帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
後退、という言葉は、どうにも格好が悪い。
進撃。
突破。
迎撃。
防衛。
そういう言葉は、音だけで少し強そうだ。士官学校の講義でも、黒板に書かれる矢印はたいてい前へ伸びていた。赤い矢印、青い矢印、側面機動、火力集中、敵主力の拘束。教官は棒で地図を叩き、ここを押す、ここを切る、ここを制圧する、と言った。
後退の矢印は、いつも少し細かった。
あるいは、黒板の隅に追いやられていた。
退路。
予備経路。
撤収線。
そこは余白みたいに扱われた。
今なら分かる。
余白にしていい道などない。
人が帰るなら、そこは最初から線にしておかなければならない。
第三方面前線の朝は、前日より暑かった。
まだ真夏ではない。
けれど、鉄はもう夏の練習を始めている。砲台の根元に触れると、手袋越しでも熱が分かる。土嚢の表面は乾き、踏むと粉が舞った。油と火薬と、湿りかけた草の匂いが混ざる。
前線の匂いは、いつも足し算を間違えている。
少しずつなら耐えられるものを、まとめて鼻の奥に突っ込んでくる。
「今日も前線ですね」
ユウトが言った。
椀の中には根菜スープ。
豆はない。
前線では豆制度が通用しない。
そのせいで、ユウトは朝からやや不安定だった。
「根菜一切れ」
タクトが覗き込む。
「昨日と同じです」
「制度が停滞してる」
「前線市民ですか」
「市民というより、徴兵された根菜」
「食べにくい表現やめてください」
リゼが笑った。
赤布を手首に巻いている。
昨日、前線の煤がついた布とは別のものだ。煤けた方はハウンド七で干されている。洗っても全部は落ちないだろう。そういう汚れはある。落とせる汚れと、残る汚れ。人間も布も、だいたい同じだった。
「後退訓練、だって」
リゼが言う。
「訓練ですか」
ユウトが砲陣地の方を見る。
ちょうど、遠くで砲声が鳴った。
地面が腹の中まで揺れる。
「今のも訓練?」
「たぶん、日常音です」
カナタは答えた。
「嫌な日常」
「前線なので」
「便利な言葉ですね」
「便利な言葉は、だいたい怖いです」
ガレスが地図の前に立っていた。
火のつかない煙草。
前線の風では、火をつけてもすぐ消えそうだった。
いや、たぶん彼はどこでも火をつけない。
煙草を咥えることそのものが、ガレスにとっての手順なのだ。
アイゼンの砲兵長が地図を広げる。
短髪の女性。
低い声。
目元に隈。
その三つだけで、かなり前線の人だった。
「第一砲列を百二十メートル下げる。第二砲列は維持。弾薬車は先行二台、後続三台。救護壕は仮設第三へ移す」
地図の上に線が増える。
砲車。
弾薬車。
担架。
通信線。
工兵。
人。
全部が、一度に少しずつ動く。
避難列とは違う。
避難列は人間が列になる。
前線後退では、戦場そのものが列になる。
カナタは喉が乾いた。
水筒はある。
でも、これは水で治る渇きではなかった。
「顔」
リゼが隣で言った。
「今日は何ですか」
「地図に噛まれそうな顔」
「前も似たようなことを言われました」
「前線の地図、噛むから」
「噛みますか」
「噛む。しかも甘噛みじゃない」
リゼは赤布の結び目を押さえた。
「全部見る?」
「見たくなります」
「じゃあ、見る場所を決める」
彼女は地図を指でなぞる。
「私は戻る場所。ユウトは声。タクトは中央。ヒナセは通信。マコトは伝達。ミナは車。ハルクは右。セナは人。カナタさんは?」
「詰まる前」
「うん」
短い。
それだけで、少し息ができた。
全部を見ない。
詰まる前を見る。
言葉にすれば簡単だ。
実際には、かなり難しい。
後退訓練が始まった。
最初は静かだった。
砲列の一部が火を止める。
砲兵が車輪止めを外す。
弾薬車が先に動く。
工兵が泥に板を敷く。
救護壕から担架が出る。
ヒナセの通信が低く飛ぶ。
『第一砲列、車輪止め解除。弾薬車一号、移動開始。救護壕、搬送一名』
