帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十四話 下がる人たち

 後退、という言葉は、どうにも格好が悪い。

 進撃。

 突破。

 迎撃。

 防衛。

 そういう言葉は、音だけで少し強そうだ。士官学校の講義でも、黒板に書かれる矢印はたいてい前へ伸びていた。赤い矢印、青い矢印、側面機動、火力集中、敵主力の拘束。教官は棒で地図を叩き、ここを押す、ここを切る、ここを制圧する、と言った。

 後退の矢印は、いつも少し細かった。

 あるいは、黒板の隅に追いやられていた。

 退路。

 予備経路。

 撤収線。

 そこは余白みたいに扱われた。

 今なら分かる。

 余白にしていい道などない。

 人が帰るなら、そこは最初から線にしておかなければならない。

 第三方面前線の朝は、前日より暑かった。

 まだ真夏ではない。

 けれど、鉄はもう夏の練習を始めている。砲台の根元に触れると、手袋越しでも熱が分かる。土嚢の表面は乾き、踏むと粉が舞った。油と火薬と、湿りかけた草の匂いが混ざる。

 前線の匂いは、いつも足し算を間違えている。

 少しずつなら耐えられるものを、まとめて鼻の奥に突っ込んでくる。

「今日も前線ですね」

 ユウトが言った。

 椀の中には根菜スープ。

 豆はない。

 前線では豆制度が通用しない。

 そのせいで、ユウトは朝からやや不安定だった。

「根菜一切れ」

 タクトが覗き込む。

「昨日と同じです」

「制度が停滞してる」

「前線市民ですか」

「市民というより、徴兵された根菜」

「食べにくい表現やめてください」

 リゼが笑った。

 赤布を手首に巻いている。

 昨日、前線の煤がついた布とは別のものだ。煤けた方はハウンド七で干されている。洗っても全部は落ちないだろう。そういう汚れはある。落とせる汚れと、残る汚れ。人間も布も、だいたい同じだった。

