帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十三話 壁の向こう

 前線の朝は、音が先に起きる。

 空はまだ薄い。

 草の先に露が残っている。

 壕の横に置かれた鍋には、昨日の根菜スープの匂いが少し残っていて、その上を火薬の匂いが乱暴に踏んでいく。鉄板の上に落ちた水滴が、じゅ、と小さく鳴った。夏の前線では、水まで仕事が速い。

 そのあとで、人間が起きる。

 起きるというより、寝ていた姿勢から動く姿勢へ変わる。

 前線兵たちは、朝だから動くのではない。砲が動くから動く。補給が来るから動く。誰かが担架で運ばれるから動く。そこに朝という名前がついているだけだった。

 カナタは補給壕の前に立ち、靴裏の泥を見ていた。

 泥は冬より軽い。

 だが、軽い泥は滑る。

 雪よりまし、と言おうとすれば言える。

 でも、雪には雪の殺意があり、泥には泥の殺意がある。

 季節ごとに手口が違うだけで、道はだいたい人間に優しくない。

「前線、朝から前線ですね」

 ユウトが言った。

 手には椀。

 前線の簡易スープ。

 豆はない。

 根菜が一切れ。

「制度が壊れました」

 タクトが椀を覗き込んで言う。

「根菜一切れは、市民ですか」

「豆制度と互換性がありません」

「制度の壁」

「壁と言うな」

 ハルクが言った。

 珍しく反応が早かった。

 彼は補給壕の横で、盾の留め具を締め直している。盾は大きい。食堂で見ると邪魔な家具みたいだが、前線で見ると妙に正しい。そこにあるべきものが、そこにある感じがする。

 ハルク自身もそうだった。

 帰還誘導兵の中では、少しだけ浮いている。

 前線では、少しだけ馴染みすぎる。

 それがカナタには気になった。

「おい、ハルク」

 泥だらけの前線兵が歩いてきた。

 片頬に古い切り傷。

 笑うと傷だけが少し遅れて動く。

 以前ハルクを壁と呼んだ男だった。

「まだ後ろで人を帰してんのか」

「今は前にいる」

「屁理屈を覚えたな」

「帰還誘導兵の影響だ」

「悪化してる」

「湿った手袋よりましだ」

 カナタは思わず顔を上げた。

「なぜそれを」

 前線兵はリゼを見る。

「赤い布の子が言ってた」

 リゼは椀を持ったまま目を逸らした。

「文化なので」

「責任を文化にしないでください」

「広まってるね」

「広げないでください」

 前線兵が笑った。

 前線の笑いは短い。

 短くて、すぐ次の音に潰される。

 砲の角度を調整する金属音。

 弾薬箱の取っ手が鳴る音。

 遠くの観測班が何かを叫ぶ声。

 笑いはそこへ混じって、すぐ分からなくなる。

 でも、なかったことにはならない。

 小さなものほど、前線では意外と残る。

 

