帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
前線の朝は、音が先に起きる。
空はまだ薄い。
草の先に露が残っている。
壕の横に置かれた鍋には、昨日の根菜スープの匂いが少し残っていて、その上を火薬の匂いが乱暴に踏んでいく。鉄板の上に落ちた水滴が、じゅ、と小さく鳴った。夏の前線では、水まで仕事が速い。
そのあとで、人間が起きる。
起きるというより、寝ていた姿勢から動く姿勢へ変わる。
前線兵たちは、朝だから動くのではない。砲が動くから動く。補給が来るから動く。誰かが担架で運ばれるから動く。そこに朝という名前がついているだけだった。
カナタは補給壕の前に立ち、靴裏の泥を見ていた。
泥は冬より軽い。
だが、軽い泥は滑る。
雪よりまし、と言おうとすれば言える。
でも、雪には雪の殺意があり、泥には泥の殺意がある。
季節ごとに手口が違うだけで、道はだいたい人間に優しくない。
「前線、朝から前線ですね」
ユウトが言った。
手には椀。
前線の簡易スープ。
豆はない。
根菜が一切れ。
「制度が壊れました」
タクトが椀を覗き込んで言う。
「根菜一切れは、市民ですか」
「豆制度と互換性がありません」
「制度の壁」
「壁と言うな」
ハルクが言った。
珍しく反応が早かった。
彼は補給壕の横で、盾の留め具を締め直している。盾は大きい。食堂で見ると邪魔な家具みたいだが、前線で見ると妙に正しい。そこにあるべきものが、そこにある感じがする。
ハルク自身もそうだった。
帰還誘導兵の中では、少しだけ浮いている。
前線では、少しだけ馴染みすぎる。
それがカナタには気になった。
「おい、ハルク」
泥だらけの前線兵が歩いてきた。
片頬に古い切り傷。
笑うと傷だけが少し遅れて動く。
以前ハルクを壁と呼んだ男だった。
「まだ後ろで人を帰してんのか」
「今は前にいる」
「屁理屈を覚えたな」
「帰還誘導兵の影響だ」
「悪化してる」
「湿った手袋よりましだ」
カナタは思わず顔を上げた。
「なぜそれを」
前線兵はリゼを見る。
「赤い布の子が言ってた」
リゼは椀を持ったまま目を逸らした。
「文化なので」
「責任を文化にしないでください」
「広まってるね」
「広げないでください」
前線兵が笑った。
前線の笑いは短い。
短くて、すぐ次の音に潰される。
砲の角度を調整する金属音。
弾薬箱の取っ手が鳴る音。
遠くの観測班が何かを叫ぶ声。
笑いはそこへ混じって、すぐ分からなくなる。
でも、なかったことにはならない。
小さなものほど、前線では意外と残る。
午前の任務は、補給壕から救護壕までの退避路確認だった。
距離は二百メートルほど。
地図では短い。
歩けばもっと短い。
けれど、担架を通し、弾薬箱を運び、砲兵が走り、通信線をまたぎ、泥を避け、敵を見ながら進むとなると、二百メートルは急に性格が悪くなる。
右には砲陣地。
左には崩れた防壁。
中央に弾薬運搬路。
その隙間を縫うように、退避路がある。
細い。
細いくせに、いろいろ通りたがる。
道というものは、時々かなり欲張りだった。
「避難列より短いのに忙しいですね」
マコトが言った。
メモ帳はまだ出していない。
前線では、記録より先に手を空けることを覚えたらしい。
「短い列は、詰まった時にごまかせません」
カナタは答えた。
「ごまかす?」
「長い列なら、遠くで何か起きたと思える。でも短い列は、目の前で止まります」
「嫌な分かりやすさですね」
「はい」
「記録します」
「後で」
「はい」
ヒナセが通信機の感度を調整していた。
「ブルーグラスから共有。前方に小型群。前線呼称はスリップ。足元へ入るタイプです」
「滑るから?」