ユウトの声。
「担架は赤布へ!弾薬車は右の板!板から落ちると車が負けます!」
ミナの怒鳴り声。
「車が負けるって言うな!負けないようにしてる!」
タクトの声。
「中央、詰めないでください!箱は持ち替えます。肩で押さない!」
ハルクは右側の泥濘地帯に立っていた。
盾を構え、流れてくる人を押し返さない。
ただ、そこにいる。
壁は押すだけではない。
壁は、人に道を思い出させる。
リゼは仮設第三救護壕の入口に立ち、赤布を振っている。
「こっち!こっち帰れる!担架、こっち!」
前線の音の中で、その声だけ少し違う。
軽い。
でも軽すぎない。
聞くと、足がそちらを向く声だった。
カナタは地図と現場を見た。
今のところ、流れている。
砲車。
弾薬車。
担架。
工兵。
すべてが、それぞれの速度で動いている。
だが、グリッドの板が一枚だけ浮いていた。
泥に飲まれかけている。
今はまだ平気だ。
でも、次の弾薬車の重さで沈む。
そこで減速する。
後ろの砲車が詰まる。
砲車が詰まると、担架が回れない。
まだ誰も困っていない。
だから、今だ。
「グリッド、三枚目の板を押さえてください!」
カナタは叫んだ。
工兵が振り返る。
「まだ浮いただけだ!」
「次で沈みます!」
「見えるのかよ!」
「見えたくないです!」
工兵は舌打ちした。
そして走った。
板を押さえる。
直後、弾薬車の車輪がそこに乗った。
板が沈む。
工兵が全体重をかけて踏み、車輪が抜ける。
間に合った。
小さな詰まりが、起きる前に消えた。
カナタは息を吐く。
その瞬間、観測壕から叫び声が飛んだ。
「バスティオン、再接近!」
空気が変わった。
訓練の皮が破れた。
遠くの地平が動いている。
黒い塊。
四足。
厚い前面。
砲撃痕だらけの外殻。
昨日見た個体より大きいように見えた。
距離のせいかもしれない。
近づいているせいかもしれない。
どちらでも嫌だった。
「第一砲列、後退続行!」
砲兵長が叫ぶ。
「第二砲列、撃て!」
砲声。
世界が腹の中で揺れた。
砲煙。
土。
黒い爆発。
バスティオンは止まらない。
止まらない。
そのことが、いちばん怖い。
人間は止まる。
怖ければ止まる。
痛ければ止まる。
迷えば止まる。
でも、あれは止まらない。
だから、こっちは下がらなければならない。
「後退速度を上げる!」
前線兵が叫んだ。
危ない。
カナタはすぐに思った。
速くすればいいわけではない。
全員が同じ速度で速くなれるわけではない。
砲車には砲車の速度がある。
弾薬車には弾薬車の速度がある。
担架には担架の速度がある。
人間には、もっとばらばらな速度がある。
「速くしないでください!」
カナタは叫んでいた。
前線兵がこちらを見る。
「何だと!?」
「間隔を変えます!速度じゃなくて間隔!」
ガレスの低い声が無線越しに来る。
『続けろ』
それだけで、背中を押された気がした。
「砲車はそのまま!弾薬車の後続を旧整備路へ逃がす!担架は赤布二番へ!第二砲列の後退路を空けてください!」
「赤布二番!」
リゼが叫ぶ。
彼女は赤布を一本、救護壕へ残し、もう一本を持って旧整備路の角へ走った。
赤が二つになる。
戻る場所が二つになる。
「こっちも帰れる!担架、こっち!前が怖くても走らない!走ると負ける!」
「何にだ!」
「だいたい全部に!」
ユウトが別方向で声を張る。
「弾薬車、旧整備路!板の上!板から落ちると車が本当に泣きます!」
ミナが怒鳴る。
「泣かない!でも落ちるな!」
タクトは中央で人の流れを切る。
「担架を先に!箱は持てます、でも人は落とせません!」
マコトが走る。
「第二砲列後退路、空けます!繰り返し、空けます!」
ヒナセが通信を重ねる。
『ブルーグラス、バスティオン進路共有!アイゼン、射線注意!グリッド、旧整備路板追加!』
ハルクが右側で盾を立てる。
流れそうになる兵士を、押さずに止める。
その半歩後ろで道が開く。
全員が一斉に動いている。
