帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四話 消えた轍

 南門を出ると、基地の音は急に遠くなった。

 銃声も。

 怒鳴り声も。

 機銃の連射も。

 門一枚を隔てただけなのに、それらはすべて厚い雪の向こうに沈んでいった。まるで、さっきまでいた基地そのものが水底へ沈んでいくみたいだった。

 カナタは輸送車の荷台に乗っていた。

 鉄板は冷たい。

 座っているだけで、体温が底から抜けていく。荷台の床には細かい雪が入り込んでいて、誰かの靴底で踏まれるたびに、じゃり、じゃり、と砂糖を噛むような音を立てた。

 古いバスが前を走っている。

 湖と夏祭りの広告が描かれたバス。

 雪の中で、それだけが季節を間違えている。

 窓の内側には人の顔が並んでいた。

 民間人。

 子供。

 老人。

 若い母親。

 誰も喋っていなかった。

 バスの窓は曇っていて、その曇りを小さな指がなぞっている。何かの文字を書こうとして、途中で消した跡が残っていた。

 何を書こうとしたのだろう。

 名前か。

 行き先か。

 それとも、ただの丸か。

 カナタは、それを最後まで見ていられなかった。

「寒いですね」

 ユウトが隣で言った。

「寒いです」

「会話終わりましたね」

「はい」

「もうちょっと膨らませません?」

「寒いと頭が動かないので」

「分かります」

 ユウトは小銃を膝に置いたまま、肩をすくめた。まだ若い。声も若い。だが、顔だけが少し早く老けたように見えた。

 昨日まで、彼は豆の数で運勢を占っていた。

 今日、彼は何度も後ろを見る。

 人間は一日で変わる。

 変わったことに、自分では気づかない。

「後ろ、見えます?」

 ユウトが訊く。

 カナタは振り返った。

 白い道。

 消えかけた轍。

 その向こうに、基地の灯りが小さく見える。

 灯りはまだある。

 だから、まだ基地はあるのだと思いたくなる。

 でも本当は違う。

 灯りがあることと、そこへ帰れることは別だ。

「見えます」

「追ってきてます?」

「まだ」

「まだ、ですか」

「はい」

 ユウトはそれ以上訊かなかった。

 訊くのが怖かったのだと思う。

 カナタも答えるのが怖かった。

 車列は遅かった。

 遅すぎた。

 一号車の速度に、後ろが全部合わせる。

 前の車両が少しでも滑れば、全体が止まる。誰かが荷台で咳をする。誰かが負傷兵の毛布を直す。誰かが小声で祈る。

 雪は、すべての音を小さくする。

 だから、車列の中にある小さな音ばかりが耳についた。

 歯が鳴る音。

 布の擦れる音。

 弾倉を確かめる音。

 泣くのを我慢して鼻をすする音。

 そういう音は、銃声よりも逃げ場がない。

 前方からガレスの通信が入った。

『学生』

「はい」

『南側道路、どう見える』

 カナタは荷台の縁から身を乗り出した。

 道は白い。

 除雪車の轍は、もう半分以上消えている。

 道路脇の標識も雪をかぶって、何のために立っているのか分からなくなっていた。

 でも、道はまだある。

 ぎりぎり。

 雪の下に。

「通れます」

『それは見りゃ分かる』

「……帰れる道には見えます」

 通信の向こうで、ガレスが少しだけ黙った。

『嫌な言い方すんな』

「すみません」

『謝るな。余計嫌になる』

 通信が切れた。

 少しして、前方の車列が止まった。

 いや、止まりかけた。

 一号車が大きく揺れ、タイヤが雪に取られる。

 全体の速度が落ちる。

 カナタの背中に冷たいものが走った。

 止まるな。

 今は止まるな。

「前、何かあった?」

 ユウトが立ち上がる。

 その時、ミナの声が通信に割り込んだ。

『三号車、出力落ちてる!』

「三号車って、さっきの」

 ユウトが言う。

 基地から出る前に、ミナが“機嫌次第”と言った車両だった。

『止めたら再始動怪しい!でもこのままだとエンジン焼ける!』

 ミナの声は怒っているようで、泣きそうにも聞こえた。

 機械が壊れるのを嫌がっている。

 でもそれ以上に。

 人間が止まるのを嫌がっている。

 ガレスの声。

『三号、荷を軽くしろ』

『何降ろす!?』

『弾薬』

『さっき半分降ろした!』

『じゃあ残りの半分』

 短い沈黙。

 車列のどこかで、誰かが悪態をついた。

 カナタは荷台の隅にある弾薬箱を見た。

 金属の箱。

 冷たくて、重い。

 昨日までは必要なものだった。

 今も必要なものだ。

 でも、必要なものにも順番がある。

 その順番を決めるたびに、何かが少しずつ壊れていく。

「降ろします」

 カナタが言った。

 ユウトが一瞬こちらを見る。

 何か言いたそうだった。

 でも、何も言わずに箱を持ち上げた。

 二人で荷台の端まで運ぶ。

 重い。

 指が痛い。

 腕も痛い。

 でも、落とすのは簡単だった。

 手を離すだけ。

 弾薬箱は雪の上に落ちた。

 どさっ。

 音は小さい。

 でも、その小ささが嫌だった。

 もっと大きな音がしてくれればよかった。

 何かを捨てたのだと、誰にでも分かるように。

 でも雪は、それをすぐに飲み込んだ。

 続けて二箱。

 三箱。

 車列のあちこちから同じ音がした。

 どさっ。

 どさっ。

 どさっ。

 雪原に、必要だったものが並んでいく。

 墓標みたいに。

 ミナの声がした。

『三号、持ち直した』

 誰も歓声を上げなかった。

 ただ、車列がまた動き始めた。

