帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十五話 見えない補給線

 補給線、という言葉は、地図の上では細い。

 鉛筆で引いた一本の線。

 赤い破線。

 青い矢印。

 士官学校の教官は、そこを棒で叩きながら言った。

 ここを維持しろ。

 ここを切られるな。

 ここが戦場の生命線だ。

 生命線。

 いかにも大事そうな言葉だった。

 試験にも出た。

 カナタはその時、分かったつもりで覚えた。補給線は大事。切られると困る。前線が動けなくなる。答案用紙には、たぶんそういうことを書いた。

 だが、地図の線は匂わない。

 乾パンの粉が手袋の縫い目に入り込む感じを知らない。

 水樽の取っ手が指に食い込む痛さも、燃料缶の口から漏れる苦い匂いも、真夏になりかけた荷台の中で粉末スープの袋が湿って角から固まり始める嫌な音も知らない。

 補給線は、線ではなかった。

 箱だった。

 缶だった。

 水だった。

 車だった。

 橋だった。

 それを持つ人の腰だった。

 初夏のハウンド七は、朝から少し暑かった。

 暑いと言うにはまだ早い。

 けれど、寒くないことに体が慣れていない。食堂の窓は開いている。ストーブは消えている。湯気はすぐにほどける。外では洗濯物がちゃんと布の顔をして揺れていて、冬の間に板みたいになっていた靴下とは別の生き物のようだった。

 世界は少し柔らかくなった。

 そのぶん、匂いが強くなった。

 泥。

 草。

 油。

 湿った木箱。

 乾いた豆。

 ハウンド七の食堂では、豆の匂いだけが昔から貧しい顔をしている。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが椀を覗き込んで言った。

