帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十話 帰る時間

 放送室へ行く日は、朝から少しだけ静かだった。

 警報が鳴っていないからではない。

 誰も喋らないからでもない。

 ユウトは豆を数えたし、ミナは三号車に文句を言ったし、セナはリゼに「無理をするな」と三回言った。タクトの缶は鳴らなかった。マコトは記録帳を持つかどうかで五分悩み、最終的に鞄に入れた。ヒナセは外部バッテリーの残量を何度も確認し、ハルクは盾の留め具を締め直していた。

 いつも通りだった。

 でも、いつも通りの音の下に、薄い布が一枚敷かれているような感じがした。

 春の朝のハウンド七は、泥と湯気と灯油の匂いがした。

 食堂の窓には、前回リゼが書いた《マイク、生存》の文字がまだ残っている。ユウトが書き足した《乾パンも生存》はセナに消されたはずなのに、うっすら跡が残っていた。

 消しても残るものはある。

 そういうことを、カナタは最近よく考える。

 消し跡。

 足跡。

 焦げ跡。

 名前の跡。

 声の跡。

 世界は、きれいに消えることが下手だ。

「カナタさん」

 リゼが言った。

 食堂の柱に結んでいた赤い布を外している。

「今日、言う」

「はい」

「止める?」

「止めません」

「心配は?」

「します」

「じゃあよし」

 彼女は赤い布を手首に巻いた。

 きつすぎず、緩すぎず。

 何度もやってきた結び方だった。

 待っているだけの赤ではない。

 呼ぶための赤になっていた。

 三号車は、旧学校区へ向けて春の道を走った。

 雪はもうほとんどない。

 ただ、日陰に残った白い塊が、負けを認めていないみたいに道端へ張りついている。草はまだ短い。木の枝には小さな芽がついている。空は薄い灰色で、風は泥の匂いを運んでくる。

