帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
補給線、という言葉は、地図の上では細い。
鉛筆で引いた一本の線。
赤い破線。
青い矢印。
士官学校の教官は、そこを棒で叩きながら言った。
ここを維持しろ。
ここを切られるな。
ここが戦場の生命線だ。
生命線。
いかにも大事そうな言葉だった。
試験にも出た。
カナタはその時、分かったつもりで覚えた。補給線は大事。切られると困る。前線が動けなくなる。答案用紙には、たぶんそういうことを書いた。
だが、地図の線は匂わない。
乾パンの粉が手袋の縫い目に入り込む感じを知らない。
水樽の取っ手が指に食い込む痛さも、燃料缶の口から漏れる苦い匂いも、真夏になりかけた荷台の中で粉末スープの袋が湿って角から固まり始める嫌な音も知らない。
補給線は、線ではなかった。
箱だった。
缶だった。
水だった。
車だった。
橋だった。
それを持つ人の腰だった。
初夏のハウンド七は、朝から少し暑かった。
暑いと言うにはまだ早い。
けれど、寒くないことに体が慣れていない。食堂の窓は開いている。ストーブは消えている。湯気はすぐにほどける。外では洗濯物がちゃんと布の顔をして揺れていて、冬の間に板みたいになっていた靴下とは別の生き物のようだった。
世界は少し柔らかくなった。
そのぶん、匂いが強くなった。
泥。
草。
油。
湿った木箱。
乾いた豆。
ハウンド七の食堂では、豆の匂いだけが昔から貧しい顔をしている。
「今日の豆、二粒」
ユウトが椀を覗き込んで言った。
「市民」
タクトが答える。
「補給線確認の日に市民」
「何か象徴的ですね」
「何の象徴ですか」
「足りないけど、ある」
「かなりこの部隊っぽい」
リゼが笑った。
手首には赤布。
前線の煤がついたものではない。あれはまだ洗濯ロープに干されている。洗っても全部は落ちないだろう。煤けた赤は、赤のふりをした別の色になっていた。
でも、今日の赤布は赤い。
初夏の光の中で、少し眩しいくらいに赤い。
「補給線って、戦うんですか」
ユウトが訊いた。
「戦いません」
カナタは答えた。
「じゃあ平和?」
「戦わないものほど、止まると大変です」
「嫌な真理」
ミナが格納庫側から顔を出した。
「今日は三号車じゃなくて補給車ね」
「三号車、留守番ですか」
タクトが言う。
「拗ねる」
「車が?」
「たぶん」
「どうします」
「帰ったら謝る」
「出てないのに?」
「置いていく謝罪」
ユウトが真顔で頷いた。
「車両倫理、奥深いですね」
「広めないで」
補給車は、三号車よりずっと大きかった。
大きいのに頼りなく見える。
荷台には、木箱、缶詰箱、乾パン袋、水樽、燃料缶、予備部品、医療用の水、弾薬箱が積まれていた。それぞれに行き先が書かれている。
第三方面前線。
仮設救護壕。
第二砲列。
グリッド工兵群。
ハウンド七戻り分。
行き先が多い。
つまり、迷う理由が多い。
補給班の男が伝票を片手に立っていた。
以前、食料車を一台捨てる決断をした男だった。あの時より少し痩せている。頬の赤みが薄くなり、目だけが前より鋭い。
「またお前たちか」
「またです」
ガレスが答える。
「今日は捨てるなよ」
男がカナタを見る。
「できれば」
カナタは答えた。
「できれば、か」
「全部持っていけるなら、その方がいいです」
「当たり前だ」
男は荷台を叩いた。
ごん、と鈍い音。
「今日は全部いる」
全部いる。
食料。
水。
燃料。
弾薬。
部品。
どれも余分ではない。
だが、必要なものが多いほど、列は重くなる。
そのことをカナタは知っている。
知っているから、少し嫌だった。
補給車列は東へ進んだ。
低い丘を回り、乾きかけた泥道を抜け、古い農道へ入る。道端には背の低い草と、壊れた防雪柵の残骸が並んでいる。冬の名残が、初夏の草の中で白い骨みたいになっていた。
ヒナセが通信を聞く。
「前線第三方面、受け入れ準備あり。グリッドから、東六号橋の通行制限」
「橋?」
ユウトが言う。
「重量制限です。補給車、二台まで連続通過可。三台目は待機」
「橋にも胃もたれがあるんですね」
「補給車は重いので」
マコトが真面目に言った。
「胃ではなく構造負荷です」
「真面目に返された」
リゼが笑う。