「後退訓練、だって」

 リゼが言う。

「訓練ですか」

 ユウトが砲陣地の方を見る。

 ちょうど、遠くで砲声が鳴った。

 地面が腹の中まで揺れる。

「今のも訓練?」

「たぶん、日常音です」

 カナタは答えた。

「嫌な日常」

「前線なので」

「便利な言葉ですね」

「便利な言葉は、だいたい怖いです」

 ガレスが地図の前に立っていた。

 火のつかない煙草。

 前線の風では、火をつけてもすぐ消えそうだった。

 いや、たぶん彼はどこでも火をつけない。

 煙草を咥えることそのものが、ガレスにとっての手順なのだ。

 アイゼンの砲兵長が地図を広げる。

 短髪の女性。

 低い声。

 目元に隈。

 その三つだけで、かなり前線の人だった。

「第一砲列を百二十メートル下げる。第二砲列は維持。弾薬車は先行二台、後続三台。救護壕は仮設第三へ移す」

 地図の上に線が増える。

 砲車。

 弾薬車。

 担架。

 通信線。

 工兵。

 人。

 全部が、一度に少しずつ動く。

 避難列とは違う。

 避難列は人間が列になる。

 前線後退では、戦場そのものが列になる。

 カナタは喉が乾いた。

 水筒はある。

 でも、これは水で治る渇きではなかった。

「顔」

 リゼが隣で言った。

「今日は何ですか」

「地図に噛まれそうな顔」

「前も似たようなことを言われました」

「前線の地図、噛むから」

「噛みますか」

「噛む。しかも甘噛みじゃない」

 リゼは赤布の結び目を押さえた。

「全部見る?」

「見たくなります」

「じゃあ、見る場所を決める」

 彼女は地図を指でなぞる。

「私は戻る場所。ユウトは声。タクトは中央。ヒナセは通信。マコトは伝達。ミナは車。ハルクは右。セナは人。カナタさんは?」

「詰まる前」

「うん」

 短い。

 それだけで、少し息ができた。

 全部を見ない。

 詰まる前を見る。

 言葉にすれば簡単だ。

 実際には、かなり難しい。

 後退訓練が始まった。

 最初は静かだった。

 砲列の一部が火を止める。

 砲兵が車輪止めを外す。

 弾薬車が先に動く。

 工兵が泥に板を敷く。

 救護壕から担架が出る。

 ヒナセの通信が低く飛ぶ。

『第一砲列、車輪止め解除。弾薬車一号、移動開始。救護壕、搬送一名』

 ユウトの声。

「担架は赤布へ!弾薬車は右の板!板から落ちると車が負けます!」

 ミナの怒鳴り声。

「車が負けるって言うな!負けないようにしてる!」

 タクトの声。

「中央、詰めないでください!箱は持ち替えます。肩で押さない!」

 ハルクは右側の泥濘地帯に立っていた。

 盾を構え、流れてくる人を押し返さない。

 ただ、そこにいる。

 壁は押すだけではない。

 壁は、人に道を思い出させる。

 リゼは仮設第三救護壕の入口に立ち、赤布を振っている。

「こっち!こっち帰れる!担架、こっち!」

 前線の音の中で、その声だけ少し違う。

 軽い。

 でも軽すぎない。

 聞くと、足がそちらを向く声だった。

 カナタは地図と現場を見た。

 今のところ、流れている。

 砲車。

 弾薬車。

 担架。

 工兵。

 すべてが、それぞれの速度で動いている。

 だが、グリッドの板が一枚だけ浮いていた。

 泥に飲まれかけている。

 今はまだ平気だ。

 でも、次の弾薬車の重さで沈む。

 そこで減速する。

 後ろの砲車が詰まる。

 砲車が詰まると、担架が回れない。

 まだ誰も困っていない。

 だから、今だ。

「グリッド、三枚目の板を押さえてください!」

 カナタは叫んだ。

 工兵が振り返る。

「まだ浮いただけだ!」

「次で沈みます!」

「見えるのかよ!」

「見えたくないです!」

 工兵は舌打ちした。

 そして走った。

 板を押さえる。

 直後、弾薬車の車輪がそこに乗った。

 板が沈む。

 工兵が全体重をかけて踏み、車輪が抜ける。

 間に合った。

 小さな詰まりが、起きる前に消えた。

 カナタは息を吐く。

 その瞬間、観測壕から叫び声が飛んだ。

「バスティオン、再接近!」

 空気が変わった。

 訓練の皮が破れた。

 遠くの地平が動いている。

 黒い塊。

 四足。

 厚い前面。

 砲撃痕だらけの外殻。

 昨日見た個体より大きいように見えた。

 距離のせいかもしれない。

 近づいているせいかもしれない。

 どちらでも嫌だった。

「第一砲列、後退続行!」

 砲兵長が叫ぶ。

「第二砲列、撃て!」

 砲声。

 世界が腹の中で揺れた。

 砲煙。

 土。

 黒い爆発。

 バスティオンは止まらない。

 止まらない。

 そのことが、いちばん怖い。

 人間は止まる。

 怖ければ止まる。

 痛ければ止まる。

 迷えば止まる。

 でも、あれは止まらない。

 だから、こっちは下がらなければならない。

「後退速度を上げる!」

 前線兵が叫んだ。

 危ない。

 カナタはすぐに思った。

 速くすればいいわけではない。

 全員が同じ速度で速くなれるわけではない。

 砲車には砲車の速度がある。

 弾薬車には弾薬車の速度がある。

 担架には担架の速度がある。

 人間には、もっとばらばらな速度がある。

「速くしないでください!」

 カナタは叫んでいた。

 前線兵がこちらを見る。

「何だと!?」

「間隔を変えます!速度じゃなくて間隔!」

 ガレスの低い声が無線越しに来る。

『続けろ』