「市民」

 タクトが答える。

「補給線確認の日に市民」

「何か象徴的ですね」

「何の象徴ですか」

「足りないけど、ある」

「かなりこの部隊っぽい」

 リゼが笑った。

 手首には赤布。

 前線の煤がついたものではない。あれはまだ洗濯ロープに干されている。洗っても全部は落ちないだろう。煤けた赤は、赤のふりをした別の色になっていた。

 でも、今日の赤布は赤い。

 初夏の光の中で、少し眩しいくらいに赤い。

「補給線って、戦うんですか」

 ユウトが訊いた。

「戦いません」

 カナタは答えた。

「じゃあ平和?」

「戦わないものほど、止まると大変です」

「嫌な真理」

 ミナが格納庫側から顔を出した。

「今日は三号車じゃなくて補給車ね」

「三号車、留守番ですか」

 タクトが言う。

「拗ねる」

「車が?」

「たぶん」

「どうします」

「帰ったら謝る」

「出てないのに?」

「置いていく謝罪」

 ユウトが真顔で頷いた。

「車両倫理、奥深いですね」

「広めないで」

 補給車は、三号車よりずっと大きかった。

 大きいのに頼りなく見える。

 荷台には、木箱、缶詰箱、乾パン袋、水樽、燃料缶、予備部品、医療用の水、弾薬箱が積まれていた。それぞれに行き先が書かれている。

 第三方面前線。

 仮設救護壕。

 第二砲列。

 グリッド工兵群。

 ハウンド七戻り分。

 行き先が多い。

 つまり、迷う理由が多い。

 補給班の男が伝票を片手に立っていた。

 以前、食料車を一台捨てる決断をした男だった。あの時より少し痩せている。頬の赤みが薄くなり、目だけが前より鋭い。

「またお前たちか」

「またです」

 ガレスが答える。

「今日は捨てるなよ」

 男がカナタを見る。

「できれば」

 カナタは答えた。

「できれば、か」

「全部持っていけるなら、その方がいいです」

「当たり前だ」

 男は荷台を叩いた。

 ごん、と鈍い音。

「今日は全部いる」

 全部いる。

 食料。

 水。

 燃料。

 弾薬。

 部品。

 どれも余分ではない。

 だが、必要なものが多いほど、列は重くなる。

 そのことをカナタは知っている。

 知っているから、少し嫌だった。

 補給車列は東へ進んだ。

 低い丘を回り、乾きかけた泥道を抜け、古い農道へ入る。道端には背の低い草と、壊れた防雪柵の残骸が並んでいる。冬の名残が、初夏の草の中で白い骨みたいになっていた。

 ヒナセが通信を聞く。

「前線第三方面、受け入れ準備あり。グリッドから、東六号橋の通行制限」

「橋?」

 ユウトが言う。

「重量制限です。補給車、二台まで連続通過可。三台目は待機」

「橋にも胃もたれがあるんですね」

「補給車は重いので」

 マコトが真面目に言った。

「胃ではなく構造負荷です」

「真面目に返された」

 リゼが笑う。

「橋の胃、ちょっと分かるけどね」

「分かるんですか」

「重いものが続くと嫌じゃん」

「人間的な橋ですね」

 カナタは地図を見る。

 東六号橋。

 前線へ向かう補給路の細い首。

 そこが詰まれば、後続が全部止まる。

 全部いる荷物が、全部動かなくなる。

 補給線は目に見えない。

 でも、止まる場所は見える。

 橋。

 坂。

 積み替え所。

 受け渡し順。

 人の疲れ。

 荷物の重さ。

 全部が、未来の詰まりになる。

「カナタさん」

 リゼが言った。

「また地図に噛まれてる」

「橋に噛まれています」

「橋も噛むんだ」

「今日は噛みます」

「じゃあ噛まれる前に言って」

「はい」

 東六号橋は、橋というより古い骨だった。

 細い。

 低い。

 欄干は半分壊れている。

 下には雪解け水を集めた川が流れていた。水の音は冬より大きい。春から初夏にかけての水は、なぜか自分が偉くなったみたいな音を立てる。

 ざあ、ではない。

 ごう、でもない。

 ずっと喋っている。

 文句の多い水だった。

 橋の手前にはグリッド工兵群がいた。

 黄色い腕章。

 泥だらけの作業服。

 板材。

 鉄杭。

 仮設補強材。

 その中に、年配の工兵が一人いた。

 口元に釘を咥えている。

 煙草ではなく釘。

 かなり物騒だった。

「補給車は二台ずつだ」

 工兵が言った。

「三台目が乗ると、橋が泣く」

 ミナが即座に反応する。

「橋も泣くんですか」

「泣く前に落ちる」

「最悪」

「だから泣かせるな」

「車両倫理が橋まで拡大した」

 ユウトが小声で言った。

 補給班の男が伝票を見ながら言う。

「前線が急いでいる。弾薬車を先に通す」

 グリッド工兵が首を振る。

「水樽の車が先だ。後ろが重い。順番を変えないと橋上で傾く」

「弾薬が先だ」

「橋が落ちたら弾薬も水も行かない」

 正しい。

 どちらも正しい。

 正しいもの同士がぶつかると、音がしない。

 ただ、空気が少し硬くなる。

 カナタは橋を見た。

 水樽車。

 弾薬車。

 燃料車。

 食料車。

 予備部品。

 全部いる。

 だが、橋は全部を同時に受け取れない。

「順番を分けます」

 カナタは言った。

 二人がこちらを見る。

「水樽車一台、弾薬車一台。次に食料車。燃料車は最後ではなく三番目の組へ。重い車を連続させない。橋の手前に受け渡し列を作って、前線が急ぐ弾薬箱だけ手渡しで先に渡します」