「橋の胃、ちょっと分かるけどね」
「分かるんですか」
「重いものが続くと嫌じゃん」
「人間的な橋ですね」
カナタは地図を見る。
東六号橋。
前線へ向かう補給路の細い首。
そこが詰まれば、後続が全部止まる。
全部いる荷物が、全部動かなくなる。
補給線は目に見えない。
でも、止まる場所は見える。
橋。
坂。
積み替え所。
受け渡し順。
人の疲れ。
荷物の重さ。
全部が、未来の詰まりになる。
「カナタさん」
リゼが言った。
「また地図に噛まれてる」
「橋に噛まれています」
「橋も噛むんだ」
「今日は噛みます」
「じゃあ噛まれる前に言って」
「はい」
東六号橋は、橋というより古い骨だった。
細い。
低い。
欄干は半分壊れている。
下には雪解け水を集めた川が流れていた。水の音は冬より大きい。春から初夏にかけての水は、なぜか自分が偉くなったみたいな音を立てる。
ざあ、ではない。
ごう、でもない。
ずっと喋っている。
文句の多い水だった。
橋の手前にはグリッド工兵群がいた。
黄色い腕章。
泥だらけの作業服。
板材。
鉄杭。
仮設補強材。
その中に、年配の工兵が一人いた。
口元に釘を咥えている。
煙草ではなく釘。
かなり物騒だった。
「補給車は二台ずつだ」
工兵が言った。
「三台目が乗ると、橋が泣く」
ミナが即座に反応する。
「橋も泣くんですか」
「泣く前に落ちる」
「最悪」
「だから泣かせるな」
「車両倫理が橋まで拡大した」
ユウトが小声で言った。
補給班の男が伝票を見ながら言う。
「前線が急いでいる。弾薬車を先に通す」
グリッド工兵が首を振る。
「水樽の車が先だ。後ろが重い。順番を変えないと橋上で傾く」
「弾薬が先だ」
「橋が落ちたら弾薬も水も行かない」
正しい。
どちらも正しい。
正しいもの同士がぶつかると、音がしない。
ただ、空気が少し硬くなる。
カナタは橋を見た。
水樽車。
弾薬車。
燃料車。
食料車。
予備部品。
全部いる。
だが、橋は全部を同時に受け取れない。
「順番を分けます」
カナタは言った。
二人がこちらを見る。
「水樽車一台、弾薬車一台。次に食料車。燃料車は最後ではなく三番目の組へ。重い車を連続させない。橋の手前に受け渡し列を作って、前線が急ぐ弾薬箱だけ手渡しで先に渡します」
補給班の男が眉を寄せる。
「箱を降ろすのか」
「一部だけです。車は順番、箱は先行」
工兵が釘を咥えたまま笑った。
「橋を人間扱いしてるな」
「人間の胃みたいなものらしいので」
リゼが言った。
「誰が言った」
「私」
「じゃあ信用ならんな」
「ひどい」
だが、工兵は動いた。
橋の手前に黒札を置く。
白線布の代わりに灰色線を張る。
赤布を二か所に立てる。
ヒナセが前線へ通信する。
マコトが手順を声で伝える。
タクトが箱の受け渡し列を作る。
ユウトが叫ぶ。
「弾薬箱は先行!車は順番!橋の胃を信じて!」
「胃で説明するな!」
工兵が怒鳴る。
「でも通じてます!」
実際、通じた。
人間は構造負荷より胃の方が分かる。
補給車が橋を渡る。
一台。
橋が軋む。
二台。
水の音が下で強くなる。
三台目は待つ。
待つための場所を作っておいたから、詰まらない。
箱だけが人の手で先に渡る。
弾薬箱。
重い。
手が痛い。
でも、車を待たせるより速い。
タクトが声を出す。
「持ち替えます!無理なら言ってください!言わない人は箱ごと止まります!」
リゼが赤布を振る。
「こっち、受け取り!箱も帰る!でも人が先!」
ミナが補給車の横で叫ぶ。
「タイヤを橋の板から落とすな!落としたら橋に謝る前に川に謝ることになる!」
「どっちにも謝りたくない!」
運転手が叫ぶ。
「じゃあ落とすな!」
少し笑いが起きた。
笑いながら、人は重い箱を渡した。
補給線が、少しだけ見える形になった。
箱から手へ。
手から車へ。
車から橋へ。
橋から前線へ。
その時、ヒナセの通信機が鋭く鳴った。
「前方、熱源複数。小型。橋の向こう側、草地から」
草が揺れた。
小型レイス。
いや、前線呼称でスリップ。
足元を狙う影が、橋の向こうから低く走ってくる。
橋の上で襲われれば終わる。
車が止まる。
人が止まる。
箱が落ちる。
橋が詰まる。
カナタは一瞬で全部見えた。
見えたくなかった。
だが、見えた。
「橋の上は止めない!」
カナタは叫んだ。