 午前の任務は、補給壕から救護壕までの退避路確認だった。

 距離は二百メートルほど。

 地図では短い。

 歩けばもっと短い。

 けれど、担架を通し、弾薬箱を運び、砲兵が走り、通信線をまたぎ、泥を避け、敵を見ながら進むとなると、二百メートルは急に性格が悪くなる。

 右には砲陣地。

 左には崩れた防壁。

 中央に弾薬運搬路。

 その隙間を縫うように、退避路がある。

 細い。

 細いくせに、いろいろ通りたがる。

 道というものは、時々かなり欲張りだった。

「避難列より短いのに忙しいですね」

 マコトが言った。

 メモ帳はまだ出していない。

 前線では、記録より先に手を空けることを覚えたらしい。

「短い列は、詰まった時にごまかせません」

 カナタは答えた。

「ごまかす?」

「長い列なら、遠くで何か起きたと思える。でも短い列は、目の前で止まります」

「嫌な分かりやすさですね」

「はい」

「記録します」

「後で」

「はい」

 ヒナセが通信機の感度を調整していた。

「ブルーグラスから共有。前方に小型群。前線呼称はスリップ。足元へ入るタイプです」

「滑るから?」

 ユウトが訊く。

「兵士の足元を滑るように抜けるから、だそうです」

「名前が嫌ですね」

 前線兵が言った。

「まだかわいい方だ」

「かわいいんですか」

「バスティオンの足元にいる時はな」

「比較対象が悪い」

 砲声が鳴った。

 空気が横から殴られる。

 ユウトの肩が動いた。

 ほんの少し。

 見なかったことにできる程度。

 カナタは見なかったことにした。

 人には、見られると余計に震えるものがある。

 訓練は、訓練の顔で始まった。

 負傷兵役が二人。

 弾薬箱が四つ。

 退避路を一時切り替え、砲撃中でも救護壕へ流せるか確認する。

 白線布は使わない。

 張る時間がない。

 前線では、線を引く前に人が走る。

 だから、人を線にする。

 ハルクが右。

 タクトが中央。

 ユウトが声。

 ヒナセが通信。

 マコトが伝達。

 リゼが救護壕側で赤布を持つ。

 カナタは地図と現場を交互に見た。

 全部を見ない。

 見たくなる。

 でも、見ない。

 まだ詰まっていない場所を見る。

 まだ倒れていない人を見る。

 まだ起きていない混乱の、影だけを見る。

「担架は右!」

 ユウトが叫ぶ。

「弾薬は左!迷ったらハルクさんの壁を見てください!」

「壁ではない」

 ハルクが言う。

「じゃあ目印!」

「もっと悪い」

 リゼの声が救護壕側から飛ぶ。

「こっち、帰る場所!赤いの見て!赤いのがいる方!」

 前線兵が担架を運びながら笑った。

「赤いの本人も元気だな」

「本人も帰ります!」

「そこは帰るのかよ!」

「帰還誘導兵なので!」

 声がある。

 それだけで、道が少し太くなる。

 見えない線が一本増える。

 その時、観測壕から警告が飛んだ。

「スリップ群、来るぞ!」

 訓練の顔が剥がれた。

 下から、戦場の顔が出た。

 小型レイスが崩れた防壁の下から這い出した。

 十数体。

 犬より低い。

 影より速い。

 泥と土嚢の間を滑るように走る。胸を狙わない。首も狙わない。足元へ入る。人間を倒し、担架を傾け、弾薬箱を落とし、後ろの人間に考える時間を与えない。

「足元!」

 ヒナセの声が拡声器から響く。

『足元注意!中央を空けて!担架止めない!』

 ハルクが前へ出た。

 盾を低く構える。

 一体が盾にぶつかる。

 軽い音。

 その横を、別の影が抜ける。

 前線兵が撃つ。

 泥が跳ねる。

 ユウトも撃つ。

 外れる。

「速い!」

「足じゃなくて道を見てください!」

 カナタは叫んだ。

 言ってから、自分でも変な指示だと思った。

 でも、スリップを目で追えば遅れる。

 敵が何を壊そうとしているかを見る。

 足元ではなく、道。

 体ではなく、列。

 担架役の一人がよろめいた。

 タクトが横へ入る。

「持ち替えます!今は止まらない!」

 担架の手が変わる。

 前線兵が舌打ちしながら支える。

 リゼが赤布を振る。

「倒れたら言って!倒れる前でも言って!」

「倒れる前って分かるのか!?」

 誰かが怒鳴る。

「ちょっと分かる!」

「雑だな!」

「雑でも言って!」

 雑でも、声は届く。

 完璧な指示より、今聞こえる言葉の方が役に立つことがある。

 カナタは退避路を見る。

 危ないのは、いま目の前のスリップだけではない。

 弾薬箱だ。

 弾薬箱を持つ二人が、担架を避けて止まりかけている。

 そこで止まると、補給壕の出口が塞がる。

 出口が塞がると、次の担架が出られない。

