。

 戻る場所ではなく、次に行く場所を見ている目だった。

「怖くなりましたか」

 カナタは訊いた。

 訊いてから、少し直接すぎたと思った。

 リゼは窓の外を見たまま答える。

「うん」

「……はい」

「でも、声が出た」

「はい」

「聞こえた」

「はい」

「なら、次はちゃんと言える」

「何を」

 リゼは少し考えた。

「帰る時間だよ、って」

 三号車のエンジンが、春の道で小さく咳をした。

 ハウンド七に戻ると、食堂の窓にリゼは新しい文字を書いた。

 《マイク、生存》

 ユウトがその下に小さく書き足した。

 《乾パンも生存》

 セナが無言で消した。

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いは弱かった。

 でも、戻ってきた。

 帰ってきたもの置き場には、ヒナセが古い端子の焦げた欠片を置いた。

 放送室を起こした時に外したものだ。

 小さくて、黒い。

 何の価値もなさそうだった。

 でも、今日の声を通すために外されたものだった。

 カナタはそれを見て、放送室の声を思い出した。

 テスト。

 マイクテスト。

 廊下の向こうから返ってきたリゼの声。

 そして、その声を見ていた黒い影。

 次は、ただのテストでは済まない。

 そのことを、たぶん全員が分かっていた。

 夕方の定時連絡は、異常なしだった。

 食堂の湯気は細い。

 豆は二粒。

 市民。

 カナタは手袋をはめ直した。

 今日も湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ放送室の埃の匂いがした。

 リゼの声は、まだ耳の奥に残っていた。

 小さく。

 でも、確かに。

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