「渡っている車はそのまま!人の列は橋の手前で止める!ハルクさん、向こう岸!」
ハルクが走る。
盾を持って橋を渡る。
重い音。
橋が嫌そうに軋む。
ミナが悲鳴を上げた。
「橋に優しく!」
「急ぐ」
「優しく急いで!」
ハルクは向こう岸に立った。
盾を低く構える。
スリップが突っ込む。
ぶつかる。
逸れる。
ユウトが撃つ。
当たらない。
「速い!」
「道を見る!」
カナタは叫ぶ。
昨日と同じ。
敵を見るのではなく、敵が壊そうとする道を見る。
タクトが箱の列を止める。
「ここで止まります!箱は置かない、持ったまま!置くと拾えなくなります!」
「重い!」
「重いままです!」
「最悪!」
「でも落とさない!」
リゼが橋の手前で赤布を上げる。
「車は行って!人は待って!待つのも帰る道!」
前線兵が向こう岸で撃つ。
ハルクが盾で受ける。
グリッド工兵が釘を吐き捨て、鉄杭を投げた。
杭が泥に刺さる。
スリップが一体、進路を変える。
そこをユウトが撃った。
今度は当たった。
「当たった!」
「報告は後!」
セナが叫ぶ。
「はい!」
橋の上の補給車が渡りきる。
次の車は止めてある。
だから詰まらない。
箱の列も止めてある。
だから落ちない。
スリップがもう一体、橋へ飛び込もうとする。
ハルクが半歩下がる。
盾の角度が変わる。
敵を受けるのではなく、橋の外へ逸らす角度。
黒い影が欄干へぶつかり、下へ落ちた。
水の音が一瞬だけ変わった。
ざぶん。
それだけ。
残りの影は前線兵の銃撃で散った。
橋は落ちなかった。
補給車も落ちなかった。
弾薬箱も落ちなかった。
誰も、川へ落ちなかった。
カナタはそれを確認してから、やっと息を吐いた。
補給班の男が、橋を渡りきった車を見ていた。
「全部いる」
彼は小さく言った。
「全部、行った」
「まだです」
カナタは答えた。
「前線に届くまで」
男は少しだけ笑った。
「嫌な正確さだ」
「よく言われます」
「言われるだろうな」
最後の補給車が橋を越えた時、グリッド工兵が橋の欄干を叩いた。
「よし。まだ泣いてない」
ミナが橋へ向かって軽く頭を下げる。
「ありがとう、橋」
ユウトも真似をした。
「ありがとう、胃」
「やめろ」
工兵が言った。
でも少し笑っていた。
前線第三方面へ補給を届けた後、カナタたちは少しだけ前線の端に立った。
荷物が下ろされる。
水樽が運ばれる。
弾薬箱が砲列へ行く。
食料箱が簡易食堂へ行く。
燃料缶が車両班へ行く。
部品箱を見たミナが、少し嬉しそうにした。
「部品は希望」
「豆は?」
ユウトが訊く。
「豆も希望」
「共存しましたね」
タクトが言った。
その日の前線スープには、豆ではなく根菜が二切れ入った。
ユウトは悩んだ末に言った。
「前線貴族?」
リゼが即答する。
「制度が雑」
「まだ試作です」
砲兵長が椀を持って近づく。
「補給が来ると、味が濃くなる」
「分かるんですか」
カナタは訊いた。
「分かる。気分がな」
彼女はスープを飲んだ。
「今日は勝ちだ」
それは大げさな勝利ではなかった。
敵を倒したわけでも、戦線を押し返したわけでもない。
水が届いた。
弾薬が届いた。
根菜が二切れ入った。
それだけ。
でも、前線ではそれが勝ちだった。
帰り道、カナタは東六号橋を振り返った。
古い骨みたいな橋。
文句の多い川。
灰色線。
黒札。
赤布。
補給車の轍。
箱を渡した人の足跡。
補給線は、見えない線ではなかった。
見えないと思っていただけだ。
そこには必ず、何かの跡がある。
それを読めば、未来の詰まりも少しだけ見える。
ハウンド七へ戻ると、食堂の豆スープは二粒だった。
市民。
でも、その二粒が今日は少し違って見えた。
橋を渡ってきた何かの先に、この豆がある。
誰かが箱を持ち、誰かが車を動かし、誰かが橋を押さえ、誰かが足元の影を止めて、ここまで来る。
豆は豆だ。
でも、ただの豆ではなかった。
「重い顔」
リゼが言った。
「豆が重いです」
「物理的には軽いよ」
「知っています」
「じゃあ、ちゃんと飲んで」
「はい」
カナタは椀を持った。
湯気は弱い。
でも温かい。
手袋は、今日も湿っていた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ川の匂いがした。
補給線の匂いだった。
たぶん。