帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十六話 前線から帰る

 前線から帰る時、車内はいつも少し静かになる。

 行きは、まだ喋れる。

 豆の話をする。

 靴の話をする。

 三号車の機嫌について、整備兵が車と本気で会話していることについて、誰かが軽く文句を言う。

 けれど帰りは違う。

 見たものが多すぎる。

 聞いた音が多すぎる。

 鼻の奥に残る匂いが強すぎる。

 火薬。

 油。

 泥。

 熱くなった鉄。

 根菜スープ。

 血の匂い。

 それから、初夏の草。

 全部が服について、髪について、手袋について、車内へ持ち込まれる。だから帰りの三号車は、前線を小さく畳んで積んでいるみたいだった。

 カナタは荷台の端に座り、膝の上に置いた手を見ていた。

 手袋は湿っている。

 もう雪のせいではない。

 汗。

 泥。

 補給箱を押さえた時の水気。

 橋の欄干に触れた時の錆。

 いろいろなものが混ざっている。

 息を吹きかける気にはならなかった。

 初夏なのに、手袋が温かくなる気がしない。

「前線、三日連続ですね」

 ユウトが言った。

 声はいつもより低い。

 でも、喋ろうとしている。

 それだけで少し偉い、とカナタは思った。

「はい」

「前線ポイント、貯まりませんかね」

「何に交換するんですか」

「豆」

「結局豆」

 リゼが笑った。

 赤布を膝の上で畳んでいる。

 昨日の橋で少し泥がついた。

 洗っても完全には戻らないかもしれない。

 それでも赤だった。

「前線ポイントで豆もらえるなら、アイゼンの人たち富豪だね」

「豆王国ができます」

 タクトが言った。

「王国には税が必要です」

 マコトが真面目に言う。

「豆税?」

 ユウトが顔をしかめた。

「それは革命が起きます」

「豆社会、不安定ですね」

 ヒナセが少し笑った。

 彼女は通信機を抱えたまま、うつらうつらしている。目は開いているが、意識の半分くらいは通信機の中へ沈んでいるようだった。

 ハルクは黙っている。

 盾の縁についた泥を布で拭いていた。

 一度拭く。

 見る。

 また拭く。

 泥は完全には落ちない。

 それでも、彼は落とそうとしている。

 前線から帰るとは、こういうことなのかもしれない。

 完全には落ちないものを、少しずつ落とす。

 それでも残るものは、持って帰る。

 三号車はハウンド七へは戻らず、第三方面前線拠点の外周で止まった。

 今日は、前線支援の最終日だった。

 帰還誘導兵が前線支援を終え、引き上げる。

 そう書くと、かなり立派に聞こえる。

 実際には、泥に汚れた布を畳み、黒札を拾い、補給箱の数を合わせ、工兵から借りた板材を返し、前線兵に「それはうちの確認棒です」と言って取り戻す作業だった。

 締めは、いつも地味だ。

 戦場の終わりには、片付けがある。

 それが少し人間っぽくて、カナタは嫌いではなかった。

「この確認棒、前線に置いていきません?」

 ユウトが言った。

「なんで」

 セナが訊く。

「すでに泥と火薬に馴染んでます」

「帰す」

「棒も?」

「道具も」

 セナは短く言った。

 その言い方が、かなり帰還誘導兵だった。

 ユウトは少し感心した顔をする。

「セナさん、最近こっち側ですね」

「どっち」

「帰還誘導兵側」

「最初からいる」

「そうでした」

 セナは医療袋を肩にかけ直した。

