帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
南門を出ると、基地の音は急に遠くなった。
銃声も。
怒鳴り声も。
機銃の連射も。
門一枚を隔てただけなのに、それらはすべて厚い雪の向こうに沈んでいった。まるで、さっきまでいた基地そのものが水底へ沈んでいくみたいだった。
カナタは輸送車の荷台に乗っていた。
鉄板は冷たい。
座っているだけで、体温が底から抜けていく。荷台の床には細かい雪が入り込んでいて、誰かの靴底で踏まれるたびに、じゃり、じゃり、と砂糖を噛むような音を立てた。
古いバスが前を走っている。
湖と夏祭りの広告が描かれたバス。
雪の中で、それだけが季節を間違えている。
窓の内側には人の顔が並んでいた。
民間人。
子供。
老人。
若い母親。
誰も喋っていなかった。
バスの窓は曇っていて、その曇りを小さな指がなぞっている。何かの文字を書こうとして、途中で消した跡が残っていた。
何を書こうとしたのだろう。
名前か。
行き先か。
それとも、ただの丸か。
カナタは、それを最後まで見ていられなかった。
「寒いですね」
ユウトが隣で言った。
「寒いです」
「会話終わりましたね」
「はい」
「もうちょっと膨らませません?」
「寒いと頭が動かないので」
「分かります」
ユウトは小銃を膝に置いたまま、肩をすくめた。まだ若い。声も若い。だが、顔だけが少し早く老けたように見えた。
昨日まで、彼は豆の数で運勢を占っていた。
今日、彼は何度も後ろを見る。
人間は一日で変わる。
変わったことに、自分では気づかない。
「後ろ、見えます?」
ユウトが訊く。
カナタは振り返った。
白い道。
消えかけた轍。
その向こうに、基地の灯りが小さく見える。
灯りはまだある。
だから、まだ基地はあるのだと思いたくなる。
でも本当は違う。
灯りがあることと、そこへ帰れることは別だ。
「見えます」
「追ってきてます?」
「まだ」
「まだ、ですか」
「はい」
ユウトはそれ以上訊かなかった。
訊くのが怖かったのだと思う。
カナタも答えるのが怖かった。
車列は遅かった。
遅すぎた。
一号車の速度に、後ろが全部合わせる。
前の車両が少しでも滑れば、全体が止まる。誰かが荷台で咳をする。誰かが負傷兵の毛布を直す。誰かが小声で祈る。
雪は、すべての音を小さくする。
だから、車列の中にある小さな音ばかりが耳についた。
歯が鳴る音。
布の擦れる音。
弾倉を確かめる音。
泣くのを我慢して鼻をすする音。
そういう音は、銃声よりも逃げ場がない。
前方からガレスの通信が入った。
『学生』
「はい」
『南側道路、どう見える』
カナタは荷台の縁から身を乗り出した。
道は白い。
除雪車の轍は、もう半分以上消えている。
道路脇の標識も雪をかぶって、何のために立っているのか分からなくなっていた。
でも、道はまだある。
ぎりぎり。
雪の下に。
「通れます」
『それは見りゃ分かる』
「……帰れる道には見えます」
通信の向こうで、ガレスが少しだけ黙った。
『嫌な言い方すんな』
「すみません」
『謝るな。余計嫌になる』
通信が切れた。
少しして、前方の車列が止まった。
いや、止まりかけた。
一号車が大きく揺れ、タイヤが雪に取られる。
全体の速度が落ちる。
カナタの背中に冷たいものが走った。
止まるな。
今は止まるな。
「前、何かあった?」
ユウトが立ち上がる。
その時、ミナの声が通信に割り込んだ。
『三号車、出力落ちてる!』
「三号車って、さっきの」
ユウトが言う。
基地から出る前に、ミナが“機嫌次第”と言った車両だった。
『止めたら再始動怪しい!でもこのままだとエンジン焼ける!』
ミナの声は怒っているようで、泣きそうにも聞こえた。
機械が壊れるのを嫌がっている。
でもそれ以上に。
人間が止まるのを嫌がっている。
ガレスの声。
『三号、荷を軽くしろ』
『何降ろす!?』
『弾薬』
『さっき半分降ろした!』
『じゃあ残りの半分』
短い沈黙。
車列のどこかで、誰かが悪態をついた。
カナタは荷台の隅にある弾薬箱を見た。
金属の箱。
冷たくて、重い。
昨日までは必要なものだった。
今も必要なものだ。
でも、必要なものにも順番がある。
その順番を決めるたびに、何かが少しずつ壊れていく。
「降ろします」
カナタが言った。
ユウトが一瞬こちらを見る。
何か言いたそうだった。
でも、何も言わずに箱を持ち上げた。
二人で荷台の端まで運ぶ。
重い。
指が痛い。
腕も痛い。
でも、落とすのは簡単だった。
手を離すだけ。
弾薬箱は雪の上に落ちた。
どさっ。
音は小さい。
でも、その小ささが嫌だった。
もっと大きな音がしてくれればよかった。
何かを捨てたのだと、誰にでも分かるように。
でも雪は、それをすぐに飲み込んだ。
続けて二箱。
三箱。
車列のあちこちから同じ音がした。
どさっ。
どさっ。
どさっ。
雪原に、必要だったものが並んでいく。