ユウトが訊く。
「兵士の足元を滑るように抜けるから、だそうです」
「名前が嫌ですね」
前線兵が言った。
「まだかわいい方だ」
「かわいいんですか」
「バスティオンの足元にいる時はな」
「比較対象が悪い」
砲声が鳴った。
空気が横から殴られる。
ユウトの肩が動いた。
ほんの少し。
見なかったことにできる程度。
カナタは見なかったことにした。
人には、見られると余計に震えるものがある。
訓練は、訓練の顔で始まった。
負傷兵役が二人。
弾薬箱が四つ。
退避路を一時切り替え、砲撃中でも救護壕へ流せるか確認する。
白線布は使わない。
張る時間がない。
前線では、線を引く前に人が走る。
だから、人を線にする。
ハルクが右。
タクトが中央。
ユウトが声。
ヒナセが通信。
マコトが伝達。
リゼが救護壕側で赤布を持つ。
カナタは地図と現場を交互に見た。
全部を見ない。
見たくなる。
でも、見ない。
まだ詰まっていない場所を見る。
まだ倒れていない人を見る。
まだ起きていない混乱の、影だけを見る。
「担架は右!」
ユウトが叫ぶ。
「弾薬は左!迷ったらハルクさんの壁を見てください!」
「壁ではない」
ハルクが言う。
「じゃあ目印!」
「もっと悪い」
リゼの声が救護壕側から飛ぶ。
「こっち、帰る場所!赤いの見て!赤いのがいる方!」
前線兵が担架を運びながら笑った。
「赤いの本人も元気だな」
「本人も帰ります!」
「そこは帰るのかよ!」
「帰還誘導兵なので!」
声がある。
それだけで、道が少し太くなる。
見えない線が一本増える。
その時、観測壕から警告が飛んだ。
「スリップ群、来るぞ!」
訓練の顔が剥がれた。
下から、戦場の顔が出た。
小型レイスが崩れた防壁の下から這い出した。
十数体。
犬より低い。
影より速い。
泥と土嚢の間を滑るように走る。胸を狙わない。首も狙わない。足元へ入る。人間を倒し、担架を傾け、弾薬箱を落とし、後ろの人間に考える時間を与えない。
「足元!」
ヒナセの声が拡声器から響く。
『足元注意!中央を空けて!担架止めない!』
ハルクが前へ出た。
盾を低く構える。
一体が盾にぶつかる。
軽い音。
その横を、別の影が抜ける。
前線兵が撃つ。
泥が跳ねる。
ユウトも撃つ。
外れる。
「速い!」
「足じゃなくて道を見てください!」
カナタは叫んだ。
言ってから、自分でも変な指示だと思った。
でも、スリップを目で追えば遅れる。
敵が何を壊そうとしているかを見る。
足元ではなく、道。
体ではなく、列。
担架役の一人がよろめいた。
タクトが横へ入る。
「持ち替えます!今は止まらない!」
担架の手が変わる。
前線兵が舌打ちしながら支える。
リゼが赤布を振る。
「倒れたら言って!倒れる前でも言って!」
「倒れる前って分かるのか!?」
誰かが怒鳴る。
「ちょっと分かる!」
「雑だな!」
「雑でも言って!」
雑でも、声は届く。
完璧な指示より、今聞こえる言葉の方が役に立つことがある。
カナタは退避路を見る。
危ないのは、いま目の前のスリップだけではない。
弾薬箱だ。
弾薬箱を持つ二人が、担架を避けて止まりかけている。
そこで止まると、補給壕の出口が塞がる。
出口が塞がると、次の担架が出られない。
まだ詰まっていない。
でも、三秒後に詰まる。
「ユウト、弾薬を二列に分けて!」
「はい!」
「タクト、担架の中央通路を戻す!」
「はい!」
「ヒナセ、補給壕を五秒だけ止めてください!」
「五秒?」
「五秒だけ!」
「了解!」
止める。
帰すために止める。
春の排水溝で覚えたことが、前線の泥の上で使われる。
『補給壕、五秒停止!繰り返します、五秒だけ止まってください!』
前線兵が怒鳴る。
