帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
放送室へ行く日は、朝から少しだけ静かだった。
警報が鳴っていないからではない。
誰も喋らないからでもない。
ユウトは豆を数えたし、ミナは三号車に文句を言ったし、セナはリゼに「無理をするな」と三回言った。タクトの缶は鳴らなかった。マコトは記録帳を持つかどうかで五分悩み、最終的に鞄に入れた。ヒナセは外部バッテリーの残量を何度も確認し、ハルクは盾の留め具を締め直していた。
いつも通りだった。
でも、いつも通りの音の下に、薄い布が一枚敷かれているような感じがした。
春の朝のハウンド七は、泥と湯気と灯油の匂いがした。
食堂の窓には、前回リゼが書いた《マイク、生存》の文字がまだ残っている。ユウトが書き足した《乾パンも生存》はセナに消されたはずなのに、うっすら跡が残っていた。
消しても残るものはある。
そういうことを、カナタは最近よく考える。
消し跡。
足跡。
焦げ跡。
名前の跡。
声の跡。
世界は、きれいに消えることが下手だ。
「カナタさん」
リゼが言った。
食堂の柱に結んでいた赤い布を外している。
「今日、言う」
「はい」
「止める?」
「止めません」
「心配は?」
「します」
「じゃあよし」
彼女は赤い布を手首に巻いた。
きつすぎず、緩すぎず。
何度もやってきた結び方だった。
待っているだけの赤ではない。
呼ぶための赤になっていた。
三号車は、旧学校区へ向けて春の道を走った。
雪はもうほとんどない。
ただ、日陰に残った白い塊が、負けを認めていないみたいに道端へ張りついている。草はまだ短い。木の枝には小さな芽がついている。空は薄い灰色で、風は泥の匂いを運んでくる。
冬が終わったのに、戦争は終わらない。
それはかなり不公平だと思った。
「今日のマイクテスト案、まだ受け付けてます?」
ユウトが荷台から言った。
「受け付けてません」
リゼが即答する。
「早い」
「前回で学んだ」
「今回こそいい案が」
「豆は禁止」
「読まれている」
タクトが小さく言う。
「乾パンも禁止です」
「先回りが増えた」
ヒナセが通信機を確認しながら言った。
「放送回線は前回の接続を再現します。校内スピーカー三割。玄関、廊下、教室棟。体育館は不安定。外部拡声は、窓から補助でいけます」
「三割で足りますか」
マコトが訊く。
「学校全部には足りません。でも、声を戻すには足ります」
ヒナセの言い方は静かだった。
技術の話なのに、少しだけ祈りに聞こえた。
旧学校区の校門は、今日も傾いていた。
校庭の泥は少し乾いている。
前回より、足跡がつきにくい。
それだけで、季節が進んでいることが分かる。
校舎は黙っていた。
学校は、いつも黙っている。
でも、人がいる学校は、黙っていてもざわざわする。
ここには、そのざわざわがない。
かわりに、窓の割れた音の跡や、焦げた壁の跡や、廊下に溜まった埃がある。
音がないのではなく、音が終わった後の場所だった。
「行こう」
リゼが言った。
今回は、迷わなかった。
ハルクが先頭で校舎へ入る。
盾。
その後ろに、ヒナセとミナ。
機材と工具。
カナタ、リゼ、ユウト、タクト、マコト、セナが続く。
廊下では、今日もリゼが言った。
「廊下、走らない」
「校則強化期間ですね」
ユウトが言う。
「今日は特別監視」
「罰則は」
「放送で名前呼ぶ」
「一番嫌かもしれない」
軽い笑いが起きた。
放送室の扉を開けると、埃の匂いがした。
前回より少し薄い。
人が一度入ると、部屋は少しだけ部屋に戻る。
机の上には前回置いた印が残っていた。端子の向き、バッテリーを置く位置、コードを這わせる経路。ヒナセが貼った小さな紙片には《ここ噛まない》と書いてある。
「誰が噛むんですか」
ユウトが訊く。
「コードです」
ヒナセが答える。
「コードが?」