墓標みたいに。
ミナの声がした。
『三号、持ち直した』
誰も歓声を上げなかった。
ただ、車列がまた動き始めた。
それだけだった。
しばらく進むと、雪の匂いが変わった。
カナタは顔を上げる。
焦げ臭い。
風向き。
北からではない。
前。
前方から、薄い煙が流れてくる。
「副長」
『なんだ』
「前方、煙」
『見えてる』
通信の向こうの声が低くなる。
前方の車両がまた減速した。
今度は完全に止まった。
車列全体が詰まる。
雪の上で、エンジン音だけが残る。
カナタは荷台から降りた。
雪に足が沈む。
膝近くまで。
道路の先。
小さな橋があった。
その手前に、除雪車が横転していた。
基地へ戻らなかった除雪車。
黄色い車体は半分焼けていて、窓は黒く割れていた。車体の周りだけ雪が溶け、また凍り、黒い氷になっている。
誰も近づかなかった。
運転席には、たぶん誰かがいた。
見なくても分かった。
見なくても分かることが、この戦争では少しずつ増えていく。
ガレスが隣に来た。
「道塞いでんな」
「はい」
「動かせるか」
ミナが除雪車を見て、首を振る。
「無理。焼けてる。あと重い」
「橋は」
カナタは橋を見る。
古い。
狭い。
輸送車一台ずつなら通れる。
でも除雪車が塞いでいる。
脇は崖。
迂回路はない。
後ろでは車列が止まっている。
そのさらに後ろに、雪の道が続いている。
追ってくるものが通る道だ。
「押すしかないです」
「押せるか」
「車両二台で」
「時間は」
「……十分」
ガレスは煙草を噛んだ。
「後ろは」
カナタは振り返った。
白い道。
消えかけた轍。
その奥。
黒い点。
一つ。
二つ。
増える。
レイス。
まだ遠い。
でも速い。
「十分ありません」
ガレスは笑わなかった。
「なら五分で押す」
「無理です」
「三分で祈るよりマシだ」
作業が始まった。
牽引ワイヤーをかける。
輸送車二台を前に出す。
兵士たちが雪を掘る。
ミナが怒鳴る。
セナが負傷兵搬送車の窓を閉める。
バスの子供が泣き止んで、窓から外を見ている。
カナタはその子と目が合った。
すぐに逸らした。
何か言えばよかったのかもしれない。
大丈夫、とか。
もう少し、とか。
でも、そのどちらも嘘に聞こえた。
後方から銃声。
最後尾が接敵した。
第七混成機動群の兵士たちが後ろを向いて撃っている。
前では除雪車を押す。
後ろではレイスを止める。
車列は橋の手前で息を止めている。
ここで止まれば終わる。
この橋を越えれば、まだ続く。
カナタは初めて、橋というものが嫌いになった。
あまりにも分かりやすく、生死を分けるからだ。
「押せ!」
ガレスが叫ぶ。
輸送車が唸る。
ワイヤーが張る。
除雪車が少しだけ動く。
金属が軋む。
焼け焦げた車体から黒い氷が剥がれる。
「もう一回!」
また押す。
動く。
少し。
後ろでは銃声が近づいている。
ユウトが叫ぶ。
「近いです!」
「見りゃ分かる!」
ガレスの怒鳴り声。
レイスの鳴き声。
金属音。
エンジン音。
そして、子供の小さな息。
全部が混じって、世界の音が一つになる。
カナタは橋を見る。
除雪車はあと少し。
ほんの少し。
道が開く。
でも、その少しが遠い。
「三号車、もっと出せ!」
ミナが叫ぶ。
「焼けるぞ!」
「焼けてもいい!」
「よくない!!」
「今だけ!!」
三号車のエンジンが悲鳴を上げた。
悲鳴なのに、生き物みたいだった。
除雪車がずれた。
橋の入口が開く。
人一人分。
車一台分。
帰るには十分な幅。
「通せ!」
ガレスが叫んだ。
一号車が橋へ入る。
ゆっくり。
橋が軋む。
バスが続く。
窓の向こうで、子供がカナタを見ていた。
今度は目を逸らさなかった。
その時、後ろで悲鳴が上がった。
カナタは振り返る。
レイスが一体、最後尾の防衛線を抜けていた。
雪の上を低く走る。
速い。
狙いはバス。
カナタは動けなかった。
遠い。
間に合わない。
銃声。
レイスが跳ねた。
倒れる。
撃ったのはユウトだった。
彼は小銃を構えたまま、ひどく青い顔をしていた。
口が震えている。
「……当たった」
誰も笑わなかった。
ガレスが短く言った。
「よくやった」
それだけだった。
それだけで、ユウトは泣きそうな顔になった。
車列が橋を渡る。
一台。
また一台。
基地はもう見えない。
南側道路は、雪の中へ続いている。
後ろには、弾薬箱と、焼けた除雪車と、消えかけた轍が残っている。
そして。
帰れなかったものが、少しずつ増えていく。
カナタはそれを覚えてしまう。
覚えたくないのに。
雪の匂い。
焦げた鉄の匂い。
橋の軋む音。
ユウトの震えた声。
バスの窓の向こうの子供の目。
全部。
たぶん、ずっと残る。
「学生」
ガレスが言った。
「乗れ」
カナタは頷いた。
橋を渡る最後の車両に乗り込む。
荷台の鉄板は冷たかった。
それでも、基地の中より少しだけ暖かい気がした。
車両が動く。
橋を越える。
その先へ。
まだ帰れる方へ。