「止めるのか!」
ユウトが叫び返す。
「五秒止まると十秒早いです!」
「算数かよ!」
「たぶん!」
「たぶんで前線を動かすな!」
でも止まった。
五秒。
その間に担架が抜けた。
弾薬箱が二列に割れた。
ハルクが半歩下がった。
本当に、半歩。
それだけで、人の流れが変わった。
壁が動く。
壁が動くと、道も動く。
カナタはそれを見た。
ハルクは、前だけを見ていなかった。
後ろの列に合わせて、自分の位置を変えた。
スリップがまた飛び込む。
ハルクが盾を低く払う。
泥が跳ねる。
一体が吹き飛ぶ。
前線兵が撃つ。
残りの影が散った。
時間にすれば、数分だった。
でも、終わった時には全員の息が荒かった。
訓練はぐちゃぐちゃになった。
それでも、退避路は詰まらなかった。
担架は救護壕へ入った。
弾薬箱は補給壕へ戻った。
前線兵が一人、膝を擦りむいた。
セナが処置しながら言う。
「膝、負け」
「靴じゃなくてよかった」
前線兵が答えた。
「何その基準」
セナが眉をひそめる。
「ハウンド七基準です」
ユウトが胸を張る。
「広めるな」
「もう少し広がってます」
「戻せ」
笑いが起きた。
前線の笑いだった。
乾いていて、短くて、それでもちゃんと笑いだった。
ハルクは盾の泥を落としていた。
前線兵が隣に立つ。
「下がったな」
「半歩だ」
「昔なら下がらなかった」
「今は、帰還誘導兵だ」
短い会話。
でも、カナタには砲声より残った。
前線兵はハルクの肩を一度叩いた。
強くも弱くもない。
そこにいることを確かめるみたいに。
壁の向こうに、人がいる。
壁は敵を止めるだけではない。
帰る人間の流れを曲げるためにもある。
ハルクの半歩は、それを教えていた。
昼過ぎ、前線の簡易食堂でスープを飲んだ。
豆はなかった。
根菜が一切れ浮いていた。
ユウトは椀を覗き込んで、深刻な顔をした。
「階級制度が機能しません」
「根菜制度を作る?」
リゼが言う。
「一切れで何ですか」
「前線市民」
「字面が重い」
「じゃあ根菜貴族」
「もっと嫌です」
タクトがスープを飲んだ。
「でも、温かいです」
リゼは頷く。
「温かいなら勝ち」
前線兵たちも、少し離れた場所で同じスープを飲んでいた。
誰も美味しそうな顔はしない。
でも、誰も残さない。
食べることは、やっぱり戦術だった。
でも今日は、それだけではなかった。
温かいものを飲んでいる時だけ、前線兵も少し人間に戻る。
帰り際、前線兵がカナタへ言った。
「また来るのか」
「命令があれば」
「命令がなくても来そうな顔だな」
「顔で判断されることが増えました」
「悪い顔じゃねぇ」
褒め言葉かは分からない。
でも、悪くはなかった。
前線兵はハルクを見る。
「壁を頼む」
ハルクは短く答えた。
「帰す」
前線兵は少し笑った。
「そうか」
帰りの三号車で、ユウトがぽつりと言った。
「前線、やっぱり怖いですね」
「はい」
カナタは答えた。
「でも、少し分かりました」
「何が」
「強い人も、帰るんですね」
誰もすぐには返事をしなかった。
リゼが膝の上の赤布を畳む。
煤けた赤。
でも、赤だった。
「うん」
彼女は小さく言った。
「帰ってこいって言う相手、増えたね」
ハウンド七に戻ると、食堂の窓が少し開いていた。
夏の風が入ってくる。
草の匂い。
油の匂い。
前線の火薬の匂いが、まだ服についている。
カナタは手袋を外した。
湿っている。
昨日より少し乾いている。
でも、泥がついていた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ前線の匂いが薄くなった。
壁の向こうには、帰る人がいる。
そのことだけが、今日の中で妙にはっきり残っていた。