 冬が終わったのに、戦争は終わらない。

 それはかなり不公平だと思った。

「今日のマイクテスト案、まだ受け付けてます?」

 ユウトが荷台から言った。

「受け付けてません」

 リゼが即答する。

「早い」

「前回で学んだ」

「今回こそいい案が」

「豆は禁止」

「読まれている」

 タクトが小さく言う。

「乾パンも禁止です」

「先回りが増えた」

 ヒナセが通信機を確認しながら言った。

「放送回線は前回の接続を再現します。校内スピーカー三割。玄関、廊下、教室棟。体育館は不安定。外部拡声は、窓から補助でいけます」

「三割で足りますか」

 マコトが訊く。

「学校全部には足りません。でも、声を戻すには足ります」

 ヒナセの言い方は静かだった。

 技術の話なのに、少しだけ祈りに聞こえた。

 旧学校区の校門は、今日も傾いていた。

 校庭の泥は少し乾いている。

 前回より、足跡がつきにくい。

 それだけで、季節が進んでいることが分かる。

 校舎は黙っていた。

 学校は、いつも黙っている。

 でも、人がいる学校は、黙っていてもざわざわする。

 ここには、そのざわざわがない。

 かわりに、窓の割れた音の跡や、焦げた壁の跡や、廊下に溜まった埃がある。

 音がないのではなく、音が終わった後の場所だった。

「行こう」

 リゼが言った。

 今回は、迷わなかった。

 ハルクが先頭で校舎へ入る。

 盾。

 その後ろに、ヒナセとミナ。

 機材と工具。

 カナタ、リゼ、ユウト、タクト、マコト、セナが続く。

 廊下では、今日もリゼが言った。

「廊下、走らない」

「校則強化期間ですね」

 ユウトが言う。

「今日は特別監視」

「罰則は」

「放送で名前呼ぶ」

「一番嫌かもしれない」

 軽い笑いが起きた。

 放送室の扉を開けると、埃の匂いがした。

 前回より少し薄い。

 人が一度入ると、部屋は少しだけ部屋に戻る。

 机の上には前回置いた印が残っていた。端子の向き、バッテリーを置く位置、コードを這わせる経路。ヒナセが貼った小さな紙片には《ここ噛まない》と書いてある。

「誰が噛むんですか」

 ユウトが訊く。

「コードです」

 ヒナセが答える。

「コードが?」

「絡むと噛みます」

「機械側の人間が増えてる」

 ミナが嬉しそうに頷いた。

「ようこそ」

「まだです」

 作業は前回より早かった。

 バッテリーを置く。

 端子を繋ぐ。

 コードを布で束ねる。

 マイクを確認する。

 スイッチ盤を開く。

 ランプが点く。

 今回は、すぐ消えなかった。

「生きてます」

 ヒナセが言った。

「今日は機嫌いい」

 ミナが言う。

「学校、二回目だから慣れたのかな」

 リゼが言った。

「慣れるんですか」

 マコトが訊く。

「学校も人見知りするかも」

「記録は」

「しないで」

 リゼは笑った。

 でも、その笑いはすぐ消えた。

 マイクの前に立つ。

 前回と同じ場所。

 古いマイク。

 埃を拭いたスイッチ。

 窓の外には校庭。

 鉄棒。

 校門。

 三号車。

 春の泥。

 リゼの手が、ほんの少し震えた。

 カナタは何も言わなかった。

 セナも、今日は何も言わない。

 ユウトも茶化さない。

 タクトは缶を押さえている。

 ヒナセは機材を見る。

 ミナは工具を握る。

 ハルクは扉の横に立つ。

 マコトは鞄を閉じた。

 記録より先に、聞くために。

「リゼさん」

 カナタは言った。

「はい」

「声は、戻る場所に届けばいいです」

「学校全部じゃなくて?」

「まず、戻る場所に」

 リゼは少しだけ目を伏せた。

 それから頷く。

「うん」

 ヒナセがスイッチを確認する。

「入ります」

 小さな音。

 じじ。

 廊下のどこかで、古いスピーカーが目を覚ます。

 リゼは息を吸った。

 そして、言った。

『帰る時間だよ』

 それは、とても普通の声だった。

 大きくもない。

 泣いてもいない。

 震えてもいない。

 学校の廊下を通って、教室の天井から落ちて、玄関のひび割れた床に広がっていくような声だった。

『もう、帰る時間』

 カナタは教室を思い出した。

 日直の名前。

 雑に消されたもう一人の名前。

 倒れた椅子。

 枯れた鉢植え。

 黒板の数式。

 弾痕。

 その全部に、リゼの声が触れていく。

『置いていくものは、置いていっていい』

 リゼは続けた。

『持っていくものは、一つでもいい』

 赤い布を手首で握る。

『もう、帰ろう』

 その声で、放送室の空気が少しだけ変わった。

 学校が、終わった授業を認めたみたいだった。

 鳴らなかったチャイムの代わりに。

 誰も言えなかった「解散」の代わりに。

 リゼは、自分自身にも言っていた。

 それが分かった。

 待っていた誰かへではない。

 校舎の奥に残っていた半分の自分へ。

 帰ろう。

 その時、ヒナセの通信機が鋭く鳴った。

「外周、熱源三。速いです」

 ハルクが扉の前に出る。

「方向」

「校庭側。前回と同じです。放送に反応しています」

 リゼはマイクから離れなかった。

 カナタが言う。

「撤収します」

「もう少し」

「だめです」

「あと一回」

 リゼの声は静かだった。

 無理をしている声ではなかった。

 必要だと分かっている声だった。

 カナタは一瞬だけ迷った。

 全部見ない。