 補給班の男が眉を寄せる。

「箱を降ろすのか」

「一部だけです。車は順番、箱は先行」

 工兵が釘を咥えたまま笑った。

「橋を人間扱いしてるな」

「人間の胃みたいなものらしいので」

 リゼが言った。

「誰が言った」

「私」

「じゃあ信用ならんな」

「ひどい」

 だが、工兵は動いた。

 橋の手前に黒札を置く。

 白線布の代わりに灰色線を張る。

 赤布を二か所に立てる。

 ヒナセが前線へ通信する。

 マコトが手順を声で伝える。

 タクトが箱の受け渡し列を作る。

 ユウトが叫ぶ。

「弾薬箱は先行!車は順番!橋の胃を信じて!」

「胃で説明するな!」

 工兵が怒鳴る。

「でも通じてます!」

 実際、通じた。

 人間は構造負荷より胃の方が分かる。

 補給車が橋を渡る。

 一台。

 橋が軋む。

 二台。

 水の音が下で強くなる。

 三台目は待つ。

 待つための場所を作っておいたから、詰まらない。

 箱だけが人の手で先に渡る。

 弾薬箱。

 重い。

 手が痛い。

 でも、車を待たせるより速い。

 タクトが声を出す。

「持ち替えます!無理なら言ってください!言わない人は箱ごと止まります!」

 リゼが赤布を振る。

「こっち、受け取り!箱も帰る!でも人が先!」

 ミナが補給車の横で叫ぶ。

「タイヤを橋の板から落とすな!落としたら橋に謝る前に川に謝ることになる!」

「どっちにも謝りたくない!」

 運転手が叫ぶ。

「じゃあ落とすな!」

 少し笑いが起きた。

 笑いながら、人は重い箱を渡した。

 補給線が、少しだけ見える形になった。

 箱から手へ。

 手から車へ。

 車から橋へ。

 橋から前線へ。

 その時、ヒナセの通信機が鋭く鳴った。

「前方、熱源複数。小型。橋の向こう側、草地から」

 草が揺れた。

 小型レイス。

 いや、前線呼称でスリップ。

 足元を狙う影が、橋の向こうから低く走ってくる。

 橋の上で襲われれば終わる。

 車が止まる。

 人が止まる。

 箱が落ちる。

 橋が詰まる。

 カナタは一瞬で全部見えた。

 見えたくなかった。

 だが、見えた。

「橋の上は止めない!」

 カナタは叫んだ。

「渡っている車はそのまま!人の列は橋の手前で止める!ハルクさん、向こう岸!」

 ハルクが走る。

 盾を持って橋を渡る。

 重い音。

 橋が嫌そうに軋む。

 ミナが悲鳴を上げた。

「橋に優しく!」

「急ぐ」

「優しく急いで!」

 ハルクは向こう岸に立った。

 盾を低く構える。

 スリップが突っ込む。

 ぶつかる。

 逸れる。

 ユウトが撃つ。

 当たらない。

「速い!」

「道を見る!」

 カナタは叫ぶ。

 昨日と同じ。

 敵を見るのではなく、敵が壊そうとする道を見る。

 タクトが箱の列を止める。

「ここで止まります!箱は置かない、持ったまま!置くと拾えなくなります!」

「重い!」

「重いままです!」

「最悪!」

「でも落とさない!」

 リゼが橋の手前で赤布を上げる。

「車は行って!人は待って!待つのも帰る道!」

 前線兵が向こう岸で撃つ。

 ハルクが盾で受ける。

 グリッド工兵が釘を吐き捨て、鉄杭を投げた。

 杭が泥に刺さる。

 スリップが一体、進路を変える。

 そこをユウトが撃った。

 今度は当たった。

「当たった!」

「報告は後!」

 セナが叫ぶ。

「はい!」

 橋の上の補給車が渡りきる。

 次の車は止めてある。

 だから詰まらない。

 箱の列も止めてある。

 だから落ちない。

 スリップがもう一体、橋へ飛び込もうとする。

 ハルクが半歩下がる。

 盾の角度が変わる。

 敵を受けるのではなく、橋の外へ逸らす角度。

 黒い影が欄干へぶつかり、下へ落ちた。

 水の音が一瞬だけ変わった。

 ざぶん。

 それだけ。

 残りの影は前線兵の銃撃で散った。

 橋は落ちなかった。

 補給車も落ちなかった。

 弾薬箱も落ちなかった。

 誰も、川へ落ちなかった。

 カナタはそれを確認してから、やっと息を吐いた。

 補給班の男が、橋を渡りきった車を見ていた。

「全部いる」

 彼は小さく言った。

「全部、行った」

「まだです」

 カナタは答えた。

「前線に届くまで」

 男は少しだけ笑った。

「嫌な正確さだ」

「よく言われます」

「言われるだろうな」

 最後の補給車が橋を越えた時、グリッド工兵が橋の欄干を叩いた。

「よし。まだ泣いてない」

 ミナが橋へ向かって軽く頭を下げる。

「ありがとう、橋」

 ユウトも真似をした。

「ありがとう、胃」

「やめろ」

 工兵が言った。

 でも少し笑っていた。

 前線第三方面へ補給を届けた後、カナタたちは少しだけ前線の端に立った。

 荷物が下ろされる。

 水樽が運ばれる。

 弾薬箱が砲列へ行く。

 食料箱が簡易食堂へ行く。

 燃料缶が車両班へ行く。

 部品箱を見たミナが、少し嬉しそうにした。

「部品は希望」

「豆は?」

 ユウトが訊く。

「豆も希望」

「共存しましたね」

 タクトが言った。

 その日の前線スープには、豆ではなく根菜が二切れ入った。

 ユウトは悩んだ末に言った。

「前線貴族?」

 リゼが即答する。

「制度が雑」

「まだ試作です」

 砲兵長が椀を持って近づく。

「補給が来ると、味が濃くなる」

「分かるんですか」

 カナタは訊いた。

「分かる。気分がな」

 彼女はスープを飲んだ。

「今日は勝ちだ」

 それは大げさな勝利ではなかった。

 敵を倒したわけでも、戦線を押し返したわけでもない。

 水が届いた。

 弾薬が届いた。

 根菜が二切れ入った。

 それだけ。

 でも、前線ではそれが勝ちだった。

 帰り道、カナタは東六号橋を振り返った。

 古い骨みたいな橋。

 文句の多い川。

 灰色線。

 黒札。

 赤布。

 補給車の轍。

 箱を渡した人の足跡。

 補給線は、見えない線ではなかった。

 見えないと思っていただけだ。

 そこには必ず、何かの跡がある。

 それを読めば、未来の詰まりも少しだけ見える。

 ハウンド七へ戻ると、食堂の豆スープは二粒だった。

 市民。

 でも、その二粒が今日は少し違って見えた。

 橋を渡ってきた何かの先に、この豆がある。

 誰かが箱を持ち、誰かが車を動かし、誰かが橋を押さえ、誰かが足元の影を止めて、ここまで来る。

 豆は豆だ。

 でも、ただの豆ではなかった。

「重い顔」

 リゼが言った。

「豆が重いです」

「物理的には軽いよ」

「知っています」

「じゃあ、ちゃんと飲んで」

「はい」

 カナタは椀を持った。

 湯気は弱い。

 でも温かい。

 手袋は、今日も湿っていた。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ川の匂いがした。

 補給線の匂いだった。

 たぶん。

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