「怪我人を帰すのが仕事。名前が後から来ただけ」

 カナタはその言葉を覚えた。

 名前が後から来る。

 帰還誘導兵もそうだった。

 最初は、車両の向きを変えただけだった。

 ただ逃げ道を見ただけだった。

 ただ数えただけだった。

 ただ、帰ろうと言っただけだった。

 名前は後から来た。

 でも、名前が来ると、やることが少し見えやすくなる。

 前線拠点の中央で、アイゼンの砲兵長が待っていた。

 根菜スープを飲みながら「下がるのが上手い」と言った人だ。

 今日も声は低い。

 髪に少し煤がついている。

「ハウンド七」

 彼女は言った。

「はい」

 ガレスが答える。

「帰る前に、うちの連中へ一言くれ」

 カナタは一瞬、意味が分からなかった。

「一言?」

「後退路について。一時停止、橋の順番、救護壕の赤布。ああいうのを、うちの若いのにも言っておきたい」

 ユウトが小声で言う。

「講義ですか」

「授業っぽい」

 リゼが笑う。

「誰が話すんですか」

 全員がカナタを見た。

 かなり嫌な視線だった。

「俺ですか」

「湿った手袋先生」

 ユウトが言った。

「やめてください」

「前線でも通じますよ」

「通じない方がいいです」

 ガレスが煙草を咥えた。

 火はついていない。

「喋れ」

「副長」

「短くていい」

「何を」

「帰る話だ」

 それが一番難しい。

 前線兵たちが集まってくる。

 アイゼンの砲兵。

 グリッドの工兵。

 ブルーグラスの通信員。

 補給班。

 救護壕の衛生兵。

 泥と煤と油の匂いがする人たち。

 自分たちよりずっと戦っている人たち。

 その前で、帰る話をする。

 かなり場違いだった。

 でも、場違いだから必要なのかもしれない。

 リゼがそっと赤布をカナタの手元へ出した。

「持つ?」

「いいんですか」

「今日は貸す」

 カナタは赤布を受け取った。

 少し泥がついている。

 少し焦げた匂いがする。

 でも、赤い。

 それを持つと、少しだけ喋れる気がした。

「ええと」

 カナタは前線兵たちを見る。

 全員、疲れている。

 疲れているが、こちらを見ている。

「帰る時に、一番危ないのは、敵だけではありません」

 自分の声が、思ったより普通に出た。

「足元です。荷物です。止まる場所です。急ぎすぎる声です。大丈夫と言う人です。まだ詰まっていない場所です」

 前線兵の何人かが、少しだけ顔を動かした。

「下がる時、速くすればいいわけではありません。速くするより、詰まらないように分ける方が早い時があります。止まることもあります。五秒だけ止まることで、十秒早くなることもあります」

 ユウトが小声で言う。

「算数、採用された」

 リゼが肘でつつく。

「静かに」

「はい」

 カナタは続けた。

「帰る場所は、一つでは足りない時があります。赤布を二つ立てる。板を一枚足す。橋を一度待つ。担架と弾薬を同じ道へ流さない。そういう小さいことが、たぶん、前線を残します」

 前線。

 その言葉を言ってから、少し怖くなった。

 自分が前線を語っていいのかと思った。

 でも、もう言っている。

「俺たちは、敵を倒す部隊ではありません」

 カナタは言った。

「でも、戦っている人が帰れないと、次は戦えません。砲も、弾薬も、水も、人も、帰る場所が必要です。だから、帰る道を最初から見てください。前を見る人がいるなら、後ろを見る人も必要です。右を見る人も。中央を見る人も。止まる場所を見る人も」