 それだけだった。

 しばらく進むと、雪の匂いが変わった。

 カナタは顔を上げる。

 焦げ臭い。

 風向き。

 北からではない。

 前。

 前方から、薄い煙が流れてくる。

「副長」

『なんだ』

「前方、煙」

『見えてる』

 通信の向こうの声が低くなる。

 前方の車両がまた減速した。

 今度は完全に止まった。

 車列全体が詰まる。

 雪の上で、エンジン音だけが残る。

 カナタは荷台から降りた。

 雪に足が沈む。

 膝近くまで。

 道路の先。

 小さな橋があった。

 その手前に、除雪車が横転していた。

 基地へ戻らなかった除雪車。

 黄色い車体は半分焼けていて、窓は黒く割れていた。車体の周りだけ雪が溶け、また凍り、黒い氷になっている。

 誰も近づかなかった。

 運転席には、たぶん誰かがいた。

 見なくても分かった。

 見なくても分かることが、この戦争では少しずつ増えていく。

 ガレスが隣に来た。

「道塞いでんな」

「はい」

「動かせるか」

 ミナが除雪車を見て、首を振る。

「無理。焼けてる。あと重い」

「橋は」

 カナタは橋を見る。

 古い。

 狭い。

 輸送車一台ずつなら通れる。

 でも除雪車が塞いでいる。

 脇は崖。

 迂回路はない。

 後ろでは車列が止まっている。

 そのさらに後ろに、雪の道が続いている。

 追ってくるものが通る道だ。

「押すしかないです」

「押せるか」

「車両二台で」

「時間は」

「……十分」

 ガレスは煙草を噛んだ。

「後ろは」

 カナタは振り返った。

 白い道。

 消えかけた轍。

 その奥。

 黒い点。

 一つ。

 二つ。

 増える。

 レイス。

 まだ遠い。

 でも速い。

「十分ありません」

 ガレスは笑わなかった。

「なら五分で押す」

「無理です」

「三分で祈るよりマシだ」

 作業が始まった。

 牽引ワイヤーをかける。

 輸送車二台を前に出す。

 兵士たちが雪を掘る。

 ミナが怒鳴る。

 セナが負傷兵搬送車の窓を閉める。

 バスの子供が泣き止んで、窓から外を見ている。

 カナタはその子と目が合った。

 すぐに逸らした。

 何か言えばよかったのかもしれない。

 大丈夫、とか。

 もう少し、とか。

 でも、そのどちらも嘘に聞こえた。

 後方から銃声。

 最後尾が接敵した。

 第七混成機動群の兵士たちが後ろを向いて撃っている。

 前では除雪車を押す。

 後ろではレイスを止める。

 車列は橋の手前で息を止めている。

 ここで止まれば終わる。

 この橋を越えれば、まだ続く。

 カナタは初めて、橋というものが嫌いになった。

 あまりにも分かりやすく、生死を分けるからだ。

「押せ!」

 ガレスが叫ぶ。

 輸送車が唸る。

 ワイヤーが張る。

 除雪車が少しだけ動く。

 金属が軋む。

 焼け焦げた車体から黒い氷が剥がれる。

「もう一回!」

 また押す。

 動く。

 少し。

 後ろでは銃声が近づいている。

 ユウトが叫ぶ。

「近いです!」

「見りゃ分かる!」

 ガレスの怒鳴り声。

 レイスの鳴き声。

 金属音。

 エンジン音。

 そして、子供の小さな息。

 全部が混じって、世界の音が一つになる。

 カナタは橋を見る。

 除雪車はあと少し。

 ほんの少し。

 道が開く。

 でも、その少しが遠い。

「三号車、もっと出せ!」

 ミナが叫ぶ。

「焼けるぞ!」

「焼けてもいい!」

「よくない!!」

「今だけ!!」

 三号車のエンジンが悲鳴を上げた。

 悲鳴なのに、生き物みたいだった。

 除雪車がずれた。

 橋の入口が開く。

 人一人分。

 車一台分。

 帰るには十分な幅。

「通せ!」

 ガレスが叫んだ。

 一号車が橋へ入る。

 ゆっくり。

 橋が軋む。

 バスが続く。

 窓の向こうで、子供がカナタを見ていた。

 今度は目を逸らさなかった。

 その時、後ろで悲鳴が上がった。

 カナタは振り返る。

 レイスが一体、最後尾の防衛線を抜けていた。

 雪の上を低く走る。

 速い。

 狙いはバス。

 カナタは動けなかった。

 遠い。

 間に合わない。

 銃声。

 レイスが跳ねた。

 倒れる。

 撃ったのはユウトだった。

 彼は小銃を構えたまま、ひどく青い顔をしていた。

 口が震えている。

「……当たった」

 誰も笑わなかった。

 ガレスが短く言った。

「よくやった」

 それだけだった。

 それだけで、ユウトは泣きそうな顔になった。

 車列が橋を渡る。

 一台。

 また一台。

 基地はもう見えない。

 南側道路は、雪の中へ続いている。

 後ろには、弾薬箱と、焼けた除雪車と、消えかけた轍が残っている。

 そして。

 帰れなかったものが、少しずつ増えていく。

 カナタはそれを覚えてしまう。

 覚えたくないのに。

 雪の匂い。

 焦げた鉄の匂い。

 橋の軋む音。

 ユウトの震えた声。

 バスの窓の向こうの子供の目。

 全部。

 たぶん、ずっと残る。

「学生」

 ガレスが言った。

「乗れ」

 カナタは頷いた。

 橋を渡る最後の車両に乗り込む。

 荷台の鉄板は冷たかった。

 それでも、基地の中より少しだけ暖かい気がした。

 車両が動く。

 橋を越える。

 その先へ。

 まだ帰れる方へ。

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