 でも、ここは見る場所だ。

 リゼの顔。

 ハルクの盾。

 ヒナセの通信。

 外の熱源。

 廊下の距離。

 撤収経路。

 全部を一人で見るのではない。

「ハルクさん、扉」

「了解」

「ユウトさん、廊下」

「はい!」

「タクトさん、コード回収準備」

「はい」

「ヒナセさん、十秒だけ」

「いけます」

「リゼさん、十秒です」

 リゼは頷いた。

 マイクに向かう。

『リゼ』

 自分の名前を呼んだ。

 それは、教室の黒板に残っていた名前と同じ音だった。

『帰るよ』

 短い。

 それだけだった。

 でも、それで十分だった。

 スピーカーから返ってきた声が、放送室の外へ消えていく。

 ヒナセが電源を落とす。

 タクトがコードをまとめる。

 ミナがバッテリーを抱える。

「撤収!」

 カナタが言った。

 廊下へ出る。

 走らない。

 でも速く。

 廊下を走らないという校則は、今日はぎりぎり守られた。

 旧校舎の玄関へ向かう途中、教室の前を通る。

 リゼが一瞬だけ足を止めた。

 黒板が見えた。

 日直、リゼ。

 その文字が、廊下の薄暗さの中で白く浮いている。

 カナタは止めようとした。

 でも、リゼは自分で動いた。

 教室へ入る。

 チョークを取る。

 黒板の右上。

 自分の名前の下に、一文字だけ書いた。

 《帰》

 それだけ。

 全部書かない。

 全部消さない。

 一文字だけ。

 そしてチョークを置いた。

「行く」

 リゼが言った。

 今度は、カナタが言う前に。

 ポケットの中で、古い軍手が指先に触れた。

 置いていかない。

 今回は、それでよかった。

 玄関を出ると、レイスが校庭にいた。

 三体。

 細い体。

 泥の上を低く走る。

 狙いは車ではない。

 白線でもない。

 放送室から出てきた人間。

 声を出した人間。

 リゼだった。

 ハルクが前へ出る。

 盾が黒い影を受ける。

 重い音。

 ユウトが撃つ。

 一体が泥へ倒れる。

 タクトが音を消す布でバッテリーの金具を押さえながら走る。

 ヒナセが通信する。

「撤収経路、校門側。三号車、前へ!」

 ミナが三号車を動かす。

「今行く!学校の校庭で車を暴れさせるなって言われそう!」

「誰にですか!」

 ユウトが叫ぶ。

「校長!」

「いません!」

「だから行ける!」

 三号車が泥を跳ね上げて近づく。

 リゼが走る。

 廊下では走らなかった。

 校庭では走った。

 赤い布が春の泥の中で揺れる。

 レイスが横から飛び込む。

 カナタが撃つ。

 外れる。

 リゼが転びかける。

 タクトが支える。

 缶は鳴らない。

 ハルクが盾で二体目を弾く。

 ユウトが撃つ。

 当たる。

 三体目がリゼへ向かう。

 セナが医療袋を投げた。

 いや、投げたのは医療袋ではない。

 排水溝用の確認棒だった。

 棒がレイスの足元へ刺さる。

 一瞬、動きが逸れる。

 カナタが撃った。

 今度は当たった。

 レイスが泥に沈む。

「医療袋じゃなくてよかった」

 ユウトが息を切らして言った。

「当たり前」

 セナが答える。

 三号車に全員が乗り込む。

 リゼが最後に校舎を見た。

 今度は、振り返った。

 でも、足は止まらない。

 校舎の二階。

 放送室の窓。

 教室の黒板。

 そこへ向けて、リゼは小さく手を振った。

 声は出さなかった。

 三号車が走り出す。

 旧学校区が後ろへ下がる。

 校門を越える。

 泥道へ戻る。

 リゼは窓の外を見た。

 行きとは違う目だった。

 戻る場所を見る目でも、置いてきた場所を見る目でもない。

 帰ってきた人の目だった。

 ハウンド七に戻ると、食堂の窓にリゼは何も書かなかった。

 代わりに、帰ってきたもの置き場へ行く。

 ポケットから小さな白いものを出した。

 チョークだった。

 放送室ではなく、教室から持ってきた短いチョーク。

「持ってきちゃった」

 リゼが言った。

「いいんですか」

 カナタが訊く。

「全部じゃないから」

 彼女はそれを机の上に置いた。

 赤い手袋の隣。

 黒札の隣。

 優勝豆の近く。

 小さなチョークは、そこに置かれると、急に帰ってきたものの顔をした。

 リゼはその横に、指で小さく書いた。

 《帰》

「一文字だけ?」

 ユウトが訊く。

「うん」

「続きは?」

「これから」

 その言葉で、春の食堂に少しだけ湯気が増えたような気がした。

 夕方の定時連絡は、異常なしだった。

 ただし旧学校区周辺に小型レイス反応あり、今後注意。

 アイラの声はいつも通り淡々としていた。

 食堂では豆スープが配られた。

 豆は二粒。

 市民。

 リゼは椀を持って、少しだけ笑った。

「帰ってきた後のスープって、薄いね」

「いつも薄いです」

 カナタが言う。

「うん。でも今日は、ちゃんと薄い」

 それは、前にも誰かが言ったような言葉だった。

 カナタは頷いた。

 手袋は今日も湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけチョークの粉の匂いがした。

 放送室の声は、もう遠い。

 でも、リゼは帰ってきた。

 半分ではなく。

 たぶん、少し多めに。

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