「絡むと噛みます」
「機械側の人間が増えてる」
ミナが嬉しそうに頷いた。
「ようこそ」
「まだです」
作業は前回より早かった。
バッテリーを置く。
端子を繋ぐ。
コードを布で束ねる。
マイクを確認する。
スイッチ盤を開く。
ランプが点く。
今回は、すぐ消えなかった。
「生きてます」
ヒナセが言った。
「今日は機嫌いい」
ミナが言う。
「学校、二回目だから慣れたのかな」
リゼが言った。
「慣れるんですか」
マコトが訊く。
「学校も人見知りするかも」
「記録は」
「しないで」
リゼは笑った。
でも、その笑いはすぐ消えた。
マイクの前に立つ。
前回と同じ場所。
古いマイク。
埃を拭いたスイッチ。
窓の外には校庭。
鉄棒。
校門。
三号車。
春の泥。
リゼの手が、ほんの少し震えた。
カナタは何も言わなかった。
セナも、今日は何も言わない。
ユウトも茶化さない。
タクトは缶を押さえている。
ヒナセは機材を見る。
ミナは工具を握る。
ハルクは扉の横に立つ。
マコトは鞄を閉じた。
記録より先に、聞くために。
「リゼさん」
カナタは言った。
「はい」
「声は、戻る場所に届けばいいです」
「学校全部じゃなくて?」
「まず、戻る場所に」
リゼは少しだけ目を伏せた。
それから頷く。
「うん」
ヒナセがスイッチを確認する。
「入ります」
小さな音。
じじ。
廊下のどこかで、古いスピーカーが目を覚ます。
リゼは息を吸った。
そして、言った。
『帰る時間だよ』
それは、とても普通の声だった。
大きくもない。
泣いてもいない。
震えてもいない。
学校の廊下を通って、教室の天井から落ちて、玄関のひび割れた床に広がっていくような声だった。
『もう、帰る時間』
カナタは教室を思い出した。
日直の名前。
雑に消されたもう一人の名前。
倒れた椅子。
枯れた鉢植え。
黒板の数式。
弾痕。
その全部に、リゼの声が触れていく。
『置いていくものは、置いていっていい』
リゼは続けた。
『持っていくものは、一つでもいい』
赤い布を手首で握る。
『もう、帰ろう』
その声で、放送室の空気が少しだけ変わった。
学校が、終わった授業を認めたみたいだった。
鳴らなかったチャイムの代わりに。
誰も言えなかった「解散」の代わりに。
リゼは、自分自身にも言っていた。
それが分かった。
待っていた誰かへではない。
校舎の奥に残っていた半分の自分へ。
帰ろう。
その時、ヒナセの通信機が鋭く鳴った。
「外周、熱源三。速いです」
ハルクが扉の前に出る。
「方向」
「校庭側。前回と同じです。放送に反応しています」
リゼはマイクから離れなかった。
カナタが言う。
「撤収します」
「もう少し」
「だめです」
「あと一回」
リゼの声は静かだった。
無理をしている声ではなかった。
必要だと分かっている声だった。
カナタは一瞬だけ迷った。
全部見ない。
でも、ここは見る場所だ。
リゼの顔。
ハルクの盾。
ヒナセの通信。
外の熱源。
廊下の距離。
撤収経路。
全部を一人で見るのではない。
「ハルクさん、扉」
「了解」
「ユウトさん、廊下」
「はい!」
「タクトさん、コード回収準備」
「はい」
「ヒナセさん、十秒だけ」
「いけます」
「リゼさん、十秒です」
リゼは頷いた。
マイクに向かう。
『リゼ』
自分の名前を呼んだ。
それは、教室の黒板に残っていた名前と同じ音だった。
『帰るよ』
短い。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
スピーカーから返ってきた声が、放送室の外へ消えていく。
ヒナセが電源を落とす。
タクトがコードをまとめる。
ミナがバッテリーを抱える。
「撤収!」
カナタが言った。
廊下へ出る。
走らない。
でも速く。
廊下を走らないという校則は、今日はぎりぎり守られた。
旧校舎の玄関へ向かう途中、教室の前を通る。
