帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
前線から帰る時、車内はいつも少し静かになる。
行きは、まだ喋れる。
豆の話をする。
靴の話をする。
三号車の機嫌について、整備兵が車と本気で会話していることについて、誰かが軽く文句を言う。
けれど帰りは違う。
見たものが多すぎる。
聞いた音が多すぎる。
鼻の奥に残る匂いが強すぎる。
火薬。
油。
泥。
熱くなった鉄。
根菜スープ。
血の匂い。
それから、初夏の草。
全部が服について、髪について、手袋について、車内へ持ち込まれる。だから帰りの三号車は、前線を小さく畳んで積んでいるみたいだった。
カナタは荷台の端に座り、膝の上に置いた手を見ていた。
手袋は湿っている。
もう雪のせいではない。
汗。
泥。
補給箱を押さえた時の水気。
橋の欄干に触れた時の錆。
いろいろなものが混ざっている。
息を吹きかける気にはならなかった。
初夏なのに、手袋が温かくなる気がしない。
「前線、三日連続ですね」
ユウトが言った。
声はいつもより低い。
でも、喋ろうとしている。
それだけで少し偉い、とカナタは思った。
「はい」
「前線ポイント、貯まりませんかね」
「何に交換するんですか」
「豆」
「結局豆」
リゼが笑った。
赤布を膝の上で畳んでいる。
昨日の橋で少し泥がついた。
洗っても完全には戻らないかもしれない。
それでも赤だった。
「前線ポイントで豆もらえるなら、アイゼンの人たち富豪だね」
「豆王国ができます」
タクトが言った。
「王国には税が必要です」
マコトが真面目に言う。
「豆税?」
ユウトが顔をしかめた。
「それは革命が起きます」
「豆社会、不安定ですね」
ヒナセが少し笑った。
彼女は通信機を抱えたまま、うつらうつらしている。目は開いているが、意識の半分くらいは通信機の中へ沈んでいるようだった。
ハルクは黙っている。
盾の縁についた泥を布で拭いていた。
一度拭く。
見る。
また拭く。
泥は完全には落ちない。
それでも、彼は落とそうとしている。
前線から帰るとは、こういうことなのかもしれない。
完全には落ちないものを、少しずつ落とす。
それでも残るものは、持って帰る。
三号車はハウンド七へは戻らず、第三方面前線拠点の外周で止まった。
今日は、前線支援の最終日だった。
帰還誘導兵が前線支援を終え、引き上げる。
そう書くと、かなり立派に聞こえる。
実際には、泥に汚れた布を畳み、黒札を拾い、補給箱の数を合わせ、工兵から借りた板材を返し、前線兵に「それはうちの確認棒です」と言って取り戻す作業だった。
締めは、いつも地味だ。
戦場の終わりには、片付けがある。
それが少し人間っぽくて、カナタは嫌いではなかった。
「この確認棒、前線に置いていきません?」
ユウトが言った。
「なんで」
セナが訊く。
「すでに泥と火薬に馴染んでます」
「帰す」
「棒も?」
「道具も」
セナは短く言った。
その言い方が、かなり帰還誘導兵だった。
ユウトは少し感心した顔をする。
「セナさん、最近こっち側ですね」
「どっち」
「帰還誘導兵側」
「最初からいる」
「そうでした」
セナは医療袋を肩にかけ直した。
「怪我人を帰すのが仕事。名前が後から来ただけ」
カナタはその言葉を覚えた。
名前が後から来る。
帰還誘導兵もそうだった。
最初は、車両の向きを変えただけだった。
ただ逃げ道を見ただけだった。
ただ数えただけだった。
ただ、帰ろうと言っただけだった。
名前は後から来た。
でも、名前が来ると、やることが少し見えやすくなる。
前線拠点の中央で、アイゼンの砲兵長が待っていた。
根菜スープを飲みながら「下がるのが上手い」と言った人だ。
今日も声は低い。
髪に少し煤がついている。
「ハウンド七」
彼女は言った。
「はい」
ガレスが答える。
「帰る前に、うちの連中へ一言くれ」
カナタは一瞬、意味が分からなかった。