 まだ詰まっていない。

 でも、三秒後に詰まる。

「ユウト、弾薬を二列に分けて!」

「はい!」

「タクト、担架の中央通路を戻す!」

「はい!」

「ヒナセ、補給壕を五秒だけ止めてください!」

「五秒?」

「五秒だけ!」

「了解!」

 止める。

 帰すために止める。

 春の排水溝で覚えたことが、前線の泥の上で使われる。

『補給壕、五秒停止!繰り返します、五秒だけ止まってください!』

 前線兵が怒鳴る。

「止めるのか!」

 ユウトが叫び返す。

「五秒止まると十秒早いです!」

「算数かよ!」

「たぶん!」

「たぶんで前線を動かすな!」

 でも止まった。

 五秒。

 その間に担架が抜けた。

 弾薬箱が二列に割れた。

 ハルクが半歩下がった。

 本当に、半歩。

 それだけで、人の流れが変わった。

 壁が動く。

 壁が動くと、道も動く。

 カナタはそれを見た。

 ハルクは、前だけを見ていなかった。

 後ろの列に合わせて、自分の位置を変えた。

 スリップがまた飛び込む。

 ハルクが盾を低く払う。

 泥が跳ねる。

 一体が吹き飛ぶ。

 前線兵が撃つ。

 残りの影が散った。

 時間にすれば、数分だった。

 でも、終わった時には全員の息が荒かった。

 訓練はぐちゃぐちゃになった。

 それでも、退避路は詰まらなかった。

 担架は救護壕へ入った。

 弾薬箱は補給壕へ戻った。

 前線兵が一人、膝を擦りむいた。

 セナが処置しながら言う。

「膝、負け」

「靴じゃなくてよかった」

 前線兵が答えた。

「何その基準」

 セナが眉をひそめる。

「ハウンド七基準です」

 ユウトが胸を張る。

「広めるな」

「もう少し広がってます」

「戻せ」

 笑いが起きた。

 前線の笑いだった。

 乾いていて、短くて、それでもちゃんと笑いだった。

 ハルクは盾の泥を落としていた。

 前線兵が隣に立つ。

「下がったな」

「半歩だ」

「昔なら下がらなかった」

「今は、帰還誘導兵だ」

 短い会話。

 でも、カナタには砲声より残った。

 前線兵はハルクの肩を一度叩いた。

 強くも弱くもない。

 そこにいることを確かめるみたいに。

 壁の向こうに、人がいる。

 壁は敵を止めるだけではない。

 帰る人間の流れを曲げるためにもある。

 ハルクの半歩は、それを教えていた。

 昼過ぎ、前線の簡易食堂でスープを飲んだ。

 豆はなかった。

 根菜が一切れ浮いていた。

 ユウトは椀を覗き込んで、深刻な顔をした。

「階級制度が機能しません」

「根菜制度を作る?」

 リゼが言う。

「一切れで何ですか」

「前線市民」

「字面が重い」

「じゃあ根菜貴族」

「もっと嫌です」

 タクトがスープを飲んだ。

「でも、温かいです」

 リゼは頷く。

「温かいなら勝ち」

 前線兵たちも、少し離れた場所で同じスープを飲んでいた。

 誰も美味しそうな顔はしない。

 でも、誰も残さない。

 食べることは、やっぱり戦術だった。

 でも今日は、それだけではなかった。

 温かいものを飲んでいる時だけ、前線兵も少し人間に戻る。

 帰り際、前線兵がカナタへ言った。

「また来るのか」

「命令があれば」

「命令がなくても来そうな顔だな」

「顔で判断されることが増えました」

「悪い顔じゃねぇ」

 褒め言葉かは分からない。

 でも、悪くはなかった。

 前線兵はハルクを見る。

「壁を頼む」

 ハルクは短く答えた。

「帰す」

 前線兵は少し笑った。

「そうか」

 帰りの三号車で、ユウトがぽつりと言った。

「前線、やっぱり怖いですね」

「はい」

 カナタは答えた。

「でも、少し分かりました」

「何が」

「強い人も、帰るんですね」

 誰もすぐには返事をしなかった。

 リゼが膝の上の赤布を畳む。

 煤けた赤。

 でも、赤だった。

「うん」

 彼女は小さく言った。

「帰ってこいって言う相手、増えたね」

 

 ハウンド七に戻ると、食堂の窓が少し開いていた。

 夏の風が入ってくる。

 草の匂い。

 油の匂い。

 前線の火薬の匂いが、まだ服についている。

 カナタは手袋を外した。

 湿っている。

 昨日より少し乾いている。

 でも、泥がついていた。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ前線の匂いが薄くなった。

 壁の向こうには、帰る人がいる。

 そのことだけが、今日の中で妙にはっきり残っていた。

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