 それだけで、背中を押された気がした。

「砲車はそのまま!弾薬車の後続を旧整備路へ逃がす!担架は赤布二番へ!第二砲列の後退路を空けてください!」

「赤布二番!」

 リゼが叫ぶ。

 彼女は赤布を一本、救護壕へ残し、もう一本を持って旧整備路の角へ走った。

 赤が二つになる。

 戻る場所が二つになる。

「こっちも帰れる!担架、こっち!前が怖くても走らない!走ると負ける!」

「何にだ!」

「だいたい全部に!」

 ユウトが別方向で声を張る。

「弾薬車、旧整備路!板の上!板から落ちると車が本当に泣きます!」

 ミナが怒鳴る。

「泣かない!でも落ちるな!」

 タクトは中央で人の流れを切る。

「担架を先に!箱は持てます、でも人は落とせません!」

 マコトが走る。

「第二砲列後退路、空けます!繰り返し、空けます!」

 ヒナセが通信を重ねる。

『ブルーグラス、バスティオン進路共有!アイゼン、射線注意!グリッド、旧整備路板追加!』

 ハルクが右側で盾を立てる。

 流れそうになる兵士を、押さずに止める。

 その半歩後ろで道が開く。

 全員が一斉に動いている。

 バラバラではない。

 前へ進むためではなく、後ろへ帰るために動いている。

 カナタはその光景を見た。

 下がっている。

 砲も。

 人も。

 車も。

 でも、負けているようには見えなかった。

 むしろ、前へ進むよりずっと難しいことをしているように見えた。

 第二砲列が撃つ。

 バスティオンの足元で爆発。

 黒い巨体がわずかに沈む。

 砲兵長が叫ぶ。

「今だ、第一砲列、抜けろ!」

 砲車が泥を噛んで動く。

 重い。

 遅い。

 だが止まらない。

 救護壕の担架が赤布二番へ流れる。

 弾薬車が旧整備路へ逃げる。

 工兵が板を押さえる。

 リゼの赤布が二つ揺れる。

 一つは救護壕。

 一つは旧整備路。

 戻る場所が二つある。

 だから列は詰まらない。

 カナタは、初めて前線の後退をきれいだと思った。

 きれい、という言葉が合っているかは分からない。

 砲煙と泥と怒鳴り声と恐怖でできたものだ。

 でも、形があった。

 線が崩れずに動く形。

 帰るための形。

 バスティオンがまた動く。

 第二砲列が撃つ。

 空気が割れる。

 第一砲列は抜けた。

 弾薬車も抜けた。

 担架も抜けた。

 後退路は生きている。

 砲兵長が無線で叫ぶ。

「第一、再展開!第二、遅滞射撃!」

 前線が、下がった先でまた前を向いた。

 その瞬間、カナタは理解した。

 後退は、負けではない。

 いや、負ける時にも後退はある。

 でも、後退そのものは負けではない。

 次に撃つために下がる。

 次に守るために下がる。

 次に誰かを帰すために下がる。

 後退は、帰ることに似ている。

 そして帰ることは、終わることではない。

 夕方、前線の簡易食堂で根菜スープを飲んだ。

 豆はない。

 ユウトは椀を見て、深刻な顔をした。

「根菜二切れ」

「前線貴族?」

 リゼが訊く。

「制度がまだ未整備です」

「長いね」

「慎重な制度設計が必要なので」

 砲兵長が近くで同じスープを飲んでいた。

 彼女は椀を見て言った。

「うちでは具が入ってたら勝ちだ」

「前線基準、強いですね」

 ユウトが言う。

「生きて飲めればもっと勝ちだ」

 誰も笑わなかった。

 でも、嫌な沈黙ではなかった。

 砲兵長はカナタを見た。

「お前ら、下がるのが上手いな」

「褒め言葉ですか」

「前線では最上級だ」

 カナタは返事に困った。

 リゼが横から言う。

「じゃあ、カナタさん、最上級湿った手袋」

「やめてください」

 ユウトが吹き出す。

 砲兵長も少し笑った。

 食堂の空気が、ほんの少し柔らかくなる。

 帰り道、三号車の荷台は静かだった。

 リゼは赤布を丁寧に畳んでいる。

 タクトは缶を押さえている。

 ユウトは根菜制度についてまだ小声で考えている。

 マコトはやっとメモ帳を開いた。

 ヒナセは通信機を抱えたまま眠りかけている。

 ハルクは盾に泥が残っていないか見ている。

 カナタは、夕方の道を見た。

 前線からハウンド七へ戻る道。

 戻る道なのに、少し前より広く見える。

 見える範囲が広がったからかもしれない。

 ただの道ではない。

 砲が下がる道。

 弾薬が抜ける道。

 担架が通る道。

 人が帰る道。

 全部、同じ道の中にある。

「カナタさん」

 リゼが言った。

「はい」

「今日、ちょっと強くなった?」

「分かりません」

「分からない返事」

「でも、少しだけ」

「うん」

「下がるのが、前より怖くなくなりました」

 リゼは赤布を膝に置いて、少し笑った。

「いいね。帰還誘導兵っぽい」

 ハウンド七に着く頃、空は薄い紫になっていた。

 夏になる前の夕方の色。

 食堂では、豆スープが残っていた。

 豆は二粒。

 市民。

 カナタは椀を両手で持った。

 湯気は弱い。

 でも、温かい。

 手袋を外すと、まだ湿っていた。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、火薬の匂いと、少しだけ根菜の匂いがした。

 後退は、負けではない。

 そのことを、今日は体で覚えた。

 そしてたぶん、夏にはもっと必要になる。

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