「一言?」
「後退路について。一時停止、橋の順番、救護壕の赤布。ああいうのを、うちの若いのにも言っておきたい」
ユウトが小声で言う。
「講義ですか」
「授業っぽい」
リゼが笑う。
「誰が話すんですか」
全員がカナタを見た。
かなり嫌な視線だった。
「俺ですか」
「湿った手袋先生」
ユウトが言った。
「やめてください」
「前線でも通じますよ」
「通じない方がいいです」
ガレスが煙草を咥えた。
火はついていない。
「喋れ」
「副長」
「短くていい」
「何を」
「帰る話だ」
それが一番難しい。
前線兵たちが集まってくる。
アイゼンの砲兵。
グリッドの工兵。
ブルーグラスの通信員。
補給班。
救護壕の衛生兵。
泥と煤と油の匂いがする人たち。
自分たちよりずっと戦っている人たち。
その前で、帰る話をする。
かなり場違いだった。
でも、場違いだから必要なのかもしれない。
リゼがそっと赤布をカナタの手元へ出した。
「持つ?」
「いいんですか」
「今日は貸す」
カナタは赤布を受け取った。
少し泥がついている。
少し焦げた匂いがする。
でも、赤い。
それを持つと、少しだけ喋れる気がした。
「ええと」
カナタは前線兵たちを見る。
全員、疲れている。
疲れているが、こちらを見ている。
「帰る時に、一番危ないのは、敵だけではありません」
自分の声が、思ったより普通に出た。
「足元です。荷物です。止まる場所です。急ぎすぎる声です。大丈夫と言う人です。まだ詰まっていない場所です」
前線兵の何人かが、少しだけ顔を動かした。
「下がる時、速くすればいいわけではありません。速くするより、詰まらないように分ける方が早い時があります。止まることもあります。五秒だけ止まることで、十秒早くなることもあります」
ユウトが小声で言う。
「算数、採用された」
リゼが肘でつつく。
「静かに」
「はい」
カナタは続けた。
「帰る場所は、一つでは足りない時があります。赤布を二つ立てる。板を一枚足す。橋を一度待つ。担架と弾薬を同じ道へ流さない。そういう小さいことが、たぶん、前線を残します」
前線。
その言葉を言ってから、少し怖くなった。
自分が前線を語っていいのかと思った。
でも、もう言っている。
「俺たちは、敵を倒す部隊ではありません」
カナタは言った。
「でも、戦っている人が帰れないと、次は戦えません。砲も、弾薬も、水も、人も、帰る場所が必要です。だから、帰る道を最初から見てください。前を見る人がいるなら、後ろを見る人も必要です。右を見る人も。中央を見る人も。止まる場所を見る人も」
少し間が空いた。
砲声は鳴らない。
風が、泥と草と火薬の匂いを運んでくる。
「全部を見る必要はありません」
カナタは言った。
「見える場所を、分けてください」
最後の言葉は、自分に言ったようでもあった。
しばらく、誰も喋らなかった。
それから、砲兵長が短く言った。
「聞いたな」
前線兵たちが、それぞれに頷いた。
大げさな拍手はなかった。
歓声もない。
ただ、何人かが赤布を見た。
何人かが後退路を見た。
何人かが自分の足元を見た。
それで十分だった。
グリッドの工兵が近づいてきた。
橋で釘を咥えていた年配の工兵だ。
「これ、持ってけ」
小さな金具を差し出す。
橋の補強に使った仮設留め具だった。
片方が少し曲がっている。
「いいんですか」
「使えねぇ。曲がった」
「じゃあ」
「帰ってきたもん置き場に置いとけ」
カナタは驚いた。
「知ってるんですか」
「前線にも噂は来る。変なもんを並べてる部隊があるってな」
ユウトが胸を張る。
「展示部門、拡大中です」
「戦利品展じゃない」
セナが言う。
「帰還品展です」
タクトが訂正する。
「それも正式ではないです」
マコトがさらに訂正した。
工兵は笑った。
「正式じゃねぇ方が残ることもある」
その言葉は、少しだけ重かった。
カナタは金具を受け取った。
小さい。