 少し間が空いた。

 砲声は鳴らない。

 風が、泥と草と火薬の匂いを運んでくる。

「全部を見る必要はありません」

 カナタは言った。

「見える場所を、分けてください」

 最後の言葉は、自分に言ったようでもあった。

 しばらく、誰も喋らなかった。

 それから、砲兵長が短く言った。

「聞いたな」

 前線兵たちが、それぞれに頷いた。

 大げさな拍手はなかった。

 歓声もない。

 ただ、何人かが赤布を見た。

 何人かが後退路を見た。

 何人かが自分の足元を見た。

 それで十分だった。

 グリッドの工兵が近づいてきた。

 橋で釘を咥えていた年配の工兵だ。

「これ、持ってけ」

 小さな金具を差し出す。

 橋の補強に使った仮設留め具だった。

 片方が少し曲がっている。

「いいんですか」

「使えねぇ。曲がった」

「じゃあ」

「帰ってきたもん置き場に置いとけ」

 カナタは驚いた。

「知ってるんですか」

「前線にも噂は来る。変なもんを並べてる部隊があるってな」

 ユウトが胸を張る。

「展示部門、拡大中です」

「戦利品展じゃない」

 セナが言う。

「帰還品展です」

 タクトが訂正する。

「それも正式ではないです」

 マコトがさらに訂正した。

 工兵は笑った。

「正式じゃねぇ方が残ることもある」

 その言葉は、少しだけ重かった。

 カナタは金具を受け取った。

 小さい。

 でも、橋を支えたものだった。

 補給線を一度帰したものだった。

 砲兵長も近づいてきた。

「前線から礼だ」

 彼女は短い布を出した。

 赤ではない。

 煤けた砲兵用の識別布。

「何ですか」

「砲列の後退目印に使っていた。昨日、赤布二番の横に立てたやつだ」

 リゼがそれを見る。

「持って帰っていいの?」

「もう次のを作る。これは、帰った布だ」

 帰った布。

 リゼは少し黙って、それを受け取った。

「じゃあ、帰ってきたもの置き場に」

「好きにしろ」

 砲兵長は言った。

 そのあと、小さく付け足した。

「帰すやつらがいるなら、下がれる」

 カナタは顔を上げる。

「それは」

「褒めてる」

「分かりにくいです」

「前線式だ」

 ユウトが小声で言う。

「前線褒め、難易度高いですね」

「豆何粒?」

 リゼが訊く。

「四粒」

「かなり高い」

 前線兵たちは、またそれぞれの場所へ戻っていった。

 砲へ。

 橋へ。

 補給車へ。

 救護壕へ。

 前線は、ずっと前線のままだ。

 カナタたちは帰る。

 その差が、少しだけ申し訳なかった。

 でも、帰ることも仕事だった。

 三号車に乗り込む前、ハルクが前線兵の男と向き合っていた。

「戻るのか」

 前線兵が訊く。

「ハウンド七へ」

「また来るか」

「必要なら」

「必要になる」

「だろうな」

 短い。

 でも、そこに長いものがあった。

 ハルクは前線から帰還誘導兵へ来た。

 でも、前線を捨てたわけではない。

 戻る場所が増えただけだ。

 それはたぶん、悪いことではない。

 帰りの三号車は、やはり静かだった。

 でも、最初に前線から戻った時の静けさとは違った。

 少しだけ、持って帰るものの形が分かっている静けさだった。

 金具。

 識別布。

 泥のついた赤布。

 火薬の匂い。

 根菜スープの味。

 五秒止めること。

 橋を待たせること。

 下がることは、負けではないこと。

 前線兵の言葉。

 帰すやつらがいるなら、下がれる。

 

 ハウンド七に戻ると、食堂の窓は開いていた。

 初夏の風が入る。

 湯気は弱い。

 豆は二粒。

 市民。

 ユウトは椀を見て言った。

「前線式なら?」

 リゼが答える。

「温かいなら勝ち」

「じゃあ勝ちですね」

「うん。勝ち」

 帰ってきたもの置き場に、金具と砲兵の識別布が置かれた。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 紙片《かえる》。

 短いチョーク。

 焦げた端子。

 そして、前線の金具と布。

 置き場が少し狭くなった。

「増えてきましたね」

 タクトが言う。

「棚、作る?」

 ミナが言う。

「帰ってきたもの棚」

 ユウトが言った。

「名前がそのまま」

「分かりやすい方がいいので」

 カナタはそれを見ていた。

 帰ってきたものが増える。

 それは、帰ってこなかったものも増えているということだ。

 でも、今日はそのことを全部考えなくてもいい気がした。

 全部を一人で見る必要はない。

 見える場所を分ける。

 その言葉を、今日は前線の人たちにも渡した。

 リゼが隣に立つ。

「帰ってきたね」

「はい」

「前から」

「はい」

「ちょっと、変な感じ」

「俺もです」

 彼女は赤布を手首に巻き直した。

「でも、前線の人にも言えるね」

「何を」

「帰ってこいって」

 カナタは頷いた。

 その言葉は、春より少し遠くへ届くようになっていた。

 夕方、通信塔から定時連絡が流れた。

『第三方面前線、後退訓練終了。補給線維持。各避難列、異常なし』

 食堂で、誰かが小さく息を吐いた。

 異常なし。

 前線にも。

 避難列にも。

 今日だけの言葉だ。

 明日は分からない。

 でも、今日だけなら信じてもいい。

 カナタは手袋を外した。

 湿っている。

 でも、前より少し乾いている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、少しだけ火薬の匂いが薄くなった。

 前線から帰ってきた。

 そして、帰還誘導兵は少しだけ、前線にも線を引いた。

 目には見えない。

 でも、そこにあった。

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