リゼが一瞬だけ足を止めた。
黒板が見えた。
日直、リゼ。
その文字が、廊下の薄暗さの中で白く浮いている。
カナタは止めようとした。
でも、リゼは自分で動いた。
教室へ入る。
チョークを取る。
黒板の右上。
自分の名前の下に、一文字だけ書いた。
《帰》
それだけ。
全部書かない。
全部消さない。
一文字だけ。
そしてチョークを置いた。
「行く」
リゼが言った。
今度は、カナタが言う前に。
ポケットの中で、古い軍手が指先に触れた。
置いていかない。
今回は、それでよかった。
玄関を出ると、レイスが校庭にいた。
三体。
細い体。
泥の上を低く走る。
狙いは車ではない。
白線でもない。
放送室から出てきた人間。
声を出した人間。
リゼだった。
ハルクが前へ出る。
盾が黒い影を受ける。
重い音。
ユウトが撃つ。
一体が泥へ倒れる。
タクトが音を消す布でバッテリーの金具を押さえながら走る。
ヒナセが通信する。
「撤収経路、校門側。三号車、前へ!」
ミナが三号車を動かす。
「今行く!学校の校庭で車を暴れさせるなって言われそう!」
「誰にですか!」
ユウトが叫ぶ。
「校長!」
「いません!」
「だから行ける!」
三号車が泥を跳ね上げて近づく。
リゼが走る。
廊下では走らなかった。
校庭では走った。
赤い布が春の泥の中で揺れる。
レイスが横から飛び込む。
カナタが撃つ。
外れる。
リゼが転びかける。
タクトが支える。
缶は鳴らない。
ハルクが盾で二体目を弾く。
ユウトが撃つ。
当たる。
三体目がリゼへ向かう。
セナが医療袋を投げた。
いや、投げたのは医療袋ではない。
排水溝用の確認棒だった。
棒がレイスの足元へ刺さる。
一瞬、動きが逸れる。
カナタが撃った。
今度は当たった。
レイスが泥に沈む。
「医療袋じゃなくてよかった」
ユウトが息を切らして言った。
「当たり前」
セナが答える。
三号車に全員が乗り込む。
リゼが最後に校舎を見た。
今度は、振り返った。
でも、足は止まらない。
校舎の二階。
放送室の窓。
教室の黒板。
そこへ向けて、リゼは小さく手を振った。
声は出さなかった。
三号車が走り出す。
旧学校区が後ろへ下がる。
校門を越える。
泥道へ戻る。
リゼは窓の外を見た。
行きとは違う目だった。
戻る場所を見る目でも、置いてきた場所を見る目でもない。
帰ってきた人の目だった。
ハウンド七に戻ると、食堂の窓にリゼは何も書かなかった。
代わりに、帰ってきたもの置き場へ行く。
ポケットから小さな白いものを出した。
チョークだった。
放送室ではなく、教室から持ってきた短いチョーク。
「持ってきちゃった」
リゼが言った。
「いいんですか」
カナタが訊く。
「全部じゃないから」
彼女はそれを机の上に置いた。
赤い手袋の隣。
黒札の隣。
優勝豆の近く。
小さなチョークは、そこに置かれると、急に帰ってきたものの顔をした。
リゼはその横に、指で小さく書いた。
《帰》
「一文字だけ?」
ユウトが訊く。
「うん」
「続きは?」
「これから」
その言葉で、春の食堂に少しだけ湯気が増えたような気がした。
夕方の定時連絡は、異常なしだった。
ただし旧学校区周辺に小型レイス反応あり、今後注意。
アイラの声はいつも通り淡々としていた。
食堂では豆スープが配られた。
豆は二粒。
市民。
リゼは椀を持って、少しだけ笑った。
「帰ってきた後のスープって、薄いね」
「いつも薄いです」
カナタが言う。
「うん。でも今日は、ちゃんと薄い」
それは、前にも誰かが言ったような言葉だった。
カナタは頷いた。
手袋は今日も湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけチョークの粉の匂いがした。
放送室の声は、もう遠い。
でも、リゼは帰ってきた。
半分ではなく。
たぶん、少し多めに。