でも、橋を支えたものだった。
補給線を一度帰したものだった。
砲兵長も近づいてきた。
「前線から礼だ」
彼女は短い布を出した。
赤ではない。
煤けた砲兵用の識別布。
「何ですか」
「砲列の後退目印に使っていた。昨日、赤布二番の横に立てたやつだ」
リゼがそれを見る。
「持って帰っていいの?」
「もう次のを作る。これは、帰った布だ」
帰った布。
リゼは少し黙って、それを受け取った。
「じゃあ、帰ってきたもの置き場に」
「好きにしろ」
砲兵長は言った。
そのあと、小さく付け足した。
「帰すやつらがいるなら、下がれる」
カナタは顔を上げる。
「それは」
「褒めてる」
「分かりにくいです」
「前線式だ」
ユウトが小声で言う。
「前線褒め、難易度高いですね」
「豆何粒?」
リゼが訊く。
「四粒」
「かなり高い」
前線兵たちは、またそれぞれの場所へ戻っていった。
砲へ。
橋へ。
補給車へ。
救護壕へ。
前線は、ずっと前線のままだ。
カナタたちは帰る。
その差が、少しだけ申し訳なかった。
でも、帰ることも仕事だった。
三号車に乗り込む前、ハルクが前線兵の男と向き合っていた。
「戻るのか」
前線兵が訊く。
「ハウンド七へ」
「また来るか」
「必要なら」
「必要になる」
「だろうな」
短い。
でも、そこに長いものがあった。
ハルクは前線から帰還誘導兵へ来た。
でも、前線を捨てたわけではない。
戻る場所が増えただけだ。
それはたぶん、悪いことではない。
帰りの三号車は、やはり静かだった。
でも、最初に前線から戻った時の静けさとは違った。
少しだけ、持って帰るものの形が分かっている静けさだった。
金具。
識別布。
泥のついた赤布。
火薬の匂い。
根菜スープの味。
五秒止めること。
橋を待たせること。
下がることは、負けではないこと。
前線兵の言葉。
帰すやつらがいるなら、下がれる。
ハウンド七に戻ると、食堂の窓は開いていた。
初夏の風が入る。
湯気は弱い。
豆は二粒。
市民。
ユウトは椀を見て言った。
「前線式なら?」
リゼが答える。
「温かいなら勝ち」
「じゃあ勝ちですね」
「うん。勝ち」
帰ってきたもの置き場に、金具と砲兵の識別布が置かれた。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
紙片《かえる》。
短いチョーク。
焦げた端子。
そして、前線の金具と布。
置き場が少し狭くなった。
「増えてきましたね」
タクトが言う。
「棚、作る?」
ミナが言う。
「帰ってきたもの棚」
ユウトが言った。
「名前がそのまま」
「分かりやすい方がいいので」
カナタはそれを見ていた。
帰ってきたものが増える。
それは、帰ってこなかったものも増えているということだ。
でも、今日はそのことを全部考えなくてもいい気がした。
全部を一人で見る必要はない。
見える場所を分ける。
その言葉を、今日は前線の人たちにも渡した。
リゼが隣に立つ。
「帰ってきたね」
「はい」
「前から」
「はい」
「ちょっと、変な感じ」
「俺もです」
彼女は赤布を手首に巻き直した。
「でも、前線の人にも言えるね」
「何を」
「帰ってこいって」
カナタは頷いた。
その言葉は、春より少し遠くへ届くようになっていた。
夕方、通信塔から定時連絡が流れた。
『第三方面前線、後退訓練終了。補給線維持。各避難列、異常なし』
食堂で、誰かが小さく息を吐いた。
異常なし。
前線にも。
避難列にも。
今日だけの言葉だ。
明日は分からない。
でも、今日だけなら信じてもいい。
カナタは手袋を外した。
湿っている。
でも、前より少し乾いている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、少しだけ火薬の匂いが薄くなった。
前線から帰ってきた。
そして、帰還誘導兵は少しだけ、前線にも線を引いた。
目には見えない。
でも、そこにあった。