バラバラではない。
前へ進むためではなく、後ろへ帰るために動いている。
カナタはその光景を見た。
下がっている。
砲も。
人も。
車も。
でも、負けているようには見えなかった。
むしろ、前へ進むよりずっと難しいことをしているように見えた。
第二砲列が撃つ。
バスティオンの足元で爆発。
黒い巨体がわずかに沈む。
砲兵長が叫ぶ。
「今だ、第一砲列、抜けろ!」
砲車が泥を噛んで動く。
重い。
遅い。
だが止まらない。
救護壕の担架が赤布二番へ流れる。
弾薬車が旧整備路へ逃げる。
工兵が板を押さえる。
リゼの赤布が二つ揺れる。
一つは救護壕。
一つは旧整備路。
戻る場所が二つある。
だから列は詰まらない。
カナタは、初めて前線の後退をきれいだと思った。
きれい、という言葉が合っているかは分からない。
砲煙と泥と怒鳴り声と恐怖でできたものだ。
でも、形があった。
線が崩れずに動く形。
帰るための形。
バスティオンがまた動く。
第二砲列が撃つ。
空気が割れる。
第一砲列は抜けた。
弾薬車も抜けた。
担架も抜けた。
後退路は生きている。
砲兵長が無線で叫ぶ。
「第一、再展開!第二、遅滞射撃!」
前線が、下がった先でまた前を向いた。
その瞬間、カナタは理解した。
後退は、負けではない。
いや、負ける時にも後退はある。
でも、後退そのものは負けではない。
次に撃つために下がる。
次に守るために下がる。
次に誰かを帰すために下がる。
後退は、帰ることに似ている。
そして帰ることは、終わることではない。
夕方、前線の簡易食堂で根菜スープを飲んだ。
豆はない。
ユウトは椀を見て、深刻な顔をした。
「根菜二切れ」
「前線貴族?」
リゼが訊く。
「制度がまだ未整備です」
「長いね」
「慎重な制度設計が必要なので」
砲兵長が近くで同じスープを飲んでいた。
彼女は椀を見て言った。
「うちでは具が入ってたら勝ちだ」
「前線基準、強いですね」
ユウトが言う。
「生きて飲めればもっと勝ちだ」
誰も笑わなかった。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
砲兵長はカナタを見た。
「お前ら、下がるのが上手いな」
「褒め言葉ですか」
「前線では最上級だ」
カナタは返事に困った。
リゼが横から言う。
「じゃあ、カナタさん、最上級湿った手袋」
「やめてください」
ユウトが吹き出す。
砲兵長も少し笑った。
食堂の空気が、ほんの少し柔らかくなる。
帰り道、三号車の荷台は静かだった。
リゼは赤布を丁寧に畳んでいる。
タクトは缶を押さえている。
ユウトは根菜制度についてまだ小声で考えている。
マコトはやっとメモ帳を開いた。
ヒナセは通信機を抱えたまま眠りかけている。
ハルクは盾に泥が残っていないか見ている。
カナタは、夕方の道を見た。
前線からハウンド七へ戻る道。
戻る道なのに、少し前より広く見える。
見える範囲が広がったからかもしれない。
ただの道ではない。
砲が下がる道。
弾薬が抜ける道。
担架が通る道。
人が帰る道。
全部、同じ道の中にある。
「カナタさん」
リゼが言った。
「はい」
「今日、ちょっと強くなった?」
「分かりません」
「分からない返事」
「でも、少しだけ」
「うん」
「下がるのが、前より怖くなくなりました」
リゼは赤布を膝に置いて、少し笑った。
「いいね。帰還誘導兵っぽい」
ハウンド七に着く頃、空は薄い紫になっていた。
夏になる前の夕方の色。
食堂では、豆スープが残っていた。
豆は二粒。
市民。
カナタは椀を両手で持った。
湯気は弱い。
でも、温かい。
手袋を外すと、まだ湿っていた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、火薬の匂いと、少しだけ根菜の匂いがした。
後退は、負けではない。
そのことを、今日は体で覚えた。
そしてたぶん、夏にはもっと必要になる。